鏡 2
これはきっと『まほうのかがみ』なんだ!
この日の昼下がり。切火は朝からひたすら首から下げた鏡を観察していた。
母が亡くなってからしばらく。今度は異様なまでに鏡に執着し始めた娘を奇異に思いつつ、父は無くさないようにと細いチェーンを鏡につけてくれていた。
改めて。
鏡の大きさは、子供の手の平大のまんまる。幅が1センチほどの木製の丸い枠が嵌っており、特になにか宝石的なきらきらした物は付いて無い。ただ、円の外から内に向かって奇妙な形の浮き彫りが緻密に施されている。といっても五つの幼子からすればただ単にデコボコしているという認識だ。
その細かなでこぼこを指で引っかきながら、思うは白雪姫。おどろおどしい魔女が壁にくっついた大きな鏡に向かって話しかけているシーン。
つ、と指が止まる。
もしかして、と鏡を覗き込む。
この鏡の中にも妖精なるものがいるんじゃないだろうか?
頼んだら母に会わせてもらえるかもしれない……?
予想しているうちになんだかとってもいい考えだと思えてきたのでさっそく。
切火は周囲に人がいないのを確認すると、勇気を出して話しかけた。――――鏡に。
「かがみさん。せっかはママにあいたいの。あわせてくれる?」
しばらく様子を見る。
変化なし。
「かがみさん。おねがい、でてきて」
曇のない鏡面には切火の顔がくっきり映っている。喋ることはもちろん、ピクリともしないし光りもしない。
このあと水で洗ったり、振ってみたりもしたが効果はなかった。
ガックリと肩を落とし、恨めしげに鏡を睨む。
この鏡が原因のような気がするのに。
(ママはまほうつかいで、かがみのなかにかくれているのかなぁ)
子供らしかぬため気をつき、切火は窓の向こうの空を見た。
なんの変化もない抜けるような蒼天が、雑多に立つ建物を越えて拡がっている。ちぎれちぎれになって 流れる白い雲を見ながら、切火は一つの決心をした。
確かめるには実践あるのみ。切火はこの夜、鏡を両手に握り締めていた。
その日の夜。
「切火ちゃん、おやすみ」
「おやすみ、パパ」
切火は父に見つからないように鏡を布団の中に隠し、ギュッと目を瞑って眠りが訪れるのを待った。
しかし、緊張のせいか、なかなか寝付けない。
(ど、どうしようっ)
なんども寝返りを打つ切火に、まだ起きていた父が語りかけた。
「切火ちゃん、起きてる?」
「?うん」
「今日はなかなか寝んねしないね。パパが仕事から帰ってくるまで、いっぱい遊んでたのかな?」
「うぅ、うん」
実はとある検証をしたいのだが、緊張して眠れない。けれどもそんなことを正直に言えるはずも無く、 切火は曖昧に頷いた。父はそんな娘を知ってか知らずか、珍しく寝る前に語りかける。この時は知らなかったが、両親は大事な一人娘が夜更ししないように、就寝前にはあまり語りかけないようにしていた。
父は切火の方を見るように体の向きを変えた。
「切火ちゃん」
その声は珍しく強制的な何かを感じさせるもので、引かれるように切火は父の顔を見た。
「なあに?」
「切火ちゃん、ママが居なくなって寂しい?」
母が亡くなってはや2週間が経とうとしていた。当初は切火と同じように憔悴の色が隠せなかった父も、今では落ち着いて、事故の前と変わらぬ優しさを切火に向けている。
切火が母の死の原因と知ってもだ。
五歳ながらも切火は母の死に責任を感じていた。心の底では目を背けたがっていたのかもしれないが、 それでも母の死は自分のせい。
絶対的な確信であり、代えようも無い、否定しようも無い真実である。
そんな切火を父は一度も咎めもせずに受け入れていた。
子供の目から見ても、あれだけ母のことを大切にしていたのに。
なぜ、とは聞けなかった。
このことを父に聞いて、もし心の底にある恨みをぶつけられてしまったら?
考えただけでも体中が冷たくなる。きっと自分は父をも失ってしまうに違いない。
だから今、明らかに今までとは違う父の雰囲気に、切火は僅かに脅えた。
しかし心からの『本音』は、幼い葛藤をよそにスルリと零れた。
さみしい、と。
「そうだね。……パパも寂しいよ」
そこで父は遠くを見つめるように少しだけ視線を逸らす。少し間を置くように腕を伸ばして、いつものように切火の頭を撫でる。髪を撫でる心地良い感触に、反射的に目を閉じかける。
次に父が発した言葉を聴くまでは。
「パパが怖い?」
「え?」
ぎくりと目を開け、凍りつく。
「今の切火ちゃんはパパを怖がってる」
父の目は笑っていなかった。怒ってもいない。混じりけの無い真剣を放っていた。
「そんな、こと」
かろうじて反論が出かけるが、父は構わず続ける。
「でもね、パパは切火ちゃんを嫌いになんかなっていないから。君は今でもパパの、『パパたち』の大事な大事な娘だよ」
「パパ……?」
怖いくらい強烈な光が、ふっと和らぐ。
「今は眠って。君はこれからいろんなことを体験するだろうけど……パパは、いつだって君を支えて、護ってあげるから」
そう言うと父は、切火の体を布団の上からポンポンと叩き、話はこれでおしまいと言いたいのか、元の 体勢になって目を閉じた。
切火も戸惑いながら丸くなる。
正直にいえば話の後半はよく解らなかった。
けれど何か大切なことを言われた気がして、今見たこと、言われたことを覚えておこうと思った。いつか解る時が来るだろうか?
『君は今でもパパの、パパたちの大事な大事な娘だよ』
たった一言。まだ不安は消えないけれど、切火にとってその一言が掛け替えもなく望んだ一言だったのを、父は知っていたのだろうか。
罪は消えない。だけど。
「せっかも、せっかもパパたちがだいすきだよ」
だからきらわないで。
聞こえたかわからないくらい小さな声で呟き、瞳を閉じた。