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天使様、おばあちゃんムーブでピモン嫌いを説き伏せる

 昨日の騒動が嘘のように、グレイスフィールド侯爵家の朝は穏やかに明けた。

 小鳥のさえずりが窓から差し込む陽光とともに降り注ぎ、磨き上げられた長いテーブルには、銀の食器と純白の皿が寸分の狂いもなく並べられている。

 料理長クロノが腕によりをかけて作った朝食が、食欲をそそる香りを漂わせていた。焼きたてのパン、黄金色のスクランブルエッグ、そしてジューシーなソーセージと野菜のソテーの付け合わせ。完璧な朝の食卓だ。


「おはよう、レオン。昨日はよく眠れたかい?」

 長兄のアデルが、すでに席に着いていたレオンに優しく微笑みかける。完璧な兄は、その所作一つとっても絵画のようだった。

「はい、アデル兄様。ぐっすり眠りましたので、もうすっかり元気です」

 にこり、とレオンが天使の微笑みを返すと、アデルは「そうか、よかった…!」と胸を押さえて感極まった表情を見せた。彼にとっては、弟の健やかな寝顔こそが世界の平和そのものなのだ。


 やがて、父であるマルク・フォン・グレイスフィールド侯爵と、昨夜のお説教で少しばつが悪そうな次兄のユリウス、そして優雅な微笑みをたたえた母エレナが席に着き、家族揃っての朝食が始まった。

(…うん、いつも通りだ)とマルクは安堵しかけた。だが、すぐにその安堵は違和感に変わる。いつも通りすぎるのだ。昨日、あれだけ頭を強打したというのに、レオンの佇まいには一片の揺らぎもない。その完璧さが、逆にマルクの胃に小さな、しかし確かな疼きをもたらしていた。


 和やかな雰囲気の中、食事が進む。

 しかし、その均衡は、一皿の料理によって静かに破られようとしていた。

 それは、「ピモンのソテー」。


 ピモンとは、この地方で採れる鮮やかな緑色の野菜で、独特の苦味があるため、特に子供たちからは敬遠されがちな食材だった。

「……」

「……」

 ユリウスが、フォークの先で器用にピモンだけを皿の隅に寄せている。その隣では、一家の主であるはずのマルク侯爵も、見て見ぬふりをしながら、ソーセージばかりに手を伸ばしていた。その動きは驚くほどシンクロしており、血の繋がりというものの奇妙さを感じさせる。


 他の家族は、その光景に気づきながらも、あえて触れないのが常だった。アデルは眉をひそめつつも弟たちの前では完璧な兄であろうとし、エレナは「あらあら」と小さくため息をつくだけ。それが、グレイスフィールド家の食卓における暗黙のルール。


 だが、今日、そのルールを打ち破る者がいた。

 新生『おばあちゃんの知恵袋』搭載型天使、レオン・フォン・グレイスフィールドである。

 レオンは、もぐもぐと口の中のパンを飲み込むと、こてん、と首を傾げた。その仕草だけ見れば、愛らしさの極致だ。しかし、その桜色の唇から紡がれたのは、慈愛に満ちた、しかし有無を言わせぬ年嵩の金言だった。


「ユリ兄様、ピモンくらいでそんなに顔をしかめて…もう小さい子じゃないでしょう?」

「げっ」

 ユリウスの動きが、カシャン、と音を立てて止まる。まさか、いつもは自分の言うことを素直に聞く可愛い弟から、真正面切って指摘されるとは思ってもいなかった。

 レオンは、そんな兄の動揺など意にも介さず、淡々と、しかし諭すように言葉を続ける。

「栄養があるんですよ、これ。この苦味は『ククルビタシン』という成分で、体の調子を整える働きがあるんです。苦いのは育ち盛りの証拠っていうくらい、体にはいいんですから。今は嫌いでも、大人になったら“あれ?なんだかこの苦味が美味しいじゃない”って思える日が、きっと来ますからね。今は修行だと思って、さあ、一口頑張ってみましょう?」


 その口調は、まるで学童保育で偏食の子供をなだめるベテラン保育士のようだった。よどみなく紡がれる栄養知識と、未来への希望を持たせる巧みな話術。8歳のユリウスが反論できる隙は、どこにもなかった。

「く、ククル…? な、なんだよそれ…」

 ユリウスは、得意の悪戯心も、人を丸め込む慧眼も、弟から発せられる謎のオーラの前に完全に封じられていた。


 だが、レオンの「おばあちゃんムーブ」はまだ終わらない。その慈愛に満ちた蒼い瞳は、次に一家の長へと向けられた。

「父様」

「――っ!」

 ビクッ、とマルクの肩が大きく揺れる。息子が自分を呼んだだけだというのに、まるで法廷で検察官に名を呼ばれた被告人のようだ。

「父様も、残すのは感心いたしません。残すのは簡単ですけど、世の中、嫌いだからって避けられないことのほうが多いんですよ。お仕事だってそうでしょう? 山のように積まれた嫌な書類仕事だって、やらなければいつまで経っても終わりません。…ほら、ですから、このピモンも溜まった書類仕事だと思って、さっさと終わらせてしまいましょう。片付けてしまえば、きっと達成感がありますから」

