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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第二章 賀茂編
30/31

【 十四 】


()ってぇ……」

 わずかな浮遊感ののち、激しく地に叩きつけられ、晴明は呻きながら身を起こした。しっかと掴んでいた袂がするりと手中から抜ける。

 晴明はぱっと面を上げる。

 見慣れた顔を冷笑の形に歪め、佇む保憲――土師道敏。

 そこは、大内裏の北にあるため、北野と呼ばれている野のど真ん中だった。菅公が祀られる場として選んだ地。

 月光だけが明かりの中、二人は揺れる夜風の中にいた。

 晴明はよろめきながら立ち上がった。鬼を睨み付けながら、低い声を絞り出す。

「一つ教えろ……。お前の身の主はどうなった」

「興味はないが、教えてやろう」

 乾いた声音で、死者ののどを使って土師道敏はいう。

「死んだ」

 晴明は噛み砕くといわぬばかりに奥歯を噛みしめた。

「貴様が……、貴様が殺したのか!」

「興味はない」

 土師道敏はつまらなそうに吐き捨て、南の方に白い面を向ける。

「……内裏はあちらか。あそこに憎き時平と血を同じくするものがいるのか。これでまた……、道真さまの恨みを晴らせる……」

 歩み出そうとする土師道敏の前に、晴明が立ち塞がった。

 顎を引き、上目遣いになった晴明は強く強く唇を噛みしめている。

 血を吐くようにして叫んだ。

「その身で人は殺めさせんぞ!」

「ならば――」

 顎を上げ、土師道敏はゆるりと目を細める。

「お前から殺めてくれよう!」

 雷音とともに雷光が閃く。

 素早く後ずさった晴明は空一杯に相剋の図を描いた符をばらまいた。

()(ぎょう)(そう)(こく)(ことわり)にて(こく)せよ(こく)(こん)(こく)(もく)!」

 符に描かれた図すべてに雷が落ち、焼け落ちる。

 晴明は素早く空に印を結った指を走らせた。

(りん)(ぴょう)(とう)(かい)(じん)(れつ)(ざい)――」

 (ぜん)、の一言がのどに引っかかって出なかった。

 躊躇し、動きを止めた晴明の足に何かが絡んだ。ぎょっとして足許を見下ろす。土の腕に足首を掴まれ一歩も動けなくなった。

「その身をずたずたに引き裂いてくれるわ!」

 叫び、土師道敏が晴明に肉迫する。伸びた鋭利な爪が振り下ろされた。顔に食い込む寸前、晴明は辛うじて手首を掴み取る。

 突き飛ばさんとするが、叶わず、人の力とは思えぬ強力(ごうりき)に晴明の顔が苦痛に歪んだ。

 爪の先がゆるりゆるりと、晴明の目に近づいていく。

 風がざぁっと野を吹き渡った。

 はっと目を見開いた晴明は、食いしばった唇から低い声で押し出す。

東風(こち)吹かば、匂いおこせよ――」

「何!?」

 驚き、土師道敏は後ろに飛びし去った。

 晴明は土の腕に手を押し当てながら読み終える。

「梅の花、(あるじ)なしとて春を忘るな!」

 腕が一瞬にして砕け、土に戻った。顔から色を失った土師道敏が叫ぶ。

「なぜ貴様は我が師の歌を詠む!」

「……梅がなぜ咲かぬか、知っているか」

「梅、梅だと? 梅がどうしたというのだ!」

 あまり怒鳴ることのなかった保憲の怒声が鼓膜に突き刺さる。

 晴明は奥歯を噛み、噛みしめて拳を固める。

 もと兄弟子の顔を見据えた。

「お前のお師さまが愛でた梅の花だ。梅はお前が居るために咲かぬのだぞ……」

 土師道敏が訝って眉を寄せたようだった。

 草がさらりと鳴る。

 晴明は密かに袖の中で(たい)(しゃく)(てん)の印を結んだ。

「梅が貴様という存在を嫌っているからさ!」

 晴明は思いきり地を蹴った。

「インダラヤ・ソワカ!」

 不意を突かれた土師道敏は逃れきれず、胸ぐらを掴まれた。突き出した彼の手に雷光が閃く。しかし雷光を肩に押し当てられても、晴明は()(じろ)ぎもせず。

「何!?」

 晴明は両手のひらを死者の胸に押し当てた。

 一瞬の躊躇ののち、咒を叫んだ。

(さい)()っ!」

「っ!」

 土師道敏の全身が強張り、指先が空を掴み取ってその場に崩れ落ちた。

 呪力を強引にねじ曲げた晴明は、荒い呼吸を呑み込んで一歩退き、力を失って片膝をついた。

 悔しさと拳を草地に叩きつける。

「……畜生!」

 保憲の身は傷つけられない――。

 すべての呪力を叩き込めば、土師道敏の魂は追い出せる。

 だが、器の肉体は耐えきれずに傷ついてしまいだろう。

 本当に死んでいなくとも、本当に死んでいたとしても、彼の身を傷つけることに躊躇いが湧く。逡巡する。

 兄と慕った男の身を誰が傷つけられる!

