いちいち細かい!と言ったら、楔形文字の国の監督書記に目をつけられました
気がついた時、私は粘土板を前にしていた。
いや、違う。
正確には、粘土板によく似た「粘葉紙」だ。紙より厚く、粘土板より薄い板状のもので、書く前は少し柔らかい。紙粘土の親戚だと思えばわかりやすい。
そこへ、三角形と線でできた楔形文字に似たものが、びっしり刻まれていた。
その板状の粘葉紙が積み上がった部屋の中で、私は両手を細かな屑まみれにしたまま固まっていた。
目の前には低い机。
その上には、乾く前の平たい粘葉紙。傍らには先の尖った葦のペンのようなもの。壁際の棚には、細かな刻み目の入った粘葉紙が何十枚も並んでいる。
そして、私の正面には、信じられないほど整った顔をした青年が立っていた。
黒髪をきっちり後ろへ撫でつけ、濃紺の長衣を一分の乱れもなくまとい、私を見下ろしている。
その目には、驚きも困惑もあったが、何よりも強かったのは――深い疲労だった。
「……イシュラ」
低く、よく通る声だった。
「はい?」
反射で返事をしてから、私は自分の喉が自分のものではないような違和感に気づいた。
頭も変だ。知らないはずの言葉がわかる。知らない部屋なのに、どこが何の棚かなんとなく理解できる。
これはもしや、あれだろうか。
転生。
いやでも、もっとこう、あるでしょう。貴族の娘とか。悪役令嬢とか。せめて文字がもっと扱いやすい世界とか。
なんでよりによって、古代メソポタミアみたいな文明に。
私が青ざめていると、青年は机上の粘葉紙を二本の指でつまみ上げた。汚れ物に触れるみたいな持ち方だった。失礼である。
「これは何ですか」
「……高そうな粘葉紙?」
「何を問われているか、理解していますか」
いえわかりません、と言いかけた瞬間、私の脳裏に知らない記憶が流れ込んできた。
私はイシュラ。神殿付属文書房の下働き兼、書記見習い。
決して富裕とは言えないながらも、そこそこの家に生まれたおかげで少しばかり字が書ける。それだけで、ここへ上がれた少女。雑用をこなしながら、書記たちに混じって記録を手伝っている――らしい。
そして今朝、私は重要な奉納品目録の写しを一枚、台無しにした――らしい。
……嫌な予感しかしない。
青年は無言で粘葉紙を私の目の前に突きつけた。
そこに刻まれていたのは、まるで小鳥の足跡を規則正しく並べたような文字だった。
やっぱり楔形文字に似ている。いや、ほぼ楔形文字だ。
ただし、教科書で見た楔形文字より、ずっと細かい。わずかな角度、食い込みの深さ、横線の数で別の意味になる――と、頭の中で勝手に理解が進む。転生とは便利なものだ。
そして青年は、ある一箇所を指した。
「本来ここは『大麦二十束』です」
「はい」
「あなたは『麦酒二十樽』と書きました」
「……似てません?」
「似ているかどうかの話ではありません」
即答だった。
声に温度がない。
「本日の日没前に神殿へ大麦を納めるはずが、麦酒二十樽持ってこいという命令書が町へ回ればどうなると思いますか」
「……麦酒が集まる?」
「大麦が来ません」
「それは困りますね。けれど麦酒でも神殿にはご満足いただけるかも」
「大変困りますし、満足するのは人間であって神ではありません」
どうしようもない、という顔で青年は息を吐いた。
「しかもこちら」
次に示された箇所では、私は『清めの油一壺』を『甘めの油一壺』にしていた。
「それも似てません?」
「似ています」
「ほら」
「似ていますが、神に捧げる油を勝手に甘くしないでください」
「そこまで言われると、ちょっと申し訳なくなってきました」
「今さらです」
私は思った。
いちいち細かい!
