【 二 】
二
保憲は書物に目を通すこともなく、よどみなく説明を続けた。
「これはあまり公にはいえないのだが、菅原道真公――菅公の追放には密かに陰陽師も関わっているといわれている。藤原時平さまが勅宣と偽って、菅公を呪詛するまじものを埋めさせたらしい。これは、父上からこっそりと教えてもらった話なのだが……」
「だからお前の口が重いのか」
晴明がぶっきらぼうに漏らした。
保憲は眉をひそめながら空を睨みやる。
「それから菅公は筑紫に下向し、その地で延喜三年(九○三)、如月の二十五日、己を陥れたものたちを怨みながら失意のうちに没したといわれている。あとは……つとに有名な話だな。多くの方々が不可思議な死を遂げ、菅公の祟りとされた。さらに一例を挙げるならば――」
「あぁ、もういいよ」
不意に晴明は手を上げて、不躾に兄弟子の語を遮った。彼はあぐらを崩しながら、時に生き字引とも称される青年を細めた目で見やる。ふと気付いて、艶やかに光る床板の上で視線を彷徨わせた。
「そういえば、菅公が特に祟りを向けた藤原時平の長男だった保忠が少し前に死んだんじゃなかったっけ? 物の怪に憑かれて、枕元で坊主の読経に“宮毘羅大将”とあるのを、“我をくびる”と読むと恐れたとかどうとかで……祟りに関わって、どれくらい死んでるんだ?」
「延喜八年から延喜十年まで疫病や日照りが続いているから、厳密に何人とはいえないんだ。これらも菅公の祟りに加えられることもあるからな。洪水などでもかなり亡くなってもいる……」
保憲が指先で腕を叩きながら天井を見上げる。その彼の袂に、どこから入り込んだのか子犬がじゃれついていた。茶色の子犬は揺れる衣を捕らえようと幾度も飛びついている。
兄弟子は指先で軽く犬を遠ざけた。
「菅公が亡くなられて二十年後、つまり延長元年のあたりでようやっと、菅公の怨霊が祟っているのではないかとの噂が出始めたはずだ。とすると……」
「俺が生まれたあたりか」
「そうなるな。だから二十年ばかり前になる。菅公が亡くなってからすでに四十年あまり……、か。そういえば、清涼殿に落雷する前の延長元年には、内裏にて大祓を行い、菅公を右大臣に復して正二位を追贈し、追放の詔を破棄しているんだ。つまり菅公の冤罪を認めたんだな。その上で、翌月に雨や洪水、疫病を理由に延喜から延長に改元しているんだが――」
「なんにも変わってないわけだ」
今でも祟りは続いているからな、と晴明が引き取って肩をすくめる。保憲は膝に乗ろうとする子犬を困った目で眺めやった。
「冤罪で流したという自覚があるだけに、恐れる気持ちもまた強いのだろう。自覚は恐れに繋がり、恐れはさらなる恐れに繋がる。宥めたとしても心の隅では思うてしまう。これでは駄目だろう、と。そのためか、怨みに応ずるよう、祟りもずっと続いているのだ。やはりというべきか、藤原時平さまの血の筋ばかりに……」
「保憲」
いきなり低い名を呼ばれ、驚きに身を震わせた青年は急いで立ち上がった。御簾のそばに師匠であり父である賀茂忠行を見つけ、軽く目を瞠る。
「父上……」
黒髪に混じった白髪をほのかに輝かせ、忠行は息子の私室に入ってきた。立ち上がった保憲と彼にまとわりつく子犬、そして座したままの晴明を見つけてにこりと笑う。
「晴明もここにいたのか。探したぞ」
「お師さま……」
「さ、早く書庫に戻れ。お前の居場所はここではない」
笑顔のまま急かされ、晴明は渋々と腰を上げ、ちらりと室の妻戸に目をやった。
「書庫の整頓は最後までやりますよ。だけど他の連中は引き上げさせて下さい。俺一人でやる」
「相変わらず一匹狼だな、お前は」
「性分ですから」
「それでよい。さ、行ってこい。他のものは退けておいた」
「……失礼します」
晴明は軽く会釈し、老人の隣をすり抜け、廊下を足音も立てずに立ち去っていく。見送った保憲は、不審そうな目を己が父に向けた。
「父上、なぜ今ごろお戻りになったのです?」
にこっと笑っただけで老人は答えなかった。そのままきびすを返そうとして、思い出したように我が子を振り返る。
「お前は変わらぬか」
「わたしですか? ……これといって何もありませんが」
「それならそれでよい。晴明のこと、頼んだぞ」
「わかりました」
頭を下げる息子に軽くうなづいて、忠行は老人とは思えぬ軽やかな足取りで去っていく。その背を見送った保憲は頭に手をやってこめかみを掻いた。
「変わらぬ、か。鬼や化け物……、鬼魅も見えないわたしに聞いてどうするつもりなのか」
彼は足許から子犬を抱き上げ、どこか薄ら暈けている青空を見上げた。春先の空は夏ほど強くなく、冬ほど深くはない。ただ優しい。
「一体、何が起きているのやら……」
保憲は、兄弟子というより、お兄ちゃん(笑)