第24話 巨大な粘性体
オルト村を背にして北西へと歩みを進めてから、すでに半日近い時間が経過していた。
頭上を覆う樹冠は次第に密度を増し、昼間だというのに森の底には薄暗い陰が落ちている。一歩足を踏み出すごとに、周囲の空気が重く、息苦しいものへと変質していくのが肌で感じられた。
村の境界を覆っていた、あの清浄で温かな女神の加護はもはや完全に途切れている。
代わりに鼻腔を突くのは、腐葉土のむせ返るような匂いと、生物の死骸が発酵したような微かな瘴気の臭いだった。
肌の表面をピリピリと刺すような不快な感覚が、この領域が人間の生存に適していない場所であることを警告してくる。
俺は『疾風の剣』の柄に右手を添えたまま、足元の枯れ枝を踏んで音を立てないよう、極めて慎重に歩を進めた。
視界の端から端までを常に観察し、聴覚と嗅覚を限界まで研ぎ澄ませる。
時折吹く冷たい風、葉の擦れる音、そして未知の魔物が発するかもしれない僅かな殺気すらも見逃さないためだ。
この森の奥には、俺の目的である『微睡みの洞窟』が存在するはずである。
地図なき未開の森の探索は、常に死と隣り合わせのリスクを伴うが、俺の足取りに迷いはなかった。
合理的に状況を分析し、事前の準備と自身のステータスを信じているからこそ、恐怖に呑まれることなく冷静な探求心を保つことができている。
さらに数百メートルほど鬱蒼とした獣道を進んだ時、前方の空気が異様に歪んでいることに気がついた。
いや、空気が歪んでいるのではない。行く手を塞ぐように、半透明の巨大な塊が鎮座していたのだ。
* * *
全長はおよそ二メートル。苔むした岩と見紛うような、深く濁った緑色の粘性体。
【鑑定】スキルを意識するまでもない。
事前情報にあった『グレイト・グリーンスライム』だ。
ゼリー状の巨体をゆっくりと脈動させながら、ズズッ……ズズッ……と不気味な水音を立てて蠢いている。
俺は即座に歩みを止め、周囲の地形と敵の脅威度を脳内で天秤にかけた。
スライム系の魔物は、倒してもバドの店で換金できるような有用な素材を一切落とさない。
武器の刃こぼれや防具の劣化といった消耗のリスクを考慮すれば、相手にするだけ完全に徒労であり、赤字だ。
極めて合理的な判断を下すなら、ここは無視して迂回するのが最善の選択である。
しかし、俺は忌々しげに舌打ちをした。
左右は太い古木と這い回る茨の群生に完全に塞がれており、巨体のスライムをやり過ごせるだけのスペースが存在しなかった。
(あいつに見つからないように大回りした先に、同じような敵がいたら完全に徒労だ。それに、迂回路を探せばどれだけの時間をロスするかわからない)
こんな森の中をあてずっぽうで進んだら迷子になる。
そうなれば確実に死ぬ。
「倒して進むしか、道はないか」
俺は低く呟き、鯉口を切って『疾風の剣』を静かに抜き放った。
* * *
こちらを認識したのか、巨大な緑色の塊が、明確な敵意を持ってその表面を波立たせ始める。
ブシュッ!
という破裂音と共に、スライムの一部が弾け、粘液の塊が俺の顔面をめがけて射出された。
ただの水鉄砲ではない。
鼻を突く酸烈な匂いが、それが強力な溶解液であることを示している。
俺は一切の焦りを見せることなく、左足で地面を強く蹴り上げた。
『風のマント』と剣の装備補正がもたらす恩恵が、俺の身体を羽のように軽くする。
溶解液は俺の残像を掠めるように後方へと飛び去り、地面の雑草をジュウジュウと嫌な音を立てて溶かしていった。
緩慢な動きに見えて、あの酸の射出速度と致死性は決して侮れない。
だが、攻撃の軌道さえ見切ってしまえば、どうということはない。
俺は着地の反動を利用し、スライムの正面から一気に側面へと回り込んだ。
巨体ゆえに旋回速度が遅い敵の死角に潜り込み、『疾風の剣』を真横に薙ぎ払う。
【斬撃付与】の乗った鋭い刃が、緑色の粘性体を深く切り裂いた。
風属性の魔法の乗った攻撃は、軽々と敵の巨体を抉ってくれる。
しかし、斬れたそばから粘液が融合し、傷口を塞ごうとしている。
物理的な斬撃への耐性。
一撃では倒しきれないことを、俺は冷静に理解した。
ならば、巨大スライムの耐久力がなくなるまで斬り刻むまでだ。
俺は足を止めることなく、流れるようなステップで敵の周囲を旋回し始めた。
二撃目は袈裟懸けに、三撃目は逆胴を。
ズバッ! ズバッ!
と、スライムの体液が飛沫となって周囲に散る。
溶解液による反撃の予備動作を完全に封殺し、俺はさらに踏み込んだ。
四撃目で敵の体勢を大きく崩し、中核らしき濃い緑色の塊が露出した瞬間を逃さない。
「これで、終わりだ」
五撃目。
渾身の力を込めた突きが、ゼリー状の肉の壁を貫通し、その奥にある核を正確に粉砕した。
ピキッ、という硬質な音が響いた直後、巨大なスライムの動きが完全に停止した。
* * *
形を維持する力を失ったグレイト・グリーンスライムは、ドロドロの液体となって地面に崩れ落ちた。
腐臭のする緑色の水溜まりが広がり、周囲の土に急速に吸い込まれていく。
やはり、換金できそうな魔石や素材は一切残らなかった。
俺は剣身についた粘液を布で丁寧に拭き取り、鞘へと納める。
消耗した体力はごく僅かだが、無報酬の戦闘を強いられた事実に微かな理不尽さを感じつつ、先へと進んだ。
スライムの死骸を越えてしばらく歩くと、ふいに周囲の空気が劇的に変化するのを感じた。
先ほどまで肌を刺していた不快な瘴気が薄れ、代わりに周囲を圧迫するオーラが流れ込んでくる。
それはオルト村を覆っていた女神の加護にも似ているが、慈悲深さはかけらもない。――畏れ多く、より厳格な『神威』とでも呼ぶべき異質な気配だった。
俺は足を止め、視線を前方へと向けた。
苔むした巨大な岩壁がそそり立ち、その中央にぽっかりと漆黒の口が開いている。
入り口の周囲には、自然物とは思えない精緻な紋様が刻まれた石柱が二本、静かに立ち並んでいた。
ここが、『試練の女神』が作り出したというダンジョン。
予想していたような地道な探索を要することなく、目的の『微睡みの洞窟』はあっさりとその姿を現した。
周囲の淀んだ森の空気とは一線を画す、その神聖で静謐な空隙。
だが、その暗闇の奥底から漂ってくるのは、間違いなく血と死の匂いを発する魔物たちの気配だった。
いよいよ、未知の領域への挑戦が始まる。
俺は胸の奥で静かに燃え上がる探求心と、冷徹な理性を同時に噛み締めながら、大きく息を吸い込んだ。




