天使様、落ちて「おばあちゃんの知恵袋」を実装する
グレイスフィールド侯爵家の三番目の子供は、それはそれは奇跡のような赤ん坊だった。
陽光を溶かしたようなピンクブロンドの柔らかな髪。長い睫毛に縁取られた、夜空の星を閉じ込めたかのように深い、それでいて慈愛に満ちた蒼い瞳。そして、常にほんのりと微笑みを湛える桜色の唇。その、神が丹精込めて作り上げた芸術品のような容姿は、見る者の心を浄化し、庇護欲をかき立てるのに十分すぎた。
しかも、生まれつき、どうにも達観したところがあり、同年代の子供たちが些細なことで喧嘩をしたり、大声ではしゃいだりしているのを見ると、つい「あらまぁ、元気でよろしいこと」などと、縁側でお茶をすすりながら孫を見る老人のような笑みで、包み込む。
天使のような容姿に、一歩下がって、慈愛の笑みを浮かべる、物分かりの良い達観した良い子ちゃんの幼児。それはまあ、誰から見ても、可愛いに決まっている。
6歳になった頃には、その天使様っぷりはさらに磨きがかかっていた。
「まあ、なんて愛らしいのかしら!」
「まるで絵画から抜け出してきたようだな…」
屋敷の廊下を歩くだけで、メイドたちはうっとりとため息をつき、屈強な兵士たちすら顔を赤らめる。
それが、グレイスフィールド家三男、レオン・フォン・グレイスフィールド(6歳)であった。
そんなある日の昼下がり。退屈を持て余した「台風の目」が、天使様に接近してきた。
「ねえレオン、大変なんだ!」
バタバタと芝居がかった足音で声をかけてきたのは、「台風の目」こと次兄のユリウス(8歳)だ。天才的な頭脳と、人の本質を見抜く慧眼で、いつも面白いことを探している。
「ユリ兄様、今お勉強の時間では?」
「そうなんだけど、本当に大変なことがおきてるんだ!今!現在!急がないと!!」
「大変なこと、ですか?」
「そう。母上の書斎の窓、見てごらんよ」
ユリウスが指さす先、屋敷の二階にある母エレナの部屋の窓辺には、鉢植えの小さな植物が置かれていた。だが、その鉢が何かの拍子に傾き、今にも落ちそうになっている。
「あっ、あれは母様が大事にしている『月涙草』…!」
「夜にだけ、涙みたいな雫をつける珍しい薬草なんだって。あれが落ちたら、母さん、きっと悲しむよねぇ?」
にやり、とユリウスは悪戯っぽく笑う。
「俺たちで、助けてやろうぜ!」
ユリウスの提案はこうだ。自分が風魔法をレオンの体にまとわせて、軽くしてやるから、レオンが壁を伝って登り、鉢を安全な場所に戻す、というものだった。普通に人を呼べば済む話だが、それでは「面白くない」。
「危ないですよユリ兄様!母様に叱られますよ…誰か大人を呼んできますよ!庭師のハリーなら…」
「そうなんだけどね、俺としては、レオンがかっこいいところを母様はみたいんじゃないかなって思って。母様はレオンが素直で大人しくて、イヤイヤ期ってのもなかったからって心配してるんだ。そんなレオンが『壁を登った』なんてカッコよくないか?ワイルドだろう?」
そうなのだ。レオンは年頃の男の子らしく、最近はみんなの自分への賞賛にちょっと不満を抱いていた。「侯爵家の天使」「麗しい神の愛子」「お嫁さんにしたいナンバーワン」
そんな賛辞の嵐の中心で、レオンは内心、むぅっと唇を尖らせていた。
(違う…!僕は「愛らしい」じゃなくて、「格好いい」男になりたいんだ!)
