【 十一 】
神祇官庁の西院――斎院、神事を執り行う一室に大中臣能宣の姿があった。
中垣によって隔てられた東院では、京中から度重なる怪異が報告され、神祇伯などの事務官たちが右へ左への大騒ぎをしていた。こちらにまでその声がかすかに届いてくる。
突然、京を襲った怪異は多岐に及んだ。
邸を襲撃した夜盗たちが切り刻まれ、道ばたに転がっていた一件から、女官が空を飛ぶ光を見て卒倒、また牛車に乗っていた少納言が狐に憑かれて大路を疾走、夜空は晴れているというのに雷が落ちる、云々――。
関白、藤原忠平の護持僧である良源から昼に一報が入れられていたとはいえ、神祇官の対応は後手後手に回っていた。
陰陽寮は陰陽師と陰陽生までも出して対応に当たり、一方、真言院では加持祈祷が行われていた。
能宣は合わせていた両手を解き、額の汗を拭った。
彷徨わせた目で床を睨めやる。
「……やはり、何ものかが邪魔をしているな」
そのため、いくら探ろうとしても怪異の中心が見えない。かすかな手応えはあるのだが……。
能宣は白い面をじっと考え込ませ、おもむろに立ち上がった。
そこへ烏帽子が板に付かぬ若い少年、神祇官庁の使部が駆けてくる。彼は能宣の手に一通の文を残し、頭を下げて走っていった。
ざっと一読した彼の頬が強張る。卜部からの文には、この怪異は放っておけば内裏にまで及ぶという旨が記されていた。
それは能宣の予感とも重なる。
文を握りしめ、真摯な顔で立ち尽くして青年は、ゆるやかに袂を翻して歩き出した。
能宣が保憲の私室に通された時、その床は京の地図と多量の書、そして書き殴られた紙で埋まっていた。紙の下に埋まっているのは、陰陽寮でよく見かける式盤か。
室の主は浄衣をまとって中心に佇立し、巨大な京の図と睨み合っていた。
その傍らに座った晴明は、片膝の上で墨をすっていて、もう片方の膝に乗せた書を読んでいる。
妻戸が閉め切られ、室内のすべてを照らすよう、灯火があちらこちらに置かれていた。雑然とした雰囲気にはかすかな緊迫感も混じっている。
思わぬ光景に、能宣は唖然とした。
遠くで雷鳴が鳴る。
「……一体、何をなさっているのです?」
「あぁ、能宣どの。お呼びしようかと思っていたところです」
声を掛けられて腕組みを解いた保憲は、そこでようやっと足の踏み場がないことに気付き、当惑した眼差しで晴明を見やった。
無言のまま責任を押し付けられた弟弟子は、むっとして膝の書を投げ出す。
「そのあたりは乾いてるから踏めばいいだろ」
「紙を踏むのはな……」
「いえ、そのままで結構です。何をなさっているのですか?」
「怪異をどう封じるかを思索しておりました」
「手段があるのですか?」
驚く青年にあっさりうなづいて、保憲は浄衣をどうにか捌いて紙々の島から脱出し、手近な紙を取り集め始めた。
「いささか煩雑な手法をとることになりそうですが、できないことではありません。しかしそのためには、能宣どのの力をお借りすることになりそうです」
「もちろん、わたしにできることなら……」
「こちらへ」
ようやっと空いた床の上に円座を置き、場に能宣を座らせて、保憲は紙の束を晴明に手渡す。
「怪異の方は……」
「夜明けが近づいたためか、少しは納まりつつありますが、日が昇ってからはまた別の怪異が起こるかも知れません」
「そうですか……。晴明、その束は右の方に置いてくれ。そこは図の束だぞ」
不満げな顔で紙の束を抱き、弟弟子は兄弟子を睨み付けたが、黙って指示に従った。
見届けた保憲は客人に目を向ける。
「能宣どの、この怪異には土師道敏が絡んでおります」
「間違いありませんか」
「はい」
よく通る声で肯い、立ったままの保憲は広げられた京の図に目を落とす。
「能宣どのならば、賀茂江人という名前を聞いたことがおありになるでしょう」
「……賀茂江人ですか」
記憶を探り、ゆるくうなづいた能宣は鋭く面を上げ、もしやと片眉を上げる。
大きく見開かれた瞳が室内の灯火を映した。
保憲が顎を引いた。
「姓が示す通り、江人さまはわたしのお爺さまです。若くして陰陽道を極め、忠平さまのもとに出入りしていたと聞きました。そのお爺さまを恨む験者が、この怪異を引き起こしているのです」
「験者、ですか? 陰陽家ではなく」
「お爺さまはある呪術を封じるために京を出たのです」
呪術と聞いて、能宣の顔色がわずかに変わった。膝の上で扇を握りしめ、考え込むように薄い唇を真一文字に引く。
灯火の一つがふと、消えた。
晴明が目を細めて闇の増したそちらを睨みやる。
床に広げられた地図が、かさり、と鳴った。
