階段室
「ね」
一段ぼくのあとをのぼるあかねがたずねた。
「どうして“作史”っていう名前になったの? 由来は?」
いままでも何度か人に聞かれたことのある質問だった。
「うんと……」ぼくは照れくささを感じながら答えた。
「母親がね、わりと本読むのが好きな人で、そんで誰の言葉だか知らないけど、『人生は、自分自身が主人公の物語である』って言葉が好きだったんだって」
ぼくはあかねの方を振り返る。
あかねの瞳が続きをうながしている。
「それで、そういう意味の名前にしたかったらしくて、父さんといろいろ考えて、自分だけの“人生という物語”を作れっていう想いを込めて付けたって話してた。“史”は“自分自身の歴史”って意味で使ったんだって」
「へぇ〜……! すごい、いい名前だね」
あかねは本当に感心したような声でそう云った。
「つくしの家って、何人家族なの?」
「オレんちは両親とオレと、姉貴の四人。――あかねんちは?」
「うちはね、両親ともいなくて、一人っ子だったからわたし一人」
「あ、……そうだったんだ……」
「四年前に事故でね。亡くなっちゃって。中学卒業するまでは母方の叔父ちゃんの家にやっかいになってたんだけど、高校は全寮制の女子校に行ってたんだ」
それを聞いて悲しい気持ちになった。
気の毒なあかねの境遇に同情したからだけではない。高校に通っていることを過去形で話していることに気づいたからだ。
そう。ぼくたちはもう二度と学校へ行くことも、友だちと笑い合うこともないのだ。
「ねぇ、つくしは家の人に連絡した?」
「一回携帯からかけてみたんだけど誰にもつながんなかった」
ぼくはそう答えた。
「そう……。また、かけてみたら?」
この階段室はとても静かで、このようなところでもし家族としゃべったら、なんかかっこわるいことをしゃべってしまいそうで躊躇した。
ぼくのそんな気持ちを察してか、「わたし、少しおくれてついて行くから」とあかねが気をつかう。
「ほら! かけなさいよ!」
ぼくはせかされるまま、ズボンのポケットの携帯電話を取り出した。
あかねは足を止め、その場でアキレス腱を伸ばすストレッチをはじめた。
携帯電話の画面を開く。着信の履歴はなかった。
母親の番号をリダイアルする。
「……だめだ。コール音がしない」
ぼくもあかねより0.5階分上がったところで足を止めた。父の番号にかける。
……やはりだめだ。つながらない。
「――かからない?」
下からあかねが呼びかける。ぼくは「うん」と答え、姉の番号をリダイアルした。
今度はコール音がした。
しかし、一分ほど待ったが姉は電話には出ず、留守番電話サービスの案内が流れた。
ぼくはあかねにダメだったと伝えた。
あかねはぼくに追いついてきて、悲しげな表情で微笑むと「またあとでかけてみよ?」と云った。
あかねはそのままぼくを追い越し、前を歩く。
ぼくもあかねのあとをのぼっていく。
「……ふう、さすがに暑いなぁ」
あかねがそういって、黒の上着を脱いだ。
「もったいないお化けが出るかもしれないけど、上着、ここに置いていくね」
「あ、……うん」
ずっと黒の背広を羽織っていたあかねは汗だくで、白いシャツの背中が汗で少し透けていた。わきの下の部分にも汗がしみている。シャツの下に、ブルーの下着の色が透けて見えていた。
ネクタイをゆるめている。ぼくは、視線を足元に移した。
ぼくは顔がほてって鼓動が速くなるのを感じて焦った。
気温のせいだけでなく、自分で勝手に暑くなって勝手に汗だくになっていっている。
バカみたいだ。
大丈夫。前をゆくあかねにはぼくの様子は気づかれていないはずだ。
目線を上げる。
「……!」
白に近い、なめらかな肌色。
あかねの、色白な太ももが目に入った。
黒のスカートは丈がそんなに長くはない。ぼくは後ろからついて行っているのでどうしても見上げる角度になってしまう。しかも――
ひざの上まである長いソックスの色も黒。それが白い肌を余計に強調しているのだ。
まったくバカみたいに、顔を赤くしたままぼくは汗をしたたらせる。
だって、仕方ないじゃないか。ぼくは女の子と付き合ったことなんてなかったし、こんな閉ざされた空間で女の子と二人きりになったことなんてはじめてなんだ!
