最終章 「花群」
それから先の道中の記憶はなかった。気がつくと、一道は自宅の庭の隅に座り込んでいた。どうやらそこで眠っていたらしかった。
目覚めてすぐ、自分の体に目をやると、服にも、手足や顔にも、あちこち乾いた泥が付いていた。……異世の国にいたとき、土でできたいろいろなものを触ったから……土の食器を手に持ったし、土の家の中に入って、土の座布団に腰を下ろしたし、土の布団にくるまれて寝たり、土の服を身に纏ったりさえした……そのときに付いた泥か。向こうでは体が汚れていることなどわからなかったが、それがあの国のまやかしの力なのだ。
一道はあくびをした。
まだ眠い。眠り足りない。
瞼を閉じたかった。けれど。
仄美に言われた言葉が甦る。
――外の世界に帰ったら、ゆっくり眠ってくださいね。どうか、途中で無理やり目を覚ますようなことはしないで――。
途中。今は、眠りの途中なのだ。本来ならばまだ目覚めるべきときではない。それなのに、自分は目を覚ましてしまった。
今すぐ再び眠りの中に戻ることはできる。
でも――。
眠りの作用、のようなものを。仄美の言ったあの言葉の意味を。一道はなんとなく理解した。
目を覚ましたその瞬間から、一道は、異世の国でのことが、自分の中で急速に現実味を失っていくのを感じていた。それはちょうど、長い夢から覚めたときの感覚に似ていた。
もう一度眠りについて、目覚めるべきときがくるまで、気の済むまで眠ってしまったら――傘に覆われたあの異界で起こったあらゆることは、自分にとって、夢の中の出来事と同じになる。そんな気がしてならなかった。そして、夢はたいていいつまでもはっきりと覚えていられないように、異世の国で見たもの、聞いたもの、感じたことは、きっとこの世界で得た思い出よりもずっと早く、記憶から薄れていくのだろう。もしかしたら、大人になった自分は、そんな ”夢を見た ”ことさえ、すっかり忘れているかもしれない。
それで、いいのか。
一道は自分に問いかけた。
この世界で行方不明になった里哉は、異世の国の民となって暮らしている。今の里哉の居場所であるあの世界を、そこで里哉が生きているということを、自分にとって夢にしてしまって、それで、いいのか。
一道は、まだ全然疲れの取れていない体に無理やり力を込めて、立ち上がった。その途端、仄美が別れ際に指を触れた額から、強烈な眠気が頭の中に広がった。目眩が襲い、意識が溶け去りそうになる。一道は必死にこらえ、壁に手を付いて歩き出した。
たとえ今眠らなくとも、眠りは必ず訪れる。一生眠らずにいることなどできないのだ。次の眠りを終えて目覚めたとき、異世の国は、今よりも遥かに自分から遠ざかっているに違いない。それはきっと、もう二度と手が届くことのない距離だ。そうなる前に……。
玄関を開けて、一道は家の中に入った。
少しして玄関先に現れた祖母が、一道の姿を見て息を呑む。
「か、一道、あんた……」
目を見開いて、その存在を確かめるようにしばらく一道を見つめたあと、祖母はゆっくり振り返ると、ふらふらと頼りなげな足取りで、また家の奥へと戻っていった。
祖母が祖父を呼ぶ叫び声を聞きながら、一道はそれには構わず階段を上った。二階には一道の自室がある。
部屋に入った一道は、自分の部屋を懐かしむ暇もなく、勉強机の引き出しを開けた。確か、この引き出しのどれかにしまい込んだはずだ。横長の引き出し、上下に重ねられた引き出しを、上から順に探していく。
祖父と祖母の足音が階段を上がってくる頃、一道は、引き出しの奥から数十枚の紙の束を見つけ出した。その中から一枚を選んで抜き取り、折り畳んでズボンのポケットにねじ込んだ。ついでに自転車の鍵も、反対側のポケットに入れる。
祖父と祖母が部屋に入ってきた。
祖母が一道に駆け寄って、その体を抱きしめた。