「……痛い」

 不意に物静かな声がつぶやいた。

 ぎくりと顔を上げた晴明は、草の間から伸びている手を見つける。

 ぼやりと浮かび上がった白い手は、何かを探すよう、彷徨っていた。

「や、すのり……?」

 思わず手を伸ばし、その手を掴んだ。ひやりと冷たい。晴明は息を呑んだ。それは生者の体温ではなく、死者のそれだった。

「――っ!」

 ぐいっと引き寄せられ、抗う間もなく爪が肩に食い込んだ。晴明は悲鳴を上げて身を仰け反らせる。鋭い爪が肉を裂き血を散らす。

 肩に刺さった手首を掴むが、引き抜くほどの力はなかった。

「イン……ダラ、ヤ・ソワカ!」

 晴明は()(めい)のうちに帝釈天の真言を叫んだ。

 土師道敏の爪が唐突に抜け、激痛が身を貫く。

 反動で吹き飛ばされ、晴明は草の中で二転ばかり転がった。

 慌てて膝をつき、ふたたび懐をさらう。その手に触れたのは、符ではなく布だった。訝り探る彼は、不意に思い当たって、悲しみに唇を引き締めた。

 保憲が持たせたお守り――。

 探るうち、指先が引っかかって口の紐が解け、中身が零れた。晴明は手中に零れたそれを唖然と見つめる。さらりとした清涼な香りが鼻をついた。

「……梅花?」

 晴明は慌てて身を捻った。手中から梅香を散らしながら飛びし去り、膝をつく。彼のいた場所に雷光が落ち、薄紅の花弁を焼いた。それを逃れた梅花を柔らかな夜風がさらう。

 肩の痛みを堪え、晴明は素早く立ち上がった。

 身からこぼれ落ちる梅花を掴み取る。

 真正面から、怨みに満ちた道敏の顔を見据えた。

「怨みの鬼のまま……、死にたいのだな。それが貴様の選択か!」

 晴明の血に濡れた手を舐め、土師道敏は全身に雷光をまとわりつかせる。その瞳の中で炯々と怨みが踊り、歪んだ面は鬼そのものと化した。

 鬼は右手を高々と振り上げる。

「幾度も邪魔をした代価よ、消し炭となるがいい!」

(もっ)()()(ごん)(すい)の五行は(あま)(つち)の狭間に巡り――」

 晴明は両手で梅花を包んだ。

 轟音とともに落ちた雷光が草木を焼く。だが晴明の身に閃光は刺さらず、雷は空を裂き土を抉って土砂を弾き上げた。

 雷光を嫌って目を閉じた晴明は、呪詛がとけ、今まで以上に身に満ちる力――そのすべてを梅花に注ぎ込む。

「万物流転の梅花を相生相剋に()し――」手中が淡く光り出す。「万物の(ことわり)(こん)(こく)(もく)(もく)(しょう)()に集ず!」

 ふわりと手を開けば、五枚の花弁が、五行の、五星の巡りを描いた。

 相生を意する円と相剋を意する図が光で結ばれる。

 晴明はそれを高々と掲げ、声を限りに叫んだ。

(そう)(しょう)(そう)(こく)せよ!」

 視界のすべてを光が焼いた。

 息もできぬ強烈な光と力があたりに満ち満ちる。

 晴明は思わず顔を庇い、忘れていた肩の激痛に呻き、その場に倒れ込んだ。




 誰かが肩に触れていた。じくりと膿むような痛みが肩から全身に広がる。晴明はうっすらと目を見開き、身をよじった。

