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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第二章 賀茂編
25/31

【 九 】



 晴明はふと、目を覚ました。

 寝ぼけ眼を瞬いてぼんやりと天井を見上げる。夜明けも遠く、まだまだ深い闇が静かに気息を繰り返してしていた。……気息?

 なんの音だ、と首を巡らした晴明は、良源が同室にいることを思い出した。

 さて休むかという時になって、少し酒を飲みたいと晴明の居室に来たのだ。

 寝る前にわざとらしく真言を唱えたりしたので、追い出そうと心に決めたまま、先に寝てしまったらしい。

 のろりと身を起こす。

 衣擦れの音がやけに大きく響いた。

 やけに、静かだった。

 晴明は片膝を立て、後ろに手をついて体重を支えながら、耳につく不自然な静寂に耳を澄ませる。

 人の声も、虫の声もなくただ空虚(しずか)

 まるで、嵐の前に静けさのような――。

 彼はつと胸のあたりを押さえた。ざわりざわりと何かが騒ぐ。それは、先に覚えた悪い予感と同じようなもの。

「晴明、起きろ!」

 いきなり彰行が怒鳴り込んできた。良源が畳の上でびっくりして起きあがる。いつもの癖か、片手で顔を押さえたまま手探りで鬼面を探している。

 晴明はまだ、はっきり開かぬ目で彰行の方を見た。

「なんだよ……?」

「今すぐ、陰陽寮に行くぞ」

 急かす声は緊迫し、その呼吸も忙しなく上がっていた。

「早く起きて支度をしろ」

「何かあったのか?」

「土御門大路に行った陰陽師が殺された」




 陰陽寮は大騒ぎになっていた。

 物々しい出で立ちの検非違使が出入りし、使部がたいまつを片手に駆け回っていた。一歩踏み込めば、室という室に張りつめたような緊張感が満ちている。

 保憲と晴明、それに彰行が寮内に姿を見せると、陰陽生や暦生、天文生が一斉に振り返った。なぜか刻守(ときもり)までもが顔を引きつらせている。

「詳細を知っているものはいるか?」

 問う保憲の袖を引いたのは同僚の篠笥(ささき)だった。

 時折、検非違使に間違われるほど精悍な面に切迫した色を浮かべ、彼は声をひそめて囁く。

「今、陰陽頭は中務省に出向いて説明をしている。陰陽博士も陰陽師と一緒に現場に行ったぞ。殺されたのは(はた)さまだ。おれは遺体を見ていないが、ひどい有り様だったらしい。……お前も行ったんじゃなかったのか?」

「行けなかったんだ。父上が倒れてな、具合が一向によくならず――」

「保憲! 貴様ぁっ」

 突然に罵声が湧き上がって、ぎょっと振り返った保憲は次の瞬間、激しい勢いで床の上に倒れていた。

 身を支え、唖然と見上げれば、鬼のように顔を赤くした大春日(おおかすが)弘範(ひろのり)――暦博士が拳を固めて仁王立ちしている。

 凄まじい怒号が陰陽寮の廊下に響き渡った。

「なぜ土御門大路に行かなかった! 陰陽頭直々の召し出しを文で断るとは何事か! 貴様が行かなかったせいで秦さまが殺されたのだぞ!」

 さらに殴りかかろうとする大春日を、慌てた暦生が後ろから押さえた。保憲は篠笥の手を借りてどうにか立ち上がる。いつの間にか、晴明と彰行が大春日と兄弟子の間に割り込んでいた。