「よかった、よかったよぉ、戻ってきて……。今までどこ行ってたんだい。なんで、こんなどろどろになって……。今、お風呂沸かすからね。怪我はしてないかい? なんだかちょっと痩せたみたいじゃないか。お腹、すいてるんじゃないかい?」
「ばあちゃん……」
「ああ、そうだ。お母さんにも知らせないと。仕事が終わるまでまだかかるだろうけど、どうだろうねぇ。途中で帰ってこれるかねぇ。一道、おまえ、電話するかい?」
祖母は一道を放し、電話のある一階へと向かった。
一道も部屋を出た。祖父がそのあとに続き、一道と共に階段を下りた。
祖母が階段の横で母の仕事先に電話をかけている。しかし、一道の向かう先は電話機ではなかった。
電話機の横を通り過ぎて、そのまま三和土に降りようとする一道を、祖父が肩を掴んで止めた。
「どこ行く気だ」
「ちょっと」
それだけ答え、一道は祖父の手を振りほどいて靴を履く。
「一道、おとなしく休んでろ」
祖父は強い口調で言ったが、一道は黙って首を横に振った。
歩き出そうとする一道の手を、祖父は慌てて掴んで引き止める。
「行かせねぇぞ。ちゃんと、家にいろ」
「じいちゃん」
一道は振り向いて、体を返し、祖父と向かい合った。
「俺、行かなきゃならない所があるんだ。どうしても、今行かなきゃならないんだ。でも、絶対また帰ってくるから」
祖父は、眉間に深くしわを寄せて一道を睨む。
一道は祖父に笑いかけた。
「大丈夫だって。今だってさ、ほら、こうしてちゃんと帰ってきただろ?」
それから、一道は、電話を終えて不安げにこちらを見ている祖母にも笑みを向けて言った。
「夕飯までには帰ってくるからさ。おいしいもの用意しといてよ。俺、すっごい腹へってんだ。あ、甘いものは、今日はいらないから。えっとね……そうだな、カレー! カレー食べたいな。でっかい鍋にいっぱい作っといて。頼んだよ、ばあちゃん」
「あ、ちょっと……」
一道に近づこうとする祖母を、祖父が、無言で制した。
祖母は祖父の顔を見る。数秒間、祖父と目を合わせたのち、祖母はひそめた眉をゆっくりと緩めてうなずいた。
玄関の戸を開ける一道に、祖父が声をかけた。
「カレー、肉は鶏でいいか?」
一道は振り返って「うん」と大声で返事をした。
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一道は、錆びついているかのような足を回して自転車を飛ばし、町外れにある西の林へと向かった。
自分は家に帰ってから、どのくらい眠っていたのだろう。家で時計を見てこなかったから、正確にはわからないが、それほど長い時間ではなかったはずだ。日もまだ高いし、水溜まりに浸かって濡れたズボンもあまり乾いていない。
だから、今なら、間に合うかもしれない。
けれど、本当は、少し迷っていた。
異世の国のことは、このまま忘れてしまったほうがいい。自分の中でそう囁くものがある。危機感。自分を守ろうとする防衛本能。たぶんそういったものなのだろう。
人ひとりが生きられる世界というのは、きっと、本来一つだけなのだ。ゆえに、もし今までとは違う二つ目の世界に身を置くことがあれば、そのときは、もといた世界か、新しくやってきた世界かの、どちらかを選び取らなければならず、選ばなかったほうの世界は、やがてその人の中で、現実から切り離されてしまう。夢になってしまうのだ。
一道にとって、数日間を過ごしただけとはいえ、異世の国は二つ目の世界である。選び取ることのなかったあの異界を「現実」の一部として自分の中に残しておくことで、自分の中のどこかが、やがてこの世界と噛み合わなくなり、将来何か、この世界で生きていくのに不都合なひずみが生まれそうな気がする。それが、怖い。
ならばどうして、今、こうやって西の林を目指し、懸命に自転車を漕いでいるのか。
里哉に対する償いのつもりなのか。自分でもよくわからなかった。自分は里哉を置いてあの世界から逃げ帰った。もう戻る気はない。里哉と一緒には行けない。だけど。だから。せめてこうして――。
