天使様、国を知り、兄を落とす
前日の自主鍛錬で、己の計画の甘さと体力の無さを痛感したレオン。しかし、彼はただ落ち込むだけの子供ではなかった。
(地道な努力こそが、『カッコいい男』への唯一の道なのだ!)
おばあちゃん的な堅実さで自己を鼓舞し、彼はテラ曜(土の日)の午後の授業、【地理・歴史】に意気揚々と臨んでいた。
勉強部屋には、家庭教師のアルマンと、昨日の説教(?)によってしぶしぶ席に着いているユリウスの姿があった。
「レオン様は地理歴史は初めてですね。ではまず、この国の全体像から学びましょう」
昨日すっかりレオン信者と化したアルマンは、大きな羊皮紙の世界地図を広げた。そこには、美しい大陸と海、そして国々の名前が記されている。
「こちらが、我々の住むアルセリオス王国です」
国の成り立ち、王政と封建制の仕組み、貴族の序列について、アルマンは丁寧に説明していく。レオンは、初めて知る自国の姿に、目を輝かせて聞き入った。
「先生、僕たちのグレイスフィールド領はここですね。では、この北にある、とても大きなお城はどなたのお屋敷ですか?」
レオンが小さな指で示したのは、王国の北端、魔境と呼ばれる未開拓地に接する広大な領地だった。
「そこはヴォルフェン公爵領です。『王国の盾』と呼ばれ、北の魔獣から国を守る重要な役割を担っています」
「盾…!カッコいいですね!父様とは、仲が良いのですか?」
レオンの素朴な質問に、アルマンは少しだけ言葉を選ぶ。
「ええと…国の安寧を守るという点では、協力関係にあります。ですが、あちらを治めるゲオルグ・フォン・ヴォルフェン公爵は、武勇を何よりも重んじる方。学問や癒しを重視する我がグレイスフィールド家の方針を、少し軟弱と考えている節がありまして…」
「では、この東の『王国の矛』の方は?」
「ガイウス・フォン・ヴァリウス公爵が治める、ヴァリウス公爵領ですね。こちらは…率直に申し上げて、グレイスフィールド家とは政治的に対立しております。ヴァリウス公爵は野心家で、伝統よりも個人の力を重んじる急進派。穏健派である父君とは、議会でしばしば意見を戦わせています」
「仲が良くないのですね…」
レオンは、子供らしく少しだけ悲しそうな顔をした。(ヴァリウス公爵…野心家って…越後屋と組んでるお代官様みたいな感じなのかな…)
「南は港があって、とても賑やかそうですね!」
「ええ、そこが『王国の財布』、メディチ・フォン・ポルトス侯爵が治めるポルトス侯爵領です。彼は商人上がりの策略家ですが、我が領地で産出される高品質な薬草を他国へ売ってくれる、良いビジネスパートナーでもあります」
アルマンは、芸術の都リリアン侯爵領や、王国の食糧庫テラリア侯爵領、そして元女傑冒険者が治めるフロンティアブライア辺境伯領など、次々と世界の姿を語っていく。レオンは、その全てに夢中だった。彼の知らない、広大な世界。新しい知識は、何よりも彼を興奮させた。
それぞれの領地の特色を聞くたびに、レオンの頭の中では、和江おばあちゃんの知識が勝手に結びついていく。
(ポルトス侯爵領…お醤油や味噌のような発酵食品は、きっと高く売れるかも…)
(ブライア辺境伯領…山菜の宝庫かも。天ぷらにしたら美味しそうだな…)
レオンとアルマン先生の熱気あふれる授業。その傍らで、ユリウスはとっくに限界を迎えていた。
(あー、つまらない。国の話なんて、どうでもいい。それより、そろばんの構造をレオンから聞き出して、試作品を作った方がよっぽど有意義だ)
彼は、そっと指先で微かな風を起こすと、自分が座っている椅子に纏わせた。
それは、天才ユリウスならではの、極めて繊細な風魔法の応用だった。ごくごく微弱な風の流れを椅子の脚に纏わせ、不規則に、ほんのわずかだけカタカタと揺らし続ける。時折、ペンが羊皮紙を叩くような乾いた音も、風の渦で作り出す。それは、あたかもそこに座る少年が、退屈しのぎに貧乏ゆすりをしているかのような、完璧なカモフラージュだった。
レオンと先生の意識が地図に集中している隙に、ユリウス本人は音もなく窓から抜け出し、蝶が舞う庭へと消えていった。
授業が一段落し、アルマン先生が「ユリウス様、今の説明は…」と誇らしげに振り返った時、初めて異変に気づいた。そこに兄の姿はなく、椅子だけがカタカタと虚しく揺れていた。
「ああああ!僕としたことが!」
レオンは頭を抱えた。地理と歴史の話が面白すぎて、兄の監視という重要な任務を、すっかり忘れてしまっていたのだ。
「申し訳ありません、先生!僕が、僕がちゃんと見張っていなかったばかりに…!」
「い、いえ、レオン様がお気になさることでは…!」
アルマン先生は必死でフォローするが、レオンの落ち込みは深い。
その日の夕方、庭で呑気に魔法の練習をしていたユリウスを、レオンはついに捕まえた。
いつもなら、ここでまたおばあちゃん的説教が始まるところだ。しかし、今日のレオンは違った。
彼は、兄の前に立つと、何も言わずに、その大きな蒼い瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「え、ちょ、レオン!?なんで泣くんだよ!?」
予想外の反応に、さすがのユリウスも狼狽える。
「…“信なくば立たず”って、言葉を、ご存知ですか…?」
ひっく、としゃくりあげながら、レオンはか細い声で言った。
「信頼っていうのは、一度失ったら、取り戻すのに何倍も時間がかかるんです…。今日のユリ兄様の行動で、アルマン先生はきっと、“この子は信用できない子だ”って、思ったかもしれません…。僕は…僕は、大好きなユリ兄様が、周りの人から『信頼できない子』なんて思われるのは、嫌です…っ」
天使の涙。
それは、どんな説教よりも、どんな罰よりも、ユリウスの心に深く突き刺さった。
(うわ、またかよ…面倒くさい…)
最初はうんざりしたユリウスだったが、弟の涙は、いつものあざといウルウル涙ではなく、本気で悲しみ、傷つき、心の底から流している涙だと、気づいてしまった。
(…こいつ、本気で悲しんでるのか…?)
「兄様が信頼できない子だと、周りに思われるのは嫌だ」という言葉が、彼の心に棘のように刺さる。
(面倒だ…こいつの言うことは、いちいち正論で、年寄りくさくて、本当に面倒だ。でも…俺のせいで、こいつをこんなに悲しませてるのか?俺が、こいつに『信頼できない兄』だと思われてるのか?)
初めて感じるかもしれない、兄としての罪悪感。そして、純粋に自分を慕ってくれる弟に失望されることへの、ほんのわずかな恐怖。
(…くそっ、なんで俺がこんな…)
苛立ちと、戸惑いと、そして自分でも気づいていない庇護欲が、彼の心の中で渦を巻く。
(でも、こいつのこんな顔、もう見たくないな…)
「わ、わかった!わかったから!泣くなよ!明日は!明日はちゃんと授業に出るから!」
ユリウスは、思わずそう叫んでいた。
◇
その様子を、物陰から見ていた執事のクラウスは、静かに手帳にメモを取った。
『レオン様、涙。対ユリウス様において、現時点で最も効果的な戦術と判明。要観察』
こうして、レオンは世界の広さを知り、そして兄の心を(意図せずして)動かした。彼の「カッコいい男計画」は、日々、思いもよらぬ方向へと転がっていくのであった。
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