天使様、正義の代償を知る
今回もちょっと重いです…更新日は火・金・日予定です♩
馬車の揺れが、腹部に受けた鈍い痛みを容赦なく抉る。
レオンは、薄暗い荷台の隅で、荒い息を繰り返していた。手足を縛られ、身動き一つ取れない。先ほど、逆上した青年に殴られた腹のあたりが、ずきずきと熱を持っていた。
(大丈夫…モリィが、きっと来てくれる…)
その信頼だけが、彼の心を支えていた。和江おばあちゃんの八十八年分の人生経験は、彼に絶望的な状況でも冷静さを失わない胆力を与えてはいたが、8歳児の肉体が感じる痛みと恐怖までは、消してはくれなかった。
「おい、そろそろ休憩にするか。馬も疲れてる」
「そうだな。この先の森で少し休んで、ヘイムダール領までの道筋を再確認しよう」
男たちの声がして、やがて馬車の揺れがゆっくりと止まった。どうやら、街道から少し外れた、森の中の開けた場所で休息を取るらしい。
犯人たちが馬車を降り、焚き火の準備を始める気配がする。レオンは、この好機を逃すまいと、必死に縄を解こうと手足を動かすが、縄はきつく食い込むばかりだった。
すると、微かに耳慣れた声がする…
「ウォーーーーン!」
森の静寂を切り裂いて、獣の咆哮が響き渡った。それは、ただの獣ではない。地を揺るがし、空気を震わせる、圧倒的な存在感を伴った、聖なる獣の雄叫び。
「な、なんだぁ!?」
「魔獣か!?見張りをつけろ!」
男たちが、慌てて武器を手に取る。
次の瞬間、木々の間から、白い閃光が飛び出してきた。
それは、雪のように白く、月光のように輝く毛並みを持つ、巨大な魔犬。レオンの使い魔、モリィだ。その瞳には、いつもの呑気な光はなく、主を傷つけられたことに対する、静かで、しかし底知れない怒りの炎が燃え盛っていた。
『レオン様を、返せ』
地を這うような低い声で、モリィが唸る。
「ひっ…!で、でけぇ…!なんだ、こいつは!」
「構うな、やっちまえ!」
数人の男が、剣を構えてモリィに斬りかかる。しかし、モリィは巨大な体躯に似合わぬ俊敏さでそれをひらりとかわすと、鋼のような尻尾の一振りで、男たちをまとめて薙ぎ払った。
「ぐはっ!」
男たちは、まるで木の葉のように宙を舞い、地面に叩きつけられて呻き声を上げる。モリィは、一切の魔法を使わない。ただ、その圧倒的なまでの物理的な力だけで、誘拐犯たちを蹂躙していく。
男たちが倒れた隙に、モリィは馬車の荷台へと飛び乗った。
『レオン様!』
「モリィ!」
再会を喜ぶ間もなく、モリィはレオンを縛る縄を、その鋭い牙でいとも簡単に噛みちぎった。
自由になったレオンは、腹の痛みをこらえながら、ふらりと立ち上がる。彼の小さな手には、母から教わった光の癒やしの魔力が、淡く灯っていた。
「ありがとう、モリィ。…でも、絶対に、殺しちゃダメだよ」
『分かった!』
主の指示に、モリィは力強く頷いた。
「さあ、始めようか。僕たちの、反撃を」
レオンの瞳に、決意の光が宿る。目の前にいるのは、八人の手練れの誘拐犯。対するは、8歳の子供と、一匹の魔犬。あまりにも無謀な戦いの火蓋が、今、切って落とされた。
◇
「クソガキが!生意気な!」
リーダー格の青年が、憎悪の表情でレオンに斬りかかってくる。
「風よ、彼の者の足を攫え!風刃!」
レオンは、攻撃ではなく、相手の体勢を崩すための、小さな風魔法の刃を足元に放つ。青年は、足をもつれさせて体勢を崩した。
その隙を見逃さず、モリィが突進する。しかし、彼は牙で噛み付くのではなく、その巨大な体で青年を弾き飛ばし、戦意を削ぐことに徹していた。
「回り込め!犬は俺たちが引きつける!お前らは、ガキを捕らえろ!」
男たちは、統率の取れた動きで、二人を分断しようとする。三人がモリィに、残りの五人がレオンへと殺到した。
(まずい…!)