 両腕を捕らえられつつ、大春日は怒りを堪えきれずにさらに怒鳴った。

「保憲、貴様のせいで秦さまが死んだのだ! お前が行っていればこんなことにはならなかっ――」

「そいつは実力がなかったから死んだんだろう!」

 突然、晴明がいきりたって語を返した。

 彰行が慌てて腕を引くが、頬を紅潮させた晴明は眦を吊り上げて言葉を繋ぐ。

「鬼を調伏すべき陰陽師が鬼に殺されるなど、実力がない(あかし)――」

「晴明!」

 とうとう保憲が大声を出した。

 兄弟子はびくりとして振り返った晴明を厳しい目で制し、どす黒い顔色の暦博士に視線を移した。

 震える唇をぎりっと噛みしめる。

「大春日さま、どのような(そし)りもわたしの落ち度ゆえ、慎んで受けます。晴明の行き過ぎた言葉もわたしが責めを負います。どうかどうか、怒りをお納め下さい……」

 彼は顔を白く強張らせたまま、低頭した。

 大春日はしばし賀茂の長男を睨め付けていたが、急に荒々しい動きで暦生から己の腕を取り戻すと、寮生たちを掻き分けて立ち去った。その高く大きな足音が遠くに消えて、騒ぎの場にいた全員がほっと安堵のため息を吐く。

「おい、大丈夫か」

 殴られたのでは、と案ずる篠笥に保憲はゆるくかぶりを振る。

「驚いてひっくり返っただけだ。どこにも怪我はない」

「陰陽頭が戻られた!」

 遠くで使部が呼ばわるのを聞いて、保憲は一瞬ほど空を睨み付けたが、すぐに身を翻して歩き出した。彰行がその後ろに従う。

 だが晴明は腹立たしさのあまり動くこともできず、険しい顔でじっと床を睨み付けていた。

 それに気付いた篠笥が軽く肩を叩く。

 篠笥は保憲がもっとも親しくしている暦生で、歳は上だが、飾らない態度で悪い噂の多い晴明にもよく声をかけていた。ただ、晴明は彼を好いていなかったが。

「晴明、あれは言いすぎだぞ」

「……本当のことだろう」

「だが、時と場合を選ぶべきだ。お前も知っているだろうが、大春日さまは秦さまと親しかったのだ。大春日さまの心痛くらい、察するべきだろう」

「察してどうなる。大人しく殴られてやれとでもいうのか」

「……お前は本当に言葉を控えるということを知らんな。確かに大春日さまも手を挙げるなど、やりすぎだったかも知れん。……いつもの大春日さまは、そんなことをする人ではないのだがな」

