【 八 】
仲文がやって来たのは、日が落ちて星がきらめき始めた頃だった。
片手に瓶子を持ち、雑色の案内も断って見知った邸内を過ぎり、能宣の室に足を踏み入れる。
彼は文台の前に座っている友にいつもの笑顔を見せた。
「よう、久しいな」
「……では一昨々日にあったのは誰なのだろうな。ほら、座れ」
冷たく、しかし円座を勧めた能宣は筆を置いた。
詠んでいた和歌をしばし眺めやって、気に入らないのかやおら二つに折ると、素早く懐に入れた。友人の方に向き直って手を叩く。
やってきた雑色に酒杯の準備を申しつけた。
仲文は瓶子の蓋を解く。
「そういえば、あれ以来、保憲さまや晴明と会ってないな。また酒でも持って行くか?」
「今はやめておいた方がいい。何かお取り込み中らしいぞ」
「そうか。残念だな……」
雑色がやってきて、二人の側に酒宴の一式を置いて下がった。仲文は慣れた様子でそれらを取り上げる。少し笑いながら口にした。
「鬼が出たらしいな」
「鬼……? なんの話だ?」
「土御門のあたりに出たらしい。つい先ほどのことで、詳しいことはわからんのだが、雑色が喰われたとかどうとか……」
能宣はゆるゆると満たされた杯を干し、人気のない庭に目を流した。
ひらりと手を振りながら脇息に身を預ける。
「わざわざ人の邸にまで来て話すことか? いっておくが、わたしは何も知らぬぞ」
「なんだ、お前も知らないのか。鬼と聞いて、おぉ、能宣の管轄だ、と思ったんだがな。じゃ、詳しいことは聞けんのか。残念だなぁ」
「そういうものをすべてわたしに背負わせるんじゃない。ほら、杯を」
二人は濁り酒で酒杯を満たすと、同時にくいっと干した。
仲文は手酌でさらに注ぎ、ふと手を止めて友人に視線を当てた。いつにない真面目な顔で酒杯を口許に運ぶ。少し飲み、ゆるりと腕を降ろした。ぽつんと呼ぶ。
「なぁ、能宣」
「……なんだ?」
「お前が何をしようとな、俺にとって、お前とこうやって一緒に飲む酒に優るものは何もないんだ。だから――、お前の、好きなようにするといい」
「仲文……」
「うん、それだけだ。早く飲め。酌ができん」
手にした酒杯を揺らし、仲文は照れ隠しのようにきつい声で促す。
ほのかに笑んだ能宣は素早く杯を傾け、差し出した。
満たされていく杯をぼんやりと見つめる。
「仲文」
「なんだ、少ないか?」
「いや。……今度はわたしがお前のところに行こう」
来いよと笑って、仲文は急に身を乗り出すと、梨壺にとても美しい女官がいるのだ、と唐突に真顔で切り出した。
◇
しばし考えた末、文台に向かった保憲は、陰陽頭に素早く二通の文を書いた。
京中にて怪しげな術を用いている験者を家中のものが見かけたゆえ、検非違使別当に、願い出たもの。
もう一通は、父、賀茂忠行が邸内で倒れ、しばし出仕を控えさせていただきたいという旨を記したものだった。その上で、父の容態が予断を許さず、できることならば己も休ませて欲しいと、頼み入れた。
保憲はその文を家人に届けさせた。
そこで良源が伊勢神宮の呪術を知りたいと口にした。初めはずいぶんと渋ったものの、ぜひに頼む、と請われた保憲が紙に図を描き、説明している間に日が落ちた。
いくつもの火が灯される。
いい加減、腹が空いてどうしようもなくなった晴明が唸りながら腰を上げた。腹が減った、腹が減ったと漏らしながら駆けていく。
少しばかり肌寒かった。
吹き込む夜気を見つめるよう、闇に沈んだ庭に顔を向けていた保憲は、己が書いた伊勢神宮の図に視線を戻す。
北極星、そして北斗七星に隠された天武帝の思惑……。
同じく、図を見ていた良源がふと背筋を正す。
「なぁ、保憲。俺はお前の肩に乗った重荷を肩代わりしてやることはできん。だが何かやってやれることがあるはずだ。俺に、やって欲しいことはあるか?」
保憲は少し驚いたように目を瞬き、微笑んだ。