父や兄たちの、厳格で、力強く、頼り甲斐のある姿に憧れているのだ。だというのに、自分のこの容姿はどうだ。鏡を見れば、そこにいるのは戦場を駆ける勇者ではなく、教会で祈りを捧げる少女(のような自分)である。このギャップが、6歳の少年にとっては何よりの不満だった。
(カッコいい…ワイルド…)
『壁登りなんて危ない』と理性が告げているにもかかわらず、レオンの心はまんまと「カッコよくないか?ワイルドだろう?」というユリウスの悪魔の囁きにはまっている。
母の悲しむ顔は見たくない。そして何より、ユリウスの提案には、スパイ映画のようなスリリングな響きがあった。(カッコいい男は、ピンチをスマートに解決するものだ!)という憧れが、理性に打ち勝った。
「…わかりました。やりましょう、ユリ兄様!」
「それでこそ俺の弟だ!」
ユリウスが満足げに頷き、呪文を紡ぐ。ふわり、とレオンの体が羽のように軽くなった。
レオンは屋敷の壁にある石の凹凸に手と足をかけ、慎重に、しかし驚くほど身軽に登っていく。まるで壁を散歩する猫のようだ。下から見上げるユリウスの目が、好奇心にキラキラと輝いている。
(よし、いいぞ…!今の僕は、きっとすごくカッコいい!)
順調に窓辺までたどり着き、傾いた鉢にそっと手を伸ばした、その瞬間だった。
「――にゃあ!」
どこからともなく現れた猫が、レオンの手元にじゃれついてきた。鉢が落ちてきて、レオンはバランスを崩す。
「わっ!?」
ユリウスがかけた風魔法は、あくまで体を軽くするもの。支えを失えば、あとは重力に従うだけだ。スローモーションのように、世界が反転する。下で「おっと」という顔をしているユリウスが見える。青い空と、ざわめく庭の木々。
そして、地面に背中から叩きつけられるかと思いきや、軽くなった体のおかげでフワっと着地に成功した。「どうだ!」と言わんばかりに胸を張り、得意げに満面の笑みで
「ユリ兄様!鉢植え無事ですよ!(カッコよかったですか!)」
とユリウスに鉢植えを渡した瞬間、体のあまりの軽さにバランスを崩して足を滑らせてしまい、ごんっ、と後頭部を、運悪くそこに転がっていた庭石の角に強かに打ち付けた。
視界が真っ白に染まる。
意識がブラックアウトする、その刹那――。
膨大な、しかしどこか懐かしい記憶の濁流が、レオンの脳内に雪崩れ込んできた。
名前は、和江。享年88歳。夫は10年前に他界。破天荒な夫を支えるため、若い頃は随分と苦労もした。長男、次男、長女を育て上げ、孫は6人。最期は長男夫婦の家で、ひ孫の寝顔を見ながら、眠るように大往生を遂げた。
華道、茶道は免許皆伝。学童保育で働いた経験から、保育士と栄養士の資格を持つ。家計を助けるために簿記2級も取得した。最近の流行りだからと、孫に教わってプログラミングの勉強までしていた、好奇心旺盛な資格マニアのおばあちゃん。
八十八年分の喜怒哀楽。漬物の漬け方、家計簿のつけ方、プログラミングの基礎知識、そして数多の資格に裏打ちされた膨大な生活の知恵。その全てが、5歳の少年の魂に、新たなOSとしてインストールされていく。
「―――――っ!!」
レオンは、ぱちりと目を開けた。
「ここは??」
見慣れた自室の天蓋付きベッドの中で目覚めたレオン。
レオンはゆっくりと体を起こした。人格はレオンのままだ。だが、頭の中に巨大な図書館…いや、『おばあちゃんの知恵袋』が丸ごとダウンロードされた感覚がある。起きても忘れることなく脳に知識が刻まれている。
「これはなんだろう?前世?でも、今の僕の世界とはなんか全然違う…鉄の鳥が人を体の中に入れて空を飛んでたり、馬をつけないで勝手に走る荷車だったり…でもそれが「飛行機」だったり「自動車」だったりすることが和江おばあちゃんの知識でわかる…なんか不思議な感じだなー」
「レオン様が!!レオン様がお目覚めになりましたー!」
様子を見に来たメイドのルチアが、屋敷中に響き渡る声で、レオンの目覚めを告げ、バタバタと廊下へ走っていった。