 視界が輝きに覆われている。

 未だに梅花の影響が続いているのだろうか……? いや、そんなはずは。

「!」

 驚き、晴明は身を起こした。

 そこにいるのは、束帯を身にまとった一人の男だった。その全身はうっすらとした輝きに包まれている。

 晴明が見上げると、男はほのかに笑った。

「……あなたは」

 柔らかい光に包まれた指が空を示した。

 たった一つ、夜空で動かぬ星。

 (ほっ)(きょく)(せい)

 晴明は意味がわからず、窺うように男の顔を見た。だが男は手を下ろすと、二歩ばかり進み、手のひらで大地を示す。意味を悟って、晴明は思わずめまいも忘れて立ち上がった。

 男の足許まで駆け、膝を落とす。

 そこには青白い、死人の顔色で保憲が横たわっていた。

 傾いた月の光の中、その遺骸は土と血に汚れて、浄衣は見る影もない。

 息を呑んだ晴明は一縷の望みをかけ、己の血に濡れた兄弟子の手を握りしめた――やはり、死人の冷ややかさ。

「保憲……」

 名を呼び、冷えた骸を掻き抱いた。ほんの少し前、確かに生きて話していた身は、凍えるほどに冷たく、重い。

 ――救えなかった。

 夢を見、死相も見えていたというのに、救うことはできなかった。

 晴明はぎりりと奥歯を噛み合わせる。

 その唇から止めどもない後悔が漏れ落ちた。

「畜生……、何が人を越えた力だ。何もできないじゃないか。何もできてないじゃないか……っ」

 死者の胸ぐらをぎゅっと掴む。

「保憲……、頼むから、頼むから――目を開けてくれ……。お前が死ぬなんて許さないからな……!」

 滲む晴明の視界で、つと光が動く。

 菅公を見上げた。

 光る菅公の手が兄弟子の、致命傷となった傷に触れた。

 晴明は言葉もなく右大臣にまでなった老人の顔を見る。

 先ほど見た北極星が脳裏を過ぎった。ある考えが閃き、まさか、と晴明は縋るように夜空を見上げる。

 北極星……。

 北は、北極星の居所だった。天の中央に鎮座する、満天の星のすべての神、つまり北極星を(てん)(てい)(たい)(いつ)(しん)という。太一神は陰陽道で人の生死をつかさどる神、(たい)(ざん)()(くん)と同神だった。そして天帝とは、密において帝釈天を()する……。

 菅公が復讐の許しを得たという、帝釈天。そして、土師道敏も天帝の名を口にしていたという。天帝の許しがあるのだ、と。

 北極星、天帝太一神、帝釈天。

 ――この一致は、何を意味するのか。

 立ち上がった晴明は茫然として、腰をかがめている菅公に目を当てた。

「菅公、まさか……、この、北野の地を選ばれたのは」

 北という名がつけられた地は、呼ばれ続ける限り北になるのだ。

 そして何よりも、空を動かぬ北極星は、皇祖の天照大神と習合されていた。陰陽道に基づいて作られた伊勢神宮には、北極星――天帝太一神の呪が多く隠されていると、保憲はいっていた。

