第一夜
月は狂気を意味する。
夜闇を照らす淡い光は人に安心を与えるが、同時にその神秘的な光は人の精神を刺激する。
月に魅せられた人間は獣へ成り果てる。
姿形が変わるのではなく、その精神が理性のない獣へ変質する。
人狼とは獣の皮を被った人間ではなく、心が獣と化した狂人のことを言うのだ。
月に魅せられ、その魂が人の域を超えてしまった存在。
月に近付きすぎた結果、太陽から嫌われた夜の住人。
そのような生物を人は………吸血鬼と呼ぶ。
赤と黒のチェック柄の服を着た青年が暗い夜道を歩いていた。
派手な服の上から煌びやかなアクセサリーを付けた成金趣味を思わせる男だ。
彼がカジノ帰りであることを知れば、余計にそう思うことだろう。
「今日も大儲けだったなぁ、スーリ!」
青年『ジュウール』は機嫌よく隣を歩く男に言う。
ジュウール自身もカジノでは名の通った男だが、それでも彼の友人には劣る。
スーリ、と呼ばれた友人はジュウールとは対照的な服装をしていた。
燕尾服に黒いネクタイ、頭には山高帽まで被り、仰々しい格好。
杖代わりに持った閉じた蝙蝠傘は、正に絵にかいたような紳士のようだ。
「くくく、あれくらい簡単さ。人の目を欺く方法なんていくらでも思いつく」
紳士然とした格好の割に、その笑みは少女のように幼かった。
容姿も女性的だが、口調から判断するに恐らく性別は男性だろう。
「やっぱイカサマかよ! 悪い奴だなぁ」
言葉自体は非難するようでありながら、ジュウールは満面の笑みを浮かべていた。
元々一人でも稼ぐことが出来たが、彼と組んでからは最高だった。
歴戦のディーラーすら見逃す技の数々に、どんな相手でも手玉に取る話術。
外見こそ二十代後半くらいに見えるが、時に老獪な老人のようにジュウールには見えた。
「さーて、今日はどこに遊びに行こうか?」
スーリの言葉にジュウールはニヤッと笑った。
隣を歩くスーリの肩を軽く叩く。
「今日は俺に任せてくれよ。イイ女を紹介するぜ」
「ほほう、それってどんな子?」
「お前好みの女を揃えておいたぜ!」
グッと親指を立てながらジュウールは笑う。
それを見て、スーリも同じような好色な笑みを浮かべた。
緩んだ口元を隠すように手を当てる。
「それはイイね。久しぶりに楽しめそうだ」
「…だけどよぉ、あんまりマニアックなプレイはやめた方がいいぜ?」
「これくらい普通さ。ちょっと噛んだりするだけじゃないか」
自分の性癖をあっさりと口に出す姿は潔く、ジュウールは少し感心してしまった。
まあ、スーリは容姿も整っているから相手の方も本気で嫌がったことはないのだが。
今日集めた女もスーリの名前を出したら、やけにあっさりと集まった。
これが稼ぎと顔の差か、とジュウールは少し暗くなる。
「っと、そろそろ待ち合わせ場所だぜ。その裏だ」
カラフルな看板が目立つバーの裏に回りながら、ジュウールは言う。
スーリも笑みを浮かべたまま、その後に続いた。
明るい表通りから外れた裏通り。
電光の入り込まない薄暗い暗闇の中に、一人の少女が佇んでいた。
思わず声をかけようとして、ジュウールは動きを止める。
「………………」
歳は十七、八くらいだろうか。
色鮮やかな服は動きを阻害する程に重く、華奢な体を覆い隠している。
その服の上からは月明かりで光る羽衣を纏っており、天女のような幻想的な印象を受ける。
「…おい、ジュウール。流石に若すぎないか?」
幻想的な光景に言葉を失っているジュウールの頭をスーリは軽く叩いた。
