退職代行2
函崎氏のお帰りを見送っていたら、仲村さんが私の横に並んで、見送りに付き合ってくれた。
そうそう、この際だから、仲村さんにちゃんと伝えておかないとね、と思って、函崎氏が見えなくなった辺りで声をかけた。
「今のアレとは、何でもないからね。
たった今、出会ったばかりだし、私のタイプじゃないし、何か起きる動機そのものが無いんだからね」
「わかってるよ、雨ちゃん」
う……私用モード。
そうか、仕掛けたのは私だ。
私の方から『ですます調』をやめて、タメ口を出すのが切り替えスイッチだった。
「雨ちゃんはそうでも、相手の方は、きっとキュンと来てたと思うよ」
「い…いま…会ったばかりで……それって……一目惚れ……だと?」
私が何度も咬みながら言ったもんで、仲村さんの笑みがますますいたずらっぽくなる。
「雨ちゃんってベッピンさんだよ。
社員の男子、みんなからモテモテだよね」
モテモテって……ドライバーのオジサマたちにはウケが良いけどね……いや、アヤツは高圧的だったぞ。
要求をゴリ押ししてきたし、インテリとイケメンを鼻にかけて、イヤな感じだった。
いや、それも、仲ちゃん的には、好きなのにこちらが嫌がる行為をしてくる反動形成ということになるのか………
「ふっふっふ」
仲ちゃんは、愉快そうに私を見る。
いや、そんなことよりも……
「仲ちゃん、ごめん……すぐに片谷課長に伝えて。
緊急ミーティング開きたいから」
「片谷課長だけ?」
「いや……労務課のヒトをできるだけ……できれば全員………」
「わかった」
理由を求めることなく仲ちゃんは引き受け、素早い段取りで、15分くらいで労務課メンバー(仲村さん含めて)5名全員が第1会議室に集合してくれた。
「退職代行が来たんだって」
片谷課長が、まず私に訊ねた。
「第3ロジの赤石さんです。
このとおり退職手続きは完了いたしました。
有休残は消化せず、今日付けの退職です」
私は、函崎氏から受け取った退職手続き書類の入った封筒を片谷課長に渡した。
「本来は、こちらが担当する業務。
雨森課長の手を煩わせてしまって申し訳ない」
片谷課長は、テーブルの上に両手を乗せ、頭を下げて、私に謝罪した。
「片谷課長……労働基準法の第32条の4の2をご存じですか?」
私がその質問をした直後に、片谷課長の両方の太い眉毛が大きく跳ね上がった。
「ついに、それを言ってきた!」
片谷課長の大きな声に、一同のお尻が大きく持ち上がった……と思う……ごめん⋯ちょっと盛りすぎかな……でも…少なくとも私は持ち上がりました。
「何ですか、それ?」
私に函崎氏の対応を押し付けてきた男性社員、名前は室井って言うんだけど、無力感ただよう貧弱な声色を発した。
片谷課長は、オマエ労務課のくせに、そんなことも知らないのか、と言いたげな視線を室井氏に向けたが、すぐに洗い落とし、
「所定労働時間である」と、説明を始めた。
「週40時間を超える時間外労働は、割増賃金の対象になる。
でも、1日8時間勤務の社員が、ある週で6日働いても、その翌週が4日勤務なら平均して40時間以内になるから、時間外労働はしていないことにできる。
これを変形労働時間制と言うんだ」
自分の知識のお披露目となると、片谷課長のテンションはグンと上がる。
そういう意味では、室井氏は付き合い上手だと思う。
「季節による繁忙の差が小さければ、1ヶ月単位で40時間平均になるようにすれば良い。
この場合、1ヶ月に9日の休日を設定すれば、週平均を40時間以内にできる。
閏年でない2月だけは、8日の休日でも良いんだけどね」
「そうか……28日しかないから、8日休みで20日勤務。
1日8時間で160時間。
4週間で割って、ちょうど40時間になりますね」
これは、仲ちゃん。
さすが、理解が早いね。
同期の友よ、私は鼻が高いぞ。
「コンビニやスーパーとか、季節的に労働時間が変化しない事業部は、1ヶ月変形の労働時間制が採用できるけど、自動車部品関係の配送センターは、大手メーカーの稼働日に合わせられるから、特に決算前の2月、3月なんかは駆け込み需要の対応で、休みが少なくなる。
繁忙期で働いた分は、大型連休がある月とかで休みを調整することになる。
年間カレンダーを作って、40時間以内を1年間で調整するのが1年変形の労働時間制だ。
ウチの会社では、自動車部品の運搬を行っている第2ロジセンターと第3ロジセンターで、1月から12月の期間の1年変形の労働時間制を採用している」