だが、その心の叫びは口に出せなかった。なぜなら、周囲にいる書記たちがみな、一様に不憫なものを見るような顔でこちらを見ていたからである。
どうやらこの世界では、字の書き間違いは「うっかり」では済まないらしい。
青年は自ら名を名乗った。
「私はエトゥル。神殿第二文書房の監督書記です」
「監督」
「あなたのような見習いが大惨事を起こさないよう監督する役目です」
「わあ、嫌な役」
「私もそう思っています」
その言い方があまりにも迷いなくて、私は少し笑った。
すると彼は初めてわずかに眉を動かした。笑う場面ではなかったらしい。
その日から、私の地獄が始まった。
*
始まったのだが、どうも私の地獄は、文書房の皆にとっても地獄だったらしい。
私は新人の中でも群を抜いて初歩的な誤記が多かった。一本多い、一本少ない、角度が違う、語尾が違う、助詞が違う。ひどい時には、行をまたいで別の語につなげてしまう。
最初のうちは年嵩の書記たちも「そのうち慣れる」と言っていた。三日目までは。
五日目になると、私の板を見た誰もが無言になるようになった。
七日目の朝、エトゥルはついに私の机を指さした。
「イシュラ、その席ではだめです」
「え」
「遠すぎます」
「何からです?」
「私からです」
あまりにも当然のように言われて、私は目を瞬いた。
「監視ですか?」
「監視です」
「わあ、包み隠さない」
「隠す理由がありません」
そう言ってエトゥルは、私の机ごと自分のすぐ横へ移動させた。
文書房がしんと静まり返った。
新人の席替えそのものは珍しくないのだろう。けれど、監督書記の真横となると話は別らしい。
誰かが小さく「そこまでやるか」と呟き、別の誰かが「いや、あれは必要だ」と低く返した。必要とは失礼である。そうかもだけど。
「そんなにひどいですか、私」
「はい」
「即答」
「あなたは“だいたい”で押し切ろうとする癖があります」
「人生、だいたいでどうにかなりません?」
「この文書房ではなりません」
こうして私は、エトゥルのすぐ隣で働くことになった。
結果として誤記は減った。なぜなら、私がやらかすたびに、すぐ横から手が伸びてきて止められるからである。
「そこは三本目です」
「二本目でよくないです?」
「よくありません」
「その角度では別語です」
「似たようなものでは?」
「似ていても違います」
「その助詞ですと場所ではなく方向です」
「助詞ひとつでそんなに変わるんですか、この世界」
エトゥルは今日も冷たかった。
私のすぐ横に座り、乾きかけた粘葉紙の端を指で押さえながら、淡々と指摘してくる。
「角度が浅いです」
「食い込みが深いです」
「間隔が詰まりすぎです」
「その語尾ですと、命令ではなく願望になります」
「ここでその助詞は場所ではなく方向です」
神はどうして人類にこんな面倒な文字体系を与えたのだろう。もっとこう、ひらがなみたいに丸くてやさしいものにしてくれればよかったのに。
「……っああ、もう!」
私は葦のペンを机に放り出した。
「一本くらい多くても少なくても、読めばわかるでしょう!」
「わかりません」
「文脈で!」
エトゥルは、机の上で斜めになっていた葦のペンを、粘葉紙の横へそっと置き直した。
「文脈を信用して誤読が起きた事例を、私は七十八件知っています」
「そんなに?」
「神殿の文書庫を見れば百を超えます」
「うわ」
彼は真顔のまま続けた。
「税率の誤記で市が荒れたこともあります。供物の指定違いで儀式がやり直しになったこともあります。婚姻契約の一語の違いで、持参財の権利が争われたことも」
「最後のは怖い……」
「文字は人の暮らしを左右します。細かいのではなく、必要なのです」
私は両手で顔を覆い、低く呻いた。
それから、指の隙間越しに彼を見る。
相変わらず整いすぎた顔で、面白みがないくらい整然としている。
