【 十三 】
ようやっと目が見えるようになって、篠笥は呻きながら立ち上がると、顔を手で覆っている能宣に手を貸した。
「大丈夫か?」
「一体、何が……」
能宣は指の隙間から周囲を見回した。炎の輝きに痛みが増す。瞬きで涙を振り払った彼は、肉のぶつかる嫌な音に顔を上げた。
「晴明さま!」
空に浮いていた晴明が地に叩きつけられる。素早く身を起こした彼は、左手で右の袂を手繰り、印を組んだ右手を勢いよく横に振る。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、南斗――」
「!」
いきなり、能宣は背筋が凍るほどの寒気を覚えた。炎を背にした保憲の表情はわからない。だが、その身にまとわりついているのは間違いなく死者の穢れ――。
「検非違使、矢を射られい!」
人々の虚脱を叱るよう、凛とした声が響き渡った。驚き、目を返した能宣と篠笥はそこに、浄衣をまとったもう一人の保憲を見い出した。彼は手振りを交えて検非違使たちに指示を出す。
安堵に胸を撫で下ろした能宣は、また眉を寄せた。
訝った声音で漏らす。
「……保憲さま、ですか?」
浄衣の袴を鮮やかに捌き、保憲は篠笥の隣に立った。
未だ炎の中に佇んだままのもう一人の己に向かって顎をしゃくる。
「あれは、土師道敏をおびき寄せるために作ったわたしの人形です」
「人形……、ですって?」
思わぬ言葉に、能宣の声が尖った。
「ですが、ここで五段祈祷法を行わなければ、五行の巡りが滞るのではありませんか? 木気が弱すぎ――」
「晴明! 逃げろ!」
保憲が叫んだ。
晴明は丸柱で突かれそうになり、辛うじて身を躱す。さらに返された切っ先が肩を叩くが、晴明は逃げの一手で隙を狙おうともしなかった。
不意に、保憲が右手を高々と上げた。
「今だ!」
腕が振り下ろされる。
応じて検非違使たちが一斉に矢を放った。まるで鏡像のように、彼の前で丸柱を手にしたもう一人の保憲が手を挙げた。
天から音もなく雷光が落ち、すべての矢を滅する。
眦を吊り上げ、棒を握った保憲が怒声を張り上げた。
「貴様、たばかるつもりか!」
「検非違使、仕留めよ!」
さらに続いた保憲の命に検非違使が機敏に反応する。あるものは刀を抜き、あるものは矢をつがえる。
狙われた保憲――土師道敏が苛立ちに顔を歪め、雷光をまとわりつかせた手を振り上げる。
「保憲、止せ!」
叫んだ晴明だったが、己でもどちらの保憲を止めたのかわからなかった。
駆けてくる検非違使の一人を蹴飛ばし、閃く雷光の気配に印を結い、空に相剋の図を描いた。
「金剋木!」
土師道敏に招かれて落ちた雷光が歪められ、それでも光の鞭は数人の検非違使の身を叩き、晴明も煽りを喰らって倒れた。
「晴明さま!」
叫び能宣は、後ろに佇む一つも汚れのない浄衣をまとった保憲を振り返った。薄暗い中とはいえ、三年以上も付き合いのある彼を見間違えるはずがない。その面立ちは間違いなく、賀茂保憲。
しかしなぜに胸が騒ぐか。
なぜに目が痛むか。
「そちらのもの、右へ回り込め! 逃がすな!」
だが、彼はこんなにも喜々として鬼を狩っただろうか。声も荒く検非違使に命を下したりするだろうか。……何かがおかしい。
「ま、さか……」
能宣は愕然とつぶやき、心が定まらぬまま、思わず篠笥の腕をとって保憲から離れた。
篠笥が怪訝そうに青年を見下ろす。
「どうした?」
能宣はただ、かぶりを振った。
だが心は連なるままに答えを引きずり出す。
……多くの験者を手にかけた賀茂江人。けれど、怨みを以てここに現れたのはたった一人。なぜなのか? それは、彼が賀茂江人の血縁だからではないのか? 血が濃ければ濃いほど、憎しみは増すもの――。