「し、書類仕事…」

 マルクは絶句した。なぜ、6歳の息子が、自分の執務室の惨状を知っているかのような的確な比喩を繰り出してくるのか。確かに、今朝も執務室の机には、隣国との貿易関税に関する分厚い書類の山が、彼を待ち構えている。それと、目の前の皿に乗った数切れのピモンが、完全に一致して見えた。逃げ場がない。


 マルクとユリウスが、まるで共犯者のように顔を見合わせ、慄いている。

 そんな二人を見て、レオンはにっこりと天使の微笑みを浮かべると、とどめの一言を放った。

「大丈夫です。二人とも、ちゃんと全部食べられたら、後で僕が料理長にお願いして、『アメちゃん』をもらってきてあげますから。ね、頑張りましょう!」

「「アメちゃん…」」

 父と兄は、もはや魂が抜けたような顔で、その言葉を繰り返すしかなかった。


 静まり返った食卓で、最初に沈黙を破ったのは、やはり長兄アデルだった。

 パチパチパチ、と盛大な拍手をしながら、その瞳は潤み、声は感動に打ち震えている。

「素晴らしい…! レオン、なんて深遠な哲学なんだ! 嫌いなものも人生の試練と捉え、乗り越えた先にある達成感と報酬を説くとは! まるで古代の賢者の教えのようだ! 父上、ユリウス、あなたたちは幸せ者ですね! 天使直々の有り難いご高説を賜れるのだからな!」

「う、うむ…」

「そ、そうだね、アデル兄さん…」

 もはやアデルの暴走を止める者はいない。


 エレナは、そんな息子たちのやり取りを、口元に手を当てて「ふふふ」と苦笑しながら見守っている。(ククルビタシンですって…どこでそんな言葉を覚えたのかしら。面白い子…)その瞳の奥には、面白がる色と、息子の知識の源泉に対する純粋な探求心が混じり合っていた。

 結局、侯爵家の男性陣(アデルを除く)は、天使様の有り難い説法と「アメちゃん」のご褒美に後押しされ、涙目でピモンを完食したのだった。


 朝食後、レオンは約束を果たすため、意気揚々と厨房へと向かっていた。

「これでいつでも、何かあったらみんなにアメちゃんをあげられるなー」

 そんなことを考えながら、スキップしそうな足取りで廊下を進む。困った人がいたら、すっとアメちゃんを差し出す。ああ、なんて素敵なことだろう。


「おや、レオン様。いかがなさいましたか?」

 厨房を統括する恰幅のいい料理長のクロノが、レオンの姿に気づき、優しい笑顔で膝を折った。

「クロノさん、こんにちは。あのね、アメちゃんを少しだけ、いただけますか?」

「アメでございますか? もちろんですとも」

 料理長はにこにこしながら、厨房の棚に置いてある大きなガラス瓶を指さした。中には、果物の絵が描かれた色とりどりの包み紙のキャンディーがたくさん詰まっている。

「父様とユリ兄様が、とっても頑張ったから、ご褒美なんです」

「ほう、それは素晴らしい。では、頑張ったお二人のために、たくさん持っていってください」

 料理長は、小さな布袋を取り出すと、赤、黄、緑、様々な色のアメをざらざらと詰め、レオンの小さな手に握らせてくれた。

「ありがとうございます、クロノさん!」

 ずっしりと心地よい重みの袋を受け取り、レオンは満面の笑みでお礼を言った。

 ほかほかの満足感に包まれながら、自室に戻る。


 部屋に入るなり、さっそくアメの袋を机の上に置き、一つ一つ並べ始めた。

(これはイチゴ味だから、母様が好きそうだな。こっちはミント味だから、アデル兄様にいいかもしれない。父様とユリ兄様は…甘いのがいいかな)

 そんなことを考えながら、アメを仕分けしている、その時だった。

 はた、とレオンの思考が止まった。


(……あれ?)

 自分の今の行動が、ふと客観的に見えた。

 アメを常備して、誰かにあげる準備をする。

 さっきの朝食での説教。

「育ち盛りの証拠」「修行だと思って」「書類仕事と思って」「アメちゃんあげるから」。

 ……なんだか、ものすごく。

(……おばあちゃん、っぽくないか?)

 ぞわっ、と背筋に今まで感じたことのない種類の悪寒が走った。

 

昨日、頭を打ってから、自分の頭の中に『和江おばあちゃん』という人の八十八年分の膨大な知識が流れ込んできたのは自覚している。それは、『おばあちゃんの知恵袋』という便利なデータベースがインストールされたようなものだと思っていた。

 でも。

 もし、そうじゃなかったとしたら?

