鏡 3
頬を撫でる柔らかな風に目を開く。剥き出しの両足には草の感触、顔を上げた先には銀色に輝く森。
切火は再び夢の場所に立っていた。
ぐるりと見回す。たしかに同じ場所に見える。
切火は確信した。
(やっぱりあのかがみのせいだったんだ!)
万が一転んで目が覚めないように、足元を見ながら慎重に浅瀬を進む。
打ち寄せる波に対しての恐怖はもう無い。前回の盛大にコケて目が覚めるという記憶が、そういった感情をうまい具合に相殺してしまったようだ。
「ママはどこにいるんだろ……」
泉に視線をやりながら母を探す。けれど寝る前に父の話を聞いたからだろうか?昨日ほど集中できない。
いつの間にか目線は足元あたりをさまよい、歩みは止まっていた。
「どこにいるの……?」
ぽつんとつぶやく。
返事はない。聞こえてくるのはザーッという、水が小石の上を走る音。
虫や鳥の声すらしないこの場所は、どれだけ耳を澄ましても木々の葉や草が擦れるさらさらとした音が聞こえるばかり。
綺麗だが、とてもさみしい所。
自分の存在の方が異質と思えるほどの静寂の中、ふと思う。
(ママはせっかをおいてけぼりにして、どっかにいっちゃったんだ)
かっと目元が熱くなる。
(きらわれちゃったのかな。すてられちゃったのかな)
気に入らなくなったおもちゃみたいに。
切火が、ママを死なせたから。
(やだ。やだ。やだやだやだやだっ!)
強烈な拒否反応が幼い心を掻き乱す。それは叩きつける濁流の強烈さと共に、霧のように自分の中にある何もかもを覆い隠そうとするよう。
息もできなくなりそうな混乱の中、ついに涙があふれた。
「ひっく、……そんなの、やだよぅ……!か、かえってきてよぉ」
相手も分からず懇願する。けれど聞いているのは冷たく輝く月だけ。どんなに泣こうが叫ぼうが月はただこちらを無関心に睥睨しているのみだ。
足が震え、胸が焼けるように苦しい。それでも切火は、ママぁ、と繰り返しながら泣き続けた。慰めてくれる人はここにはいないのに。父も、もちろん母も。
いまだ知らない『喪失』という言葉が、ここまで身を切り刻むほど辛く苦しいということを切火は悟った。
そして。
スン、と鼻をすすり、最後の一滴を濡れた手で強引に拭う。
泣き続けた体はからからになり、熱を持ったようにずんと重い。
人間の体というものはきっと涙で出来ている、と思った。そうじゃなければどうしてこんなに空っぽになれるだろう。
虚ろな気持ちのまま、切火はとぼとぼと歩き出す。
当てはない。目覚めてしまえばいいのかもしれないが、そもそも意識がある状態での目覚め方など知らないし。
なにより、ただここに立ってじっとしているのが辛い。
どれだけ歩いたか。
ぴた、と足が止まった。
振り返る。目を凝らすのは立ち並ぶ木々のずっと先、青い薄闇が佇む更に向こう側。
気のせい、だろうか。
「ううん」
気のせいじゃない。確かに聞こえる。
「……な、に?」
最初は分からなかったが、じっと耳を欹てる。
微かな叫び声の切れ端みたいな、明らかに自然の音とは違った『何か』がした。
「ッ!」
切火は考えるよりも早く音のする方へ飛び出した。
ザッザッザッ
進路に飛び出している邪魔な細い枝を振り払い、まばらに生えた下草を蹴り上げる。
夢の中で走っても体は一向に疲れない。ただ一心、がむしゃらに進む。
それこそ風のように。
「はぁっ、はぁっ」
影法師のような木々が途切れたと思った瞬間、幕を切り裂いたように別の光景が現れた。
「!うわぁ……」
夜空に浮かぶのは巨大な月。大地に広がるのは一面の、――――草の海。
ザァッ
森の中よりも幾分強い風が吹き付け、切火の小さな体がよろめいた。
風に煽られた草原の植物たちは、まるで海のように大きくうねり、長い波を作っては風のかたちを残す。
草原はしばらく平地が続き、その先はなだらかな坂、盆地と続いている。あまりに広くてその先はさすがに見えない。