「……一つ、お訊ねしてもよろしいですか」
しばし経ってからの問いに、相手がうなづくのを見て取って、能宣は声の調子を落とした。
「それは、古来より継承されてきた呪術ですね」
「はい。能宣どのもご存じだと思います。かつては、あなたの一門も関わったことがおありになりますから」
「伊勢神宮」
古来より神事をつかさどり、伊勢神宮の祭主を父とする大中臣の青年は素早く即答する。
ゆるりと顎を引いて、それ以上語るべきことはないと、保憲は扇の先で地図を示す。
陰陽師が殺された路地だった。
「現今は怪異を納めることが先決です。まず、験者に操られていると思われる土師道敏を捕らえます。彼を封じることはそれほど難しくありません」
「……怪異が頻発しているのは右京の一条。これにも理由があるのですか?」
「あります……。晴明」
お前がやりなさいといきなり命じ、保憲は紙の束を手にしたまま、壁際に寄って身を預けた。
びっくりした弟弟子は目を瞠って兄弟子を見つめる。
だが手振りで早くしろと促され、晴明は渋々と硯を床に置いて立ち上がった。
扇の先で図を示す。
「右京の一条は内裏の北西。北西は五位でもっとも陰が極まる方角であり、北の水気と西の金気、冷たい存在と硬い存在が隣り合う方位だ。そして金剋木――金気は木気を剋し、陰気にあたる。土師道敏は木気にあたる。つまりは木気が金気に取り込まれ、この怪異を引き起こしているんだ。金剋木だから、金気に剋されて木気は弱まっているだろうが……。
「木気がもとならば、あとは容易だ。金剋木の金気と、木気に剋される土気を、火生土の火気で強めてやればいい。金気は鐘の音、火気はそのまま火で十分だ。京そのものには強固な結界が張られているから、京中で鐘を鳴らし、火を焚く。これで木気は弱まる。時は金気の時である申の時と、火気の巳の時からが最もいいだろう。
「さらに一つ、陰陽道祭祀を行う。方角は東か、もしくは真北。北は冬、冬はすなわち冬至、水気で陰を意味して、その色は黒。つまりは暗黒。ものの生命が妊まれ、萌す暗黒の胎内を意味するんだ。それに陽気の春へと繋がる、一陽来復――北は冬至から夏至、すなわち極まった陰がわずかな陽を帯びる方位なんだ。陽を取り戻すための方位としてふさわしいだろう。
「東というのは、修する祈祷法に関係するんだ。ここで修するのは五段祈祷法だ。いわゆる祈願法だが、五行の巡りに合わせて呪うから、陰と陽、五行の調和を正しく戻すことができる。土師道敏が完全に鬼と化していなければ……、効果があるだろう。まぁ、怪異が起こって乱れた気を改めて、鎮めることはできるはずだ。
「この法を東で行おうというのは、五行に意味がある。金気は金物に通じ、陰気があることもあって戦いに繋がり、火気も極まれば火事となる。だから金気から生じる水気、金生水で、水剋火――水気で火気を剋し、火剋金で、陽気を帯びた火気で陰気の金気を剋する。さらには水生木で、水気から木気が生まれるんだ。
「五段祈祷法は、先にも説明した通り、この京に満たした五行を巡らすために行う。この法を東で行うことによって、木気に留まった流れを正常に戻すのさ。すべてが終われば、梅も咲くようになるだろう。
「時は陰が極まって陽が始まる真夜中、子の時から。日は……、居待ち月か寝待ち月の頃」
「居待ち月なら五日後ではありませんか」
驚きの声を上げられて、晴明は不満げな眼差しで同い年の青年を睨め返した。
「仕方ないだろう。有明の月が一番、いいんだ。夜明けでも沈まない月ということは陽にも繋がる。これを逃すと次の月まで待たなければならなくなる。や、本当は暦道などで慎重に日時を選ぶべきなんだが、そこまで待っていたら何が起こるかわからないからな。この怪異はひどくなるばかりだろう。
「土師道敏が完全に鬼となれば、菅公の神意も、帯びていた木気も消えてしまう。ただ怨みを持つばかりの鬼となって、京に恐るべき禍をもたらすだろう」
「そう……、ですか。ところで、誰が修するのですか?」
「わたしがやります」
黙していた保憲が急に声を上げた。
「そうすれば、験者も姿を現すでしょう」
「ちょっと待て! お前、それ――」
晴明が怒声を上げかけたが、扇を広げた能宣がすっと手を挙げて言葉を止めさせた。
能宣がじっと、試すような視線を向ければ、保憲は常にない、挑むような眼差しで見つめ返してくる。
しばしのち、能宣はゆるりと立ち上がった。
「無論、おわかりかと思いますが……。陰陽寮だけで祭祀を執り行うことはできません。神祇官、真言院の加持祈祷が行われ、その上で陰陽寮に祭祀を行うということになります」
