第五章 「色とりどりの、薄暗い空」
気づいたとき、一道の周りを何人かの者が取り囲んでいる気配があった。どうやら気を失っていたらしい。それがどのくらいの時間のことなのかはわからなかった。一道はまだ土の上に倒れていた。地面からほど近くにある細い視界に、周りにいる人々の履物がぼんやり映る。つるんとした丸っこい革靴やら、刺繍飾りの施された布靴やら、藁草履やら下駄やら……そんなふうに見えた。
かろうじて意識はあるものの、体を動かすことも口を利くこともできない一道の耳に、人々が囁き合う声が聞こえた。
――客人だ。
――マレビト、だけ?
―― 一人でここまで来たのかな。
――いや、そんなはずは。
――とにかく、マレビトなら、姫さまの所へ連れていかなくては。
――体が雨で濡れている。
――誰か、この子をくるむ布を……。
言い交わされるその言葉の意味を考える時間もなく、一道の意識はまた薄れていった。
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再び目を覚ましたとき、一道は、仰向けで横になっていた。
薄く瞼を開く。まだ目の前がぼやけている。
段々と目の焦点が定まってくると、視界の中に、板張りの高い天井が見えた。
頭の下には硬めの枕が敷かれているようだ。指に触れる床の感触は、ざらざらしていて浅い凹凸がある。どうやら畳らしい。
「あら、気がついた?」
不意に響いたその声は、女の子――子どものものだった。
一道はとっさに上半身を起こした。途端にひどいめまいに襲われた。ばね仕掛けのように、思わず瞼がきつく閉じ合わされる。一道はうつむいて、目頭を指で押さえた。
めまいが治まってから、一道は、先ほど声がしたほうを振り向いた。
部屋は広々とした座敷だった。
少し離れた所に、一人の女の子が座っていた。
長い黒髪と、色とりどりの着物。髪は、毛先が畳の上に波模様をうねらせるほど長い。着物は左右が色違いになっており、右の袖には金色の花が、左の袖には銀色の花が、それぞれ大きく描かれている。日本的な「お姫様」を思わせるその格好は、一道の感覚では、本やゲームの中にしか存在しない極めて非現実的なものであった。
だが、現実世界では馴染みのない装いをまとったこの女の子の顔に、一道は確かに見覚えがあった。
それは、小学生のとき、一道と里哉を西の林の奥に連れていった、そこで里哉と一緒に土遊びをした、あの女の子の顔だった。
一道は背骨の髄に冷や水を流し込まれたような心地になった。以前この女の子に会ったのは、もう三年も四年も前のことなのだ。そのとき女の子は自分たちと同じくらいの歳だった。それなのに、今目の前にいるこの子は、あの頃とまったく姿が変わっていない。
「おまえは……一体……」
かすれた声で問うと、女の子は、にこりとその頬を笑み上げた。
「わたしの名前は、理土。ようこそ、異世の国へ」
「コトヨノクニ?」
一道は眉をひそめて聞き返した。
女の子――理土は、表情を微塵も変えることなく、瞬きさえせずに、その唇だけを動かして言葉を継いだ。
「この異世の国は、わたしの国。一道。あなたもこれからこの国の民になるのよ」
「な……」
頭の中で混乱が膨らむ。
国? 国の民? この子は一体何を言っているのだ。自分は里哉のあとを追いかけて、自分の足でここにやってきたのだ。だから。
生まれ育った町にある、通い慣れた中学校から、さほど離れてもいないはずの、ここは。
(ここは――どこだ?)
