第91話 森の熊さん
骨を噛み砕く音がする。ペタも肉を食う時は骨まで食うが、あんなにデカイ音はしない。一気に大量に、分厚い骨を砕かなきゃこんな音は出ない。
もう森からは他の音は聞こえない。鳥も虫もオランウータンも鳴いていない。俺は泣きたいけどな。
俺の飛び込んだ狭い洞窟には、あの巨体は入れないだろう。立ち上がれば5メートルはある体だ。あの前足を突っ込んで来たとしても、少し奥に逃げれば届かない。ここは安全だ。安全なはずなのに。
汗が止まらない。
俺が生物として絶対に勝てないと心の奥で思っているからだ。ヤツの目を見たらまともに動ける気がしない。逃げたい。
今、グリードベアは洞窟の近くで食事中だ。動物園のパンダのように尻を地面に着けて、前足で獲物を持ち上げて貪っている。これで俺との間に分厚い強化ガラスでもあれば、それこそパンダ感覚で眺められたかもしれない。だがそんな物は当然ない。
そしてこの2トンはあるパンダには白い部分は無いし、4本の前足で引き裂きながら食っているのは300キロの大イノシシだ。怪獣の食事にしか見えない。可愛さの欠片もない。テディさんと同じ方向性の生物とは思えない。
だが、それだけの大物を食えば流石に帰ってくれるだろう。足りなければデザートにオランウータンも2匹転がっている。
俺もヤツを見ているが、向こうにもこっちが見えている。お互いに丸見えだ。だが興味を示さない。十分な餌があるからだ。
今はまだ無理だ。だが、こんなのを何匹も相手に出来るようにならなきゃいけない。モンスターの大発生を潰すってのはそういう事だ。本当に出来るのか?
せめて、この体に施された宇宙人の謎改造のシステムを知りたい。
あの急激なパワーアップはどうしたら発生するんだ。自分で無理矢理その状態に持っていく事が出来れば可能性は見えてくる。怒りとかで目覚める感じじゃなかったな。
体重差は覆せないが、このナイフにもっとパワーが乗れば、あの分厚い体を切り裂ける。スピードが上がれば、あの爪も余裕を持って躱せる。パンチやキックが強化されれば肉弾戦でだってブチのめせるかもしれない。1発じゃ無理でも何十発も打ち込めば倒せるだろう。
もう大分前にやられた腹が疼く。傷は残っていないが、傷みの記憶は脳に焼き付いているようだ。体の一部を失った人が、無いはずの腕や脚に痛みを感じる幻肢痛みたいなもんか。そういや膝をやられた後かなり悩まされたな。
ペタの動きは感じない。よし、そのままじっとしてろ。ちゃんと迎えに行ってやる。もしくは実は近くにいませんでした、でも良い。
とはいえ、狭い洞窟の入り口から見えるのは巨大な熊の食事風景ぐらいだ。迎えに行くには、こいつがどこかに消えてくれなきゃいけない。
早く食い終われ、どっか行け。お客様、次が詰まっております。
1時間ぐらいは見守っていただろうか。いや実際はもっと短かったかもしれない。緊張感が時間の感覚を乱す。スマホなんか見る余裕は無い。
ようやく満足したようだ。パンダ座りをやめて6本足で立ち上がった。食いきりやがった。イノシシは残骸になった。
だが立ち去らない。何故だ。
グリードベアは4本の前足で地面に穴を掘り始めた。とにかくデカイ熊だ、一瞬で墓穴ほどの穴が開く。いや、これは墓穴だ。オランウータンをくわえ上げると穴に投げ込む。もちろん、弔いじゃない。
熊の習性の一つにエサを埋めて保存するというのがある。保存というよりは隠しているんだろうと言われているが、こいつもそうなのか。また明日にでも食いに来る気なんだろうか。
グリっと首が回った。目が合った。
咄嗟に洞窟の奥に跳ぶ。狭い洞窟内に身体中を打ち付けてしまったが、痛みを感じる余裕は無い。
ギリギリだった。さっきまで俺がいた場所に、グリードベアの巨大な前足が1本差し込まれ、土や岩を大きく削った。
やべえ、こいつ俺も保存食にするつもりだったのか。逃げずにボーッと見ている俺は、この化け物にとっちゃ喰ってくれと言っているように見えたかもしれない。
背中が洞窟の壁に当たっている。頭もかなり強く打った。ここにはこれ以上奥がなかった。完全に選択ミスだ。
ヤツの体は確かにこの狭い洞窟には入れない。だが俺も逃げ場がない。馬鹿だ、何故逃走ルートを確保せずに安心しきっていた。
ペタの事で頭が回っていなかったと言えば、その通りだ。だが言い訳にはならない。そもそも誰に言い訳するんだ?この化け物熊か?聞いてくれるはずがない。
洞窟が入り口から一気に崩されていく。固い岩も何も関係ない。狭かったはずの入り口はもう倍に広がっている。
熊は穴を掘る。特に冬ごもりなんかをする時には、狭い自然の穴を自分で掘り広げる事もある。
ああ、見たことあったよテレビでな。だけどそれが自分を追い詰める未来なんて誰が想像出来る?
