第一章 「荒れ梅雨と、傘泥棒」
一道が生まれ育ったここいらの土地には、「荒れ梅雨」という言葉がある。
今年はまさに、その荒れ梅雨の年らしかった。
地形や気候の関係で雨雲が生まれやすく、ただでさえもともと雨の多いこの土地には、数年に一度、荒れ梅雨の年が訪れる。その年の梅雨の雨は例年よりも激しく、しかも、いったん梅雨入りすると、梅雨が明けるまで、一時たりとも止むことはないと言われている。
一道は、梅雨が、というより、雨がきらいだった。とりわけ、朝からの雨が。
家を出る前から雨が降っていると、否応なしに、荷物が一つ増えるからだ。
手には荷物を持ちたくない。両手は常に自由にしておきたい。一道は、昔からそういう性分だった。そんな一道にとって、小学生時代、ランドセルというのは鞄であると同時に、おもに紐付きの荷物を下げ掛けるための道具でもあった。終業式の日の帰りともなれば、ランドセルの横、肩ベルト、錠前付近と、ありとあらゆる部分に荷物を吊るして、左右前後のバランスを危うくしながら帰ったものだ。その癖は中学生になった今でも変わっておらず、学校指定の手提げ鞄で学校へ行ったことなど、一度もない。いつもリュックサックを背負って通学している。
それなのに、だ。
爪先がまだじわりと湿っている靴に足を突っ込み、一道は、玄関の傘立てから自分の傘を抜き取った。こちらもまだ昨日の雨が乾ききっておらず、うっかり布の所を触った手が濡れた。水気をズボンになすりつけ、一道は腹立たしげに口を曲げた。
外の雨音は、昨晩からとりわけ激しくなり、今朝になってもまるで弱まる気配がなかった。
一道は溜め息をついた。
学校に行くのが苦痛だった。広げた傘というのは、一道が最も疎ましく思う手荷物の一つであった。かといって雨の中、畳んだ傘をリュックの横にぶら下げて歩いても仕方がない。傘を差して行かねばならない道のり。それを想像するだけで気が重くなる。毎年のことだ。荒れ梅雨だろうが普通の梅雨だろうが、夏へと抜け出るために通り過ぎなければならないこの季節が、一道は一年のうちで一番きらいだった。
それに、今年は――。雨だけではない。傘だけではない。学校に着いたら着いたで。昇降口で傘を手放したって。いや、たとえ夏になったって。今のままでは――。
背後で、人の声がした。
その声は、雨音にほとんど掻き消されて、言葉としては聞き取れなかった。けれど、一道にはその声の主も、その人が自分に何を言ったのかもわかっていた。
「一道。傘をなくすんじゃねぇぞ」
祖父は、一道に近づいて、先ほど言ったのであろう台詞を繰り返した。
「わかってるよ」
一道はそっけなく返し、玄関の戸を開けた。
雨音が大きくなる。降り注ぐ雨の矢が、視界を覆い、濡れた地面や屋根をなおも激しく叩き続けている。その景色を見て、一道はうんざりした。アマガエルくらいなら打ち殺せそうな雨に思える。せめて帰り道は、これより少しでも雨脚が弱まっていてほしいものだ。
そんなことを願いつつ、傘を体の前に持ち上げて開いた。視界に鮮やかな青一色が広がった。梅雨が明けたら、この傘の色のような真っ青な空が見られることだろう。
もう、だいぶ長く雨の日が続いているのだから。きっと、もう少しの辛抱だ。手荷物に煩わされて登校しなければならない日々も、あとちょっと。夏になれば、青空は戻ってくる。一道は自分に言い聞かせた。今はそれだけを考えることにした。
玄関の敷居をまたいで、後ろ手で戸を閉める直前、
「傘をなくすんじゃねぇぞ」
雨音の向こうから、祖父がもう一度、その言葉を投げた。
+
雨の日の教室は、いつも聞いている教師の声や、黒板をチョークで打ち掻く音が、雨音にくるまれて、ぼやけ、なんとなく非日常じみている。梅雨入りからは雨の日こそが日常なのだから、いいかげん慣れてもよさそうなものだが、一道はどうにも落ち着かなかった。授業中も、ほとんど上の空であった。しかし、それは雨のせいだけではない。
ふと我に返るたび、一道は、頬杖をついてぼんやりしている自分に気づく。そんなとき、一道は決まって、斜め前にある一つの席を眺めていた。
今、その席に座る生徒はいない。
今日は他に欠席の生徒がいないため、教室の中でそこだけ空いた席が、余計に目についた。