前髪の乱れひとつなく、衣の襞まで几帳面だ。きっと部屋も四角く片づいているに違いない。夢にまで定規が出てきそうな男である。
だけど、言っていることは正しい。
腹立たしいことに。
「……ありがたいのです」
「はい」
「ありがたいのですが」
「はい?」
「ありがたさと胃痛は両立するのだと、最近知りました」
「それは気の毒に」
「他人事みたいに言わないでください」
エトゥルは、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑った、のだと思う。
たぶん。
すぐに消えたので自信はない。
しかも最近は、私の机に置かれる葦ペンの先が、毎回ちょうど書きやすい角度に削られていた。誰の仕業かは聞かなかった。聞いたところで、どうせ「備品管理です」としか返ってこない。
そのくせ、私がうまく削り損ねたペン先を使おうとすると、無言で取り上げて新しいものに換えるのだ。親切なのか管理なのか、いまだに判別がつかない。
*
とはいえ、私にも意地がある。
毎日毎日、麦と麦酒を取り違え、今度は油を婚礼用にし、倉庫番号を祈祷文へ紛れ込ませ、訂正され続ければ、さすがに少しは上達する。
最初のうちは文書房の皆から「麦の娘」と陰で呼ばれていた私も、ひと月もするとあからさまな誤記は減った。ふた月もすれば、新入りとしてはそこそこ見られる程度になった。
すると不思議なことが起きた。
文字一つひとつを気にしすぎなくなった時、逆に私は、文全体の妙なねじれに気づくようになったのだ。
ある日のことだった。
神殿の倉から出てきた古い納入記録を、私は山のように積まれた粘葉紙の中から整理していた。乾いた紙粘土めいた匂い。日向に干した葦。そういう匂いが混じる中で、目の前の一枚だけが妙に気持ち悪かった。
「……変」
「何がです」
隣で新しい記録を読んでいたエトゥルが、顔も上げずに返す。
私は粘葉紙を持ち上げた。
「文字自体は合ってるんです」
「はい」
「でも、なんか変。気持ち悪い」
「曖昧です」
「曖昧ですけど、変なんです」
エトゥルはようやく顔を上げ、その板を受け取った。目を走らせる。端から順に、正確に、抜けなく。
「誤字はありません」
「そこじゃなくて」
「書式にも問題はない」
「だから、そこでもなくて」
私は拳を口元に寄せた。うまく説明できない。
文字の一本一本は正しい。単語も間違っていない。けれど、全体の流れがどこかおかしいのだ。
「たとえば、ここ」
私は板の中央を指した。
「前半は、倉の記録らしく、必要なことだけを順に置いてるでしょう」
「はい」
「なのに、このあたりから急に、妙にかしこまりすぎてる」
「整然としているのは悪いことではありません」
「文の揃え方が違うんです。前は記録の型。ここから先は、人に見せる文章みたいな」
エトゥルの視線が、私の指先を追う。
「……続けてください」
「あと、つなぎ方。こういう書き手って、だいたい同じ癖で語を置くのに、途中から息継ぎが変わってるんです。切れ目も、並べ方も、妙にきれいすぎる」
「筆跡は同じです」
「でも、文の間合いが違う」
言った瞬間、エトゥルの目が止まった。
「……もう一度」
「だから、間合い。呼吸です。文の切れ方とか、ものの並べ方とか。ここまでは倉の記録なのに、途中から妙に“見せる文章”になってる。しかも、この後」
私は末尾近くの記載を示した。
「数量の書き方だけ、急に揃いすぎてる」
「……数量」
エトゥルの声が変わった。
先ほどまでの流し聞きではない。板を持つ指先が、わずかに強くなる。
「何かわかりました?」
「……少し待ってください」
「はい」
彼は別の棚へ手を伸ばし、同日の受領記録を引き抜いた。並べる。見比べる。次にもう一枚、保管庫の控えを取り出す。
私は固唾をのんで見守った。
「……ここです」
彼の声が低くなる。
「この板には『青銅の杯六』とあります」
「はい」
「ですが、同じ日の神殿受領記録では『四』だ」