 知識だけじゃない。

 思考のパターン、口癖、行動様式。

 人格そのものが、少しずつ、あの穏やかで好奇心旺盛な『和江おばあちゃん』に上書きされつつあるとしたら?

(僕、もしかして、和江おばあちゃんに…乗っ取られてる?)

 がらん、と心の中で何かが崩れる音がした。

 恐怖が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。


 僕は、レオン・フォン・グレイスフィールドだ。

 グレイスフィールド侯爵家の三男で、父様と母様の子供で、兄様たちの弟だ。

 それなのに、僕の中にいる『誰か』が、僕を内側から侵食していく。僕が僕でなくなってしまう。

「いや、いやいや…!」

 レオンはぶんぶんと首を振った。パニックになりそうな心を必死で押さえつける。

(落ち着け、僕。よく考えるんだ)

 本当に、この「おばあちゃんムーブ」は、昨日、頭を打ってから始まったことだろうか?

 レオンは、必死に過去の記憶を遡った。


 そうだ。よく考えてみれば、昔から、僕は少しだけ、周りの子供たちとは違っていたかもしれない。

 

 あれは、確か僕がまだ3歳だった頃だ。

 

 屋敷の庭で、一人の若いメイドがしくしくと泣いていた。恋人に振られたのだという。

 他の子供なら、気にも留めないか、もしくは「どうしたの?」と聞くだけだろう。

 でも、あの時の僕は、泣いている彼女の隣にちょこんと座り込み、こう言ったのだ。

『泣きたい時は、思いっきり泣いた方がいい。涙は心の汗だから、流せば流すだけ、すっきりしますよ。それにね、男は星の数ほどいるって言います。あなたを泣かせるような人より、あなたを笑わせてくれる人の方が、きっと素敵ですよ』

 三歳の幼児が、どこで覚えたのか分からないような達観した慰め方をする。メイドは最初きょとんとしていたが、やがて「おばあちゃーん!」と僕に抱きついて号泣していた。その場の誰もが、天使の優しさに心を打たれ、メイドが思わず「おばあちゃん」呼びしてしまうほどの包容力が3歳幼児にあるのかはスルーした。


 そうだ。

 思い返せば、そういう「おばあちゃんムーブ」の片鱗は、昔から僕の中にあったのだ。

 達観した物言い。年長者を気遣う視点。妙に生活臭のするアドバイス。

 それは、昨日インストールされたものではない。元々、僕という人間の根っこに、深く、静かに存在していたものなのだ。

(そうか……)

 レオンは、一つの結論にたどり着いた。

 僕は、乗っ取られているんじゃない。

 頭を打った衝撃で、忘れていただけの『前世の記憶』を、はっきりと思い出しただけなんだ。

 僕はずっと、レオン・フォン・グレイスフィールドであると同時に、和江でもあったんだ。

 

 すとん、と胸のつかえが落ちる。

 乗っ取られるという恐怖が消え、安堵が広がった。僕は、僕のままだ。

 

 だが。

 

 安堵したのも束の間、レオンの心に、また新たな、そしてもっと厄介な問題がもくもくと湧き上がってきた。

(前世が、おばあちゃん……)

 しかも、享年八十八歳の大往生を遂げた、正真正銘の、おばあちゃん。

 好きなテレビは時代劇、得意なことは、畑仕事や漬物をつけること…

(……カッコ悪くないか、これ?)


 レオンの理想は、父や兄たちのような、力強く、頼り甲斐のある「格好いい」男だ。

 スパイ映画のようにピンチを切り抜け、戦場を駆ける勇者や英雄のように人々を守る。ワイルドで、クールで、シビれるような男。

 それなのに、自分の本質は?

『あらまぁ』『修行だと思って』『アメちゃんあげる』。

 ……ワイルドとは、光年単位でかけ離れている。

 何より。

(おばあちゃんって……女性じゃないか!)

 レオンは、がっくりと机に突っ伏した。

『お嫁さんにしたいナンバーワン』などと周囲に言われるたびに、内心むぅっとしていた。

 それなのに、自分の魂の半分(あるいは全部?)は、その「お嫁さん」どころか、さらに年季の入った「おばあちゃん」だったなんて。

 これ以上の皮肉があるだろうか。


「カッコいい男への道が…遠すぎる……」

 机の上に並べられた色とりどりのアメちゃんが、まるでレオンの多難な前途を嘲笑っているかのように、キラキラと光って見えた。


 グレイスフィールド家の天使様は、自らのアイデンティティに関わる、新たな、そして深刻な悩みを抱え込むことになったのだった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます♩

次回、「カッコいい男計画」始まります。

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