「化けの皮が剥がれただけだろう」

「……晴明、お前を庇う保憲のことを考えろよ」

 篠笥は呆れて吐息すると、他の暦生を促して歩き出した。

 晴明は篠笥の背中を鋭い目で睨み付け、すぐに身を翻し兄弟子のあとを追った。

 晴明が陰陽寮の外で兄弟子の姿を見つけた時、彼は陰陽頭に深々と頭を下げていた。

 受けた陰陽頭は二言ばかり言葉をかけると、背後にいる陰陽師たちに向き直り、何事かの相談を始める。途中から保憲も加わって、端から見ていても切迫した議論が続く。

 その話し合いは長く、近づくのも躊躇いがあって、晴明は傍らに佇んでいた。

 ふと、導かれて空を見上げる。

 月や星はほとんどが傾き、夜明けの曙光がうっすらと闇を薄めていたが、禍々しいほどに光を放つ星があった。

 明けの明星――すなわち、金星。

 晴明は胸の奥がなおいっそう、ざわめき騒ぐのを感じた。思わず胸に手を当てて眉を寄せる。

 目を閉じると、理由も知れぬ危機感はさらに強まった。

「晴明」

 柔らかな声に名を呼ばれ、彼は振り返った。

 保憲が手で招いている。

「土御門大路に行くがお前はどうする?」

「あぁ、行く、よ……」

 晴明は愕然とした。

 つい先ほどまでなかった死相が、ありありと保憲の顔に現れている。

 思わず肩を掴んで己の方を向かせると、兄弟子は怪訝そうに弟弟子を見上げた。

 薄い闇の中でも、死相がはっきりと見える――。

「なんだ?」

「……いや、さっき、殴られたかと思って」

 慌てて言い繕えば、彼は少し不満げに眉を寄せたが、やんわりと手をふりほどき歩き出した。

「急ごう。遺体はすでに片づけられたそうだ」

 晴明は保憲と肩を並べて歩きながら強く奥歯を噛んだ。

 夢の光景がちらつき、胸の鼓動が膨れあがっていく。

 抑えることもできぬまま、白く強張った顔を無表情に作り替えて、晴明は衛士が守る大内裏の門をくぐった。



 すでに流れ出た血は土で隠されており、凄惨な光景は平生に戻っていた。

 だがその場の空気は赤い色を帯びているようであり、血を吸った土のあたりには死の匂いが漂っていた。

 朝日が白っぽく、土御門大路と西洞院大路の交叉路を照らし出す。

 その最中に立って、保憲と、ふたりの弟弟子は気難しい顔で周囲を眺めやっていた。

「すでに陰気はないな……」

 保憲は歩き出し、一点でぴたりと足を止める。膝を折って、被せられたばかりの土に手のひらを当てた。すぐに痛みを覚え、離す。

「――――」

 彼は思わず瞑目した。

 耳目を塞ぎたくなるような、凄まじいまでの死への恐怖が伝わってきた。……己が来ていれば、秦さまは助かったのだろうか。

 開いた目を伏せて、彼は固めた拳を膝に当てた。

 素早く不動(ふどう)明王(みょうおう)剣印(けんいん)を結ぶ。

 低い声で唱えだした。

「ノウマクサンマンダ・バサラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン……」

 あらゆるものを(たす)くという不動明王の慈救咒(じくのしゅ)に、淀んでいた死臭が拭われていく。

 晴明の目には燐光が舞い、清浄の青い炎が揺らめくさまが見えた。

 わずかしか見えないとはいえ、その様子に彰行がぽかんと口を開ける。さぁっと清らかな風がその場を吹き抜けた。その風が三人の袂を揺らし、髪を彷徨わせて、穢れを奪い去る。

 残っているのは、地に吸われた血だけとなった。

「やっぱり……」

 つぶやき、晴明は保憲の側まで歩き寄った。

「術が使われたあとはほとんどないな。あったとしても、消されている。見えるか?」

「何も見えない。だがこの気配は、わたしが追ったものと同じ……」

「遺体を見せてはもらえないのか?」

「すでに化野(あだしの)に運ばれたそうだ。鬼に殺されたということで、早くに(みやこ)から出したらしい。だが……、このようなことになるのならば見せてもらえばよかった――」