「……二つ、少なくなってる」
「ええ。しかもこちらでは、祭祀使用後の保管数も『四』で合っている」
彼はもう一枚を私の前へ滑らせた。
「つまり、後の帳尻は合っている。ずれているのは、納入の時点だけです」
「じゃあ、最初の記録だけが変……?」
「変えられている可能性が高い」
私は板を取り上げ、改めて見た。
確かに、字はきれいだ。整っている。間違いはない。だからこそ見落としそうになる。
けれど今は、私にもわかる。
整然とし過ぎている。
元からそう書かれたのではなく、誰かがあとから、違和感が出ないように文を均している。
「これ、数だけ直したんじゃないですね」
「おそらく」
「前後の流れも一緒に整えてる」
「ええ。数量だけ浮かないように、文全体を整えている」
「うわ、嫌な器用さ」
「その通りです」
彼は板を手に取り、立ち上がった。
「イシュラ、ついて来なさい」
「え、どこへ」
「監査書庫です」
「監査なんて物騒な名前の場所、嫌なんですけど」
「私も好きではありません」
そう言いながら、足取りに迷いはなかった。
*
それから、えらいことになった。
古い納入記録、神殿側の受領記録、保管庫の出納記録、祭祀で実際に使われた器具一覧。四つを照らし合わせるうちに、少しずつ見えてきたのは、記録の改竄だった。
しかも雑な改竄ではない。
文字そのものは完璧。一本の乱れもない。文法も整っている。だからこそ、普通の書記なら見落とす。だが、整いすぎているせいで、文全体の“癖”だけが消えていた。
実際は、一人があとから手を入れ、文の流れを整えながら数をすり替えていたのだ。
目的は神殿への納入品の横流し。
しかも犯人は、第三文書房の中堅書記だった。外聞が悪いどころではない。神殿への不敬であり、文書房全体の信用を損なう行為である。
「お前、よく気づいたな……」
年嵩の書記が呆然として言った。
私は肩をすくめた。
「いや、なんか気持ち悪かったので」
「気持ち悪いで改竄が見つかるか」
「見つかりましたね」
「見つかったな……」
その横で、エトゥルが私を見ていた。
いつもの無表情ではない。少しだけ、驚いているような、測りきれないものを見る目だった。
「一本の誤りには鈍いくせに、文全体の歪みには敏い」
「悪口です?」
「評価です」
「ならもう少し、褒めていると伝わる言い方をしてください」
「努力しましょう」
努力でどうにかなるものなのだろうか、その物言いは。
でも、その一言が妙に嬉しかった。
その日の帰り際、年嵩の書記がにやにやしながらエトゥルへ言った。
「監督書記殿、最近は麦の娘に甘いですねえ」
「誤解です」
「ほう」
「目の届く範囲に置いたほうが被害が少ないだけです」
「それを甘いと言うんですよ」
「違います」
眉ひとつ動かさず言い切るあたりが、この男は少しずれている。
けれど、その場にいた全員が、なぜか私ではなくエトゥルのほうを見ていた。
*
改竄事件の後、私は文書房での立場が少し変わった。
前よりずいぶんできるようになったはずなのに、いまだに初歩の字形で叱られるし、角度が甘いとか食い込みが雑だとか言われる。
だが、古文書や不審記録が出ると、「イシュラに見せろ」と誰かが言うようになった。
エトゥルの、私を見る目も変わったように思う。今まで通りに厳しく指導はするけれど、ちゃんとできているところは評価するようになった。がんばってミスを減らした日には、休憩中に小さな菓子をよこしてくることまである。
菓子を頬張る私を、目を細めて見ていることに、本人は気づいていないようだった。私も、自分の心拍数には気づかないことにした。
それに、私の束ねた記録が少しでも斜めに積まれていると、彼は話しながら無意識に揃えてしまう。最初は気のせいかと思った。だが、三回続けば偶然ではない。
私は一度、面白がって一番上の一枚だけわざと斜めに置いてみた。