それは、一道の幼なじみの、土手里哉の席だった。
机の中に教科書やノートが入りっぱなしになったその席は、昨日も、一昨日も、その前の日も、同じように空席だった。何日も人の体温に触れていない机と椅子の周りは、そこだけ、やけに寒々しい空気が固まっているように感じられた。
(今日で、六日……)
指折り数え、ハッとした。明日でちょうど、あれから一週間だ。もうそんなに経つのか。
(里哉、どこに行ったんだ……)
答えの出ない問いを、一道はあの日から毎日、何度も何度も胸の中で呟いている。
先週の土曜日に、里哉は、なんの前触れもなくいなくなった。
知り合いの家、親戚の家と、里哉の親は片端から連絡を取ったが、誰も心当たりはないという。だとすれば、家出か、誘拐か。あるいは、林や山の奥に入り込んで道に迷ったか、川で溺れでもしたかと、捜索隊が町中を探しているが、いまだに手がかりは何一つ見つかっていない。
ぽきん、と、知らず知らずノートに押しつけていた、シャープペンの芯が折れた。折れた芯をノートから払い落とし、一道は、無作為に引かれた短い線を消しゴムでこする。ノートに散った微量な芯の粉が、白いノートの薄い罫線の上に、鉛色を滲ませた。
吸い込む雨の匂いが、胸の中を湿らせる。
雨の音が、いっそう重苦しく、耳に膜を張っていた。
+
雨はひとときも止むことなく、下校時刻になっても朝の勢いのままに降り続いていた。
登校するときまたひどく雨の染みてしまった靴を履いて、足先の不快感に眉を寄せつつ、一道は、下駄箱の横に置かれた傘立てに歩み寄った。
「……あれ」
一目で違和感に気づき、思わず声を漏らす。
一道は傘立てを真上から覗き込み、金枠の中に雑然と突っ込まれた数十本の傘の上で、視線をさまよわせた。
一本一本、傘立ての端から端まで余さず確かめ、それを二度三度と繰り返す。
――やはり、ない。
自分の傘が、どこにもない。
焦りと苛立ちに顔をしかめながら、一道は、隣のクラスの傘立てに駆け寄った。そこにも一道の傘はなかった。さらに、他のすべてのクラスの傘立ても注意深く見て回ったが、一道の青い傘は見つからない。
信じられない思いで、一道は肩を落とした。
これ以上捜し直すのは無駄だ、とあきらめが胸に広がる。なぜなら、そもそもこんなに注意して捜さずとも、あの傘は、ちらとでも目に入れば、すぐにそれとわかるはすだから。ここにあれば見逃すはずがない。
一道の傘は、中学生ではなかなか持っている者がないような、大きな傘だった。真っ青な色も目立つ、他の生徒たちのものに比べて一つ丈の飛び抜けた一道の傘は、傘立てにどれだけたくさんの傘がひしめいていようとも、いつも簡単に見つけることができたのだ。そのように特徴のある傘なので、誰かがうっかり自分のものと間違えて持って帰った、ということも、まず考えられない。
「そんなあ……」
一道は、悲愴な溜め息を吐き出した。
と、そこへ、
「なあ」
誰やら聞き慣れぬ声が、話しかけてきた。
振り向くと、同じ学年の、よそのクラスの男子生徒だった。男子生徒は傘立てに目を落とし、苦笑しながら言った。
「おまえも、傘、やられたの?」
「……そうみたいだ」
一道は力なくうなずいた。
「俺もだよ。こう毎日のことだから、いつかはやられるかな、と思ってたけど、いざ自分のが盗られるとショックだよなあ」
「ああ、ほんと」
「な。職員室、一緒に行こうよ。先生に報告しなくちゃ」
「うん」
一道は、その生徒のあとについて職員室に向かった。
このところ、一道の通う中学校やその近くにある小学校、高校で、生徒の傘が盗まれる「傘泥棒事件」が頻発している。梅雨に入ってからというもの、ほぼ毎日、一日に何人もの生徒が傘をなくしているのだ。ときには一気に十何本の傘が盗まれるらしい。傘を忘れた生徒が他の人の傘を勝手に使ったり、あるいは、自分のものに似た傘を間違えて持って帰ってしまったりと、そういうことはあるだろうが、いくらなんでもなくなる傘の量が異常だった。これはもう、誰かが故意に盗んでいるとしか考えられなかった。しかし。
誰が。どうやって。なんのために。
その三つのことが不明である。要するに、今のところ、犯人については何一つわかっていないのだ。
