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地下に降る雨


 やっと人心地がつき、ぼくたちは元気を取りもどしていた。


 お腹がいっぱいになり、あとはトイレでも済ませて、一気に地上へ出ようなどと気勢をあげながらぼくらは再び歩き出した。


 あ……。


 ぼくは、気づいた。


 彼女が同級生の女子と違うように感じていた理由――。答えは単純なことだった。



 それはたぶん、姿勢がきれいで、歩き方がきれいだからだ。


 あかねは自然に歩き、走り、階段をのぼっていた。

 たったそれだけのことで、人は特別な雰囲気をまとうことができるのだということに気づいた。



 ぼくのとなりを歩くあかね。つい三時間半ほど前までは、知り合ってもいなかった女の子。


 なぜか今のぼくはこれまでと違って、彼女を、変に意識していた。



 隣りを歩いている。


 距離の近さが緊張をまねく。


 手を伸ばして彼女にふれたいという気持ちが芽生えていた。――何を考えているんだろうぼくは?


 こんな感情に、ぼくはとんと縁がなかったのでかなり当惑した。


 自分の中にこんな感情があることに、おどろいた。


 でもそれは、精神的なものというよりはもっと、動物的なものといった感覚があった。


 人は、他人の身体に触れたいと思う本能があることを、ぼくはいまさらながらはじめて知ったのだ。




 そのときだった。


 ぷしゅっという音が天井から聞こえ、突然水が降ってきた。


「え?!」


 びっくりした。


 かなりの量の水が、天井から吹き出してきている。


 スプリンクラーが放水しているのだ。


「なんだ? ――スプリンクラーの誤作動か?!」


 ぼくは驚いて動揺したまま辺りを見渡す。

 ……特に異常はないように見える。この天井からの放水以外は。



 ぼくたちはどんどんずぶ濡れになっていった。


 あかねが、楽しそうに笑い出した。


「ねぇつくし! 雨みた〜い!」


 あかねは両手を広げて天井から降り注ぐ水を、全身で受けていた。


 気持ちよさそうに、はしゃいでいる。


「あはっ、地下なのに雨が降るなんてへんな感じ〜! なんか得したな〜!」


 あかねは上を向いて胸を反らし、氷の上のフィギュアスケートの選手のようにくるくるまわりながら、雨音に負けないように大きな声でそう云った。



 彼女の白いシャツも黒のスカートも、すっかり濡れてしまっていた。


 回転して広がる長い髪から水しぶきが跳ねている。


 イエロームーンの看板の照明を受けて水しぶきは金色の宝石のように見えた。


 彼女の姿から、目を離せなかった。


 胸が、苦しくなった。もちろん、食べ過ぎたのが原因ではない。



 きれいだ――と、思っていた。



「わたし、雨に降られたの、十年ぶりなんだなぁ。なんか、すっごくなつかしい〜! 忘れてた、こんな感触」


 あかねが回るのをやめて、手の平に降る水を見ている。


 十年以上の間、地下から出ずに暮らしていた女の子。


 家族を亡くし、それでも生きてきた彼女。


 その彼女の強さの理由を、ぼくはわかったような気がした。



 しばらくして、放水は唐突に止まった。




 ぼくは、我に返った。


 火の気はないのにスプリンクラーが誤作動すると云うことは、建物のセキュリティー機能がどこかおかしくなっているのかも知れない。


 ぼくは漠然とした不安を感じた。


「そろそろ行こう。エレベーターが使えれば、ここから地下51階までは行ける。もうひとふんばりだ、がんばろう」


 そう云いながら、ぼくは靴に水が入ってしまっているのが気になった。

 子どもの頃長靴で水たまりに入って、誤って中に水が入ってしまったときの感覚を思い出す。

 足元からぎゅぽぎゅぽ……と変な音が聞こえてくる。



「スプリンクラーの放水が、この階だけだったらいいんだけど……」


 ぼくはそうつぶやきあかねに云った。


「ちょっと寄り道していい?」



 ぼくは二つ上の階に、エスカレーターを使って上がった。エスカレーターは、動いていた。


 放水があったのはさっきの階だけだったようだ。


「うわ……! この階、洋服の階なんだ!」


 あかねが嬉しそうに云った。



「この階は女性の服の階。いっこ上がメンズの階になってるんだ」


 ぼくがそう説明すると、あかねは「着替えても、いいかな?」とたずねてきた。


 あまり直視しないように意識していたのだが、正直云うとどうしても濡れたシャツのあかねの姿は目の毒だったのだ。着替えてもらわないと、こっちが困る。


