巨大な光
冥獣は脇目も振らず、こちらに飛んでくる。木の幹にぶら下がるアドニスたちはいい的だ。
「踏み潰すつもりか」
冥獣は勢いのまま、その巨大な足をこちらに向ける。
「だが、この程度ーー」
攻撃が届く直前、アドニスは上へと跳んだ。
そのすぐ真下を、強い振動と共に、冥獣の鉤爪が突き刺さる。危ない所だった。だが、これで冥獣の顔近くに出ることができた。形勢逆転だ。
「他愛もない」
アドニスは冥獣の顎に向けて、強烈なアッパーをみまう。その威力は、彼の五、六倍はある冥獣が上に吹き飛ぶ程。
後は、冥獣の弱点である球体を取り出せばいいだけだ。しかしーー
「ん?」
突然、アドニスは空中で大きくバランスを崩す。
「なんだ? まるで何かに引っ張られているような……」
よく見ると、彼が腰に提げていた袋が、上昇してきた冥獣の爪に引っかかっていたのだ。
気づけば、手の紋様が薄っすらと光を発していた。これが光る時には、決まって理不尽な不幸が訪れるのだ。
「またこれか……」
気づいた時にはもう遅い。冥獣の身体が落下を始めた。道連れになるように、アドニスも勢い良く下降する。
「まずい」
早い所、袋と爪を切り離さなければ。
しかし、アドニスが攻撃しようとすると、タイミング悪く冥獣がもがき出し、狙いが定まらない。それが数回連続で起こったのは、もはや不運としか言いようがなかった。
「荷物は諦める」
アドニスはズボンに結んだ袋の紐に狙いを変えた。軽く引っ掻くと、それは簡単に切れた。
「よし」
彼は冥獣の身体を蹴飛ばし、その反動で再び木へと近づく。そして、右手を幹へ突き刺した。落下の勢いは中々収まらず、木肌は下へ下へと抉れていく。
数メートル程下がってから、ようやく落下は止まった。
「リゼ」
呼びかけてみるが、依然反応はない。苦しそうな息づかいだけが聞こえるだけ。
「…… 死ぬのか?」
なんだかそんな予感がした。
「どうすればいい。俺には人間の治し方なんてわからない。せめて、他に人間がいれば」
だが、既に村の人間は全滅してしまった。アネモネなら治し方を知っているかもしれないが、それまでリゼが持つかどうか。
この数日の生活で、彼女と友達になれるのではないか、という考えが頭の片隅に浮かんでいたのだが。それも実現できなさそうだ。
『冥霧に呑まれてない場所は、ここだけじゃない』
そういえば、アネモネはそんなことを言っていた。
『他にも生きてる人たちがどこかにいるはずだから!』
もし、彼女の言葉が本当なら。
「そうだ、王都…… 地図には、村とそこだけにひし形が付いていた。もし、あれが灯晶塊の印だったら」
そうと決まれば、急がなくては。
アドニスは一息に木を降りていく。しかし、その方向から、あの冥獣の甲高い声が響き渡った。
「しぶとい奴だ」
既に再生を終えた冥獣が、物凄い勢いで上昇してくる。翼を乱暴に動かすその姿は、自棄でも起こしたかのよう。
「消えろ、お前に用はない」
アドニスが拳を振り上げる。
だが、彼の攻撃は当たらなかった。冥獣が彼を無視して、真横を通り過ぎていったのだ。
「ん?」
なぜ。
その疑問はすぐに解消された。
「グァァァァァ!」
駆け上って来る、身体が揺さぶられるような低い音。下を見る。
こちらに迫って来ていたのは、ぱっくりと開かれた巨大な顎門であった。人間の脚程はありそうな、長く鋭い牙。おそらくその全身は、さっきの鳥型を遥かに超える。
「こいつから逃げていたのか」
たぶん、この冥獣の狙いは鳥型の方だ。だが、それの進行方向上にはアドニスたち。避ける時間はない。
彼は再び拳を構えた。
「邪魔だ」
肉にめり込むような鈍い音。アドニスの攻撃は、冥獣の上顎を確実に捉えていた。
だが、おかしい。
「効いてない」
冥獣の上顎は無傷。同等の力がぶつかり合い、両者は完全に停止する。
いや、このままでは押し負ける。アドニスは咄嗟に、拳の力を真横に向けた。
「ぐっ!」
アドニスは弾かれるように、宙に吹き飛ばされた。そのまま受け身も取れず、地面に腹を打ちつける。幸いリゼは振り落とされていない。
「なんて力だ……」
アドニスが起き上がると、冥獣は既に頭をこちらに向けていた。彼を敵として認識したらしい。
その全貌は、昔存在していたという竜にそっくりだ。全身のほとんどが結晶に覆われているが、泥を浴びているらしく、体色は土色をしている。
「よくわかった。俺に勝ち目はない」
アドニスは冥獣に背を向け、走り出した。後ろから、地響きとけたたましい叫び声が追ってくる。
だが、幸いすぐ先は、巨大な木々が乱立している地帯。小さな生き物が逃げるには最適だ。あそこまでたどり着ければ。
杖はさっき落としてしまった。アドニスは片足で、跳ねるように前に進む。
「間に合え」
後数メートル。このまま行けば、大丈夫だ。
いや、とアドニスは思った。本当にこのまま何事もなくたどり着けるだろうか。そんな疑念は、足先に感じた引っかかりによって、現実のものとなってしまう。足が地面を離れる。
「そうなると思った」
目の前に地面が近づいていく。
「まだだ」
アドニスはすんでの所で地面に手をつき、手と足に力を込める。蝶の紋様はしっかりとチェックしていた。
「俺はこいつと友達になる」
