【 十 】
「夜中から出仕とは、宮仕えは大変だな……」
つぶやき、良源は欠伸をかみ殺した。
晴明の室で、畳の上に腰を下ろした僧はぼんやりと空を見上げる。今は鬱陶しい面を外し、その恐ろしい異相を剥き出しにしていた。
出された朝餉を平らげ、邸の主が起きたということを聞き、会いに行ってきたところだった。
忠行は一見、すでに回復したように見えたが、その身がとても弱っていることは見て取れた。相当の衝撃を受けたらしい。
良源は傍らでそっと真言をつぶやき、病平癒を祈念したが、それでも立ち上がれるようになるまで数日はかかるだろう。居室を出ようと思ったら、さらに数日は必要……。
「相手は相当の手練れか」
保憲が、験者を己と同じかそれ以上と見たのは正しい。それだけの験力の持ち主となれば、どのように仕掛けてくるか……。
やがて、晴明が帰ってきた。良源は少し驚く。もし昼を過ぎても誰も戻らなかったら、帰ろうと思っていたのだ。
彼は荒々しく腰を下ろした青年に色の違う目を当てる。
「なんだ、陰陽寮にいなくていいのか?」
「お師さまのことがあるので帰れといわれたんだ。保憲も居にくいだろうからな」
そういって、晴明は陰陽寮の一幕を話して聞かせた。
苛立ちのあまり、最後の方はほとんど筋が通らなかったが、良源は何となく事情を察してにやりと笑った。
「お前、相変わらず人の感情に慣れんらしいな」
「わかりたくもない!」
晴明が腹立たしさのあまり床を叩いた。
良源は口端に笑みを浮かべ、腕を組みながら肩をすくめる。
「仕方ないさ。誰にだって、好きなものがあれば嫌いなものもある。お前がその、大春日という奴を嫌いなように、大春日にも嫌いな奴がいる。お前に好きな奴がいるように、大春日にも好きな奴がいる。ただそれだけのことさ」
「だからって、殴らなくてもいいだろう!」
「腹が立てば拳を上げる。楽しければ笑う。それが人ってもんさ。いちいちそんなに応じていたら、身が保たん。流してしまえ。お前がどう思おうと、人っていうものはそういうもんなのだから」
はぐらかされているのではないかと、晴明の眉が曇る。
「……けどさ」
「俺はお前が好きだ。保憲も好きだ。能宣も好きだ。だが、比叡の僧に嫌いな奴もいる。まぁ、そんなところだな」
あっさりといわれて、今度こそ晴明は黙った。
良源は黒い方の目を細めて青空に向ける。
「誰の中にも鬼と仏がいる。それを認めてやれ、晴明。お前の中の仏が、土師道敏を助けてやろうと思った。お前の中の鬼が大春日を嫌いと思った。鬼と仏は、同じところにも在れるのさ」
「……僧がそんなことをいっていいのかよ」
「知らないのか? 不動明王は、慈悲深く恐ろしい。慈悲で人を助け、一方で魔を調伏する。仏でありながら鬼神――」
良源と晴明は同時に、あらぬ方へ目を向けた。
「今のはなんだ?」
「……わからない」
不吉な気配。
しかしそれが何かわからず、二人は一瞬ばかり視線を絡ませて、またそちらに顔を向けた。
口端を歪め、晴明はざわめく胸に手を置く。
「……くそっ」
晴明は突然腰を上げると、良源をその場に置いて駆け出した。
気の急いだ晴明が保憲の室に駆け込むと、そこはもぬけの空だった。
立ち尽くす彼の頬を昼間のなま暖かい風が撫でる。ふたたび廊下に顔を出して見渡すが、目指す兄弟子の姿はない。
「何をしている?」
きょろきょろと見回す晴明の背に声が掛かった。彼が振り返ると、渡殿の向こうに濡れ髪を拭いながら保憲が立っている。その身にまとっているのは白い狩衣――浄衣だった。
「お前、禊……してきたのか?」
「そんな大仰なものではない。雑念を払っただけだ」
無表情な声で答え、保憲は晴明の隣をすり抜けて己の私室に入る。
白い面にちらりと苛立ちを浮かべ、晴明はその姿を追った。
「保憲、大春日のいってたことは気にするな。あいつはお前に――」
「大春日さまはわたしの師匠だ。呼び捨てにするな」
「……自分を殴ろうとした奴を庇うのかよ」
「庇うのではない。責められて然るべきと思うだけだ」
兄弟子は文台の前に立ち、背を見せながら冷ややかに返答する。
晴明は眦をぎりりと吊り上げた。