一道は立ち上がった。が、立ちくらみで足がふらつき、あえなく畳に尻餅をつく。
そんな一道を見て、理土は、着物の袖で口元を隠しながらくすぐるような笑い声を立てた。
「ゆっくり休んでおいきなさいな。外つ国の者がこの国にやってくると、そんなふうに、気分が悪くなって倒れてしまうことがあるの。休んでいれば、じきに落ち着くわ。今、みんなに、あなたの歓迎の宴を用意させているから。準備が整うまでここで待っているといいわ」
「冗談じゃない、俺は……」
一道はもう一度立ち上がり、足元に目を落とした。そしてそばに置いてあったリュックを見つけると、それを掴み上げて理土に背を向けた。部屋の襖は四方にあって、どこが出口かわからなかったが、一道は、とりあえず理土がいるのと反対の方向に逃げることにした。
一道が襖に向かって歩き出しても、理土はそれ以上引き止めようとはしなかった。
一道はリュックを背負い、よろけつつ走って部屋を飛び出した。
部屋の外は広い庭に面した回廊だった。壁がなく手すりだけがめぐらされた見晴らしのよいその廊下から、一道は庭を見渡した。庭は高い塀に囲まれていたが、一ヶ所に、開いている門が見えた。門のある方向を目指して廊下を進んでいくと、やがて庭へ下りる階段にたどり着いた。短い階段を下りればそこから門へは一直線だった。
ここへ来てもなお、行く手を阻むものは一切ない。でも、まだ油断はできない。
一道は警戒を怠らず、周囲に気を配りながら門をくぐったが、門の外に誰かが待ち伏せているということもなく、あっさり庭の外に出ることができた。
一道はそこでようやく立ち止まり、膝に手をついて体を折った。まだ少しめまいが残っている。体がだるい。呼吸が苦しい。それでもすぐさま後ろを振り返って、理土も誰も追ってきていないことを確認した。周りに人の気配がないことがわかると、一道は安堵の息をついた。
息を整えながら、一道は門の向こうの建物を見つめた。それは漫画か何かで見たことのある、平安だか鎌倉だか、そのくらいの時代の、貴族が住んでいるような屋敷を思わせる外観だった。昔見た土手本家のお屋敷にも似ているが、それよりもずっと非現代的だ。こういうのを御殿というのだろうか。
――そんなことはどうでもいい。
一道は建物から目をそむけた。
自分は里哉を追ってここに来たのだ。
里哉を、捜さなくては。
屋敷に背を向けた一道の前方には、平原と、その中を曲がりくねり、枝分かれしながら伸びる土の道が、ずっとずっと先まで続いていた。民家らしき建物もたくさんあって、その向こうに林か何か、木々の帯が広がっているのが見える。
林――。あれを抜ければ、もといた町に帰れるかもしれない。ここからあそこまで、遠いといえば遠いが、それでも歩くのが面倒という程度で、決して目指すのに躊躇するような距離ではない。
でも、町に戻るより里哉を見つけるのが先だ。里哉は近くにいるのだろうか。どこかわからない、ここ。理土というあの女の子が、コトヨノクニと呼んだ、この場所に。
一道は、屋敷の門前から伸びる道を歩き出した。
そのときであった。
ふと、周囲に響いている音が、一道の意識の中に割り入った。
気づいたのは、今のことである。しかしそれまでも絶えず聞こえ続けていた。
いつからだ? と一道は記憶をたどる。座敷の外へ出たとき? 座敷の畳の上で目覚めたとき? いや、もっと前……? いつからかはわからない。ともかくも、今はじめて、一道はその音を耳に留めた。
音は、どこから響いてくるというものでもなかった。どこまでか定かでない、この辺りの空間全体を、ぼおっとやわらかく包み込んでいる。
奇妙なのはそれだけではない。
もう一つ、一道は気づいたことがあった。
座敷の外に出てからというもの、周りの景色が、やけに薄暗いのである。
ただ薄暗いというだけなら、自分が倒れて気を失っているうちに日が暮れたのだろうと解釈するところだ。だが、違う。単に光の量が少ないというだけではなく、もっと、何かが違う。
――色。
そうだ。景色の色合いに、なんとなく違和感があるのだ。今まではっきりわからなかったほど微妙なものではあるが、確かに、こんな色の景色はこれまで見たことがなかった。日が暮れただけでは、夕焼けでもそうでなくても、こんな色合いにはならない。
なぜこんなふうに見えるのか。めまいのせいか?