 三人は弾かれたように振り返った。

 しゃらり、とどこかで錫杖が鳴ったように聞こえたのだ。だが路地に人の姿はほとんどなく、遙か彼方に、人影がちらついているばかり。

「……早くここから離れた方がいい」

 身構えを解き、晴明は手にしていた符を懐に戻した。ぴりぴりと神経が張りつめている。兄弟子の死相ばかりが気になって仕方がない。

 保憲は目を細めて空を睨んでいたが、ゆるりと顎を引いた。

「そうだな。父上の様子も気になる。彰行、すまないが先に帰って父上に説明してくれないか。起きてわたしたちがいなかったら驚かれるだろう」

「わかりました。なるべく早く、お戻りになるよう」

 彰行は軽く会釈すると、きびすを翻して駆け出した。

 その背が遠ざかって、薄闇の中に溶け込んでいく。

「なぁ晴明」

 弟弟子の背中を見送って、ぽつりと保憲が呼ぶ。

 その声に気落ちした気配を感じ取って、晴明は思わず兄弟子の背中を見た。

 心なしか肩が落ちている。

「やはり……、わたしが悪いのかな。ここに、来るべきだったんだろうか」

「……どうだろうな。俺にもよくわからない」

「そうか」

 しばし遠くの山々に視線を向けて、保憲は何を思ったのか、ゆるくかぶりを振ってきびすを返した。

 晴明はその隣に並び、無表情のまま歩む兄弟子を心配そうに見つめた。




 遠ざかっていく賀茂保憲と安倍晴明の背を見つめ、験者は赤い唇に冷ややかな笑みを浮かべた。

 彼の手には錫杖があり、血を拭って黒ずんだ布が懐に押し込まれている。

 山で暮らす彼にとって、動きの遅いものを殺すことなど容易すぎた。

 術を使うので少々厄介だったが、動きを封じ、その腹に巨大な穴を開けてやった。とはいえ、さすがにぶちまけられた(はらわた)には辟易したが。

 憎き二人を見送って、験者はふたたび右京に足を向ける。

 右京はうち捨てられた京。

 朽ちた家々や、春の花々が風に揺られる野原の傍らに、験者は背負っていた笈を降ろした。

 彼は懐から取り出した血に濡れた布と、縦に四本、横に五本の線を引いた符を錫杖で貫き、地に縫い止める。

 ゆっくりと(だい)金剛(こんごう)(りん)印を結び、低く唱えた。

「知らせば成せばや何にも成りにけり心の神の身を守るとは……」

 素早く智拳印(ちけんいん)に結び変える。

(オン)枳利枳利(キリキリ)吽発吒(ウンハッタ)。日光月光・愛宕・摩利支天・不動明王・守護せしめたまえ」

 唱え終わるよりも早く飛行(ひぎょう)自在(じざい)印を結んだ。

「オン・ウカヤボダヤ・ダルマシキビヤク・ソワカ――!」

 激しい雷光が閃いた。反射的に顔を庇った験者だったが、目前の光景を見、冷笑的な笑みをゆるりと深めていく。

 その場に、不自然に身を強張らせた青年がいた。その額には二本の角。少しでも動こうとすれば苦しみが襲い来るのか、ぎりぎりと牙を噛みしめ、血走った凄まじい目で行者を睨め付ける。

 その全身に、網のように絡みついているのが雷光であり、それをさらに縛り付けているのが不動明王の(さく)だった。

 験者はにやにやと笑う。

「いい姿だな……。どうだ? 使役(しえき)()とされて悔しかろう?」


 ――貴様、必ず喰らってやるぞ!


「そう怒るな。お前がおれのいう通りにしたら、おれと同じ顔をした男の身を与えてやるぞ」

 音もなく雷光が落ちた。

 だが不動明王の結護法で身を守った行者にはまったくきかず、土師道敏は苛立たしさにぎりりと牙を噛み合わせる。

「お前は鬼なのに、まだ人を喰らっておらんだろう。おれが人肉を与えてやろう。そうすればお前は本当の鬼となって、今とは比べものにならん力を得ることができる」


 ――卑しき鬼になどなるものか!


 一喝ともいえる怒声を聞いて、驚きに目を瞬いた験者は、次の瞬間、けらけらと笑い出した。腹を抱えて苛立たしくなるほどの笑声を発する。

 ようやっと笑いを納め、(あざけ)る笑みを作った。

「鬼が、鬼となるつもりはないとな……。だからあの男はこいつの居場所を知っていて何もしなかったのか。ふん、面白い」

 憎しみに目を眇めた験者は小さくつぶやいた。

 それからつと、あの男は生きているのかな、などと思いつつ賀茂の邸宅がある方に視線を流す。まぁ、しばらくは動けぬだろうから、死んでいても生きていても変わりはないだろう。

 いきなり鬼が激しく身動(みじろ)いだ。雷光が激しさを増すものの、わずかも動くことができぬらしい。土師道敏は恨みの籠もった眼差しで、剥いた目で験者を強く睨め付ける。

 大地から錫杖を引き抜き、験者は地を突いた。

「そうか。ならばこうしよう。お前を人に戻してやる」

 験者はまたにやりと笑った。

「俺のいう通りにしろ。そうしたらお前を人に戻してやる。いや、そのまま人間に戻ったら意味はないな。お前は怨鬼なのだ。ならば、お前の怨みを叶えられる形で人にしてやろう。ちょうど、おれも怨みを晴らしたいやつらがいるものでな」

 土師道敏は相も変わらず牙を剥いたまま。

 験者は笑った。

「ちょうどよい方法を思いついたのだ。そうすれば俺も怨みを晴らせるだろう」

 楽しげにつぶやき、験者は顎を撫でた。

「よく似ているという顔と声を使わない手はないよな……」



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