「保憲、お前にすべての命は救えないんだぞ!」
荒げられた声に、兄弟子が勢いよく振り返った。
冷静さを忘れたように叫ぶ。
「だが秦さまは救えた!」
「お前が気付かぬもの、誰が気付く――」
肩に柔らかく手を置かれ、晴明は続く言葉を呑み込んだ。見上げる晴明に小さく笑いかけ、良源がすっと前に出た。
諭すような響きはなく、淡々と乾いた声だった。
「保憲、お前の嘆きはもっともだ。悲劇が起きたあと、己に為せることがあるのではないかと考えてしまう。だがその考えはお前の足を止めてしまうだろう。しかし俺が思うに、今は死者に思いを馳せている時ではない。お前がやるべきことは他にある」
「……わかっています」
一時の激情をため息で殺ぎ落とし、彼は顔に悔恨を浮かべた。
「ですが、あの時に気付くべきだったんです。土御門と西洞院が鬼門だということに気をとられて、もっと大切なことに気付かなかった……」
晴明がはっと目を見開き、その顔に驚愕の色を広げた。
「まさか、あの怪異は……」
「そうだ。……恐らく、鬼門だからではない」
保憲が力のない声で肯ずる。
良源は訝って眉を寄せながら晴明を見下ろした。
こめかみに手を当て、晴明は一瞬の閃きを言葉に変ずる。
「北は五行で水気、冷たい存在……陰気だ。東は木気で陽、命ある存在。土師道敏は雷神、震、つまりは木気、方位で東に属するもの。北は陰気に属する方位。土師道敏は木気を帯び、陽中の陰か。保憲」
鋭く呼ばれ、彼は弟弟子に向かって大きく顎を引いた。
「その彼が、験者によって北に引きずられれば、北は水気であり陰、すなわち鬼。その方位は陰中の陰。さらに身の陰気が強くなり、人であろうと望んでいる土師道敏は、まだ完全に鬼と化していない彼は苦しむこととなる……。つまり、北東の怪異が意味するところは」
「あの験者が、土師道敏を捕らえたのか」
「あるいは。父上から……、居場所を聞き出したのだろうな」
「それじゃ次に北西で怪異が起こったら……」
恐れを込めて晴明がつぶやき、兄弟子が苦々しい顔で目を伏せた。
良源は二人に目をやって形のよい眉をひそめる。
「なぜ北西なんだ?」
晴明が頬を歪め、冷笑にも近いものを浮かべた。
「北西は五位でもっとも陰が極まる方角であって、北の水気と西の金気、冷たい存在と硬い存在の方位だ。そして金気は木気を剋する金剋木であり、陰気。北西で怪異が起こるということは、木気である土師道敏が陰気に取り込まれた――完全に鬼となったことを意味する……」
沈黙が、落ちた。
そよぐ春風が几帳と壁代を揺らす。
良源は厳しい目で床を見ていたが、不意に僧衣を翻してきびすを返し、その場で足を止めた。
「俺は忠平公のところに行くぞ。京で怪異が起こるのかも知れんということで、いいんだな?」
「起きるとすれば、今宵から」
茫洋とした保憲の瞳が天井を透かして空に向けられる。
「凄まじきものとなるでしょう……」
「わかった。俺も探ってみよう」
良源は確然と背を伸ばし、ちらりと安堵させるような笑顔を残して立ち去っていった。
見送った晴明の視線は、抉るような鋭利さを伴って兄弟子に向けられる。
「お師さまは土師道敏の居場所を知っていたんだな」
「……知っていたようだ。だが、わたしにも教えてはくれなかった」
保憲は文台の前に腰を下ろし、浄衣の袂で髪の水をざらりと拭った。
「居場所を突き止めて説得に赴いていたのか、他の術者から探られぬよう術をかけたのか。何をなさっていたのかはわからない。だが父上には何かお考えがあったようだ。時折、浄蔵さまに文を送っていた」
「隠遁の術を……かけていたのか?」
「わからない。父上に聞いてみなければならないな」
口ではそういいながらも、保憲は腰を下ろしたままだった。首筋に張り付く髪を煩わしそうに掻き上げる。
「式神を送って、陰陽寮にはすでに知らせてある。篠笥がいいようにしてくれているだろう。誰も通さず、篠笥から陰陽頭に知らせるよう頼んだからな。動いてくれれば、ある程度は防げるかも知れん」
「お前は何かするのか?」
目を閉じ、保憲は何かをいいかけたが、はっと面を上げて後悔を顔に滲ませた。