「止せ!」
晴明が検非違使から保憲の顔をした土師道敏を庇い、肩を血で濡らした。その弟弟子に保憲がさらに声を上げて命じる。
「晴明、今この時しか調伏はできぬのだ! 鬼魅から離れろ!」
「……そういうことだったのか」
つぶやき、能宣は赤い唇を引き締める。
彼は幾たびも下された託宣の意味をようやっと解した。
能宣は矢をつがえている検非違使の腰に手を伸ばした。
素早く刀を抜き取り、鞘を捨てる。その刃に指を滑らせ、呪をつぶやいた。
「神火清明、神水清明、神風清明」
目を閉じ、惑わされるなと己に命じる。
開眼した能宣は、優しげな面に緊迫と覚悟を浮かべ唇を真一文字に引いた。ぎりりと眦を吊り上げ、
能宣は勢いよく保憲に打ち掛かる。
「何するつもり――、保憲!」
驚き、篠笥が叫ぶ。
名を呼ぶ声に保憲と呼ばれていた男が振り返った。
能宣の刀を寸前で躱し、ぐっと右手を伸ばし何かを空から掴み取る。しゃらり。今まで、見えていながらも気付くことのなかった錫杖が突然に姿を現す。
能宣は愕然と目を見開いた。
「隠形の術!」
錫杖を握って、保憲ならぬ者はにやりと笑った。
「よくぞ気付いたな、大中臣能宣。その目は伊達でなかったらしい」
「貴様は何ものだ!」
「名などない、童子とだけ呼ばれておったわ!」
錫杖を振りかぶり、賀茂の童子と呼ばれていた男が能宣に襲いかかった。
「くそ、切りがねぇ!」
晴明は検非違使の一人に当て身を喰らわせた。息が切れ、膝をつく。土師道敏は内裏に向かおうとしていたが、行く手を検非違使に遮られ、また手を振り上げた。晴明は符を放つ。
「疾っ!」
符が犬鷲に変わって雷光に飛び込んでいった。式神は一瞬のうちに雷火に焼き尽くされる。晴明の胸に激痛が走った。
検非違使たちは雷光に驚いて身をかがめていたが、落ちぬと知って土師道敏に襲いかかった。
「止せ!」
間に割って入った途端、切っ先が肩を掠めて血が飛んだ。
遠くから保憲の声が耳に届く。
「晴明、今この時しか調伏はできぬのだ! 鬼魅から離れろ!」
その声の主と同じ顔をした鬼が検非違使を雷光で突き飛ばして身を翻す。その背が煌々と照らすたいまつの明かりに浮かび上がった。べっとりと血に濡れている。
「!」
晴明は己の顔から血の気が引けたのを感じた。駆ける土師道敏の袂から見覚えのある包みが落ちたのだ。あれは、保憲に渡した鈴の包みでは……ない、か?
検非違使がそれを踏みつけた。ぢり、と聞き苦しい音が鳴る。間違いなく鈴の音だった。立ち尽くした晴明は、兄弟子の顔に浮かんだ濃い死相を思い出す。
「まさか、保憲……は」
「何するつもり――、保憲!」
篠笥の声にはっと振り返った。能宣が浄衣をまとった保憲に斬りかかっている。思わず身が動いた。だが、何かが引っかかって駆け出すことができない。
「なん、だ……?」
晴明は奥歯を噛んだ。あそこにいるのは確かに保憲だった。幼い頃から兄と慕った彼を見間違えるはずもない。だが、彼の目には保憲が保憲として映らない。
胸のざわめきが、胸の鼓動が激しくなり――。
「!」
晴明は愕然とした。見つめる保憲の顔に、死相がない。ふいと、兄弟子の顔をした鬼、土師道敏の方に自然と面が向いた。夢の光景が脳裏を過ぎる。彼の直観は夢の先見が成就したのだと告げていた。
「ま、さか……」
遅ればせながらぎくりと、晴明は身を震わせた。先ほど感じた違和感は、保憲が己にかけていた呪力を殺ぐ呪詛が失せたためだ。呪詛の術が失せる。それが意味することは、たった一つだけ。
最悪の想像が腹の底を凍らせた。
――本当の保憲は、もう、亡い……?