一道は何度か強く瞬きして、瞼の縁をこすった。そうして目を開けてみたが、景色の色合いの違和感は依然として変わらない。
自分の目のせいでないのなら。
夕陽で町がオレンジ色に染まるように、空にある何かが景色をこんな色にしているのかもしれない。
一道は空を見上げた。
その瞬間、足が止まった。
空は。
空ではなかった。
晴れ渡った青一色でも、曇りの灰色でもない。雲が浮いているわけでもなければ、西から東へと徐々に色を変えていく、明け方、夕方のそれでもない。
その空は、様々な色の粒がもろもろと混ざり合って、まるで、ぎっしり色とりどりのプリントが入った巨大な包装紙を、天いっぱいに広げたかのようであった。色の粒の一つ一つを透かした光が地上に降り注ぐため、景色の色が、これまで目にしたことのないような不思議な色合いに見えたのだ。普通の目線の高さで見える遠い空は、色が細かく混ざりすぎていてわからなかった。真上を見上げてみて、はじめてそのことが知れたのである。
そんな空でない空に、一ヶ所だけぽつんと青い点が滲んでいるのを、一道は見つけた。
あそこだけ「空を覆っているもの」に穴が開いている。その穴から、空本来の青色が覗いている。一道は反射的な思考でそう思った。しかしほどなくして、自分がその色を、ここ最近では青空以上に見慣れていることに気づく。
それは、一道が持っていた傘の色だった。
盗まれたあの青い傘が、空に貼りついているのだ。
よく見ればその青色の周りの色の粒も、すべて、残らず、傘であった。天を埋め尽くす、見渡す限りの、傘、傘、傘。その上にあるはずの空を覗く、一条の隙間さえ、どこにもありはしない。
周囲に絶えず響いているこのぼおっという音は、おそらく、頭上を覆う無数の傘を雨が打つ音であろう。
「一道」
背後から声をかけられ、一道は振り返った。
理土だった。理土は、ついと顎を上へ向けて、先ほどまで一道がしていたように空を、いや、傘の天井を仰ぐ。
「あの青い傘は、一道の傘ね? ……じゃあ、あなたは、やっぱり里哉についてここに来たのかしら。マレビト一人ではこの国には入ってこられないはずだもの。きっと、里哉が寂しがって、友達のあなたを勝手に連れてきてしまったのね」
「里哉を知ってるのか?」
一道が思わず尋ねると、理土は、目を細めてくすりと笑った。
「もちろん知ってるわ。昔、里哉とあなたと、三人で一緒に遊んだじゃないの。あなたは土遊びはしなかったけれど、でも、あのとき二人とも名前は聞いたわ。だからあなたの名前も覚えていたのよ」
「そうじゃなくて、里哉の居場所を、おまえは知ってるんじゃないのか? 俺がここに来たのは……おまえの言うとおりだよ。里哉が俺を連れてきたのかどうかは知らないけど、とにかく里哉を追いかけてきたら、この……『国』に、たどり着いてたんだ。里哉もここにいるんだろう? おまえは、ここを自分の国だって言ったよな。だったら何か知ってるはずだ。里哉は今、どこにいる?」
一道は理土に掴みかからんばかりの形相で睨みつけるが、理土の表情は薄笑みのまま、微動だにしない。
「慌てることはないわ。里哉には、じきに会える。わたしも邪魔をするつもりはないわ」
理土はゆっくりと片腕を上げた。着物の上を絹の光沢が滑る。肩の高さまで上げられた腕が真っすぐに伸ばされて、袖に描かれた金色の大輪が開く。その袖から出された、生白くほっそりした手の先の指が、屋敷の方へと向けられた。
「今夜、わたしの屋敷の横にある広庭で、あなたを歓迎するための宴が開かれるの。里哉なら、今、あそこで宴の準備に加わっているはずよ」
行ってみる? と、理土は一道を見つめた。
一道は寸刻答えに窮した。
果たして、理土の――この正体不明の女の子の言葉を信用していいものか。ひょっとしたら、何かの罠ではないのか。そんな疑念が一道の頭をよぎった。けれども、里哉の居場所についての手がかりはどんなことでも逃したくなかった。
不安はあるが、今は他に頼れる情報もない。
一道は理土に向かってうなずいた。
理土はうなずき返しながら屋敷へと足先を向け、歩き出す。一道もそのあとについていく。
歩きながら、一道は、ふと目の前の地面を見やった。
光の帯がうねる長い黒髪の先も、絹織りの着物の裾も、理土は、垂れ落ちるに任せたまま土の上を引きずって歩いていた。地面に触れないよう持ち上げたりなどはしようともしていない。こんなお姫様のような格好をしているのに、この子は、髪や着物が汚れるのが気にならないのだろうか。
そんなことを考えた直後、一道は、はっと目を凝らした。
髪の毛の先にまとわりつく、砂埃。着物の裾に滲む、土の汚れ。それらはしかし、次の瞬間には、髪や着物の色の中にすっかり溶けて、消えていたのだ。
そのあといくら見つめていても、地面に擦れて汚れた理土の髪と着物は、理土が数歩進むたびに、砂や土を残らず溶かしてもとの美しさを取り戻していくのだった。