序
人は彼を、鏡の魔法使いと呼んだ。
当代一、そして王国一よ、比類なき魔法王よと称え、同時に誰もが、時には主であるはずの王ですら、その眼に戦慄を宿すほどに彼を畏れた。
彼自身が望むと望まざるに拘わらず。
冷徹な光を放つ月が、森の中を行く一人の男の姿を照らし出していた。
長い黒髪は乾いた風に揺れ、頬は不吉なまでに白い。力なく歩き続ける男の姿はまるで幽鬼のようであった。
(なぜこうなってしまったのか……)
体が重い。足を一歩踏み出すたび、必死で鉛を持ちあげるようだ。潰れた片目から滴った血が、頬を伝い足元に点々と落ちる。
幼い頃より慣れ親しんだ道であるのに、斯くも遠く感じるのは己の心境故なのか。
激痛から情けなくふらつく体を辛うじて支えるのは、ひとえに“母なる場所に戻る”その一念のみ。故に、いつ倒れても不思議ではない。
無心になって足を動かす。そこにすべてを投げ出すつもりであった。
やがて土の色が変わったことに気付き、足を慎重に止めた。ゆるゆると顔を上げる。
懐かしい光景に、自然と目がを細まるのがわかった。
森はいつしか途切れ、目の前には泉が現れていた。
暗い湖面に映りこんだ月影、その上に生い茂る木々の黒い影が落ちている。
まるで魔物の牙が月に喰らいついている様だと、祖先はこの光景を称し、こう呼んだ。
月囓の泉。
男の一族が代々守り続け、また一族を外界から守り続けてきた母なる場所。
泉の縁に立つと、ほんの一瞬、肩の力が抜ける。
遥か昔、一族はここで誕生した。
(そして滅亡もまた、ここで迎えるのか……)
父母や兄弟、親しかった同胞は、皆死んでしまった。
己は残った。否、残ってしまった、最後の一人だ。
残った目から一筋の涙が零れた。
もう誰も居ない。生きる目的も、彼らと一緒に死んだ。
風が吹きつけ、やわらかく背中を押される。つられるように一歩、また一歩と泉に足を踏み入れた。
泉の中ほどまで進めば、腰まで水に沈んでいる。記憶どおりであれば、このまま二、三歩行けば大人でも足がつかないほどの深みに入る。
これで終わりだ、と水面を見下ろした瞬間、唐突に、どす黒い、痼のようなものがごぼりと身の内から噴きあがった気がした。
つられるように、のろのろと両の手に持っていた物を掲げる。
仄青く浮かび上がるそれは、鏡。
己の魔力の源であり、そして全てを失って尚、唯一傍らに残された物。
それは三尺ほどの楕円。
装飾どころが枠すら無い。羽のように軽く、氷河よりもなお冷たい、恐ろしいほどに澄んだ鏡面であった。
ふと、鏡の中の虚像と視線が交錯した。
一切の歪みも無い銀盤は、闇に浮かび上がった男の姿を正確に、また厳かに照らし出した。
黒髪の間から現れたのは、極限まで磨き上げられた宝玉の如き顔であった。片目が潰れても尚、凄絶なまでに他者を圧倒する、まさに傾城の美貌。
(…ッ!)
突如、尽きたと思っていたはずの憤怒、狂気、そして慟哭を織り交ぜた狂おしいものが、稲妻のように全身を打ち据えた。
内なる精神が絶叫し、迸る破滅願望のままに途方も無い、大地すら引き裂くと恐れられた絶大な魔力を両腕に集約した。
男は鏡に映った己を、残った右の瞳を、怨念すら込めて、見た。
「消えるがいい。何もかも」
ギィンッ、と甲高い音を響かせて、完璧な平面に無数の罅が蜘蛛の巣状に走った。
そして一瞬の光の爆発。
泉に降り注ぐ銀色。それを追うように、一つの影が消えた。