ある晴れた日に
「僕、初めて離婚するならチハルが良いと思ってるんだけど君もそう思うなら結婚してみないか?」「なにそれ。そんなプロポーズ聞いたこともないわ。でも私も同じ気持ちよ。結婚しましょう」我ながらなんて後ろ向きなプロポーズだ。しかし、何事にも疑ぐり深い僕は永遠の愛なんてとても信用できないし、だいいちそんなことを言うキャラでもない。だから一番素直な気持ちを言葉にした。そして、そんな最低なプロポーズを受け入れてくれるような人だから僕も生まれて初めて結婚を意識したのだ。しかし、そんな素敵な非の打ち所がない嫁に僕はこれから残酷な宣告をしなければならない。どんなに日頃良い行いをしてても神様がいつも味方してくれるとは限らない。
「大事な話しがあるんだ」「なによ改まって」「この家を出て行く」僕達は都内の3LDKに住んでいた。家賃は馬鹿にならないが共働きでなんとかやっていけてる。「…理由は?」チハルはこういうとき、なんでよ?と怒ったり泣いたりするような女ではない「行かなければいけないところがあるんだ」「何処よ?」「それは説明のしようが無いし言っても信じてくれないと思う」「………戻ってくるつもりはあるの?」こういうときも彼女は必要以上のことは聞かない。「いつになるかわからない。すぐ戻れるかもしれないし」「もう戻らないかもしれない?」「あるいは」チハルは僕にとって最高の女性だ。これから先、彼女以上に綺麗な女性、魅力的な女性には出会えるかもしれない。でも僕にとっての僕とこれから先、付き添っていく女性として考えるならチハルほどピッタリな女性はいないだろうし僅か2年間の夫婦生活だったが(敢えて過去形にしておく)彼女ほど一緒にいて僕が自然でいられる人はいない。誰が見ても手放してはいけないと言うだろう。でも、どうしようもないことは起こり得る。何処で生まれようが誰に生まれようが。当たり前の日常は簡単に終劇をむかえる。だからこそ我々は常に今に感謝すべきなのだ。大好きな人がいるなら尚更。そんな運命の日をむかえるキッカケになったのは一本の電話だった。
「もしもし。今お時間よろしいでしょうか?」電話で目を覚ました僕は半分寝ぼけながら対応していた。「はい。なんでしょうか?」「先日ウチの娘のレナが亡くなったことを誠に勝手ながら登録してある番号の方々に報告させていただいておりまして」その名を聞いて一気に目が覚めた。忘れられない忘れてはいけない名前。彼女と過ごした日々は今でも僕が生きていくうえで欠かせない思い出だ。「あの、線香とあと少しの時間でいいのでお話しを聞かせていただけないでしょうか?」
レナの実家は僕の家からそう遠くなかった「わざわざすいません。あがってください」優しそうな人だ。目元がレナにそっくりだなと思った。線香などを済ませてお茶をいただきながら話しを伺った。「レナさんはよく貴方の話しを聞かせてくれました」「あら。変な話しじゃないといいけど」「とんでもない。レナさんは貴方が大好きみたいでした」「それは良かったです。優しくて親思いの良い子でした」「しばらく会ってないんですが結婚したと噂で聞いたのですが」「流れたんですその話しは」「え?」予想してない答えが返ってきた。「お腹に子供がいると聞かされたときは私もビックリしました。でも2人の意見を尊重しようと思いました。でも子供は生まれる前に命を引き取ったんです。まだあのコも若かったから気が動転してしまってね」「すいません。そんな話しをさせてしまって」「いえいえ。歳をとると話し相手がいなくなってしまってね。相手がいると幾分楽なんですよ」「そうですか。それからレナさんは立ち直れたんでしょうか?」「時間はかかりましたが。それから良い仕事に巡り会えたのも良かったんでしょう」「何をされていたんでしょう?」「精神科のカウンセラーです。天職だったんでしょう。いろんな患者さんに感謝の手紙を貰っていました」カウンセラー…何かが僕の中で引っかかり始めていた「僕もレナさんなら合っていると思います。失礼ですがいつ頃からレナさんの体調は?」「悪化したのは急だったんですがね。三年ほど前から、なんというか心ここにあらずというか何にも無関心な性格になってしまったんです。ご飯も食べなさいと言えば食べるんですが自分からは食べようとしないんです。どうしてそうなってしまったのか今となっては調べようもないです」三年前…どうやら僕の読みは当たってしまっているようだ。なんてことだ。彼女は僕の為に…