――いや、どうだろうか。もしかすると、償いとかそんなことは関係なく、ただ単に、これが自分の望むことなのかもしれなかった。今里哉がいるあの世界を、これから先も里哉が生きていくあの世界を、自分も里哉と共有し続けていたい。だからなのかもしれない。
林に着いて、一道はまだ新しい駐輪場に自転車を止め、林の中に入った。
この林にまともな道のりで来るのは小学校のとき以来だ。あのころ無造作に木々の茂っていた林の入口は、今ではすっきりと整備されて、入口付近には案内板が設けられ、ハイキングコースの地図が描かれていた。
一道はポケットに手を突っ込み、自分も家から持ってきた地図を広げる。
画用紙にペンと色鉛筆で描かれ地図。ところどころ、下書きの鉛筆の線をこすった跡が、どうしてもきれいに消えずに残っている。
それは小学校の頃、里哉と一緒にこの町を探検して作った地図だった。里哉の分と自分の分と、同じものを二枚ずつ作っていって、町中全部を描いたら一人分が何十枚もなった。その地図の中から、この西の林を描いたものを持ってきたのだ。
地図には、昔理土と土遊びをした場所の位置が、半分は当てずっぽうだが記されている。再びそこを訪れようとしたとき、途中で道に迷ってたどり着くことができなかったので、ちゃんとした位置を記せなかったのだ。加えて、途中までの道のりにしても、ハイキングコースとして整備されたこの林に、当時と同じ道がどのくらい残っているかはわからない。だがそれでも、この地図を見れば、あの場所へのだいたいの方角くらいは割り出すことができる、はずである。あとは自身の記憶と勘が頼りだ。
(道を覚えるのは、昔から得意なんだ――)
一道は、昔たどった道の景色の記憶を一つ一つ引き出しながら、それを目の前にある景色と照らし合わせつつ進んでいった。やはり道が整備されているせいで、小学生の頃遊んだ林とはだいぶ印象が違っている。しかしそうでなくとも、林は生きている植物の固まりだ。人が手を加えるまでもなく、木が伸びたり枯れたりして、年々その風景を変化させているのだろう。
とはいえ、大きな木の姿は数年かそこらでそうそう変わりはしない。目指す場所までの中間地点に何本かあった巨木の、瘤や洞の数、位置を、一道は今でも案外よく覚えていた。理土に連れられて林の奥へ行ったあのとき、巨木が見えるたびにそこに近寄って、瘤に足を掛けて木に登ろうとしたり、洞の中に枝を突っ込んだりしてさんざん遊んだからだった。
そうして、途中までは目印の巨木と思われる木を何本か発見し、道順が合っていることを確信しながら進んでいった。
しかし、ハイキングコースの道を外れてしばらく歩いたところで、その先の道筋がわからなくなってしまった。昔もこの辺りで迷ったのだろうか。だとしたら、地図を頼りにできるのもここまでが限界だ。かといって、ここから先の道筋はもう思い出せないし、勘というのもそうそう都合よく働くものではない。
どうにもならず立ち往生して、一道は、溜め息と共に地面に目を落とした。
そのとき、視界の端に、林の風景にそぐわない人工的な色彩が映り込んだ。
それがなんなのか、一道にはすぐにわかった。
飴だ。飴を個包装した小さな袋だ。
もしや、と思ってそちらを振り向く。だが、その辺りの草群に視線を這わせてみても、何もあるようには見えない。
飴が見えたと思った場所に移動して、一道はあらためて地面や木の枝の上を探してみた。すると、その近くには何もないが、少し離れてまた別の場所に飴の袋らしき色が転がっている。しかし、そこへ目を向けると途端に飴は見えなくなる。その場所へ移動してまた探すと、少し離れた所に、今度は一口チョコレートの包みが落ちている。
その飴もチョコレートも、ちらと目の端に入る瞬間はあるのだが、はっきり見ようとすると視界から消えてしまうのだ。