学校というこれだけ人の集まる場所で、これだけ幾度にも渡って傘泥棒という行為を重ねているにもかかわらず、犯人はいまだに姿を目撃されていない。授業中などの、下駄箱付近や校庭にひと気のない時間帯を狙って、相当に手際よくやっているのだろうか。けれどそれにしたって、たまたま窓の外を覗いたとき犯人の姿を見た、などという生徒が一人くらいいてもよさそうなものだ。もしかしたら、絶対に人目につくことのない特別な逃げ道があるのかもしれない。
だが、犯人は一体なぜ傘を盗むのだろうか。
透明なビニール傘や、あまりにも使い古されたボロ傘などは盗まれないというが、かといって、特別高価な傘がおもに狙われているというわけでもない。盗まれる傘の多くは、ごく普通のものだ。そんな傘ばかりを盗んで、それをどうするというのだろう。
――七不思議だ、これは。
そう。すでに学校の七不思議として定着している怪事件だった。
いつからかはわからない。少なくとも、一道が通っていた小学校にも同じ話はあった。これ自体は、最近になって始まったことではないのである。
ただ――。
今年の梅雨は、異常だ。
「何考えてんだろうなあ、傘泥棒のやつ」
「さあねえ」
一道の呟きに、クラスの違う男子は首を捻った。さあねえ、とでも答えるしかないだろう。正体もわかっていない犯人の考えていることなどわかるはずがない。
職員室へ行き、担任の先生に傘を盗まれたことを報告したあと、一道は代わりのビニール傘を借り受けて、ようやく雨中の帰路につくことができた。
+
頭上に広げた、くすんだ無色透明のビニール傘を見上げ、一道は多少不安になっていた。
(どうしたもんだろ、俺の傘……じいちゃんに怒られるかなあ)
一道の祖父は、一道が傘を持って家を出るとき、毎回必ず忠告してから送り出すのだ。今朝のように。おかげで、今まで傘を忘れて帰ることは一度もなかったが……。
(にしても、じいちゃんて、なんで傘のことになるとあそこまでしつっこく言ってくるんだろ。傘一本がそこまで大事かねえ。まあ、物を大事にしなきゃってのはわかるし、俺だって、お気に入りの傘なくしたくはないけどさ)
盗まれた青い傘は、機能性といい、色といい、とても気に入っていたものだった。今まで使った傘の中でいちばんと言っていい。あの傘があったからこそ、とにかく億劫でしかない雨の日でも、どうにか学校へ行く気力を保ち続けていられたのに。あれだけは、絶対になくしたくなかったのに。
一道の胸に、むかむかと傘泥棒に対する怒りが湧く。お気に入りの傘をなくして、この上祖父に怒られたのではかなわない。
(うう、ちっくしょう……。仕方ないって、この場合。だって、俺のせいじゃねえもん。盗られちゃったんだから。俺が忘れて帰ったってわけじゃねえもん)
やけっぱちに胸の中で吐き捨てる。
そうだ。もし祖父に何か言われたって、そのように反論すればいいだけだ。至極まっとうな理屈じゃないか。自分が悪いわけではない。自分が怒られる理由はない。
そう思ったとき、一道は、ふと引っかかるものを覚えた。
(あれ……? そういえば)
無意識に目線を上げる。一道の瞳を、ビニールをぼんやり透かして垂れ流れていく雨の像が、滑り落ちる。
(じいちゃん、いつも「傘を忘れるな」って言ってたっけ?)
いや。――違う。
そうではない。
何度となく、繰り返し記憶に重ねられている祖父の言葉は、確か。
(うん。――「傘を忘れるな」じゃなく、「傘をなくすな」だ)
一道は一人うなずいた。
些細な違い。単に言い方の問題にすぎないといえば、そうかもしれない。「傘をなくす」という言葉に「傘を盗まれる」という場合まで含まれてしまったら、そんなものは注意のしようがないのだから、祖父の忠告は、常識的に考えれば「持っていった傘を忘れて帰るな」という意味に捉えていいはずだ。――が、一道はなんだかやけに気になった。
(そうだ。そういや、里哉も)
一道はふと思い出した。
この前の雨の日、といってもここ最近の天気はずっと雨だが。その日、里哉と一緒に帰ろうとしたとき、里哉の傘がどこを捜しても見つからなかった。
里哉が忽然と姿を消す、二、三日前の出来事であった。