当然のように、無言で戻された。
もう一枚ずらした。
また戻された。
三枚目で、さすがにエトゥルが気づいたらしい。視線だけで私を見た。
「何をしているのですか」
「別に?」
「別に、で済む角度ではありません」
「角度で怒らないでください」
「怒ってはいません。整えているだけです」
「それ、私に対していつも言ってる気がします」
「気のせいではないでしょうね」
私が吹き出すと、近くで記録をまとめていた書記たちが、くすくすと笑いをこぼした。
「監督書記殿、最近やわらかくなりましたねえ」
「どこがです」
「顔が」
「気のせいです」
「いえ、今ちょうど」
「見間違いでしょう」
そう返しながら、エトゥルの口元はほんの少しだけゆるんでいた。
それを見て、文書房の空気がふっと和んだ。
誰もそれ以上は言わなかった。ただ、面白がるというより、温かく見守るような気配だけが残った。
こういうどうでもいいことでさえ噛み合うのが、少し悔しい。
面白いもので、世の中は得意と不得意でできている。
私はきっちり一文字を書き分けるのは苦手だ。だが、文章全体の調子がおかしいとか、書いてあることは正しいのに何か変だとか、そういう違和感はなぜかすぐわかる。
たぶん前世でも、そうだったのだろう。
細部を詰めるより先に、全体の空気のズレに気づくタイプ。
だからこそ、エトゥルのような男とは噛み合わないと思っていた。
だが実際には、案外そうでもない。
彼が間違いを止め、私が歪みを嗅ぎつける。
腹は立つが、仕事はしやすかった。
悔しいくらいに。
そして、もっと悔しいことに、仕事のしやすさだけでは片づけられない何かが、少しずつそこへ混じりはじめている気もした。
もちろん、これも気のせいということにしておいたけれど。
*
そして、季節が一つ巡るころ。
ちょうど昼休みの前で、文書房の中はいつもより静かだった。祭礼の準備で書庫へ向かった者も多く、残っていた書記たちもひとり、またひとりと席を立っていく。
気づけば、机のあいだに聞こえるのは、粘葉紙の触れ合うかすかな音くらいになっていた。
私は一枚の粘葉紙を、最初から最後まで一人で仕上げた。
神殿祭で用いられる婚約用の契約板。誤りは許されない。数も品も順序も、すべて規定どおりでなければならない。
婚約用の板だと思うと、書いている最中から妙に落ち着かなかった。
文字の角度ひとつで約束の意味が変わる世界で、こんなものを平然と書けるほど、私はまだ図太くないらしい。
いつもなら途中で誰かに見せる。だが今回は、見せなかった。
きっちりと刻み、間隔を整え、深さを揃え、一行ずつ息を詰めて書ききる。途中で何度も「だいたいでいいじゃない」と心の中の大雑把な私が囁いたけれど、無視した。
そして今、少し寝不足気味の私は、鞄からその粘葉紙を取り出し、隣のエトゥルの机にそっと置いた。
「見てください」
「後でいいですか。今は手が離せ――」
言いかけた彼の前へ、私は粘葉紙を置いた。いつものものとは違う、祭礼用の特別な色の粘葉紙だ。
視線が落ちる。止まる。流れる。もう一度戻る。
沈黙。
長い沈黙。
私は両腕を組み、待った。
「……誤りはありません」
ようやく出た言葉がそれだった。
「やった!」
「字形も整っています」
「がんばりました」
「間隔も問題ない」
「よかった」
「助詞の用法も自然です」
「気をつけました」
「接続も破綻していない」
「ええ」
彼は粘葉紙から目を上げた。
その顔を見て、私は思わず笑いそうになった。
黒い瞳が、珍しく目に見えて揺れていた。
この、定規の化身みたいな男が。
「わあ、別人みたい」
「……本人です」
「何か言いたいことがおありでは?」
「ありますが」
「どうぞ」
「こういうことを、先に言われるのは癪です」
私はにっこりした。
「まあ。いつも私に厳しく訂正を入れていらした方とは思えない、ずいぶん慎重なお言葉ですね」