「しまった」
「な、なんかあるのか?」
「良源さまがいたのに、被髪のままだった」
「……なんだ、そんなことか」
髪を結うことが官人にとっては当然だった。だが平生、髪などには拘らぬ晴明は一瞬ばかり力んで、呆れながら肩から力を抜く。
「気にするな。あいつなんか髪もないんだぜ」
思わず目を瞬いた保憲は、堪えきれずに笑い出した。
「それはあまりにも失礼だ」
「本当のことだろう」
ようやっと笑った兄弟子に安堵して、晴明も和やかに微笑んだ。
「土師道敏は紅梅殿、つまり菅原道真公の邸宅の側にいた……」
息子に問われた忠行は、覇気のない声でそう切り出した。
褥から身を起こせるようになったとはいえ、その顔は青ざめており、肩には綿入りの衾をかけていた。
「紅梅殿は京の東、つまり木気の方位にある。梅の名があることもあって、土師道敏は中に入ることはできなかったが。昔を懐かしんでいたのか……、亡い菅公を探し求めていたのかはわからぬ。探し求めずとも、菅公はその背にいるのだがな……」
声音に悲哀を交え、老人は目を閉じる。
「わしはあれに声をかけ、鬼と落ちれば二度と菅公に会えないと幾度も説いた。確かに、晴明の気はあれをもとの人に戻すかも知れん。だが、人肉を喰らえば完全な鬼となると、な。あれからあれがお前を襲わないということは、鬼にはなりたくなかったのだろう……」
口に手を当てて軽く咳き込む父に、保憲は水を渡して背をさする。
「何か術をかけたのですか?」
「あぁ、卜占などで見つからぬようにな。すでに外見は鬼と化しているゆえ、単なる鬼として調伏されては困るのでな……。しかし、それも破られたか」
「そのように……思います」
「お前はどうするつもりだ。土師道敏を調伏するか」
「……わかりません。しかし、賀茂だけで、陰陽寮だけでどうにかなることではないでしょう。不穏な気配が京を覆っています」
晴れ上がった青い空に目を向け、保憲は滑らかに語を接いだ。
「良源さまと晴明にすべてを話しました」
忠行は驚いたように瞠目し、まじまじと息子を凝視した。その顔にさぁっと血の色が上る。平生であれば、怒鳴っていただろう。
怯むことなく、保憲は怒りに満ちた父の視線を受け止める。
「良源さまの力をお借りしなければ、わたしは父上も守れませぬ。験者の力とわたしの力は同等か、それ以上。晴明は……、確かに事情を話さずとも命には従うでしょう。ですが、わたしは二度と彼に隠し事をするつもりはありません」
「……お前は生真面目すぎるな」
よいことか悪いことか。
やれやれとかぶりを振って、忠行は肩にかけた衾を手繰りよせる。寒そうに身を竦めていた。保憲はあとで火櫃を持ってこさせるべきか悩んだ。
「それで、良源どのはどうした」
「忠平さまに話を持っていって下さりました。良源さまなら、すべてを話さずに上手くことを運んで下さるでしょう」
「そうか……。しかし、験者はわしらに復讐するものだと思っていたが、一枚上手だったようだな。京に怪異を起こし、一体どうするつもりなのだろうな」
「わかりません。ですが、いずれ、その刃はこちらに向いてくるものと思われます。しかし、たとえ何があったとしても、土師道敏を調伏するわけにはいきません。何か、早急に手を打たねば……」
声が途切れた。
春風が蔀をかたりと鳴らす。
遠く、童の遊ぶ声がここまで届いてきた。
「わしは動けぬ」
己の言葉を待っている息子に、ちらりと苦笑めいた眼差しを向けて、忠行はまた軽く咳き込んだ。
「お前の思う通りにすればよい」
「しかし……」
「なにか考えがあるのだろう」
嘘はつかせぬぞという鋭利な目で射抜かれて、ようやっと保憲は白状する。ゆるりと目を伏せた。
「まだ、形になっていませんが……」
「段取りが決まったらまた来い。聞かせてくれ」
さぁ行けと顎をしゃくられて、保憲は深々と一礼し、躊躇いながら腰を上げた。
彼が御簾をくぐって廊下に出ると、いつものように晴明が壁から背を引き離した。
「お師さまはなんだって?」
「……室に戻ってから話をしよう」
保憲はそう漏らして、思わぬ重責に眉を寄せた。