第32話 最適化された日常
朝日が鬱蒼とした樹々を透かし、湿った腐葉土の上にまだらに光の斑点を落としている。
異世界という見知らぬ地に足を踏み入れ、手探りで生存を模索し始めてから、早くも一ヶ月の月日が流れていた。
俺は一人、オルト村から程近い森の小道で、低く身を構えていた。
前方十メートルほどの茂みから、ガサリと音を立てて姿を現したのは、灰色の毛皮を持つ三匹のフォレスト・ウルフだ。
飢えた琥珀色の瞳が俺を捉え、低く不快な威嚇の唸り声を漏らす。
現在の俺のメインジョブは『戦士』。
耐久力と筋力に大きな補正がかかるこの職業を選択している状態では、獣たちの爪や牙に対する肉体的な耐久性と安心感が格段に違う。
「グルルッ!」
先頭のウルフが地を蹴り、鋭い爪を剥き出しにして俺の喉元へと飛びかかってくる。俺は焦ることなく左腕の木の丸盾を微かに傾け、最小限の動きでその突進を受け止めた。
ガツンと重い衝撃が腕に伝わるが、戦士の補正を得た今の俺の足腰が揺らぐことはない。
勢いを殺されたウルフが体勢を崩した瞬間、俺は右手の『疾風の剣』を静かに横一文字へと振り抜いた。
【斬撃付与】の風の刃が肉を断ち切る滑らかな手応えを残し、獣の首を正確に刈り取る。
絶命した一匹が血を撒き散らして倒れ込むと同時に、残る二匹が左右から同時に襲いかかってきた。
俺は冷静に反転し、二匹目の顎を丸盾で強打して叩き落とすと、間髪入れずに踏み込んで心臓を一突きにする。
最後の一匹が恐怖に慄いて後退しようとしたが、その背中へと剣を突き立て、あっさりと命を断ち切った。
鮮血が土を染め、静寂が森へと戻る。
* * *
試練の洞窟をクリアして以降――
俺はこうした戦闘を日常のルーティンとして完全に落とし込んでいた。
近場の安全なエリアでノーマルタイプの魔物を狩る際は(レベル上げも兼ねて)、被弾リスクを最小限に抑え、耐久値を高める『戦士』を選択する。
一方で、村から離れた危険地帯への遠征や、体高二メートルを超えるグレイト・フォレストウルフのような強敵と対峙する際は、あらかじめ速度と技量に秀でた『剣士』へとクラスチェンジを行っておく。
状況と目的に応じてUIを操作し、目的地に適したジョブへと切り替える作業。
かつては死ぬ思いで挑んでいた魔物との戦闘も、今やミスなく利益を回収するための「最適化された作業」へと変貌を遂げていた。
俺は息一つ乱さず、三匹の死体をアイテムボックスの虚空へと収納し、村への帰路についた。
* *
マリアの家に戻り、静かな自室で椅子に深く腰を下ろした俺は、意識を集中して半透明のステータス画面を呼び出した。
空中に浮かび上がる青白い光のUIを視線でなぞり、この一ヶ月間の成果を正確に数値として把握する。
『職業:剣士 Lv.7(戦士 Lv.5)』。
『微睡みの洞窟』を踏破した後も、計画的なレベリングを反復した結果、どちらのクラスも着実に成長を遂げていた。
特に、スキル『剣術』レベル8への到達は、身体の操作感と刃の走りの鋭さに明らかな変化をもたらしている。
続いて、アイテムボックスから『薄汚れた硬貨の袋』を取り出し、テーブルの上で中身を軽く確認する。
ジャラリと金属特有の重厚な音が静かな室内に響く。
現在の俺の蓄えは、金貨7枚、銀貨55枚、銅貨88枚。
これに加え、あの『微睡の洞窟』の宝箱から得た『古代王国の金貨5枚』と『魔導石』がアイテムボックスの肥やしとして眠っている。
この村で暮らす一般的な農民から見れば、間違いなく巨万の富と言える額だ。
オルト村の英雄という称号を得て、資金的にも圧倒的な余裕が生まれた。
だが、俺の思考はそこで満足することなく、次に訪れるべき冷酷な限界を見据えていた。
「……この村での成長は、ここが頭打ちか」
村の唯一の商店であるバドの店を思い出してみる。
