第1話
森の中に湖があった。
エメラルドグリーンの水面が、僅かに差す光を反射して鈍く輝いていた。
その畔には、腰を下ろす二つの影がある。
一つは髪を顎のラインで切り揃えた、朱毛の少女。白い肌の上には地味な色をした作業着のような衣服を纏っていた。
そしてもう一つは。
サイズの合っていないブカブカの帽子を被り、それには鮮やかな刺繍の入っている以外特別変わった所もない、至って軽装の少年だった。
「そう言えば…あなたの名前をまだ聞いていなかったわ」
「……ロキシド」
「ロキシド…変わった名前ね、古代語かしら?」
「………」
「古代語の名前は、発音が難しいのよね」
自らをリーズと名乗った少女は、一頻り思案しながらやがてにっこりと微笑んで。
「ロキ、そう呼んでも?」
「好きにしろよ」
それは呆れたような返事だったが、リーズは満足気に頷いた。
「……で?聞きたい事があったんだろ?」
早くしろ、と言わんばかりの態度ではあったが、リーズは特に気にした様子もなく。ただ眼前に広がる湖を見つめながら。
「あの樹について、知りたいの」
ぽつり、呟いた。
「……ご神木の事か」
「ご神、木…」
「あれは神様が宿る樹だって…そう、聞いた事がある」
「神様…?」
「俺も詳しい事は知らない。だけど……」
ロキシドが僅かに言い淀む。
しかしリーズの真っ直ぐな視線とぶつかって、小さな溜め息を零した。そして。
「あの樹からは…隠してこそいるが、魔法の気配を感じるんだ」
「それって……」
「お前の言う"世界樹"…どんな代物かは知らないけど。あの樹、調べてみる価値はあるんじゃないか?」
「じゃあ…やっぱり…!」
言いかけて、リーズは胸ポケットから古ぼけた本のような物を取り出した。
それは所々剥げ落ちてこそいるが、古い割にはしっかりとした造りになっている。どうやらそれは、何かの文献のようだ。
「これを見て」
パラパラと捲られる頁からは、古書特有の古びた香りが漂い。それはロキシドの忘れかけた古い記憶を喚び起こす。
──あぁ、そうだ。
彼も、このような研究をしていたんだ。
堆く積まれた古書と、鼻につく薬品の香り。その中心に"彼"は……。
「──ロキ、聞いてる?」
突然響いた、甲高い少女の声。
それによってロキシドの懐古は呆気なく終わりを告げる。そして朧気な思考を馳せながら、リーズの持つ古書へと視線を向けた。
「……"死を、忘れよう"…?」
彼女が差し出した文献には、確かにそう書いてある。しかしその一節を口にした瞬間、目の前の少女は驚いたように目を見開いて。
「こ…これが、読めるの…!?」
「え?」
「だってこれ、古代語よ!?」
「古代語…?」
「私でも、まだ少ししか解読出来てないのに…」
「いや…俺も、読めると言うわけじゃない。ただなんとなく…頭に浮かんだというか」
「他に……他に、読める所は!?」
「え?そ、そうだな…」
ロキシドは文献をパラパラと捲りながら。
「抽象的過ぎて、意味は分からないけど……」
言ってパタン、とそれを閉じた。
「大体、読める」
「な…なな、な…なんでぇ!?」
「し、知らねぇよ!」
「ねぇロキ…」
「いっ、嫌だ!」
「…まだ何も言ってないわ!」
「お前の考えてる事は、想像できる!」
「あら、そう?それなら話しは早いわね」
「い…嫌だって言ってるだろ!」
「いいじゃない、本の一冊や二冊、翻訳するくらい!」
「絶対に嫌だ!」
頑なに拒否するロキシド。そのただならぬ様子に、リーズは怪訝そうに眉を顰める。
「お、俺は……っ、人間が…憎いんだッ」
やっとの事で絞り出したその声は、僅かに掠れ。
少女は益々、その端整な顔を歪めた。
「え…どう、いう……?」
「……俺は」
それはどこか諦めたような、落ち着いた声だった。彼はそう言いながら、ブカブカの帽子に手をかける。
その帽子は麻布のような、固い生地で編まれたもので。しかし防寒用なのか、耳の部分にはそこをすっぽりと覆うたれが付いていた。
異様に大きく、サイズの合っていないそれはロキシドの手によって、いとも簡単にずるりと脱げ落ちる。
「人間では、ないから…」
零れた言葉は、ひどく落ち着いていた。
脱げ落ちた帽子の中から現れたのは栗色の猫っ毛と、獣のような形状の……耳。
本来そこにあるべき人の耳とはかけ離れたものであった。
「魔物なの?」
「違う。でも俺は、人間でもない」
「………そう」
「俺が、怖いか?」
「興味が湧いたわ!」
「は?」
予想だにしなかった彼女の答え。ロキシドは、ただただ呆気に取られる。
「だって私、学者よ。探究心は人一倍だもの!」
「学者って…考古学、のだろ」
呆れながらそう言ったロキシドだが、彼の表情は微笑んでいるようだった。