「そう切り出されるとは思いませんでした。けれど、いずれわたしの方から切り出そうと思っていたのです。……良源さま」
「改まる必要はない。俺とお前の仲だろう」
にやりと笑ってみせる良源にふたたび笑んで、保憲は声を急に低めた。
「実をいうと、先ほど仏眼仏母法を用いて験者を追ってみたのです。しかし、寸前で隠形の術で逃げられました。恐らく、その呪力はわたしと互角か、それ以上。しかし、わたしの方が不利なことはおわかりかと思います」
「……守らねばならんものが多すぎるな」
「はい。わたしは己の身を護るだけで精一杯。これはわたし、賀茂保憲、ただ一度切りのお願いでございます。どうか、良源さまのお力を貸していただきたい……」
切々と告げて、保憲は深々と頭を下げた。
良源はおもむろに鬼面へと手をかけ、外した。
色の違う、一見恐ろしいが、本当はとても優しい瞳で五つ年下の暦生を見やった。
にやりと笑う。
「だからな、頭など下げる必要はない。俺がお前にやれることはないかと聞いたんだ。それに、お前が何を考えているのかはわかっているつもりだ。内裏や大内裏は任せておけ。何ものも門の中には入れん」
保憲はふたたび、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ひどく近くで足音が鳴って、二人は思わず口を噤んだ。晴明が寒いな、といいながら室内に入ってきた。彼は厨へ行ったはずなのに、なぜか手に文を持っている。
晴明は文を兄弟子に差し出した。
「彰行が寮から帰ってきたんだ。陰陽頭からお師さまに」
「陰陽頭から……?」
受け取って、保憲は少し躊躇った末に封を切り、字を読むため灯火の側に腰をかがめた。
それを見た晴明は、二人の側に腰を下ろして良源に向く。
「お前、夕餉を食べたら帰るのか?」
「……もう遅いからな、泊めてもらうか。別にかまわないよな、保憲。……どうした、ずいぶんと顔色が悪いぞ」
「この暗さで顔色がわかるかよ」
晴明はつまらなそうにいって、兄弟子に顔を向けた。
「何が書いてあったんだ?」
「土御門大路で鬼が出た」
「鬼だって?」
鸚鵡返しにする二人の声が重なった。
色を失った唇を噛み、保憲は文を畳む。
「土御門大路の西洞院大路は、内裏の鬼門にあたる。そこで鬼が出たということは……」
晴明の顔もにわかに厳しくなる。
「陰陽寮は動くのか?」
「あぁ、さっそく陰陽師を向かわせたらしい。陰陽頭は父上とわたしにも出て欲しいと……」
「どうする?」
ゆるくかぶりを振って、保憲は顎に手を当てた。文を膝に乗せ、茫洋とした瞳で床の一点を見つめる。
その前で良源と晴明はちらりと視線を合わせた。
忠行はとても出て行けるような身ではない。さりとて、のこのこと保憲が出て行くことはあまりに危険。これが罠ではないと誰にも言い切れなかった。
良源に止めろと眼差しで促されて、晴明は口を開きかけたが、返事を待とうと顎を引いた。
ややあって、保憲が面を上げる。
「式神に返事を持たせよう。父上もわたしも行けぬ、とな」
「……いいのか?」
「仕方ない。こういった怪異騒ぎを起こすことなど、あのものには容易だろうからな。それに、京には人の恨み辛み、妬みなどがあって、それらは些細なことで怪異の源となってしまう。これらの見極めはとても難しいだろう。たとえこれが本当の怪異であったとしても、父上の手を煩わせるほどのものか、陰陽師が出てから考えても遅くはない」
「……なんか、お前、ずいぶんと偉そうになったな」
晴明が呆れてつぶやけば、良源が声を笑わせていった。
「次は暦博士、末は陰陽頭になること間違いなしといわれる賀茂保憲に向かって、ずいぶんな言い種だな」
「止めて下さい、良源さま」
嫌そうに遮って、保憲は弟弟子に顔を向ける。