広がった穴から前足が2本、そして熊の頭が入ってきた。気持ち悪いぐらいデカい、ペタなら口にスッポリ入る。そんな奴の、爪も牙も目も、全てが俺を殺そうとしている。
腰のナイフを抜く。まさかデビュー戦が最後になるかもしれないなんてドワーフのおっちゃんも思ってなかっただろう。悪い事をした。
これなら動きやすい外で迎え撃てば良かった。まだ可能性があった。今は部屋の隅に追い詰められたネズミだ。窮鼠だ。
だが少しは噛んでやる。近くにいるかもしれないペタに、手を出す気がなくなる程度には抵抗してやる。
一発でもまともに当たれば死ぬ。
いいじゃないか。銃と同じだ。俺がどれだけソレを相手に生き延びてきたか見せてやる。こっちは自動小銃まで相手したことがあるんだぞ。
急激に気持ちが冷えてくる。汗も引いた。ああ、そうだよ。ずっとこうだったじゃないか。俺はあの街で自分より強いモノ達を相手に生き抜いた。
化け物熊は穴を広げるのに一生懸命だ。爪を向ける相手が違う。俺も牙を持ってるんだぞこの野郎。
ガァッ
目の前に飛んできた投げナイフに反応し反射的に前足を振る熊野郎。デカいツラして繊細なヤツだ。当たったところでそんなに痛くないだろう。まずは1本、
鋭い爪が1本宙を舞う。右手でナイフを振り抜いた勢いは殺さず、左手で飛んだ爪を掴み取る。俺のナイフで斬れる硬さか、よしよし。爪のお手入れを続けようか。伸びすぎは良くない。
身体を1回転させて、握った爪を毛に覆われた前足に突き立てる。綺麗な切り口だ。ナイフのおかげだな、ドワーフのおっちゃん良い腕だ。
その切り口に足を当てる。返すぞ。全体重をかけて蹴り飛ばす。まあ体重差が激しい。飛ぶのは俺の方だ、洞窟の奥に逆戻りだ。
ガァァァ
腕にめり込んだ自分の爪に悲鳴を上げる熊野郎。狭い洞窟の中で叫ぶな。響いてうるせえ。
コイツの怖さは巨体から来るパワーだ。だが狭い穴に頭と前足2本を突っ込んでいる今、腕をちょっと振れるだけで他には何も出来ない。自分で動きを制限してやがる。
その無駄にデカい頭で、その事に気付くまでに何本手入れ出来るかな?本数次第で生き延びられる確率も上がるな。
背にした壁を蹴って再び接近する。振った腕がようやく戻ろうとしている。丁度目の前に爪が見える。少しだけ欲張ってみよう。
更に2本の爪が飛ぶ。行ける。今の状態じゃコイツは俺の動きに付いて来れない。
また悲鳴を上げる熊野郎。神経ごと抉ったか?猫の爪を切る時も切りすぎないように気を付けなきゃいけない。真ん中ぐらいまでは神経が通っている。血も出るぞ。
痛みのせいか、怒ったのか、全身を震わせて暴れだした。俺の一方的な爪切りタイムは3本で終了か。もう少し行きたかったが仕方ない。前足を突っ張って頭を上げようとしている。見えないが残りの足も踏ん張っているだろう。このままじゃ洞窟が崩れる。
頭の上に岩や土が降ってくる。腕で頭を守る。生き埋めになったら逆に助かったりしないかな。あ、2トンで踏まれたら潰れるわ。無理だな。じゃあ脱出しないといけない。
唯一の出入口にはデカいのが詰まっている。だが今はこっちを見ていない。じゃあどこを見てるんだって話だが、多分どこも見てない。ジタバタしてるだけだ。
子供が癇癪を起こして暴れてる。でっかい口を開けながらな。投げナイフが2本吸い込まれる。一瞬喉が詰まったように叫び声が止まった。流石に痛かっただろ。