「はい。陰陽寮に単独で祭祀を執り行う力はありません。また、この怪異が、陰陽道の見地から、すべてが読み解けるとは思っていません。陰陽道は万物の理を読みますが、一歩間違えれば、思うがままの結果を得ることもできるからです。
「真言院から見れば、土師道敏は天帝――帝釈天よりお許しをいただいて雷神となったこととなりますし、神祇官から見れば、北野に祀られていた荒ぶる神、火雷天神と一つになったと読みとれるでしょう」
顎を引き、保憲は鋭い目で四つばかり下の青年を見つめる。
彼のまとう白い浄衣が、灯火の明かりにぼやりと浮かび上がっていた。
「三年前……、わたしはあなたが神祇官としての立場から意見を述べないことを不思議がっていました。ですが、ともにいてわかったのです。あなたはこの京を守るためならば、神祇であろうと陰陽道であろうと、どの立場にも立つことも厭わない」
かすかに面を伏せた能宣は、赤い唇に、あるかなしかの笑みを浮かべた。
上げた黒目がちの目に、いくつもの灯火が映り込む。
「わたしの姓、大中臣のもとの名を中臣、中臣とは仲執り持つ、すなわち天つ神と皇祖の間をとりもつことを意味します。つまりは宮廷の祭祀を取り扱ってきた一族。
「ゆえに、神はわたしに揺るぎない託宣を下さります。わたしにとっては、それがすべてなのです。もちろん、本来なら神祇天神と地祇、天つ神と国つ神。かみがみ。のみを信じるべきでしょう。ですが、そればかりではこの京を守れないことも知っているのです。
「先ほどの問答にもありましたが、神宮――伊勢神宮は陰陽・五行説に基づいて作られています。天武帝が定めた遷宮祭にもその色が濃く現れている。それが今では忘れ去られ、宮廷の祭祀のみが重要視されるようになってしまいました。そういった経緯も……、知っています。
「保憲さま。わたしは主上を、そしてこの京を守るべくして生まれたのです。そのために手段は厭いません」
澄んだ瞳でひたりと相手を見据え、彼は低い声で決意を紡いだ。
「たとえ……、この手を汚すことになっても」
黙ったまま、晴明は二人の様子を気難しい顔で見守っていた。
腹を探り合っているようにも見えるが、能宣の顔はどことなく悲しげで、まるで何かを告白しているかのようだった。
しかし、保憲は冷静な面持ちで青年を見つめていた。彼はふいと肩を揺らして弟弟子を見ると、ちょっと困ったように微笑んだ。そのまま能宣に注意を向ける。癖でこめかみのあたりを指先で掻いた。
「手を汚されずとも、この怪異は納められますよ。しかし、あなたのお心はよくわかりました。わたしも己が生まれたこの京を守りたいと思っています」
能宣は白い面を伏せ、手にした扇をゆるりゆるりと握りしめた。
その彼に向かってさらに微笑を深め、保憲は京の図に優しげな目を向ける。
「誰の手柄であろうとかまいません。この度の怪異、早いうちに納めなければ、本当にあらゆる人々に害が及びましょう。この験者は陰陽・五行をも操ります。土師道敏を用いて、内裏にまで被害を及ぼすかも知れません。陰陽寮の体裁など二の次」
「……それでは、この祭祀の段取り、わたしが取り決めてよいのですね」
「はい。よろしくお願いします」
「だから保憲、ちょっと待てって――」
「晴明!」
凛とした兄弟子に声を遮られ、弟弟子は渋々と口を閉じた。
大中臣の青年は保憲にうなづきかけ、晴明に目礼すると、美しい紋を織り込んだ直衣を翻して立ち去っていった。彼を追いかけるかのように、また灯火が消えた。
遠ざかる足音が夜気に溶け込む。
鋭い動きで振り返り、晴明が真顔で兄弟子を見据えた。
「お前、囮になるつもりかよ」
「狙われているのはわたしと父上だ」
「止めろ。死ぬぞ」
「……まだ決まってもいないことなんだ。そう怒るんじゃない」
陰陽頭に掛け合って、納得しなければならないのだから。それはとても難儀だろうな、とおどけてみせて、保憲は扇で口許を隠しながら小さな欠伸をかみ殺す。
「少し眠ろうか。昼からずっとここにいて疲れただろう」
「……誤魔化してるんじゃないだろうな。俺は絶対に、反対だぞ」
「室に戻れ。起こしに行くから」
あっさりとかわされて、晴明は眉間を狭めて兄弟子を睨め付けた。
だが保憲は図を畳み、紙を集めて文台の上に乗せている。
「……俺は結界を見回ってくる!」
荒々しくきびすを返し、晴明が室を出て行った。ちらりと一瞥をくれた保憲は苦笑を浮かべ、晴明が置いたままの硯を取り上げると、文台の前に座る。
藤原実頼と妻に、文をしたため始めた。