「……そうしようかと思って。着るものも靴も、全部変えて心機一転でまたのぼろう」


「うん!」



 ぼくらは十五分後に今いるエスカレーターの所に待ち合わせることにした。


 今の時刻は午後3時20分。


 夕焼けを見るのには、まだ時間はある。余裕はないが、間に合うだろう。


 ただ、夕焼けの時間の前に、地球が滅びる瞬間がやってきてしまったら、元も子もない。急ぐに越したことはない。



 ぼくは動きやすい格好をと思い、スポーツ品店に駆け込んだ。幸い、店員もおらず、店のドアも開きっぱなしだった。


 上下ともジャージに着替え、今まで着ていた服はここに置いていくことにした。


 …………またも感傷的な気持ちが襲ってきた。


 これは、気に入っていたシャツとズボンだった。

 靴も、履き心地も形も気に入っていたものだった。


 それをここに置き去りにするのが、なんだか自分の分身を置き去りにするようで、悲しくなった。



 ……感傷に浸っている時間はない。


 ぼくは今まで身に纏っていたものに「じゃあな」と声をかけ、店を飛び出した。



 エスカレーターを下り、待ち合わせの場所までやって来る。

 時計は3時31分を指している。

 約束の時間まであと4分ある。


 ぼくはこの時間にトイレを済ませることにした。


 長いことトイレに行ってなかったわりには、おしっこの量は少なかった。多分それだけ汗をかいていたってことだろう。



 待ち合わせの場所に戻ってきた。


 腕時計を見ると、3時35分ちょうどだ。

 しかし、まだあかねの姿はない。


 5分間が過ぎた。それでもあかねは現れない。何かあったんじゃないかと、不安がよぎる。


 いや、男の着替えと女の着替えじゃ、倍近く時間がかかるのかも知れない。

 ここで探しに行ってはぐれてしまったりしたら意味がない。


 もうしばらく待つことにしよう。いまさらながら、あかねと携帯電話の番号を教えあっていればよかったなどと後悔した。



 時計を見る。


 3時42分。


 いいかげん遅い。


 ぼくがまわりをきょろきょろ見渡していると――――



 いた。


 あかねもぼくに気づき、“ごめーん”とでも云うように右手だけで拝む格好をしながら駆けてくるのが見えた。



 ぼくは――正直に云おう――彼女に見とれていた。


 あかねも動きやすいように下はジャージを選んだようだった。

 そして、上は白いパーカ。


 髪はポニーテールに結んでいた。靴は、白いスニーカーだった。


 だめだ。


「ごめん、遅くなっちゃった」


 ――やばい。



「でも、ほら。かわいいでしょ?」


 あかねが屈託なく上目づかいをする。


「せっかくだから気に入るやつを選びたくて――わたしほら、優柔不断だからさ」


 ぼくは、あかねの姿を見て、性懲りもなく「かわいい」と思っていた。

 なぜ、こんなに動揺しているんだろう? 服が変わっただけじゃないか。あと、少し髪形も。

 ぼくは別にパーカやポニーテールに特別な性癖を持ってる人種ではないし、別に、別に――――


「ん? どうかしたのつくし? ぼーっとして」


「い、いや、別に――」



「あっ、つくし、そのジャージ姿似合ってるよ。――うん、かっこいい。印象あんまりかわんないけど」


 そう云って、けれんみのない笑顔を見せる。



 そうか――。なんだかぼくはわかった気がした。


 唐突だけど、こう思った。



 幸せってたぶん、自分のことを好きでいられる状態のことをいうんだ。



 逆に自分のことが嫌いな状態が、不幸せってことなんだろうと思う。


 ――彼女は、この絶望の状況下で、明るく、楽しそうにすら見えた。



 彼女は、自分のことを好きでいることができるようになった人なんだ、と気づいた。




 でもぼくは、浮かんでくる考えを振り払うように、


「さあ、――もうあんまり時間はないよ。いま3時44分。夕焼けが見たかったら遅くともあと1時間半くらいで地上に出てないと。急ごう」とだけ云った。


「なによ、せっかく着替えてきたんだから、なんかコメントくれてもいいじゃない」


 そう云ってあかねは下唇を噛んでふくれっ面をしてみせた。


 でも急がないといけないことには気づいた様子だった。



「行くよ」


 ぼくは、ぶっきらぼうにそう云うと、あかねの手を取った。


「――あ」


 あかねが小さい声を出した。が、あとは何も云わなかった。



 ぼくはあかねの手をひいて、地上への道を歩き出した。



 それが、ぼくの精一杯の意思表示で、精一杯の勇気だった。





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