 梅紋の中心で守られた太陽、日の神として仰がれる天照大神。

 つまりは、伊勢神宮の内宮に祀られる帝の皇祖。

 晴明はそうっと問いかける。

「菅公、あなたを神となされたのは、天照大神……なの、ですか?」

 しかし、菅公は保憲の身に手を押し当てているだけだった。

 その手がゆるりと離れる。

 束帯を揺らして立ち上がり、菅公は何かを祈るように北極星を仰いだ。

 その身からはらりと梅花が落ちる。

「!」

 空を舞った梅花がふたたび強烈な光を放った。晴明は身をよじって顔を庇う。その光がゆっくりと薄れていき、ふっと消え、晴明はよろめき膝をついた。

「頼むから……、何度も光らないでくれよ」

 彼はまたも視界を焼かれ、痛む目を押さえて唸った。

 ふと、己とは違うもう一つの呼気が耳に届いた。夜風に揺られた草の音に消えてしまいそうな小さな音ではあったが、確かに、聞こえる。

 じっと耳を澄ませていた晴明は、菅公が北極星を指さした意に気付き、素早く身を持ち上げた。

「!ッ」

 ぶんと、背後で空気が鳴った。

 反射的に身をかがめた晴明は手を突き出し、砕破と叫んだ。術を放った反動を堪えることもできず、保憲の側に倒れ込んだ。

 がさり。彼方でも一つの影が草の中に落ちる。晴明は素早く膝をつき、懐をざらりと探った。残された符はたったの一枚。

 しゃらり、と錫杖を杖に浄衣の男が立ち上がった。

 晴明は淡い月明かりの中、相手の顔が兄弟子とうり二つであることに気付き、ぎりりと奥歯を噛んだ。

「貴様が……、貴様が保憲を殺したのか!」

 だが験者の目は周囲を彷徨っていた。

 晴明に一瞥をくれず、不思議そうに周囲を眺め回す。

「あの鬼を調伏したか。……いや、違うな。あの鬼は消えていない。……何をした?」

「答えると思っているのか!」

 いきり立つ晴明を見、験者はゆるりと目を細める。

「まぁ、どうでもよいことか。一泡吹かせてやると思っただけのこと。守らねばならぬ京を掻き回されて、息子を殺されて、賀茂忠行はさぞ苦しんでいるだろうな。……その苦しみの中で、殺してくれるわ」

「それが貴様の狙いか!」

 悲痛な声にも気持ちを動かされず、験者は、賀茂保憲に似た面をただ歪める。いきなり晴明を見据えた。その瞳には憎々しげな光と、苦悩に満ちた何かが宿っていた。手にした錫杖が威嚇的にじゃらっと鳴る。

 験者が錫杖を握りしめ、地を蹴った。

「化け物めが!」

(すみやか)(すべから)(こう)(ごう)を垂れ給へ!」

 放った符が振りかぶられた錫杖によって破られた。験者は打ち下ろした錫杖を突き出し、晴明の胸を狙った。

 辛うじて躱した晴明だったが、足許がもつれにもつれ、草に足をとられる。

 体勢を整える間もなく後ろに倒れ込んだ。

 験者が大きく踏み込む。じゃらりと錫杖が鳴った。

「死せよ賀茂の弟子!」

 晴明の目前に錫杖が迫った。

「――!」

 突然、験者の身が大きく揺らめいた。

 晴明は投じられた影に気付き、そちらに驚きの視線を向ける。

 始めてあった時のよう、良源が背後に馬を連れて佇んでいた。その隣には能宣も立っている。

 良源の手は(ない)(ばく)(いん)を結んでいる。

「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタラヤ・ウンタラタカンマン……」

「晴明さま!」

 能宣が倒れた晴明に気付き、青年のもとへ走った。

 験者は横目でそれを眺めやる。憎々しげにつぶやいた。

「これで邪魔は二度目、鬱陶しい僧だ……」

 浄衣の験者は背中に手を伸ばすと、投じられた独鈷を引き抜いた。流れ出た血が飛び散って背を伝う。良源が結んだ内縛印に捕らわれ身動きがままならない。それでも彼はどうにか身の前後を入れ替え、異相の僧と対峙した。

 良源は月光の下、赤い唇をゆるりと歪めた。

「怨みというのは恐ろしいものだ。時に、人に恐ろしい力を与えてしまう。お前の力は大したものだが、それを強めたのは怨みだな。何が……、お前を復讐に駆り立てているのだ?」