それらは、一道が異世の国を出るとき道標とした菓子に、間違いなかった。
あのときたどった陽の沈み灯の道は、異世の国の中でも、こちらの世界にほど近い場所だった。あの道から町の景色が見えたように、あの道の脇に今もある菓子が、里哉が自分のために敷いてくれた道標が、視点を合わせようとすると消えてしまう幻のような形で、こちらの世界に現れているのだ。
一道は、もう迷うことなく、林の奥へと進んでいった。
いくらかして、飴とチョコレートの道標も途絶えた頃。
近くで、幼い女の子二人の喋っている声が聞こえた。
一道はなんの気なく、その会話に耳を傾ける。
女の子たちは、どうやら、そこに咲いている花を摘んでいるらしい。
とりとめないお喋りが、しばらくの間、交わされていた。それからやがて、女の子たちの声は、だんだんと遠ざかっていった。
声が聞こえなくなってから、一道は、二人が喋っていたその場所へと近づいた。
景色を遮る木々の間を通って、開けた空間へと抜け出る。
すると。
そこにあったのは、目の前一面に広がる、大きな花群だった。
その花群は、すべて花だけで埋め尽くされており、葉の姿はどこにもない。
一道はさらに花群のそばへ寄った。
一つ一つが手の平ほどの大きさをした、花びらの端を重ね合って隙間なく咲いている無数の花々。それらはどれも椀を逆さにしたような形で、丸く膨らんだその花びらのてっぺんには突起があり、花びらの裏からは、すらりと細く真っすぐな茎が伸びていた。そして、その彩りは、とてもすべてが同じ花とは思えぬほどに、様々であった。
数え切れぬほどの多くの色が、この一つの花群に咲いていた。色だけではない。花びらの模様もまた、数多あるようだった。無地、縞模様、格子模様、水玉や、もっと花らしからぬ、まるで絵や文字が描かれているように見える花びらさえあった。
花群には何ヶ所か、小さな穴が開いていた。先ほどの女の子たちや、それ以前にここへやって来た人々が、花を摘んだ跡だろうか。また、花群の端っこの一ヶ所には、そこだけ帯状に崩れた大きな穴もあった。
花群のいたるところで、まだ消えきらぬ雨の粒が、木漏れ陽を浴びてきらめいている。とりどりの花びらの色をその内に溶かし、揺れる陽光をちかり、ちかりと弾く水の玉。それは、思わず目を細めずにはいられない眺めだった。でも、それでも、この花群はきっと、雨の日のほうがもっと美しく見えるのだろう。一道は、なんとなくそう思った。
ふと、近くで、土の擦れるかすかな音が、聞こえた気がした。
一道は耳を澄ました。
それは、たくさんの小さなものが歩いている、足音のようだった。
一道は音のするほうを振り向く。
そこには、林の奥深くまで続く草群があった。
草群の中に、草を左右に分けた、一筋の細い土の道が伸びていた。その道を行く、小さな人々の後ろ姿が見えた。
人々は皆、人間の手ほどの背丈を持つ土人形だった。土人形たちは、それぞれ花群に咲いているのと同じ花を頭上にかざし、長い列をなして、林の奥へと歩いていく。
行列の中で、不意に、ひときわ大きな青い花が揺れた。
その花の下の土人形が、一道を振り返る。
服も、肌も、髪も、瞳も、すべて白土の色一色をした、その土人形の顔は、確かに里哉のものだった。
里哉は一道に向かって微笑んだ。
一道は、里哉に手を振ろうとした。
その瞬間、一陣の風が吹いた。
吹き抜ける風が、林の木々の枝葉を鳴らす。葉の上にあった昨日の雨粒の雫が、風に吹き散らされて、ぱらぱらと降ってきた。その雫が目に入って、一道は思わず目をつぶった。
葉擦れの音が、林の奥へと遠ざかっていく。
再び瞼を開けたときには、土人形の行列も、草群の中に伸びた道も、何もかも、残らず消えてなくなっていた。
それからほどなくして、花群は枯れ、二度とそこに同じ花が咲いたという話は聞かない。
-終-