あてもなく彷徨っていた。最愛の女性に別れを告げ、”行かなければならない場所”を目指す。しかし何処へ向かえばいいのだろうか。あそこは僕の「兄ちゃん」声をかけられて思考が停止した「何処へ行くのか知らねーけど幽霊橋を渡るときは気を付けろよ」「幽霊橋?」「あそこには古くから言い伝えがある」「どんな言い伝えですか?」「そんなもんは知らん。でも良くない言い伝えだ。”幽霊橋を渡るときは気を付けろ”」時間を無駄にした。僕には行く所があるのだ。しかし何処に向かえばいいのだ。そこは”形のある場所”ではないのだ。途方にくれた僕はとりあえず真っ直ぐ進んでいると目の前に大きな橋が見えた。ここはまさか。”幽霊橋には気を付けろ”渡ってみよう。今の僕には怖いものなんて何もないのだ。
橋は見た目以上に脆い。一歩一歩ゆっくり歩いていても手すりに掴まっていなければ進めないほどだ。揺れている。揺れている。次第に社会との接点が僕から遠ざかっていく感覚に襲われる。ここは何処なんだろう?ここは幽霊橋だ。本当だろうか?何をもって証明できる?僕は誰だ?あてのない自問自答を繰り返しながら幽霊橋を渡りきった”気がした”しかし、その途端、視界は真っ暗になった。「戻ってきてしまったんだな」「あぁ。忘れ物を取りにきた」と僕は顔の無い男に言った。
「前より狭くなってないか?」「それはお前が前より成長したからだ」成長…成長なんてしてない。ただいろんなことを諦めただけだ。弱さや悪意、孤独や喪失感が生んでしまった”セカイ”。僕の”セカイ”。「あのコはまだいるよね?」「あぁ。行ってやれ。もう長くない。私も。この”セカイ”も」視界は真っ暗で何も見えないが”そこ”が何処にあるのかハッキリわかる。目的地が明確な場所にあるということはとてもありがたい事だ。人生もまた。
「やあ久しぶりだね」かつて直子さんだった人。あるいは直子さんという役を演じてくれていた人に言った。少し、いやかなり、前より痩せている「戻ってきてしまったのね」「君に会いに来たんだ」「どうして?」「君を救いに来た」「私を?救う?」「君は自分の本当の名前さえ知らない」「本当の名前?」「多分、君をとても求めているという僕の気持ちと、君の中にも僕に対するなんらかの思いがあったのかもしれないが。そんなお互いの思い、とりわけ僕の強い思いがこの”セカイ”に君を召喚してしまったんだ。ここは僕の”セカイ”。僕の裏側の”セカイ”とでも言っておこう。君がいて本当にありがたかったが、君はこんな所には来てはいけなかったんだ。現実の世界で生き続けけるべきだったんだ。僕なんかの為に…」あとは言葉にならなかった。「私はなんの為にここに来たの?」「君は多分カウンセラーとしてここに召喚された。この”セカイ”から僕を救うため。もう君は充分やってくれた。残念ながら君の体はもうないが君の”精神”だけがここで生き続けているのも不自然だ。さぁ一緒に帰ろう。レナ」
僕達はあてもなく彷徨い歩いている。早くこの”セカイ”から出なければ。しかし、どうやって?横を見るとレナの顔が真っ青になっていた。「どうした?大丈夫か?」「ううん。少し目前がするだけ」どう考えても嘘だ。立っているだけでやっとに見える。「少し休もう」その場に座った途端レナは横になった。「レナ!」「ハァハァ」おでこに手をやる。酷い熱だ。もしかしたらレナはこの”セカイ”の中で外に出たのは初めてなのかもしれない。「私…ね。ちょっと思い出してきたよ。私のこと。貴方のこと。初めて会ったときのこと」「新宿の喫茶店で君が声をかけてくれたんだ」「ううん。