あそこで扱われているのは、村周辺の低級魔物を相手にするための皮の胸当てや鉄の長剣、せいぜい下級の傷薬程度だ。
どれほど資金を積み上げようとも、この小さな村の流通規模では、俺の成長を加速させるような上位の防具や魔法品を手に入れることは不可能だった。
さらに、村周辺に出現する魔物の経験値効率も急激に低下しつつある。
俺がこの異世界で生き残り、さらなる探求心と強さを満たすためには、より高難易度のダンジョンが存在し、高レベルの物資が行き交う「大きな町」へと進出することが不可欠だった。
* * *
俺は革のマントを羽織り直し、日用品の補充と装備のメンテナンスを兼ねてバドの商店へと向かった。
木造の店舗のドアをくぐると、カウベルの乾いた音が店内に響き渡る。
店内には油染みのついた衣服を着たバドの姿のほかに、見慣れた人物が一人いた。
泥除けのついた厚手の革マントに履き潰された乗馬ブーツ、腰には錆びた短剣を差した若い男。
バドの甥であり、周辺の地域を股にかける行商人のルークだった。
「おう、トオルさん! ちょうどいいところに来たな」
禿げ上がった頭頂部をさすりながら、バドが油の浮いた顔で俺を出迎える。
「ルーク、明日にはもう発つのか?」
俺が尋ねると、利発そうな茶髪をかき揚げながら、ルークは人当たりの良い笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、トオルさん。オルト村での買い付けもひと通り終わりましたからね。明日の早朝、馬車で大きな町へ向けて出発する予定なんです」
その町は、この地方の経済と冒険者活動の中心地であり、広大な大商店街や高等な施設が集まる拠点だ。
俺の頭の中で、すべての条件が完璧に噛み合った。
「ルーク、その馬車に俺を同乗させてくれないか? もちろん、渡航費は正当な額を払う。道中の護衛も俺が引き受けよう」
俺の提案を聞いた瞬間、ルークの目が丸くなり、すぐに破顔した。
「本当ですか!? 『オルト村の英雄』が護衛として乗ってくれるなら、渡航費どころかこちらからお礼を支払いたいくらいですよ! 馬車の荷台で良ければ、喜んで歓迎します!」
交渉は、拍子抜けするほどあっさりとまとまった。
ルークにとっても、最近街道筋で出没することの増えた盗賊の恐怖から解放されるのだから、願ってもない申し出だったのだろう。
* * *
必要な備品の補充と装備品の手入れの依頼を済ませ、俺はバドの店を辞した。
外へ出ると、西の空が茜色に染まり始め、村の木造家屋の影が長く伸びていた。
夕暮れの冷たい風が頬を撫で、どこか寂げな鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
「明日の朝、出発か……」
このオルト村に来てからの出来事が、脳裏を巡る。
異世界への転移から始まり、バドとの交渉、洞窟での血みどろの死闘、そして戦闘能力の向上。
あらゆるリスクを計算し、合理的に歩みを進めてきた結果、俺はこの村での準備を完璧に整えることができた。
残されたタスクは、あと一つだけだ。
俺の足は自然と、マリアとナンシーの待つ家へと向かっていた。
この一ヶ月間、俺はマリアの身体を抱き寄せ、その艶やかな肌を貪りながらも、決定的な一線だけは決して越えずに焦らし続けてきた。
俺の存在が彼女の精神を侵食し、焦燥と快楽の狭間で俺を欲する熱量は、今や沸点へと達しているはずだ。
現在の彼女のステータス画面に並ぶ数値——【好感度:95】【隷属度:90】。
それは、熟しきった果実が木から落ちる直前の状態を意味していた。
村を発つ最後の夜。
限界まで高めきった彼女の感情を満たし、心も体も俺の所有物として永遠に縛り付ける「攻略」の総仕上げ。
俺は胸の奥で、獣のような冷たい高揚感と確かな欲望を揺らめかせながら、静かにマリアの家のドアへと手を伸ばした。