「及び腰ではありません」
「では何です?」
「驚いています」
「光栄です。それで、ほかには?」
エトゥルはしばらく黙っていたが、やがて、ごく静かに言った。
「最初に麦酒二十樽と書いた人間と同一とは思えない」
「その件、もう忘れていただけません?」
「難しいですね。強烈だったので」
「ひどい」
私がふくれると、彼は唇の端をいつもよりわずかに上げ、粘葉紙をそっと置いた。
「ですが」
「はい」
「あなたの文は、最初から不思議でした」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「危なっかしい」
それは、たぶん褒め言葉ではない。
だが、彼の顔はやわらいでいた。
「一本を正しく刻むのは、訓練でどうにでもなります」
「だいぶ苦労しましたけどね」
「でしょうね」
「今、さらっとひどいこと言いませんでした?」
「ですが、文全体の歪みを嗅ぎ分けるのは、生まれつきの感覚だ。そこは、誰にも真似できません」
私は黙った。
黒い瞳の揺れはもう消えていた。そのかわり、今度は強い光を宿して、まっすぐに私を見ている。見惚れるほど真顔でそういうことを言うのは、ずるいと思う。
もう少し段階を踏んでほしい。せめて先に「よくやった」とか「助かった」とか、無難なものを挟んでからにしてほしい。
顔が熱い。
なんでこの男は、いつも一番刺さる言葉だけ、まっすぐ置いていくのだろう。
その時、彼は机の上の粘葉紙を指先で揃えながら、ほんのわずかに私の指先へ触れ、すぐに手を引いた。
たったそれだけのことなのに、変なところばかり几帳面なくせに、そこではためらうのかと考えてしまって、余計に心臓へ悪い。
「今後、その感覚は私のそばで使ってもらいます」
……ずるいと思う、と、さっき思ったばかりなのに。
更新が早すぎる。
せめて心の準備をさせてほしい。
「仕事の話ですか?」
「半分は」
「では、残り半分は?」
「あなたが考えている通りです」
そこで言い切らないあたりが、この男らしい。
だが、言い切らないくせに逃がす気もない声音だった。
「……それ」
「はい」
「そういう返し方、ずるくないですか」
「……いつものように、手加減する必要はないかと」
「必要あります」
「なぜ」
「心臓に悪いので」
言ってから、しまったと思った。
すぐに引っ込めたくなったけれど、そこにはうれしい誤算があった。
エトゥルは目を見開き、それから――本当に珍しく、言葉を失った。
ああ、ようやく崩れた。
私は確信した。
この人、いま確実に今まで見た中でいちばん動揺している。
だから私は、これまで何百回と受けてきた訂正のお返しをすることにした。
姿勢を正し、できるだけ滑らかな声で言う。
「監督書記殿」
「……何でしょう」
「意味だけではなく、感情も、もう少し明確に記したほうがよろしいかと存じます」
「……」
「文全体の違和感を、私は見逃しませんので」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、耳の先だけをわずかに赤くして、視線を逸らした。
「……肝に銘じます」
「それだけですか?」
「……今後は、あなたにもわかるように記します」
「では、私には特別わかりやすくお願いします」
「ただし」
「はい?」
「訂正は今後も続けます」
私はとうとう笑ってしまった。
そういうところだ、と私は思う。
けれど、その几帳面さに何度も救われてきたのも事実なので、今日のところは見逃してやることにした。
粘葉紙一枚を完璧に書き上げた日よりも、その返事のほうが嬉しかったのは、たぶん気のせいではない。
文字ひとつで人の運命が変わる世界なら、恋くらい、もう少し推敲してから口にしてほしいものだ、と私は思った。
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