だめだ。
落ちつけ――落ちつくんだ――。
ゆっくり息を吸い、ゆっくり吐き出す。
ぼくは動揺を静めるために、腕時計を見た。
現在の時刻、午後2時20分。
夕日の時刻ははっきりはわからないけど、「秋の日はつるべ落とし」というぐらいだからきっとそんなに遅くはないはずだ。
あと、三時間ぐらいで地上に出てないと。
――身体の火照りが静まってきた。
階段室の階数表示を見る。
いまいるのは地下169階。
まだかなりの道のりが残っている。
急がなければならないが、焦りも禁物だ。残りの体力にも留意してのぼっていこう――。
「――あ、そうだ」
あることに思い当たり、ぼくは思わずつぶやいていた。
「ん? どうかしたの?」
あかねがこちらを振り返る。
「うん」ぼくは、たすきがけにしていたバッグを、肩から外した。
今日図書館で借りる予定だった本と本屋で買うつもりだった本を入れるはずの、バッグ。
愛用していた、使い勝手のいいバッグだった。
「……このバッグ、ここに置いていくよ」
そう云ってぼくはバッグを階段のすみにそっと置いた。
「ちょっとでも、体力を消費しないようにね」
自分に云い聞かせるように、そうつぶやいた。
「あかねの名前の由来って、なんかあるの?」
ぼくが質問すると、あかねは嬉しそうな顔をした。
「よくぞ聞いてくれました。最初はね、漢字の茜――草冠に西――にしようと思ってたらしいんだけど、ひらがなの方が可愛いかなっていってひらがなにしたんだって。――で、あかねって名前は、夕焼けの色なの」
彼女の口調が、とても優しい感じになった。
「小さいときに――そうだな、まだ外に出てた頃だから四歳とか五歳とかくらいの頃だなぁ。お母さんに連れられてわたし、海が見える公園までお散歩に行ったの。
夕方だった。
そのときもすっごく、とってもきれいな夕焼けだった。そのとき聞いた話なんだけどね」
あかねはほっぺたをひとさし指でかいて、続けた。
「わたしがお母さんに、『どうしてお母さんとお父さんは結婚したの』って聞いたの。そしたら『お父さんがお母さんに結婚してくださいってプロポーズしたからよ』って答えた。
お母さんがプロポーズを受けたときも、そのときみたいに秋の夕焼けが広がっててとってもきれいで、ロマンチックだったんだって。
お母さんわたしに話しながら照れちゃったのか、『夕焼けがあんなにきれいじゃなかったら、プロポーズ受けてなかったかも』なんて云ってたんだ。――まあその話はホントかどうかわかんないんだけどね。
でも、夕焼けの色から“あかね”って名前を付けたってのは本当みたい」
幼い頃を思い出すようなどこか遠くを見る表情から、強い決意を秘めたような表情に変わる。
「六歳の頃からわたし、地上にはずっと出てない生活だったから死ぬ前に一度、わたしがこの世に存在するきっかけになった夕焼けが見たかったの。なにがなんでも」
あかねがぼくを、まっすぐに見つめた。
「つくしを巻き込んでしまって、ごめんね。つくしのお父さん、お母さん、きっとめちゃくちゃ心配してると思う」
「ぼくは――」
ぼくは、あかねの話を聞いているうちに、心から彼女を地上に連れて行ってあげたいって気持ちになっていた。
家族ともう会えないことや、これからみんな死んでしまうことなどよりも、あかねの願いを、彼女の“一生のお願い”を叶えてやりたいっていう気持ちの大きさが勝っている気がした。
こんな気持ちになるなんて自分でも意外だった。
「――いま、地下140階まで来たけど、あかね、足とかは大丈夫? 痛くないか」
「うん……少し疲れたけど平気。つくしは大丈夫?」
「ぼくは大丈夫。……いや、さすがに足腰がだるくはなってきたけど。ぼく、部活とかやってなかったからね」
「そっか。――ありがと、心配してくれて」
あかねはそう云って、なぜかおかしそうに笑った。
「? どうかした?」
「ううん、なんでもない。――ね、つくし、も一回電話かけてみたら?」
あかねが真顔にもどってそう提案した。
「うん。かけてみる。でも、自宅の方にかけるよ。多分誰もいないと思うけど」
ぼくはそう云って携帯電話を取り出した。
自分の連絡先や手帳やなにかにいつも書く自宅の電話番号。
リダイアルではなくきちんと市外局番から打ってみたくなって――感傷ってやつだ――10個の数字をひとつずつダイアルしていった。
コール音が数回鳴って、留守電に切り替わった。
「……もしもし。オレ。作史です。いま、滝軽市の地下140階ぐらいにいるんだ。ちょっと知り合いと地上まで行こうと思ってる」
あかねは近くにいた。照れくさいけど、我慢して話をつづける。
「なんか、地球の終わりとかが来たみたいで。たぶんみんな今日か明日には死んじゃうんだろうけど……。話すことは特別ないんだけど、一応連絡しときたくて。まぁ、この留守電を聞くかどうかもわかんないけど」
ぼくは、このままどうでもいいことを話していたら録音できる時間を過ぎるなと思い、咳払いをして、きちんと話しておくことにした。
「お父さん、お母さん。いろいろと、ありがとう。オレ、この世に生まれてきたことってすごいことだったんだなぁって、今日気がついたんだ。……産んでくれてありがとな。――姉ちゃん、姉ちゃんの弾くピアノ、オレ好きだったよ」
顔が赤くなってきた。くそぉ……まいったな。
「……明日には、みんなで天国にいるのかな。ま、どこでもいいから会えるといいなって思うよ」
……云いたいことは云えた。
「そんじゃ」
ぼくは、電話を切った。
それからしばらく、ぼくとあかねは黙ったまま階段をのぼりつづけた。
あかねは、泣いているようだった。
でも、さっきと同様、ぼくはなんてしゃべればいいかわからなかった。