その笑顔は子どもらしくない、とても穏やかなものだった。
「ところでロキ、あなた魔法が使えるの?」
「まぁ…少し」
「もう一度見せてくれない?」
「…さっき見ただろ」
「あれは見せるって言うより、攻撃じゃない!」
そう言いながら膨れて見せるリーズを、ロキシドが笑いながら宥める。
「わかったよ」
言って立ち上がると、ロキシドは静かに瞼を閉じた。そして先程して見せたように、指で空を切ると紋様を描いた。
やはり緻密なものではあるが、先程リーズが見たものとはその形式が異なっているようだ。
「綺麗……、魔法陣ね」
精巧な紋様──魔法陣は、青く発光しながら、ロキシドの言葉を待つ。
「ラソリス」
その言葉で、陣は一度弾けたように光を強めたかと思うと、辺りは一瞬にして深い闇に包まれた。
「な、何?」
突然の事に驚くリーズだが、彼はそれに答えずに次の魔法陣を描く。暗闇に浮かぶ青白い光の軌跡。ぼんやりと光るそれに「フレイム」という声が続く。すると。
暗闇に現れたのは、小さな、本当に小さな炎。それらは一筋の線を描いては色とりどりの円を模るように、弾けては消える。
一つ、二つ。赤、青、と。弾けるそれはミニチュアの花火のようだった。
「……きれい……」
小さく儚いそれは、やがてゆっくりと消えていく。そして再びロキシドの声が闇に響いた。
「レイ!」
その声に反応し、辺りは本来の明るさを取り戻した。
「まぁ…こんなもんか」
暫く呆けていたリーズだが、すぐに興奮気味に声を荒げた。
「す…凄い、凄いわ!こんなの、初めて見た!」
「そ、そうか?」
あまり褒められる事に慣れていないのか、ロキシドがぎこちなく笑う。
「本当に凄いわ!私、魔法ってもっと冷たいものだと思ってた!でもあなたは違う。温かい魔法を使うのね!」
「冷たい……?」
「うん。私……王国の魔法研究会に参加していたことがあるの」
魔法に興味があったから、と少女が付け加えた。
「それ……『王立研究所』の………?」
そう言ったロキシドにリーズは驚き、目を見開いた。
「何で、知ってるの?王立研究所の存在は、国家機密よ!?」
「あ、あぁ。俺も、そこにいたことがあるから……」
当たり障りのないような彼の言葉に、リーズは少々腑に落ちない様子だがそのまま話を続ける。
「そう。だからあなた、魔法が使えるのね。…いいわ、あなたには後でゆっくり話を聞かせてもらうから、そのつもりでね?」
いいわね?と念押すリーズにロキシドも渋々ではあるが頷いた。それを確認すると、彼女は再び口を開く。
「私、とにかく魔法に興味があって。ちょっとした知り合いに頼んで、王国の研究会に参加させてもらったの」
ゆっくりと言葉を選ぶようにリーズが続ける。
「その時に見た魔法は……どれも、殺戮の道具でしかなかった」
「…殺戮、か」
「そうよ!いかに威力を上げるか、いかにしてその有効範囲を拡げるか…!全部、戦争で人を殺す為の研究だった!」
「確かにな。でも魔法ってのはそんな簡単なものじゃない。言葉の意味を知らなければ、魔法は本来の力を引き出す事ができないんだ」
「そんなの研究所の人間にとってはどうでもいいことなの。今は隣国たちとの戦争に勝つ事しか考えてないのよ。魔法の意味なんて、考えるつもりもないんだわ!」
怒りを露にするリーズ。
「だけど…今あいつらが研究し、戦争で使われている魔法、あれは…本来の魔法の姿じゃない」
「……?」
「使う側にとって都合のいい部分だけを掻い摘んだ、紛い物さ。魔法ってのは人間が軽々しく扱えるような代物じゃないんだ」
「よく、分からないわ」
「簡単な事さ。例えば、そうだな…ここに水の入ったポットと、空のカップがあるとしよう。そのカップに水を入れすぎたら、どうなる?」
「水が……溢れる」
「そう。それと同じことだよ。人間が魔法を使うにしても、その器の大きさなんて高が知れてる。自分の力量を遥かに超えた魔法を使えば、その力は暴走してしまう」
「そのカップの水みたいに?」
「このカップの水みたいに、さ。だから俺達がいるんだ………」
最後の言葉を吐き捨てるように言ったロキシド。その様子にリーズは眉を顰めた。
「どういう、こと?」
リーズの問いに、ロキシドは自らを嘲るように笑う。
「俺は、人間だった。でも今は違う。生きる為には……これしか方法がなかった」
それは、つまり。人間ではなくなる、ということ。
「それって……」
「俺の事を話す前に。俺はリーズ、お前に聞いておきたいことがある」
「な、何?」
「お前さっき言っただろ?王立研究所の存在は国家機密だって」
「えぇ、言ったわね」
「それならなぜ、研究会に参加できた?あそこは、ちょっとした知り合いがいる程度で入れる場所じゃない」
ごくり。喉が鳴る。
「お前………何者だ」