森に比べて月光を照り返すものが少ないせいか周囲は暗い。
しかし時折ススキめいたものが草の間からのぞき、煽られては振りまかれる細かな光の粒をこれ以上ないほど際立たせていた。
森の中とはまた違った景色。切火の心が瞬時に惹きこまれたのは言うまでもない。
喉を鳴らしながら、おそるおそる森の境目から足を踏み出した。
進む程に草丈は高く、五歳ながらも長身な切火の肩まで覆い始める。時折ススキの綿毛がふわふわと頬を撫でる感触がなんともくすぐったい。
背丈よりも高いものは手でかき分け、ようやく平地の終わり、一段低くなった場所を一望できる場所まで出ることに成功した。
そして、微かに聞こえていた音の正体は―――。
切火は母がここにいるんじゃないかと一抹の期待を抱いていた。
だから素直に心境を語るなら、ガッカリした、というのが正しい。
なぜならそこに居たのは意外な、なんとも意外な。
「こど、も?」
小さな影。遠目で年はわからないが、切火よりも小柄な印象だったので年下かもしれない。
その子は勢いに任せて、自分よりも背の高い草の中に頭から突っ込むように走っていた。
(あぶない!?)
と思ったが、運動神経がいいのか、一度も転ぶことなく進んでいく。その子はどこかに行こうとしているのか、わき目も振らずに走り続ける。
「なに、してるのかな……?」
一心不乱に走るその姿に先程までの自分を重ね、好奇心が沸き上がる。
目で追いながら、切火は引き寄せられるように坂を下っていった。
盆地にたどり着くと更に高くなった草丈のため、視界が完全に利かなくなってしまった。そのため謎の子供の位置は完全に見えなくなったものの、走っている音は前よりもはっきりと聞こえていたので方向には困らない。
そこからもっと先に進むと、ガサガサという物音が自分の方向に向いているのに気づいた。このままここに立っていれば、ほぼ確実に行き会うに違いない。
そわそわする気持ちを持て余しながら、もうすぐ遭遇というところで切火はとあることに思い至り、青くなった。
(どうやってとまってもらえばいいんだろ!?)
相手が走ってきたところに飛び出し、……たその後は?
(かんがえてなかったよう!!)
無言で立ち塞がるような勇気はない。そんなことは『しつれい』だ。
「ど、どうしようっ」
そうこうしているうちに音が近づく。
切火があうあうと唸りながらも息を殺した真横。
飛び出してきた。
「っ!?」
「ひゃ……っ!!」
切火の右手側から飛び出した人物は、切火を避けるように素早く体を引いた。が、一瞬遅かった。
ゴチンッという見事な音を弾き出し、お互いきれいに仰向けに転がった。
ぶつかった頭が痛い。目がチカチカするのに何度瞬きしてもチカチカが消えない。
「っ、だいじょうぶ?」
起き上がりしなの勢いに乗せて「ごめんなさいっ」と一気に口走る。『やばいと思ったらな。兎にも角にも先に謝っときゃなんとか勝つ』これは大好きなおじいちゃんの談だ。勝つの意味が良く分からないが。
「ッ……!」
だが効果は覿面だったようだ。
向こうは我に返って文句を言おうと口を開きかけたが、切火が青くなりながらも一気に謝ってしまったので、中途半端な形に口を開いたまま固まった。ようやく閉じた後も気持ち的には煮え切らないようで、頬は引き攣ったままだったがそこは見なかったことにする。
明らかな怒気を孕んだ相手に、切火の顔も引き攣る。
(どどどどど、どうしようッ!?おこってる?おこってるよね!)
こちらとしても止める気ではあったが、その手段がまさか体当たりになるとは思ってもみなかったのだ。自分は悪くない。悪気など全然無かったのだから悪くないと言いたい。
だがそんなことが通用しないのは幼稚園児でも知っている。
じわじわと伝わる静かな威圧感に恐怖は倍増。
内心なさけない悲鳴をあげつつ、びくつきながら切火はおそるおそる問いかけた。
「あの、ほんとうにごめんね?あと、きみ、だあれ?」