「……行くな、駄目だ! 人を殺めるな!」
晴明は全身に冷や汗をかき、躓きながらも駆け出した。
兄弟子の顔をした土師道敏を追う。
雷光を相剋によってねじ曲げ、検非違使を突き飛ばし、どうにか保憲の袂を掴んだ。印も結わぬままにありったけの声で唱す。
「オン・マリシエイ・ソワカ!」
二人の姿は陽炎のように揺らめき、光を放って――、消えた。
がちりっ。錫杖と刀が火花を散らした。重い刀に振り回され、能宣は体勢を崩す。そこに錫杖が振り下ろされ、強かに腕を叩き血を飛び散らせた。呻いた能宣は逃れながら叫ぶ。
「攘攘搏搏給へ!」
止めを刺そうと、錫杖を振り上げていた保憲の袂がふわりと揺れた。途端、凄まじい衝撃を受けて吹き飛ばされる。
唖然としていた篠笥が巻き込まれて倒れた。
能宣は刀を杖に素早く立ち上がる。
賀茂の血縁は錫杖を鳴らしながらゆるりと立ち上がった。肩を痛めたのか、肩を押さえ憎々しげに頬を歪める。
「さすが、天つ神の末というべきか……」
「保憲さまをどうした!」
「……死んでもらったとも」
あっさりといって、彼はさも楽しげに口端を上げる。
「同じ顔の死に顔というのは、さすがに不気味だったがな」
能宣ののどが引きつる。
「貴様ぁ!」
「俺の邪魔をするものはすべて血の海に沈めてくれる!」
錫杖と刀が真正面から衝突した。能宣は血の滴った腕を振るい血潮を相手の顔に叩きつける。同時に錫杖を胸に受け、その場に倒れ込んだ。素早く刀を振るって保憲を遠ざける。
視界の端で検非違使が矢をつがえた。能宣は声を限りに「手を出すな!」と叫ぶ。たじろいだ武士たちが後ろに下がった。
後ずさり、顔から血を拭って、保憲の血縁者が錫杖を握りながら夜叉印を結う。恐るべき調伏の咒を声高に唱えた。
「オン・チシャナバイシラ・マダヤマカラシャヤクカシャ――」
「五百筒磐石と軻遇突智の血から成せし刀神経津主神が速に降り給へ!」
能宣は声を上げながら己の血と土を握り、その刀に擦り付けた。青白い光が一瞬だけ刀に宿り、消える。
その刀を威嚇的に構えて相手を見据えた。
「チバタナホバガバテイマタラハタニ・ソワカ!」
突然、能宣の足許から青白い炎が吹き上がった。身が焼ける。熱風が顔を焦がす。だが両足を踏ん張り、能宣は振り上げた刀で焔を一刀両断にした。大きく相手に向かって踏み出す。
「貴様の好きなようにはさせぬ!」
がちっ。験者が懐から引っ張り出した金剛杵――密の法具を錫杖に打ち当てた。能宣を剥いた目で睨み付け、保憲の声で止めの咒詞を叫ぶ。
「バサラ・チシツバン!」
「!」
能宣の手にした刀が折れ飛んだ。凄まじい痛みが両手と胸を襲い、青年は刀を取り落としよろめく。それでもどうにか両足で踏みとどまり、験者に怒らせた目を向けた。
験者もまた術を返されて苦痛に顔を歪めていたが、踏み出し、能宣に向かって錫杖を振り上げた。
「死ね!」
怯え、後ずさりながら能宣はさらに呪を紡ごうとする。その能宣の足許にざくりと、密で用いる独鈷が突き刺さった。
凛とした声が叫ぶ。
「ノウマク・サマンダバザラダン・カン!」
絡め合った炎が能宣の身を覆った。能宣は炎が己の身を守る光景を見、驚きに目を瞠った。炎がふと掻き消える。身を強張らせている彼の前で、験者が驚きに身を引き、顔に驚愕を張り付かせていた。青年はその視線を急いで追う。
思わぬ人物の登場に驚きを隠せなかった。
「良源……さま」
鬼面を外した僧侶が息を切らし、立っていた。色の違う目が細められて、保憲と同じ顔を睨み据える。常にない鋭い眼差しはたいまつにぎらりと光った。
くそ、と毒づいた験者が摩利支天の印を結んだ。
「オン・マリシエイ・ソワカ!」
「待てぃ!」
凛と響いた良源の声は験者を引き留められなかった。その身が揺らめき、陽炎のように輪郭が消え、光を放って姿が失せる。
「逃げられたか」
良源は悔しげにつぶやいて舌打ちした。
能宣はまじまじと彼を見、胸に手を当てて安堵のため息を漏らす。
「……助かりました。有り難うございます」
「あれは相当に修行を積んでいるようだからな。準備もなく、大変だっただろう。しかし……、ここで何があったんだ?」