「それで、さっきの労働基準法第ナン条がどうとか、の話はどういうことで?」
そこで、室井氏の質問が舞い込んできた。
「赤石さんの場合」
ここからは、私が説明に入る。
急いで作った計算資料をスクリーンに映し、皆にお披露目した。
「出勤日数が、1月が22日、2月が22日、3月が24日、4月が22日、5月が21日でした。
1日の運行時間は、平均して約11時間でしたが、1日の時間外労働手当は、すでに支払い済なので、ここでは考慮しません。
問題は、休日の取得日数が少ない2月、3月、4月で週40時間を超えていて、その分は年度の後半で調整される予定だったのですが、ここで退職することになったので、超過時間分の時間外手当を支払わなければならなくなった、という点です。
赤石さんの勤務状況から計算してみましたが、2月は16時間、3月は14.9時間、4月は4.6時間で、合計時間は35.5時間。
赤石さんの時間あたり給与は1,875円で、0.25倍の割増率を掛けた時間単価は469円。
35.5時間分の金額は16,650円。
これが、赤石さんへの支払額となります」
「これって辞めたヒト全員にやらなきゃいけない対応?」
と、室井さん。
片谷課長は、オマエ、ヒトの話、ちゃんと聞けよ、と言いたげな視線を室井さんに向ける。
「1ヶ月変形の場合は、月9日の休日で週40時間の精算が完了するから、特に関係ない。
対象になるのは、1年変形を採用している第2ロジか第3ロジの正社員またはフルタイマーが、繁忙期が終わったタイミングで退職するケースだ。
お盆とか過ぎると、たいていは休日の埋め合せができるから、未払いが発生することは、あまり無いだろうからね」
「そうですか。なるほどね」
室井さんは、飄々と頷いた。
「この対応は、赤石さんだけに留めるんですか?」
これは仲ちゃん。
良い質問だね。
問題の本質を、ちゃんとわかってる。
室井、オマエ総合職だろ。
仲ちゃんを見習えよ、と心の中でつぶやく。
マジで言っちゃうとパワハラだ、と喚くかもしれないからね。
「赤石さんだけ、とはいかないだろな」
片谷課長は、腹を括ったかのように、ハキハキと回答する。
「計算が面倒という理由と、労働基準監督署の臨検では滅多に取り上げられない、という顧問社労士の情報を鵜呑みにして、対応をサボっていたんだけど、これを機に改善した方がいいな。
退職手続時に、対象者と支払額が自動的に計算されるような仕組みを考えよう。
情報通信課と相談だな」
「すでに退職したヒトたちは、どうしますか?」
と、仲ちゃん。
片谷課長は、ため息をフンと漏らして、
「遡及はしない方針で行こう。
未払いがあったとしても少額だし、辞めたヒトから見ても、今更の話だろうからね」
ここで、私のスマホの着信音が鳴った。
未登録の番号。
時々、海外から掛かってくる迷惑電話のような崩れた感じとは違い、ちゃんとした電話番号の体を成している。
とりあえず出てみる。
《あ、雨森さん、さきほどはどおも。
社労士の函崎です》
なんだ、コヤツか。
私の名刺を見て、さっそく掛けてきたのか?
手続きなら、今やってるよ。
進捗確認なら、ウザい。
「こちらこそ、お世話になります。
赤石さんの件なら、早急に対応いたします」
《ありがとうございます。
でも、ちょっと別件でお伝えしたいことがございまして》
何だ?
まだ何か続くのか?
「誰?」
片谷課長が、興味深げに訊ねてきた。
例の社労士です、と、こっそり伝えた。
おお、と片谷課長は嬉しそうな声を上げる。
他人事だと思ってるな。
その態度、何かムカつくから、ここにいる全員を巻き込んでやろう。
私は、スマホをテーブルの上に置き、スピーカーモードにして、函崎氏の着信をオープンにした。
「今、ちょうど労務課のスタッフが集まっています。
伝達事項は、皆で共有いたします」
《そうですか……わかりました》
函崎氏は、少し躊躇気味に声を詰まらせた。
《新たに退職代行を引き受けました。
今度は10名です。
全員が第3ロジセンターの方々です》
「んなにーー!」
叫んだのは片谷課長だよ。
私じゃないよ。
少しは驚いたけどね。
片谷課長の雄叫びにじゃないよ。
私と仲ちゃんは、クールビューティーを目指してるんだ。
滅多なことでは、乱れたりしないからね。
でも……正直……少しだけ驚いた………