「父に見捨てられ、独りで生き抜かねばならなかった俺の気持ちなど……、貴様にわかるものか」

 験者は縛を解く隙を狙いつつ、語を続ける。

「祖父は俺の前で験者の手にかかって殺された。それからなんの力もなかった父は、不気味だと俺を捨てた! 実の子の俺をだ!」

「――――」

 叩きつけられる言葉が凶器であるかのように、良源はぐっと眉を寄せて叫ぶ青年を見据えた。

 その彼に向かい、賀茂の縁者は心のうちを吐露するかのように声を荒げ続ける。

「呪わしいのは賀茂の血よ! こんな力さえなければ、賀茂の血など引かなければ、俺は――、実の父に捨てられることもなかっただろう。賀茂の血を怨むこともなかった。賀茂の血など、化け物の血などこの世に不幸しか招かぬ。身内の始末は身内でつけるのだ。もっとも厄介だった賀茂保憲はすでに()った……。残りの三人の弟も必ず俺が始末する。その父親もだ! ……忠行は、俺の父、その腹違いの兄弟よ。もっと苦しめて殺してくれるわ!」

 口端を歪め、賀茂の縁者は壮絶な笑みを浮かべた。

 ゆるりと目を細め、良源は風を感じるようにゆっくりと顎を上げる。

 悲哀を美麗な面に浮かべて独りごちた。

「……怨みが吹き上げる炎ほど、赤いものはないな」

 僧は手の印を素早く(けん)(いん)に結い変えた。

「オン・キリキリ」続けて(とう)(いん)。「オン・キリキリ」

 はっと面を上げた験者が印を結ぼうと両手を上げる。だが腕は激しく震えてわずかも持ち上がらず、彼は愕然と目を見開いた。

「ただの不動(ふどう)(きん)(ばく)(ほう)ではない……!」

「俺の生まれも晴明と同じく鬼よ。ゆえに、こういったこともできるのだ」

 良源はいいながら色の違う目で相手を見据え、一歩一歩、確かめるように近づきながら、手早く(てん)(ぽう)(りん)(いん)を結った。

「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタラヤ・ウンタラタカンマン」

 真言が紡がれるたび、身を苛む激痛に顔を歪め、験者は抗いながら細かく唇を震わせる。

 良源の手は素早く()()()(いん)を結んだ。「ノウマクサラバタタ・ギャテイヤクサラバ・ボケイビャクサラバ・タタラセンダ・ナカロシャケンギャキサラバ・ビキナンウンタラタ・カンマン」(しょ)(てん)(きゅう)(ちょく)(いん)に変える。「オンキリウンキヤクウン……」

 良源はふと、軽く瞑目した。

「だが、俺も己の力を恨んだことのある身だ。お前に同情しないわけじゃない……」

 ()(ばく)(いん)

「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタラヤ・ウンタラタカンマン……」

 不動金縛法が完成した。

 これでもう、験者は身動くことすらできぬ。

 魂魄すらここに縛られた。

 良源はゆるりと印を解き、眉を寄せて悲しげに験者を見つめる。つとその手を上げた。験者は底の知れぬ目で僧を睨め付けている。その顔には、土師道敏と同じ怨みが濃く浮かび上がっていた。

 僧はかすかな逡巡を一瞬で振り払う。

「これがお前を救うことになるか、破壊することになるかはわからん。だが、強すぎる怨みは間違いなく身を滅ぼすだろう。……人を怨むことなど、忘れるがいい」

「!」

 賀茂の縁者は驚きに大きく目を見開いた。良源の額に、うっすらと角のようなものが現れたのだ。見る間に上げた手の爪が伸びていく。激痛と恐怖に顔を引きつらせる彼の胸に、良源は鬼と化した手を押しあてた。

 低い声で一瞬にして唱え上げる。

「ノウマクサンマンダ・バサラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン――」

 験者の身を不動明王の索が覆った。

 良源は目を閉じて意念を凝らすと、右足を引きざま拳を作り、光とも紐ともつかぬ索を一気に引き剥がした。同時に左手で弾指する。賀茂江人の孫はふらりと身を揺らがし、目を閉じると、草の上に崩れ落ちた。

