天使様、そろばんを実装する
レオンが血と汗と涙の(本人比)末に作り上げた「完璧なスケジュール」に基づき、彼の自己改造計画が本格的に始動した。
記念すべき最初の訓練は、ルクス曜(光の日)の午前、【座学】である。
「ユリ兄様、行きますよ!」
「んー…あと五分…」
「いけません!『朝起きは三百文の徳』ですよ!」
「さんびゃくもん…?」
聞いたこともない単位と格言に首を傾げる兄の手をぐいぐいと引き、レオンは意気揚々と勉強部屋へ向かった。
部屋には、すでに一人の男が姿勢を正して待っていた。
家庭教師のアルマン・グレイラット。王都の学術院を優秀な成績で卒業した、まだ若いが実直な青年だ。彼にとって、グレイスフィールド家の子息たちの教育係という役目は、教師人生における最大の試練であり、またとない栄誉でもあった。
(天才と名高いユリウス様と、天使と噂のレオン様…私の知識と経験の全てを以て、お二人を導かねば…!)
アルマンは、静かに闘志を燃やしていた。
「おはようございます、アルマン先生!」
「おはようございます、レオン様。本日からよろしくお願いいたします。…ユリウス様も、おはようございます」
「…おはよーございまーす」
やる気に満ち溢れたレオンとは対照的に、ユリウスの返事はあくびに飲み込まれて消えた。この対照的な兄弟を前に、アルマンは(まずは、授業を成立させることが課題だな)と、気を引き締める。
最初の科目は、算学だった。
「ではユリウス様、前回の復習です。三十七に八を掛けると?」
「うーん…二百九十六」
ユリウスは、面倒くさそうに、しかし正確に答える。彼の地頭の良さは、アルマンも認めるところだった。
「正解です。では、新しくご参加されるレオン様には、簡単な問題から。五足す三は?」
「八です」
「素晴らしい!では、十二引く七は?」
「五です」
「では、少し難しくなりますよ。四かける六は?」
「二十四です。先生、もう少し歯応えのある問題をお願いできますでしょうか?」
にこり、と愛らしく首を傾げるレオン。
アルマンは、息を呑んだ。6歳児が掛け算を理解しているだけでも驚きなのに、その先を求めるというのか。
(これが、天使様の知性…!)
(まずい…)
レオンは内心で冷や汗をかいていた。
(和江おばあちゃんの知恵袋に入っている、暗算技術が勝手に…!あまり出来すぎると、気味悪がられて『カッコいい男』から遠ざかってしまうのでは…?でも、分からないふりをするのも難しい…!)
彼の葛藤など知る由もなく、アルマンは感動に打ち震え、次々と問題の難易度を上げていく。だが、レオンはその全てに、涼しい顔で即答してみせた。
「では、三百八十五に、四百九十七を足すと?」
アルマンが少し難易度を上げる。指を折って数えるか、あるいは羊皮紙に筆算をするのが6歳児の普通の反応だ。しかし。
「答えは、八百八十二です」
レオンは、こともなげに、そして即答した。
「なっ…!?」
「あっ…!!」
アルマンの目が、驚きに見開かれ、レオンは反射的に使ってしまう暗算技術に、『まずい』と声をあげた。
「レオン様、今、暗算で…?どうやってそのような複雑な計算を…?」
(まずい!また和江おばあちゃんの知恵袋が…!どうしよう、どう説明すれば…)
必死に言い訳を考えるレオン。その脳裏に浮かんだのは、和江おばあちゃんが愛用していた、あの黒い木の枠に珠が並んだ計算道具だった。
「え、ええと…その…頭の中に、楽器のようなものが見えるんです」
「が、楽器、でございますか?」
「はい。「そろばん」って言って、木の枠に、たくさん串が刺さっていて、そこに丸いタマがたくさんついているんです。指でそのタマを弾いて、計算するんです。下のタマが四つで、上に大きいタマが一つあって…」
アルマンは、レオンの説明を聞けば聞くほど、混乱の極みに陥った。
(楽器?タマを弾く?一体何を言っておられるのだ?もしや、これは何かの魔法的な思考法…?天使様にしか見えない、神聖な計算盤のようなものが存在するのか!?)