遠くに聞こえた「レオーーーーーーン!」という地響きのような絶叫が段々近づいてきて、長男のアデル(11歳)が、部屋に飛び込んできた。
「レオーン!大丈夫か?痛いところはないか?意識はハッキリしてるか?」
完璧王子と名高いアデルだが、弟のこととなるとその仮面は秒で崩れ落ちる。レオンの元に駆け寄ると、その体を隅々まで確認し始めた。
「天使のようなレオンの肌に、万が一にも傷が残るなど、天地がひっくり返っても許されん!」
(アデル兄様、相変わらずでいらっしゃる…)
レオンが苦笑していると、アデルはレオンの後頭部に大きなたんこぶを見つけ、その顔からサッと血の気が引いた。
「こ、これは…!あの侍医は何をしてる!可愛いレオンの頭にぽっこり山が!いや、それも可愛いけれど!ゆるせん!すぐに侍医を呼び戻せ!いや、王宮一の治癒術師を呼べ!今すぐだ!」
「アデル兄様、大袈裟です。ただのたんこぶですから」
「何を言うんだ!レオンの『ただのたんこぶ』は、我々人類にとっての『ただ』ではない!天使のたんこぶだぞ!」
もはや「レオン教」の筆頭信者であるアデルの暴走は誰にも止められない。そして何を言ってるのか、もはやわからない…
「レオン大丈夫かー?」
元凶のユリウスが、部屋にやってきた。
「心配したよー。着地してから、転んで頭打つなんてさー(ニヤニヤ)。でも、レオンが守った母様の、鉢植えは無事だぞ!さすが、カッコイイなーレオン!」
レオンが目を覚まして安心したらしいユリウスが、ニヤニヤと面白いものを見る目で自分を覗き込みながら言った。
「鉢植えが無事でよかったです!ユリ兄様やりましたね!」
「鉢植えが無事とは、どうゆう事かしら?」
静かだが有無を言わせぬ圧力のある声と共に、父であるマルクと母であるエレナが部屋に入ってきた。
「レオン、痛いところやおかしなところはない?ユリウスから、転んで石に頭を打ちつけたと聞いて、心配したのよ?呼んでも眼を覚まさないし……本当に目が覚めてよかったわ!」
「レオン、無事でよかった。お前に何かあったら、、(屋敷中にいるレオン信者の使用人たちががぜんっぜん使い物にならなくなるところだった…というか、今すでにそうなってるのだが…)と思うと心配で心配で…」
「父様、母様、ご心配おかけしました。僕は大丈夫ですよ。」
「お医者様もたんこぶだけで心配いらないと言っていたわ。本当に無事でよかったわ…ところで…「鉢植えが無事」について、教えてもらえるかしら?」
母の目が、優しく細められる。しかし、その奥は全く笑っていない。
元凶ユリウスは『まずい!』と察して「その件はー!」というが、被せるようにレオンがハキハキと答えてしまう。だって「かっこいい僕」と、「優しいユリ兄様」のことをみんなに伝えなければ!そのキラキラした瞳には、一片の悪意も、兄を売るという考えも存在しない。
「はい!!父様、母様、アデル兄様、最初はユリ兄様のお手柄なのです!ユリ兄様が、母上の書斎の窓のところにあった、母様が大事にしている『月涙草』の鉢植えが屋敷の二階から落ちそうになっているのを見つけたのです。
ユリ兄様は「あれが落ちたら、母さん、きっと悲しむよねぇ?」って勉強も放り出して心配で駆けつけていらっしゃって。そして「俺たちで、助けてあげようじゃないか」と言ってくれて。ユリ兄様は母様を悲しませたくなくて。優しいですよねー。
それで、ユリ兄様の風魔法で僕の体に風をまとわせて、軽くしてもらって、僕が壁を伝って登り、鉢を安全な場所に戻すことにしました。
僕は、大人を呼んでやってもらおうと思ったのですが、ユリ兄様が「母様が、かっこいい僕をみたがっていた」と教えてくれて。ちょっと怖かったけど、僕、頑張って、壁を登って母様の鉢植えを助け出しました!ユリ兄様は僕にかっこいいところを譲ってくださったのですよ!」