 良源の手上には赤い炎が燃えている。

「赤いな……、怨みの火はどこまでも赤い」

 ぐっと握りしめると、真っ赤な焔は一端激しく燃え上がったが、すぐに燃え尽きて消え、あとには何も残らなかった。

 角が消えた頭を巡らし、良源はふと空を仰ぐ。

 色の違う瞳に有明の月が映った。




「晴明さま!」

 衣が汚れるにもかかわらず、能宣が草を掻き分けて晴明のもとまで駆けた。血の滲んだ肩口の傷に形のよい柳眉を寄せる。

「早く、傷の手当てをしなければ――」

「保憲!」

 能宣の手を振り払い、晴明は叫びながら立ち上がった。草を掻き分け、横たわっている兄弟子の傍らに立つ。

「保憲……」

 膝を落とし、そうっと、手を伸ばす。震える指の先でゆるりと胸が上下した。晴明を追ってきた能宣が驚きに立ち尽くす。彼の目には、保憲の身にまとわりつく神気が映っていた。

 その神の気は、天つ神の末裔たる能宣がよく知るもの。彼はあまりの驚きに唖然とし、愕然としつつ晴明を見た。

「ま、さか、菅公が……?」

「北は、北極星。北極星は天帝太一神であって、命をつかさどる泰山府君……。一つの命を引き替えに、死者に命を与えるという神だ。そして、天帝太一神は」

 能宣が引き取る。

「天照大神でもある……。では、北野の地が選ばれたのは」

「あぁ、理由があったんだ。だから菅公は、北野の地に()らねばならないんだ……」

 いいつつ、晴明はそうっと保憲の胸に手を乗せる。

 心の臓がとくりとくりと脈打っていた。

 浄衣は血に濡れ、検非違使の矢が掠めたか二の腕に傷はあったが。

 間違いなく――生きている。

 告げる晴明の声が掠れた。

「生きてる。生きてる。菅公が……、命を……」

 能宣も保憲の手に触れ、そのあたたかさに身を震わせる。

 思わず袖で目頭を押さえる。

「よかった、本当に……よかった」

 晴明は保憲の手を握りしめた。あたたかい手がかすかに動く。兄弟子の目蓋が震えたような気がして、顔に手を伸ばした。

 血痕を指先でぬぐい取る。

 急に、ちりりと首筋の毛が逆立った。

「!」

 晴明は身構えながら振り返った。

 良源の傍らに、見たことのない独りの青年が立っている。白一色の、験者の装束をその身にまとっていた。彼の手に錫杖はなく背に笈も背負っていないが、身なりから験者であると知れる。

 いや――、人ではない。

 能宣も面を上げて眉を寄せる。

「……誰、ですか」

 見知らぬ青年は腰をかがめ、賀茂江人のもう独りの孫を立ち上がらせた。薄汚れた浄衣の埃を軽く払ってやって、子にするよう、袂の形を整えてやる。そうして解れた髪を優しい仕草で撫でつけた。

 晴明はじっと青年を見据える。

 あの青年は生身の人ではない。人ではなく――。

「式神だ。式神だが……、何かが変だ」

 その青年は目を移しかえ、良源に向けて頭を下げると、賀茂の童子と呼ばれていた験者の手を引いて歩き出した。

 賀茂江人の骨によって作られた式神の手が――験者の衣服をまとった青年の手が、見えぬ錫杖を握ったよう、前に突き出された。

 しゃらり、と涼やかな音が響く。

 良源が軽く頭を下げる。

 釣られ、晴明と能宣も頭を下げた。

 歩み、遠ざかっていく二人の姿がうっすらと消えていく。

 しゃらり。

 しゃらり。

 草原を渡る錫杖の音だけを残し、その姿が失せた。

 良源は右手をさらに後ろへ引いた。彼はすべての索を手繰りよせ、二人の姿が消えたあたりに目をやった。

「怨みをすべて忘れ、もう一度、生き直すがよい……」




 その翌日から、京は梅香に包まれた。

 松、楓、桜、木というあらゆる木に梅の花が咲いたのである。

 神祇官、真言院、陰陽寮から喜ばしい(ずい)()であると帝に奏上された。

 空気すらも薄紅に染まる中、七日目に賀茂保憲は目を開けた。

 その次の日、梅は散った。




第二章 賀茂編が終わりました。

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