更に激しい悲鳴を上げながら、洞窟から一気に体を引き抜く熊野郎。呼吸を合わせて俺も飛び出す。今コイツが俺を意識したら1発で前足の餌食だ。だが俺は見えていない。口の中にナイフが刺さった状態で、自分の顎の下に意識を払える奴がいたら尊敬してやる。
完全に体が外に出た。無理だとは思うが目の前に無防備な喉があったら試したくはなる。右からナイフを振り抜き、そのまま熊野郎の攻撃範囲から抜ける。途中にあった前足もついでに切り付けつつ走る。
少し遅れて洞窟の崩れる音が響いた。
ゾクリとした。冷たい殺気が背後から迫って来る。
十分に距離を取ったと判断したが、駄目だ。振り返らず全力で右に跳ぶ。右を選んだのは勘じゃない。俺はギャンブルはしない。
次の瞬間、黒い塊が俺の足スレスレを駆け抜けた。凄まじい音を立てながら倒れ始めた大木の向こうに、熊野郎が……グリードベアが立ち上がるのが見えた。
ようやく俺をエサじゃなく敵と見なしたか。出来れば駄々っ子のままいてほしかったんだけどな。叫び声も上げていない。ここからが本当の勝負か。
右に避けたのはやっぱり正解だった。俺が集中して痛めつけたのはヤツの右前足だ。走りながら振る事は出来なかったんだろう。もし左に跳んでいたら、この倒れていく大木と同じ最期を迎えていたかもしれない。
大木は有り得ないほど大きく抉れている。そこを支点に倒れていく。俺が素手で叩き折れる木は、この木に比べりゃ小枝みたいなもんだ。
どうする?選択肢としては2つある。単純だ。逃げるか、それとも戦うかだ。木が倒れきるまでに決めなきゃいけない。
逃げた場合、森の中での追いかけっこだ。平地なら間違いなく俺の方が速い。だが森では無理だ。俺が迂回するような木でも、お構いなしにへし折って最短距離で追ってくるだろう。
そもそも森の熊さんに出会って、2番目にやっちゃいけないのが背を向けて逃げる事だ。その気のない熊も本能で追いかけ始める。そういう事故は本当に多い。まあコイツは最初から追いかける気満々みたいだが。
ちなみに1番いけないのは死んだふりだ。熊は生きている動物を食うために殺す事は少ない。よっぽど腹が減ってれば別だが。ただ、既に死んでいる動物を見つけたらラッキーとばかりに食いつく。死んだふりは食べてくださいポーズだ。あと子熊にも近づくな。親が狂ったように襲って来るぞ。今は関係ないか。
じゃあ戦って勝てるか、もしくは撃退出来るかだが。
俺は出来ると踏んだ。
今は倒れていく木の向こうに隠れて見えにくいが、ナイフに手応えが残っている。ヤツの首と右前足にかなりの傷を負わせた。
初めてグリードベアと戦った時は、命懸けでも転がす事しか出来なかった。だが今の身体能力と戦闘技術、それにこのナイフがあれば、勝てる。
なんて戦闘中に勝ちを確信するのは油断でしかない。俺は何を相手にしているか忘れかけていた。化け物だ。
倒れきる直前だった大木が俺に向かって飛んできた。上下左右どこにも逃げ場なんて……
両腕でガードしながら後ろに跳ぶ。だが吹き飛んでくる大木の方が速い。そうだよ、ここは障害物も利用できる何でもありルールだった。いつの間に健全なリングに上がったつもりでいた。
過信の代償は高くついた。
読んでくださってありがとうございます。
油断大敵。




