とある少女の独白
私の故郷は、犬に殺された。
などという文章を書こうものなら、聡明な読者の皆様の頭上には、幾つかのクエスチョンマークが浮かぶことだろう。
すなわち、「故郷を潰す犬って、どんな化け物だよ!?」とか、「故郷を殺すって、言葉の遣い方としておかしくないか?」とか、「そもそもお前の”故郷”ってどこだよ?」とか、「そもそも”私”って誰だよ?」とか、そんな疑問が思いつく。思いついて然るべきともいえる。なぜなら、単純に文章として理解できないからだ。現象として観念できないからだ。
自らの経験則上理解の及ばない事象に対して、人は疑問を呈する。その疑問を解消していくことで、人は種としての進化を、延いては個としての成長を遂げてきたのである。そうであるなら、上に記した”その文章”に疑問を呈するのも当然であるし、”それらの疑問”が生じてしまうことを止められようはずもない。
ゆえに私は、あなた方を責め立てることなど、決してできない。
もし仮に、“その文章”にいう「私」とは私のことであり、私にとって”その文章”は簡潔にして明確な事実の摘示であり、須く理解の範疇にあるのだとしても、私はあなたを糾弾などできやしない。
私を理解せよなどと、強制するなどできやしない。
人に理解されないことは悲しいことだとは言うけれど、それは全くもってその通りで、それを自覚すると心が少し冷たく感じる。生まれついてより知っていたわけではない。最近知ったことだ。
“それ”は私のエゴでしかないことも知っている。
誰もが誰かに共感されることを望んでいるし、誰もが誰かに共感することに疲れを感じる。この二方向のベクトルが噛み合わない限り、具体的には、片方が正反対の方向に転じない限り、その想いは決して叶わない。そして、この両片思いが解消されることは、非常に困難である。これは一般論だ。
一般論とは、”一般の人ならばそうであるという理論”のことだ。つまり、一般人ですら人の共感は得にくい。ましてや、一般の人よりも共感され難い過去を持っている私であるならば、尚更に共感など得られようはずもない。
そして、共感とは友人作りのために非常に重要なツールである。自分に共感してくれることは、友人たるに必要な最低条件とも言える。笑いのツボが同じだったり、過去に児童養護施設に通っていたという境遇が同じだったり、そういう、自分と同じ内面を有する人でなければ、ともに笑い合うことや、ともに悲しむこと、それどころか、気軽な談笑すら行えない。
それほどに、「共感」とは、友達作りに欠けてはならないピースなのである。
そして私は、人と共感することも、人に共感してもらうことも難しい境遇にいる。なんせ、齢3歳にして「犬に故郷を殺された」のだ。その後にも紆余曲折あって、唯一無二の経験しかしてこなかったと自負できる。通ずる境遇を持った人など、世界中を探しても他に一人いれば御の字である。おそらく、私はその人と生涯の親友となれるだろう。それほどまでに私は特殊なのだ。
以上のような理由で、私は友人を作る能力に著しく欠けている。
ゆえに私は、永遠に一人ぼっち。
略して「えぼっち」である。
Q.E.D
「−−−−なんて始まりも良いかもしれないわね。私の自伝を書くとしたら」
冬の初め、半月の浮かぶ寒空の下で、そう呟いた。
風は頬を撫で、冷たさに肌が引き締まる。目、耳、鼻などの五官を遮りたくはないから、顔面に防寒具をつけることはできない。顔が霜やけしないか心配だ。
私はいま、高さ50mはあろうかという大樹の天辺から、粉雪の舞う森を見下ろしている。
高いところから眺める森林は、大地の力強さと木々の優しさに満ち満ちているように感じる。まるで、母親の我が子に対する愛情そのもののようだ。記憶の奥底にある幼き日の記憶を思い出しながら、そう思った。
ちなみに、なぜ私がこんなところにいるかというと、特に意味はない。
高いところが好きだから登った。それだけだ。
だから、さっきから特に何を考えるでもなくボーっとしている。
「……あ、そうだ。今後は”えぼっち”って名乗ろう」
改名することにした。
さっきノリで浮かんだ名前だが、今の私を如実に表しているいい名だと感じたのだ。
「あ、ついでに泥棒からも足を洗おう」
私は名を変えるときはそれまでの人生そのものもガラリと変えることにしている。勿論、人生を変えるために名前を変えることもあるが、今回のようなこともままある。それくらい軽い人生なのだ。好きにやっている。
「あと、友達作ろう」
軽い人生とは言ったが、それでも人肌恋しくなることは多い。友人と笑い話をしながら同じ鍋を突きあう、そんな人生に憧れたことも一度や二度ではないのだ。だから、”えぼっち”の人生は、友達作りを目標にすることにした。
「永遠の一人ぼっちが友達作りに奮闘する人生か……。いいね」
そんなことを呟いてみる。丁度”アラン”として請け負っていた仕事がついさっき全て終わったところだったので、なればこそと、今まで歩んできた人生と180°違うことをしたいと思っていたところだったのだ。新しい挑戦に、少しワクワクしてきた。
……いや、自分の心に嘘を言ってもしょうがない。ここは正直に言おう。
私は生まれてこのかた、友達ができたことがない。その反動だろうか、気付けば私は常に人肌の温もりを求める、超絶寂しがり屋になっていた。それも通常の寂しがり屋とは少し異なる。
普通、寂しがり屋とは、甘えん坊みたいなものとして捉えられるものだろう。人肌が近くにあるのが当然で、それがなくなると極度の不安を覚える。それが普通の寂しがり屋である。
しかし、私は人肌が近くにないのが当然な生活を送ってきた。となれば、そんな環境で生まれる寂しがり屋も、少々毛色が異なってくる。通常の寂しがり屋が人とのつながりが絶たれることに極度の不安を感じるのならば、私のような特殊な寂しがり屋は、人とのつながりを感じることに尋常ならざる悦びを覚えるのだ。
具体的には、他人との共感を感じた瞬間に、オーガズムに達するのである。率直に言えば、人と笑いあった瞬間にイク。泣き合った瞬間にイク。親友と本音で話し合うなんてことをした日にはテクノブレイクものである。
この異常体質に気付いたのは、今から丁度1年くらい前のことだ。「私、最近寝不足なんですよ〜」「え〜!? 私もそうなんですよ〜!」「え!? ほ、本当nぃんんイグゥゥゥゥゥ!!!」みたいな会話をした。ちょっと、いや大分引かれた。
そこで私は人と触れ合うこと、共感しあうことの気持ち良さを知ったのである。
私はその時の経験が忘れられないでいた。あの絶頂の記憶をどうやっても塗り替えることができないのだ。一人でナニをどうしてもあの快を超えることができない。どうやら、最上級の快感を植えつけられてしまったらしい。
だから、私は再び、あわよくば今後恒常的に、あの気持ち良さを味わいたいと常々願っていた。あの快感さえ感じられるのであれば、今までの人生の一切を棒に振っても構わないとさえ思っていた。
だから私は友達を作ることにした。
理由は単純だ。
イきたいから。
人間の根源的欲求を満たすことは、なんと素晴らしきことだろうか。