それで正気に戻ったジュウールは思わず辺りを見回す。
裏通りにいるのは目の前の清楚な羽衣の少女が一人。
当然ながら、彼女はジュウールが呼んだ娼婦ではない。
「…あ、あれ? おかしいな。確かに場所も合ってるし、時間も合ってる筈」
時計を確認しながらジュウールは、無意識の内に前に進む。
そんなジュウールを羽衣の少女は無表情で眺めていた。
「娼婦と言う人種は、愚かな人間の中でも特に愚かな人種だと思いませんか?」
澄んだ声が月夜に響いた。
思わず羽衣の少女の方を見ようとしたジュウールの足に何かがぶつかった。
ぶつかった衝撃で薄暗い裏通りをボールのように転がっていく。
月明かりで照らし出されたその正体は、女の首だった。
ジュウールが呼んだ娼婦の首。
「なっ……あっ……え?」
「そして、その娼婦に蛾のように群がる男は、それ以上に愚かです」
瞬間、夜闇の中を星屑が駆けた。
無数の光が裏通りを照らす。
その正体が小さな流れ星だと頭が理解した時には、ジュウールの首は地に落ちていた。
地を転がる首を羽衣の少女は冷たい目で見下していた。
「やっと見つけましたよ」
羽衣の少女は無表情のまま視線を男に向ける。
この凄惨な光景を前にしても、顔色一つ変えていない男。
スーリの顔を注意深く見つめる。
「惚けても無駄ですよ。あなたが我々と同類であることは血の臭いで分かります………忌々しい吸血鬼の恥晒しめ」
「吸血鬼、ねえ。最近の吸血鬼は随分と豪快な食事を好むようで…」
首を失って血溜まりに沈むジュウールを見て、スーリは呆れたようにため息をついた。
その顔に悲しみや怒りの感情は見えない。
友人の死よりも飛び散った血が靴に付着したことを気にしているようだ。
「あなたが行方を晦まして数年、一体人間社会で何を企んでいたのですか?」
「何も。ただ人生を楽しんでいただけさ………ギャンブルに女遊び…人間の娯楽も案外馬鹿に出来ないね」
スーリの退廃的な笑みが気に食わなかったのか、羽衣の少女の手元が怪しく光った。
再び星屑が駆け巡り、風のように素早くスーリの左腕を掠める。
スーリ自身が痛みを感じるより先に、その左腕は宙を舞った。
「『蝙蝠』…私はあなたの戯言を聞きに来た訳ではありません」
羽衣の少女は冷たい目で相手を見下しながら、殺意を向ける。
「私の名はヴェガ。吸血鬼の総意の下、あなたを処刑に来ました」
まるで演劇のように大袈裟な動きと共に、少女『ヴェガ』は宣告した。
それを見て『蝙蝠』と呼ばれた吸血鬼は笑う。
「蝙蝠とは随分懐かしい名前だ。今はスーリと名乗っていたんだが…」
蝙蝠の左腕がメキメキと音を発てて、再生する。
月の魔力によって肉体を再生する、吸血鬼特有の能力だ。
生え変わった左腕で山高帽を抑え、口元を吊り上げる。
三日月のように歪んだ口元からは、尖った牙が見えていた。
「人間のギャンブラー『スーリ』は廃業だ。今宵よりまた吸血鬼へ戻る」
笑う吸血鬼の背後から羽ばたく音が響き渡る。
小さな赤い光がヴェガの姿を見つめていた。
「それでは左腕の礼だ。吸血鬼『ルーセット』の魔力、存分に味わってくれ」
瞬間、牙を剥いた蝙蝠達がヴェガへ襲い掛かった。
凶暴な蝙蝠達は甲高い声を上げながら、目の前の贄を貪る。
その寸前に、星屑に触れて消滅した。
「………おや?」
それを見て、吸血鬼ルーセットは冷や汗を垂らしつつ呟いた。
吸血鬼
・吸血鬼は血を吸うことで人間から力を得る。