一部始終をそのまま伝えて満足げなレオン。言った、言ってしまった。みんながいる前で、勉強をサボってたことも、レオンをそそのかして壁登りをさせたことも全部バレてしまったユリウスは、こっそり気配を消し、逃亡を測ろうとしていたその時、
「ユリウスー!お前は、なんて母さん思いで優しいんだー!」
と盛大に良いところだけを拾ってユリウスを賞賛するアデル。抱きついて頬擦りしようとするのを懸命に引き剥がそうとするユリウス。アデルは、レオン信者なだけなく、ユリウスLOVEでもあった。要するにブラコンである。
「アデル!離せよ!」
逃げ出そうとするユリウスの背後には、笑顔なのになぜか鬼の形相に見える母、エレナが立っていた。
「ユリウス…鉢植えを守ってくれてありがとう…でも、母さん、レオンに危ないことをさせた子には、ちょっとお話があるの。詳しい話を聞きたいから、執務室へいらっしゃい…」
レオンにイタズラを仕掛けたことがバレてしまい、母に連行されそうなユリウスを見て、レオンが呼び止めた。
「ユリ兄様、そちらの足、少し捻挫していませんか?歩き方が妙ですよ」
「「「え?」」」
一同の視線がユリウスの足元に集まる。
「あ、猫を避けようとして、ちょっと足を捻っただけだよ。」
「大丈夫ですか?すぐ冷やさないと!冷やすのは20分までですよ!長くやると逆に冷えすぎちゃうから。若いから治りは早いけど、油断すると天気痛持ちになっちゃいますよ!冷やしたあとは薬草で湿布をちゃんと貼って、動かさないようにしてくださいね!」
「「「「天気痛持ち??」」」」
「お天気が悪くなると、ジクジクと関節が痛む病気です。」
「あー、なんか聞いたことがあるな。わたしの祖母さんの話だが。歳をとると、雨が降りそうな時とかに関節が痛くなるとか言ってたな…」と父マルク。
マルクは、ふと我が子を見た。なぜ、6歳の息子が、老婆のような古傷の知識を、さも当然のように語っているんだ…?
6歳とは思えない心配の仕方をするレオンに頭が痛くなるマルク。
(まったく、何でレオンはあんなに変に落ち着いているんだ?賢者か?賢者なのか?いや…天使だったな…)
「レオン、心配しないで。母様が、ユリウスの湿布を薬草で作ってちゃんと貼っておくわ。レオンは、今日は念の為動かないで、横になっていなさいね。さて、じゃあ、ユリウス!湿布を貼りに行きましょうね。お話しながらじっくりとね…マルク!あなたもいらして下さい!」
キリリ、とマルクの胃に走る鋭い痛み。
(はー、今度はこっちの問題児に説教しないといかんのか…仕事の時間がどんどん削れていく…)
それを見た執事のクラウスが、すっと無表情のまま、懐から小瓶を取り出して主に差し出す。常備薬の胃薬だ。
「……」
無言でそれを受け取り、一気に呷るマルク。
「まだ仕事が…」と言いつつ、ユリウスと一緒にエレナの後をスゴスゴとついていくマルクなのであった。
「じゃあ、僕もいくけど、大丈夫かい?レオン。寂しければ添い寝してあげようか?」
「アデル兄様、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ!僕は男の子ですから!」
アデルも出ていき、一人になったレオンはまた考えていた。
(何で、和江おばあちゃんの知識が僕の頭に入ってきたんだろう…でも、知識があるってことはいいことだよね!頭がよくなった気分だ。深く考えないで「ラッキー」って思っとこうっと)
グレイスフィールド家の天使様は、この日を境に、ただの天使ではなく、時々「おばあちゃん」が顔を出す、深みと味わいのある『ありがたい天使様』へと進化したのであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます♩
初投稿です!次回は「おばあちゃん説教」が炸裂します。あるあるです。
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