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第四章 「傘の下の顔」

 明くる雨の日、一道は昨夜の決意をさっそく実行に移すことにした。

 仮病を使って学校を休んだ一道は、昼前頃、家族の隙を見計らってこっそり家を抜け出した。

 行き先は中学校だ。

 一道の通う中学校は、昇降口のちょうど正面に自転車置き場がある。自転車置き場は自転車が出入りする面以外の三方に板が張られており、裏に隠れて昇降口を見張るにはもってこいだった。自転車置き場の裏は学校脇の道路に面しているが、自転車置き場とその道路との間にはフェンスだけでなく丈の高い植え込みもあるため、学校の外を通りかかった人に見つかる可能性もまずないだろう。


 一道は傘を差して自転車置き場と植え込みとの間に潜み、自転車置き場の壁板の上から目を覗かせて、昇降口の様子をうかがった。こういう場合は自分の青い傘よりも、昨日学校で借りた、この透明なビニール傘のほうが目立たずよい。ただ、リュックが濡れるのはやはり避けたいので、それは背負わず体の前に抱えていた。

 わざわざ持ってきたリュックの中には教科書やノートが入っているわけではない。

 膨れたリュックの中身は、弁当代わりのお菓子とジュースであった。昼ご飯の代わりに食べきれる量では到底なかったが、何か張り切るときにリュックいっぱいのお菓子類を準備するのは一道の癖だった。


 スナック系統の菓子を抱き潰さないようにそっとリュックを抱えながら、一道は昇降口を睨む。

 ――さあ来い、傘泥棒。

 意気込むものの、果たして今日、やつは来るだろうか? 一道は少し不安になった。さすがに何日も続けて仮病で学校をさぼることはできないから、今日中に決着をつけたいのだが。

 いや、きっと来るはずだ。梅雨に入ってから傘泥棒は毎日出現している。いつも傘を盗まれる時刻が何時頃かわからないので、ひょっとしたら、自分がここへ来る前に傘泥棒はすでに盗みを済ませているかもしれないが、もし傘泥棒が昼以降に傘を盗みに来るのであれば、放課後までここで見張っていればその姿を目にする可能性は高い。


 一道は待ち続けた。

 自転車置き場のトタン屋根を打つ雨の音が、ばんばらばんばらと、異様に大きく響く。雨がものすごい土砂降りになっているのではないかと錯覚させられるが、実際にはそれほどの降りでもない。

 激しく、けれど単調な雨音の中、変化のない景色をひたすら眺め続けていると、なんだか妙な気分になってくる。

 日常が少しずつ削り取られて、手の届かない深い所へ流れ落ちていくような。日常に密着している「普段の自分」が、段々と、見えない煙のようにこの肉体から漏れ出して、非日常に捕らわれた「馴染みのない自分」だけが体の中に残ってしまうような。

 そこはかとない恐ろしさと、それに混ざり合う、麻酔をかけられたように凪いだ奇妙な陶酔とが、一道の内を満たしていた。

 漠然と、予感がした。

 それが予感であることに一道自身は気づかない。

 意識の奥底をかすかに揺らめかすそれは、捉えどころのない胸騒ぎだった。


 雨音に紛れて響くチャイムの音を数回聞いた頃。昨晩寝つけなかったせいか、一道は急激な眠気に襲われた。昨日、布団の中では眠りにつくのに邪魔だと感じられた雨音が、今はむしろ心地よく、その規則正しいような無造作なようなリズムで一道の意識をまどろみに引き込む。

 寸刻、一道は目を閉じた。

 すぐに、はっとしてまた瞼を開き、すばやく頭を振って眠気を追い払う。

 そして、再び自転車置き場の壁板の上から目を覗かせたとき。

 目の前を、ふっと人の影が横切った。

 傘を差した人だった。

 一道の心臓が縮まる。

 どういうことだ。ついさっきまで、近くに誰の姿もなかったはずだ。一体いつの間に、どこから現れたのだろうか。

 いや、それよりも。

(あれは――俺の傘じゃないか)