アドニスはそのまま前へと飛んだ。そして、木立の小さな隙間を抜ける。
直後、後ろの木々に巨大な物がぶつかる音がした。振り向くと、よだれを撒き散らす冥獣の口。だが、それ以上は入ってこれないようだ。
しばらくすると、冥獣は諦めたのか、どこかへ消えてしまった。
「おい、リゼ。王都に行けば、お前の寒さを治せるはずだ。それまで生きていろ。いいな?」
リゼに言い聞かせる。
アドニスは王都を目指し進み始めた。
それから数時間、彼は休みなく走り続けた。時々、リゼの容態を確認すべく立ち止まる事はあったが、それもほんの一瞬。
彼女を助けなければ。もちろんその行動の根底にあるのは、己の利益。だが、彼自身、なぜ彼女にここまで固執するのかわからなかった。
「ここは」
森を抜けて、打ち開いた平地を進むアドニス。
周囲には、冥霧に呑まれる前の、建造物の残骸などが残っていた。全てが朽ち果てていて、植物が伸びるための支えと化している。
ポケットに入れていた地図を見てみると、ここはおそらく、王都近くの小さな町のようだ。
「ママ……」
うわ言のような声が微かにした。
「王都までもう少しだ。まだ死ぬなよ?」
「うん……」
大丈夫だ。絶対に間に合う。
整備された道の跡を辿って、アドニスはさらに先へと進んだ。
そして、一時間が経った。
「ここが、王都……」
アドニスは再び地図を確認する。
確かに、目の前には巨大な都市を思わせる、城壁や城が広がっていた。その悉くが倒壊していて、もはや瓦礫の山と表現した方が正しいが。
灯晶の灯りらしきものは、どこにも見当たらない。暗くて荒涼とした大地が、延々と続いている。
「おい、誰かいるか!」
アドニスの叫び声は遥か遠くへと消える。返ってくるのは、冥獣が発する不気味な鳴き声だけ。
「誰もいない」
それがわかると、不意にリゼの吐息が大きな存在感を放って聞こえた。
アドニスは近くにあった平らな岩に向かって彼女を下ろし、自分はその手前で座る。彼女は死人のように白くなった顔をこちらに向けた。
「当てが外れた。もうお前を助けられない」
地図を見る限り、この近くにはもう村も町もない。
何となくわかる。リゼの命は、次の場所まで持たない。
「死か」
酷く重い意味を持った言葉。
だが、アドニスにその重みはわからない。
「人が死ぬと悲しくなる、とアネモネが言っていた。悲しいと、涙が出て、胸が痛くなるらしい。だが、お前が死ぬというのに、俺は全くそんな風にならない」
アドニスは自分の胸を思い切り殴ってみた。痛くも痒くもない。何も詰まっていない、乾いた音が鳴るだけ。
自分は人間でないのだと、再確認させられる。
「教えてくれ。こういう時、俺はどうすればいい? 人が死んだ時、村の人間は涙を流したり、崩れ落ちたりしてた。そうした方が、人間らしいのか?」
この期に及んでもなお、アドニスはリゼの気持ちを汲み取ろうとしない。ただ、自分が感情を獲得する上で必要な情報を得ようとしていた。この行為が一番人間のそれから外れていると、彼は気づいていない。
「ここにいて……」
「それだけか?」
「うん…… もうどこにも行かないで……」
「…… わかった。それが一番人間らしいのなら、そうする」
アドニスはただ、リゼが少しずつ死に向かって行くのを眺めた。顔色一つ変えずに。
彼女は今何を思っているのだろう。
突然、前方から大きな雄叫びが響いた。
顔を上げると、そこにいたのは予想外の姿。
「あの冥獣は……」
数刻前に襲って来た竜型の冥獣だ。撒けたと思っていたが。
それは真っ直ぐこちらに突進してくる。今回は、近くに遮蔽物はない。
「あいつ、確実に殺せる時を狙っていたのか」
もう終わりだ。二人ともここで死ぬのだ。
いや、助かる可能性のある方法は一つある。アドニスだけが助かる方法が。
彼はリゼに目をやる。
「もし、あの冥獣が飢えているだけなら……」
今、アドニスの頭の中にチラついているは、道徳から外れた醜い考え。だが、そこを許容すれば、合理的な行動とも言える。そして、彼は善悪に対する知識はあっても、悪を責めるだけの良心を持ち合わせていない。
彼はリゼを両腕に抱えた。
「ママ…… ?」
細く目を開くリゼと目が合う。
何も知らない純真無垢な彼女は、単に抱っこをされたと思ったのだろう。安心し切ったように目を閉ざした。
「俺は一体何を……」
アドニスは自分の取った行動が理解できなかった。
彼は冥獣に背を向け、自分の体を盾にしていたのだ。当初頭に思い描いた方法とは、真逆のことをしている。
今から他の選択をする時間はない。
「ハオスを倒して、アネモネを助けるはずだった…… それに、友達も…… 結局、俺は何もできずに……」
地面を踏み鳴らす音はもう間近。
アドニスは自分の死を悟り、目を閉じた。真っ暗な視界の中で、ぼんやりと眩い笑顔がこちらを向いているのが見えた。
「アネモネ……」
十、十一、十二。
三十秒が過ぎた。おかしい。一向に冥獣が襲って来ない。それだけではない。冥獣の発していた音の、その全てが消えていた。
アドニスはゆっくりと目を開ける。
「なんだ、どうなってる…… ?」
アドニスは何度も目を擦った。だが、景色は変わらない。
彼の視界一杯に広がっていたのは、途方もなく巨大な光の柱であった。