レオンは、咄嗟に後方へ跳躍する。しかし、8歳児の体力では、すぐに追いつかれてしまう。
「光よ、彼の者の目を眩ませ!幻惑!」
レオンは、追ってくる男たちの一人の顔めがけて、目くらましの光を放つ。
「ぐわっ!目が…!」
男が怯んだ隙に、レオンはその脇をすり抜けようとした。しかし、別の男が、その小さな体を捕らえようと、腕を伸ばす。
ーーー絶体絶命。
その時、モリィが敵の一人を蹴散らし、レオンと男の間に割って入った。
『レオン様!』
モリィの背中が、レオンを守る盾となる。だが、その背中に、男たちの剣が容赦なく振り下ろされた。
ガキン!と、金属同士がぶつかるような音が響く。モリィの神聖な毛皮は、鋼鉄の鎧よりも硬く、男たちの剣は一本も通らない。
「なんて硬さだ!」
モリィは、背中の剣をものともせず、振り返りざまの前足で、男たちを再び薙ぎ払った。
レオンは、モリィに守られながら、戦況を分析する。
(このままじゃ、ジリ貧だ…。モリィは強いけど、僕が足手まといになっている。何か、一気に無力化させる方法は…)
レオンは和江おばあちゃんの知恵袋から、相手を傷つけるのではなく降参をさせる手段を引っ張り出す。
(そうだ…!相手の武器を奪って、戦う術をなくさせよう!)
「モリィ!僕から離れないで!」
レオンは、モリィの背中にぴったりと身を寄せると、両手を地面につけた。
「地面よ揺れろ!『震動』!動きを止めろ!『深海の水圧』!」
それは、土属性の中級魔法『震動』と、水属性の中級魔法『深海の水圧』の合わせ技。地面を揺らし、そこに特定の範囲に強い水圧をかけ、対象の動きを鈍らせる。
男たちの足元が、地震のように揺れるも、体がうまく動かない。
「うわっ!」
「な、なんだこりゃ!?」
体勢を崩し、まともに立つことすらできなくなった男たちに、レオンは、畳み掛ける。
「風よ、集え!彼らの得物を絡めとれ!『風渦』!」
今度は、風魔法で小さな渦をいくつも作り出し、男たちが手放しかけている剣や斧を、巧みに巻き上げ、遠くへ吹き飛ばしてしまった。
武器を失い、足元もおぼつかない。男たちは、完全に戦意を喪失した。
『今だ!レオン様!』
モリィが、残った男たちを一人、また一人と、その巨大な肉球で優しく、しかし確実に地面に押さえつけていく。
こうして、8対2という絶望的な戦いは、レオンの魔法と、モリィの圧倒的な力の前に、一人の死者を出すこともなく、決着がついたのだった。
◇
「―――レオン様!」
アメちゃんの目印を辿って、ロイ率いる騎士団が、ようやく現場へと到着した。 彼らが見たのは、地面に伸びる八人の男たちと、その上で仁王立ちする巨大な魔犬、そして、その傍らで、少しだけ誇らしげに、しかし疲れた様子で立っている、一人の小さな少年の姿だった。
騎士たちが、手際よく犯人たちを捕縛していく。
ーーー最後に連行されていく、あの青年が、レオンの前に立ち止まり、憎悪に満ちた目で、彼を睨みつける…
「…正義の味方づらして、弱者をいたぶって、満足か?」
その声は、低く、震えていた。
「侯爵子息様の、正義の味方ごっこは、さぞかし楽しいんだろうな?俺たちは、お前のその『正義』に踏み潰されて、全てを失ったんだぞ!」
青年の言葉が、棘となって、レオンの心に突き刺さる。
「俺たちは、お前の遊び道具じゃねえんだぞ!」
罵詈雑言をレオンに浴びせながら、青年は騎士たちに連行されていった。
ーーーレオンは、その後ろ姿を、ただ、呆然と見送ることしかできなかった。
(遊び道具…?)
青年の言葉が、レオンの脳内に渦巻いている。
(僕のしたことは…ただの、ごっこ遊びだったのか…?)
ノブレス・オブリージュ。陰の人助け。弱きを助け、悪を挫く。 彼が信じていた、輝かしいはずの『正義』。それが、今、目の前の男の言葉によって、醜く、独りよがりなものにしか見えなくなっていた。
自分のしたことは、本当に正しかったのだろうか。 彼の正義は、誰かを救うと同時に、誰かを絶望の淵に突き落としていたのかもしれない。
その、答えの出ない問いが、レオンの心に、深く、重く、のしかかるのだった。
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