「……神にお帰りいただきます。少しお待ち下さい」
能宣は不意に厳しい目で刀を睨むと、膝をつき、両手に刀を掲げ持った。祭文が聞こえてきて、周囲に目を移した良源は思わず額に手をやった。
祭壇が破壊され、倒された幕が燃え滓となっていた。その周りには十名近くの検非違使や、見覚えのある忠行の弟子が倒れている。やはりここにいるべきだった、と奥歯を噛む。
「早く怪我人を運べ!」
検非違使に命じ、良源は刺さったままの独鈷を地から抜いた。そこでふと、晴明の姿がないことに気付く。保憲もいない。ここで陣を張り、祈祷法を修じているはずなのだが――。
彼はふと鼻を空に向けた。
穢れた臭い。
「死臭がするな……」
周囲を睨める良源の後ろに、刀を鞘に収めた能宣が立った。
「良源さま、内裏の方は……」
「安心しろ。あちらは浄蔵さまが引き受けて下さった。俺も鬼面を置いてきたがな。俺の分身だから、何かあったらこちらにも伝わ――」
「保憲さまが……、亡くなりました」
能宣は唐突に僧の語を遮り、悲しみに濡れた声で告げる。
「何!?」
良源は驚き、青年を振り返った。
能宣は傷ついた腕を握りしめて苦しげに目を落とす。
「……あの験者が殺め、その身に土師道敏を憑けたのです。晴明さまは土師道敏とともに消えました」
「消えた?」
「わたしの耳が確かならば、さきほどの験者と同じ真言を」
「修験道の摩利支天か。隠形にも使われると聞いたが、日輪や月輪を行き来しても姿が見えないとか――」
「……これからどうすればいいのでしょう?」
困り果てて、能宣は訊ねる。
その瞳がかすかに濡れていた。
「わたしは……何をどうすればいいのかわからなくなりました。忠行さまは動けず、保憲さまは亡くなられたのに、遺体は鬼魅に奪われ、晴明さまの姿は見えず、わたしは――わたしはなんの役にも立たなかった!」
「……能宣、まずは傷の手当てだ」
優しい声で宥め、良源は懐から取り出した布で手早く青年の傷口を縛った。
能宣は拳を強く硬め、顔を歪めている。
「……さっきもいったように、調いも何もなくお前はよくやった。あいつが引いたのはお前と俺の両方を相手にしたくないからだ。お前の力が足らぬからではない。いいか、もう自分を責めるなよ」
「はい……」
僧は彼の肩を軽く叩いた。
「晴明を捜し出さなければならないな。どこに消えたのかはわからんが、晴明に保憲の身を傷つけることができるとは思えん。あの験者も二人を追っただろうし――」
「大中臣さま!」
検非違使が叫んだ。
弾かれたようにそちらへ身を向け、二人はちらっと顔を見合わせ、走り出した。たいまつを片手にした検非違使が、二人を燃え残った幕の傍らに導く。
検非違使は薄気味悪そうな表情を浮かべ、白い幕を剥ぐ。
「……これを御覧下さい」
幕の下、少しくたびれた束帯をまとった男が横たわっていた。
すでに絶命している。
青ざめた額には角が生え、唇の端から鋭い牙が覗いていた。長い爪は大地を抉るように突き立てられている。
たいまつの炎が怨みに満ちた顔の上で揺れた。
能宣は唖然とする。
「土師道敏……」
「恐ろしいことをするな。鬼の魂を植え替えたか……」
「いいように操られただけか……。哀れな」
つぶやき、膝をついた能宣はすっと両手を合わせた。
目を閉じると、朗々とした声で祓い言葉を唱え上げ始めた。
「高天原に神留まり坐す、皇が親神漏岐、神漏美の命を以て、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ。此く宣らば、罪という罪、咎という咎は在らじ物をと――」
「おい、気を付けろ! 刀を持っているぞ!」
背後で検非違使が切迫して叫んだ。
能宣の声に耳を傾けていた良源はそちらに目を向ける。幕の下から一人の男が引きずり出された。右手に、血塗れた刀。
うろ覚えだが、確かに顔に見覚えがあった。陰陽寮の誰かだ。確か、暦博士だったような……。
「大春日さま!」
誰かが声を上げ、その男に駆け寄った。目を細める良源の視界の隅で、ちかりと何かが光った。僧は首を巡らせて土師道敏の遺体を見る。石帯で何かが光ったのか……?