彼は、レオンが語る未知の計算道具を、一種の神託のように受け止め、畏敬の念を抱き始めていた。
だが、一人だけ、全く違うことを考えている者がいた。
(ほう…?頭の中の楽器ねぇ…)
ユリウスは、ペンを回しながら、弟の言葉を冷静に分析していた。
(なんだかよく分からないけど、レオンが言っているのは、今まで誰も聞いたことがない、新しい計算方法だ。もし、その『楽器』とやらを実際に作ることができれば…商会の帳簿付けや、国の税の計算が、今の何倍も速く、正確になるんじゃないか…?)
彼の天才的な頭脳は、弟の突飛な発言の中に、巨大なビジネスチャンスの匂いを嗅ぎ取っていた。
(これは、金儲けのチャンスだ。後でこっそり、あの『楽器』の詳しい構造を聞き出してやろう。ついでに、特許というやつも取っておくか…)
ユリウスは、退屈だった授業が一転して面白くなってきたことに、口の端を吊り上げた。
「で、では…言語に移りましょう」
算学で早々に度肝を抜かれたアルマンは、気を取り直して言語のテキストを広げた。
レオンは本が好きで、読み書きはすでに習得している。しかし、6歳児の書く文字は、どうしても拙く、ミミズが這ったようになってしまう。
(和江おばあちゃんは、綺麗な字を書く人だった。達筆は、それだけで信頼感が増すものね…『カッコいい男』たるもの、署名の一つも美しくなくては)
レオンは、ここでもおばあちゃんの教えを胸に、黙々と羽根ペンを動かし始めた。
その、静かで真面目な時間が、隣の席から発せられる盛大なため息によって破られた。
ユリウスが、頬杖をつき、完全にだらけきっていた。彼の天才的な頭脳にとって、単純な反復練習は苦痛以外の何物でもないのだ。
「あー……つまんねー」
アルマンが注意しようと口を開くより早く、レオンがぴしゃりと言った。
「ユリ兄様」
その声は、普段の愛らしい響きとは違う、凛とした厳しさを帯びていた。
「“怠け者の節句働き”って言葉、ご存知ですか?」
「……は?」
ユリウスも、そしてアルマンも、きょとんとしてレオンを見る。
「普段サボっている人ほど、締め切りギリギリになって慌てて大騒ぎする、っていう意味ですよ。今のユリ兄様、そのまんまです!来年の学院入学を前にして、慌てて泣きながら勉強するお姿など、僕は見たくありません!」
兄を思うが故の、真剣な眼差し。その瞳は、わずかに潤んでいるようにすら見える。
その瞬間、アルマンの中で、最後の理性が弾け飛んだ。
(ああ…!なんと、なんと気高いお方なのだ、レオン様は!)
アルマンは、感動に打ち震えた。
(ご自身の神童たる所以に驕ることなく、未知の神聖な計算盤を脳内に持ちながら、学びの道を外れようとするお兄様を、その身に宿された古の叡智をもって、涙ながらに諫められるとは…!この兄弟愛!この高潔さ!ああ、神よ!)
アルマンは、自分が教えるべきことなど、もはや何もないのかもしれない、と一瞬思った。
(いや、違う!このお方の成長を、一番近くで見守り、その言行録を寸分違わず記録し、後世に伝えることこそが、私に与えられた天命なのだ!)
感動のあまり、アルマンの銀縁の眼鏡が、キラリと神々しい光を反射した。彼は静かに、しかし固く拳を握りしめ、レオン様への絶対的な忠誠と、ユリウス様を更生させるという新たな使命感を心に誓った。
「(うわ、なんか先生の目がヤバいことになってる…)」
ユリウスだけが、弟と教師が生み出した奇妙な化学反応を、金儲けの算段をしながら冷めた目で見つめていた。
こうして、レオンの「カッコいい男計画」の初日は、一人の敬虔な信者を爆誕させ、兄に新たなビジネスプランを閃かせ、波乱万丈な幕開けを飾った。
その日の夜、アルマンが自室で「今日、私は聖者に出会った」と日記に記し、ユリウスが「そろばん事業計画書」を書き上げていたことを、レオンはまだ知らない。
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