 一道は自転車置き場の後ろから抜け出て、一道に背を向けて校門のほうへ歩いていく、その人物の差している青い傘を凝視した。

 間違いない。

 記憶に刻まれている、あの鮮やかな青色。昨日盗まれた、自分の傘だ。

 しかも校門に向かうその人物は、両の手に何本もの他の傘を提げていた。


 ――あれが、傘盗りさまだ。


 一道はリュックを背に負うと、その人物のあとを追って歩き出した。水を踏む足音はそれより大きな雨音に掻き消されるのだろう。相手が一道に気づく様子はない。

 傘泥棒は校門を出た。

 一道も続いて校門をくぐり抜け、道路に出る。そのまま一定の距離をおいて、傘泥棒のあとについていく。

 他にどうするでもなく、ただついていく。

 せっかく目論見通り見つけた傘泥棒だ。すぐに追いついて捕まえればいい。それはわかっているのに。ここにきて、一道の中にためらいが生まれていた。

 雨音に毒されたか。

 怖いのだ。

 前を歩くその人物に追いついたり、声をかけたりして、振り向いたその顔を見るのが、怖い。

 この傘泥棒が、振り返ったら天狗か狐の顔をしている。

 そんなことはあるまい。あるはずがない。妖怪なんて迷信だ。まして、それがこんな街中の道路になんか出てたまるか。

 頭ではそう思っていても、感情がその理屈についてきてくれない。

 心臓をはじめとする一道の肉体の反応は、感情のほうに従っていた。鼓動は速まる。一方、足をこれ以上速めることができない。立ち止まらないよう歩き続けるだけで精一杯だった。

 大きく息をついて、何をそんなに怯えているんだ、と自問する。

 そして、でも実際、妙じゃないか、と自答。

 そう。目の前を歩くこの傘泥棒が、なんらおかしなものでないというなら、腑に落ちないことがある。


 この傘泥棒は、一体いつの間に、あれだけの傘を盗んだのだろう。

 一道はずっと昇降口を見張っていた。その間、校舎の外からも、中からも、誰も昇降口に近づいてはいない。もっとも、眠気のせいで一瞬目をつぶりはしたが。だとしてもそんなわずかな時間で、それまで視界の範囲内にいなかった人間が、目の前にある昇降口に出入りして大量の傘を盗み出してくるなど、不可能だ。

それとも、勘違いしているだけなのだろうか。目をつぶったのは一瞬のことだと思い込んでいるだけで、実際には何分か眠っていた可能性もある。睡眠時の感覚というのは当てにならないものだ。

 そう考えれば筋は通る。何も不可思議なことは、ない。

 けれどもやはり、一道の感情は現実的な理論を受け入れようとはせず、心臓を速打たせ、足をすくませ続けた。


 何も行動を起こせないまま、一道はしばらく傘泥棒のあとをつけた。

 そのうちに、一道は、ふと違和感を覚えた。

 なんだか、段々と、周りの景色が見知らぬ場所のように思えてきたのだ。

 そんなはずはなかった。しばらく歩いてきたといっても、三十分も四十分も歩き続けているわけではない。ここはまだ、中学校からさほど離れていない道のはずだ。今までに何度も通ったことのある、慣れた道だ。

 きっと、雨のせいに違いない。

 よく知っている風景が雨によって多少その配色や姿を変えている。違和感の原因はそれだけのことだと、一道は自分に言い聞かせた。

 しかし。

 次第に不安が大きくなり、もう傘泥棒のことなどあきらめて帰りたいという気持ちになったとき、一道は気づいた。

 周りの風景には確かに見覚えがある。

 それなのに、どうしたことか。

 前方に伸びる道。今しがた歩いてきた後方の道。今歩いている道から枝分かれしたあらゆる道。

 それらを見ながらいくら考えても、ここからどの道をどうたどれば家に帰れるのか、中学校に戻れるのか、その道筋を頭に思い浮かべることが、どうしてもできないのだ。


 一道は焦った。

 このままでは本当に自力で家に帰れなくなりそうだ。今ならまだ、ここから適当な方向へ進んで、どこか大きな道路や知っている建物の見える場所に出さえすれば、どうにかなるだろう。とにかくこれ以上学校から離れるのはまずい。ただ、問題は。

 一道は、目の前を行く青い傘を睨みつけた。

 あの傘泥棒をどうするか。

 学校をさぼってまでこんなことをして、思惑通りこうして傘泥棒が現れたというのに、ここまできて、その正体も見極めずに引き返すのか? ――それとも。

 決断のときは今しかないと感じた。

 何をためらうことがある、と、一道の胸の内で、まだいくらか保たれている冷静な自身が呟く。

 あいつは泥棒だ。窃盗犯だ。捕まえて警察に突き出せばいい。あいつに傘を盗まれて迷惑をこうむっている人が大勢いる。自分のお気に入りの青い傘も、今、あの盗っ人が堂々と差して歩いている。腹立たしいことではないか。