「――祓え給乎清め給うと白す事の由を諸々(もろもろ)神の神等を左男鹿の八つの耳を振り立てて、聞こえ食せと白す……」
唱え終えた能宣が、両目を閉じたまま意念を凝らし――。
「能宣!」
良源がいきなり能宣の襟首を引っ掴み後ずさった。びっくりして青年は開眼する。土師道敏の遺骸が薄ぼんやりと光っていた。集まっていた検非違使たちも声を上げ、たいまつを握りながら退く。
「!」
突如、真っ白い光があたりに満ち満ちた。全員は己の顔を庇い、閃光から逃れようと身をよじる。能宣はくんっと胸ぐらを引っ張られた。よろめき、思わず押さえた胸のあたり、懐から何かが零れる。
両目を上げた手で庇ったまま、薄く目を開けた能宣は、落ちたのが保憲より渡された袋だと気付いた。お守りだと渡された小袋……。
その袋をつと白い手が取り上げた。
能宣の前に、艶やかに束帯をまとった男が立っていた。
全身をほのかな光が覆い、その顔はよく見えないが、土師道敏の顔には見えなかった。もっと年を召した、年配の――。
小袋の口を縛っていた紐が勝手に解け、そこからふわりと白いものがこぼれ落ちた。能宣は愕然と目を見開く。それは梅の花びらだった。薄紅の梅花が次から次へと空を滑り落ちる。
束帯の袴を鮮やかに捌き、男が能宣に面を向けた。
穏やかな眼差しは慈悲に溢れている。
「ま、さか」
能宣は喘ぐようにつぶやいた。
「あなたは……」
「――菅公」
良源が能宣の驚きを引き取った。
うっすらとした光が梅花にまで宿る。輝く花びらは束帯を着た男の周りを舞った。神が降りたことを喜ぶかのよう、薄紅の花びらは舞い踊り狂う。
ふと、それらが消えた。
にわかに闇が満ちる。
その場にいた全員は、支えを失ったかのように膝をついた。唯一、膝に手を当てて堪えた良源が空を睨みやる。その彼の傍らにふわりと、梅花が落ちた。
薄闇の中で、それはただ、白い。
「能宣さま!」
切迫した声がふたたび名を呼んだ。
神気にあてられ、立つこともできない能宣の腕を良源が掴み、立ち上がらせる。
「大丈夫か?」
うなづいた能宣の目は、驚きに縁取られ、検非違使に止められている青年に向けられていた。
その青年は闇の中でも浮かぶような白っぽい狩衣をまとっていた。検非違使に捕らえられた腕を、いきり立って外そうと身をよじっている。
「能宣さま! ちょっと痛いな! 離せって!」
「検非違使、彼はいいんだ!」
腕を放されよりも早く、青年は振り払ってこちらに駆けてきた。あとにもう一人、続く。
能宣はようやっと一人で立てるようになり良源に礼をいうと、駆け寄ってきた二人に声をかけた。
「保胤さま、保章さま、どうかなさいましたか」
賀茂保胤は勢い込んで訊ねた。
「兄上はどこにいますか?」
「それは――」
眉をひそめた能宣が思わず目を泳がせると、問うた保胤はあからさまに白い頬を強張らせる。急に声を低めた。
「兄上はまだ死んでいません」
能宣はぎょっとし、継いで怪訝そうに眉を寄せた。
「……それはどういうことですか?」
「僕にもよくわからないんですが……、その、鹿で思い浮かぶ場所はありませんか? 兄上と晴明はそこにいると思うんです。兄上が本当に死ぬのだとしたら……、そこです」
「鹿で思い浮かぶ……?」
鸚鵡返しにつぶやき、能宣と良源は顔を見合わせる。
閃いた。
「北野!」
北野には、平安京遷都後、帝の遊猟場として鹿が放されていた。
能宣は思わず北野の方に顔を向ける。
菅公が託宣した場所。
晴明ならば、そこに行こうとするかも知れない。
「検非違使、馬を引いてくれ!」
能宣が声を上げながら一人の検非違使に近づいていった。
あとを追おうとした良源は、保憲とよく似た青年が悔しげに口端を噛んでいることに気付き、足を止めた。
「……お前は保憲の弟か」
声をかけられ、保胤はうなづく。
「なぜ保憲が死んでいないとわかる」
「夢で、見るのです」
ぽつりと彼はいう。
「……兄上や父上、廊下で会っただけの人、まったく関わりのない人の死まで――夢に、見るのです。早く……早く行って下さい! 晴明の命まで危ない!」
声を荒げる保胤の顔は色を失っていた。
保章が気遣って兄の腕に触れる。
今にも泣きそうな顔で慰めた。
「兄上……、しっかりなさってください」
「――そうか」
良源は悲しげに目を細め、保胤の肩に大きな手を乗せる。
口を開こうとした時、能宣に名を呼ばれて振り返った。
ぐっと強い力で保胤の肩を掴む。
「気を、しっかりと保て」
良源はそう励まし、身を翻した。