本当はその前から知ってた。いつも貴方は本を読んでたね」「他に僕を救ってくれるものが無かったんだ」「それが私にも伝わって、初めてだったの。誰かを救ってあげたいって思ったのは」「その後、君はカウンセラーになっていろんな人達を救ったんだ」「ううん。本当は私が救われてたの。誰かの為に生きるのが結局は自分の為になってるの」それは直子であったときのレナも言っていた。そしてそれは今でも僕の中で生き続けている言葉だ。「答えがあるかわからないけど…なんでここに来たんだ?」「会わなくなってからもずっと貴方のことを考えてた。多分、貴方を最後の患者さんにしたかった、から、かな…」もうダメだ。涙腺が馬鹿になっている。溢れ出る涙が悲しみ、後悔、怒り、あるいはそのどれでもない感情によってなのか自分でもわからなかった。「不思議な気分。私、優しい光に包まれている気がする」「レナ!」レナの体が透明になっていく。「レナ!一人にしないでくれ!!僕…僕も一緒に行っちゃ…ダメ…かな?」「ダメ。貴方にはまだ向き合わなければいけない現実がある。大丈夫。私はいつも側にいるよ」「レナー!!」そして僕はあの頃言えなかった言葉を言った「………」揺れている。世界が揺れている。ここは…”幽霊橋には気を付けろ”そうか戻ってきたのか。
僕はある高級老人ホームに来ていた。受付で名前を伝えリビングである人を待つ。「…お父さん」母親は去年亡くなった。元々親とはほぼ会っていない。苦手なのだ、親といる時間が。「はて、どなたでしたかね」父親は重度の認知症でもう息子の顔も覚えていない。「すいません。前に仕事でお世話になったものです」こういうとき息子だと言い張るのは認知症の方の対応としてはあまり良くない。相手に合わせるのが得策だ。「そうでしたか。月日が流れるのは早いものですなあ」会話が途切れる。いつもそうだった。元々口数が少ないのに不器用な性格がより無口にさせている。父親と中身のある話をしたことはほとんど無い。「失礼ですが結婚はしておられてるんですか?」いきなりの質問にとまどいながらも「はい、一応」と中途半端に返事をした。「お子さんはいらっしゃるんですか?」「いえ」「そうでしたか。子供はいいですよ」意外だった。父親とそんな話はしたことがない。「お子さんのことは…お好き…ですか?」「息子は特別ですね。好きとか嫌いとかでは語れませんね。でも常に心の奥底で思っております。親とはそういうものです」お父さん…そう呼んだことはあまり無かった。もっと呼んであげれば良かったのかもしれない。「息子が生まれたときは本当に嬉しかった。本当に可愛くて。この子の為に生きて行こうと思いました。しかし、やがて思春期をむかえ、口数も減っていってしまった。私に似て不器用な性格だったんでしょうな。何を考えているのかわからないときがよくありました」何処にも行けず何者にもなれない自分を受け入れられず辛い時代だった。「しかし良い嫁さんをもらったんです。息子にはあのコが必要だ。末長く仲良くやってほしい」チハルは今頃何をやっているんだろうか…「息子さんに伝えたい言葉はありますか?」「生まれてきてくれてありがとう」
胸が軽くなった気がする。お父さんの言葉を反芻しながらあてもなく歩いた。しばらく歩いてから通いなれた道に来ていることに気がつく。ここは…ここに戻ってどうしろというんだ。彼女は多分…「おかえり」「…チハル」信じられない。目の前にチハルがいる。「待っててくれたのか?」「うん」「あんな自分勝手に、説明も何もせず出ていった僕を?」「うん。私にはやっぱり貴方が必要だから」チハルは何も聞かなかった。何処に行っていたのか。誰と会っていたのか。「だって貴方が戻ってきてくれたんだからそれでいいのよ」この人には敵わないと思った。僕には勿体なさすぎる。僕もチハルが必要だ。ある晴れた日に僕は彼女の為に生きていくことを決意した。そして、その瞬間に行き場の無い自問自答の日々からやっと決別できたのだった…