 そして何より、あいつは、里哉の傘を盗んだ。


 そのことを思い出した途端、腹の底から湧いた怒りが、一旦は萎えかけた一道の心を再び奮い立たせた。

 傘を握る手に力を込める。

 直後、一道は意を決して、走り出した。


 ばしゃ、ばしゃと、道路に敷かれた雨水を勢いよく踏み跳ねさす音が響く。雨音よりも大きなその足音に気づいたらしき相手は、振り向きもせず、すぐに自分も駆け出した。相手の足はさほど速くなかった。相手との間の距離はおおよそ民家二軒分はあったが、一道はたちまち追いつき、手を伸ばして相手の腕を捕まえようとした。

 しかし、それより一瞬早く、その人物は一道を振り返った。


 その顔を見て、一道は目を見開いた。

 里哉だった。

 行方不明になっていたはずの、それは確かに里哉に違いなかった。


 里哉は、一道に対して口を開くでもなく、ただ無表情に一道の視線を受け止める。

 一道は呆然として声を漏らした。

「おまえが、『傘盗りさま』……? どういう、ことだ」

 わけが、わからない。

 行方不明の里哉。傘の盗難事件。不可解な傘盗りさまの噂。盗まれた里哉の傘……。様々な情報の断片が、ぶつかり合いつつも決して噛み合うことなく、一道の頭の中をぐるぐると回る。

「どうして」

 一道は重ねて尋ねた。そうする以外にどうしようもなかった。

 けれど、里哉は一道の問いに答える気配も見せず、沈黙し続ける。

「里哉……」

 一道はもう一度、里哉に向かって手を伸ばした。

 その瞬間、里哉はすばやく身を翻して走り出した。

「おい、待て、里哉!」

 一道も慌ててそのあとを追う。

 しかし、先ほどと違い、今度はなかなか追いつくことができない。

 妙だった。全力疾走している一道に対し、里哉の足の動きは軽いジョギングくらいのペースで走っているように見える。雨を踏む足元にもほとんど跳ねが上がっていない。いや、それ以前に、そもそも一道は里哉よりもずっと足が速いはずだった。仮に里哉が力いっぱい走っていようとも、一道の足で追いつけないはずがないのだ。

 それなのに、いくら走り続けても、一向に里哉に近づけない。まるで、里哉と一道との間の道が、一道の走ったぶんだけ引っぱられて伸びてしまうかのようだ。


 一道は走った。

 息が切れ、足がもつれそうになりながらも、ひたすら目の前の青い傘を追い続けた。

 いつしか、一道の周囲の景色は街の中のものではなくなっていた。踏みしめる地面もアスファルトの道路ではなく、濡れた落ち葉の散った土の道になっており、道の両脇は生い茂る木々や草群に囲まれていた。

 朦朧としてきた意識がおぼろげにその変化を認識する。鈍る頭で、一道はぼんやり考える。

 こんな風景のある場所は、この辺りでは、町の西区の端に広がるあの林しかないはずだ。だが、中学校から西区の端まではかなりの距離がある。走り始めたのがいくらか学校を離れてからだとはいっても、自転車でも使うならともかく、自分の足では、とても休みなく走って来られるような場所ではない。


 では、ここは一体どこなのか?

 西の林なのか? そうでないのか?

 おかしい。何がおかしい? 今いるこの場所が? それともたどってきた道のりが――。


 頭の中がぐらぐらと揺れる。

 一歩ごとに背中に負ったリュックが跳ね、リュックの動きに引きずられて足がふらつく。

 リュックが重い。足が重い。限界が近づいていた。単に体力を消耗したことによるものではない、経験したことのない肉体の不自由さに襲われていた。

気がつけば、いつの間にか里哉の姿も見失っている。青い傘がもうどこにも見えない。

 それでも、一道は無我夢中で、足を止めようとはしなかった。


 不意に、前方に景色が開けた。

 一道は目を凝らそうとするが、もはやどうしようもないほどに目がかすんで、そこがどんな場所であるのか、よくわからない。

 どうにか道の脇の木々が途切れる所までたどり着いた一道は、そこで木の根に軽くつまずいた拍子に膝を崩し、そのまま地面に倒れ込んだ。


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