「晴明、わたしは陰陽寮を軽んじるつもりはない。それに陰陽寮の陰陽師――弓削さまや秦さまはとても優秀だ。父上が無理のできぬ身の今、怪異を見極めることが必要だろう」
「……それは、わかるんだけどさ」
「わたしが式神を出そう。お前の式は少し凶暴だからな」
良源に目礼した保憲は、晴明に目を向けながら腰を上げて文台に足を向けた。
「晴明、厨に行って夕餉を出すようにいってきてくれ」
はいはいとうなづいて、晴明は腰を上げた。
廊下を歩みながら、急に悪い予感が胸に突き上げて、晴明は思わず足取りをゆるめた。押さえた胸のあたりに黒いものが蟠っているようで。
顔をしかめた彼は、その気分を紛らわせようと、「飯だ!」と小さくつぶやいた。
◇
「今宵は早かったな……」
酔い潰れた仲文にそっと衾をかけ、ほんのりと頬を赤らめた能宣は酒気の余韻を味わうよう、円座に座って夜気に身を当てていた。
彼は友の寝息に耳を傾けつつ、月星の輝く暗黒の空を見上げて赤い唇を綻ばせる。
しかし、急に真顔を作り勢いよく立ち上がった。
綾を織り込んだ直衣の袂を翻しながら渡殿を歩んで、神棚がしつらえられた室に入った。
御幣がゆらりゆらりと風に揺れている。
不浄を清めるとして、雷の形に作られた白い紙を挑むような眼差しで見上げ、大中臣の跡取りはおもむろに手を合わせた。
深く息を吸い込み、吐いて目を閉じ、唱え始める。
「神等神集えに集え給比、神議りに議りに給比弖、安国の荒ぶる神等をば神問わしに、諸々(もろもろ)の宣れし事の此く聞食してば、罪という罪の由を此く宣給比弖――」
優しげな声が凛とした響きを伴って広がっていく。
能宣は一心に唱え上げながら、心の片隅に、黒ずんだ想いが広がっていくのを感じていた。それは不審であり、虞であり、切ないまでの悲しみだった。
庭を白々と照らし出していた月光がふと、消える。闇が満ちたのを瞑目したまま知って、能宣の身が震えた。唱える声に知らず知らず力が籠もる。
と、ふわりと吹き込む風に不穏な匂いを覚え、彼はゆるりと目を開いた。時を同じくして、ふたたび月光が落ちた。
「!」
能宣は押し殺した悲鳴を上げた。合わせていた両手が真っ赤な血に染まっている。あぐらを掻いた膝までも濡れており、声を呑んだ彼は思わず立ち上がっていた。そしてぎくりと身を強張らせる。
足許に、骸。
白すぎる月光が、彼の足許に倒れ臥す、白い狩衣をまとった人影をぼやりと浮かび上がらせた。見覚えのある顔。そして背を貫く刀と、床に流れ出た真っ赤な血。
彼は肩を揺らし、後ずさった。握りしめた両手からは血がぬらりと生々しくも伝い落ちていく。金臭い血の臭いが濃厚に身を包んだ。
あまりにも現然とした光景と手触りに、能宣は面から血の気を失い、その場にただ立ち尽くした。
「能宣、どうした能宣!」
悲鳴を聞いたか、仲文が足音も高く駆け込んできた。能宣は思わずそちらに目をやって、己の手と骸を見られたかと身を竦めた。
「な、かふみ……」
「どうした?」
仲文はきょとんと能宣を見、彼の背後に目をやって、あぁと小さく吐息した。骸のことかと、恐怖のあまり能宣は振り返ることもできない。だが仲文はその能宣の隣をするりと抜け、神棚の側に膝をついた。
「御幣が落ちているぞ」
弾かれたように振り返り、能宣は平生と変わらぬ神棚を見た。足許に骸もなく、己の手も赤くない。落ちたはずの血痕すら残されていなかった。
ただ仲文が、白い紙を手中で弄んでいる。
「……なぜ、あんな託宣が下るんだ」
能宣は震える声で漏らし、崩れ落ちるようにして片膝をついた。
「おい、大丈夫か?」
驚いた仲文は能宣の肩を掴み、軽く揺するが、大中臣の血を持つ青年はきつく眉根を寄せて瞑目しているばかり。
困って眉を寄せた仲文は、いつもおしゃべりな口から慰めを吐くこともなく、肩に手を置いたまま黙って傍らに在り続けた。
月が雲に隠れ、闇がその場を覆う。
仲文は友の肩を強く握りしめた。
大祓の祝詞です。