【 七 】
晴明は保憲の私室に入って、ふと足を止めた。明るい場から暗い室内に入ったためかとしきりに目を瞬くが、幻ではない。
かすかな光がいくつも空を舞っていた。手で捉えようとするが、触れる端からふわりと溶けて消えてしまう。
晴明の足音に気付き、振り返っていた保憲が弟弟子の姿を見、ほうとため息を吐いた。
「お前にも見えるか」
「……これはなんだ?」
「先ほど密の真言を使ったのだ。その名残りだな」
「密密教のこと。か……。なぁ、保憲。若菜さま、本気で怒っていたぞ」
「あれの気性は誰よりもわかっているさ。まぁ座れ」
手で示され、晴明は床の上に腰を下ろしてあぐらを掻いた。筆を置いた直衣姿の保憲は、身の前後を入れ替えて弟弟子に向き直る。
袂を払い、真顔で切り出した。
「なぜわたしのお爺さまのことを訊ねたんだ?」
「……良源から聞いたんだ」
「どのように?」
優しい声音だが緊迫した様子に、晴明は気後れしながら、良源から聞いた話をぽつりぽつりと説明する。
兄弟子は彼の顔にじっと目を当て、一言一句を漏らさぬように耳を澄ませていた。
晴明が口を閉じると、にわかに重責を帯びた嫡男はわずかに背を丸め、袖に手を入れて腕を組む。
「……そうか」
「なぁ、お師さまの父上がどのように関係あるんだ? 梅紋と梅について教えたのは――」
「江人さまかも知れん」
「こう、と……? それがお師さまの父上の名か。もう亡くなられたのか?」
保憲は少し躊躇うと、すでに江人が亡くなっていることを告げる。
そして京を出て行ったことは口にしたが、その理由になると、急に口を噤んでしまった。渋面を庭に向けたまま、深く深く考え込んでしまう。
苛立ちに頬をひくつかせて、晴明は手を握りしめる。
「保憲、俺にいえないことならしようがない……。けど、一つだけ教えてくれ。危ないことなのか?」
「……あぁ。かも知れないな」
上の空で小さくかぶりを振り、保憲はぽつりといって、また唇を閉じてしまう。
ゆらりと揺れたその瞳が茫洋と一点を見つめ始めた。思案を始めた顔だ。いつもの癖を見て取り、弟弟子はいきなり膝を立てて手を伸ばすと、彼の胸ぐらを引っ掴んだ。
「……晴明?」
驚きを目に浮かべ、保憲は晴明を下から見上げる。晴明は皺になりそうなほど布を握りしめ、ぎりりと奥歯を噛んだ。かと思えば面を伏せ、のどの奥から苦しげな言葉を引きずり出す。
「俺には……、何かが足りないんだ、保憲。陰陽道を使って、何をどうすればいいのかわからない。俺には陰陽道という道しか、陰陽寮に入るという道しか残されてないのはわかってる。だけど、本当に……どうすればいいのかわからない」
「晴明……」
襟を掴む手が震えていた。
「今の俺は、どうやって自分を納得させたらいいのかもわからない。磨き上げた力をどう使えばいいのかもわからないんだ!」
驚いた顔の保憲は弟弟子をしばし見上げていたが、ふと肩から力を抜き、襟に絡んだ彼の指を、丁寧に一本ずつ外していった。ふわっと晴明の手を己の手で柔らかく包む。
彼は幼い我が子を見るよう、優しげな微笑を口許に乗せた。
「晴明……、わたしは今すぐにお前を助けてやることはできない。だが、一つ、教えてやれる。そんなに焦ることはない。那智の地で、お前は自分を見直した。力のほども知ったな。今はそれでいいんだ」
だが人の襟首は掴まないようにと、保憲はちょっと笑いながら晴明の手を彼の胸に押し当て、ゆっくりと離した。
道しるべを刻むよう腹の底から響くような声で繋げる。
「いいか、決して焦るな。そして、己を信じようと思うのなら、己を信じられるようなことを為せ。そして成し遂げろ。それがお前の自信となる。成し遂げたことはきっと、お前を納得させてくれるはずだ」
「己を信じられるような……」
「那智に行ってお前が得たのは、己を見下ろす己というものさ。お前はその頑固なたちで、己を否定する人の目から自分というものを守ってきた。だがそのままでは成長はない。しかし己を見下ろす己を得たことで、先にまで目を向けられるようになった」
そこで保憲は眉を寄せ、不満げに弟弟子を睨め上げる。
晴明はぎくりと肩を揺らした。
「お前、わたしが読めといった書に目を通してきただろうな」
立てた膝をぱたりと倒して、晴明は思わず正座した。
保憲は毎朝、陰陽寮に行く前に必ず、課題を一つ出す。そうしておいて、抜き打ちに暗唱させたりするのだった。
「……すまん、忘れた」
「やっぱりな」
彼は長々と吐息する。
「今日は貸し出しがないと聞いたから、もしやと思ったんだが。父上は今、事務的なことをなさっている。その手伝いも弟子の仕事だが、『周暦』や『新撰陰陽書』などを暗唱できるほどに読まねば」
「前に一度、読んだ――」
「では暗唱してみろ」
言い訳を鋭い一言で粉砕され、晴明は叱られた犬のように首をゆるゆると下げる。
「……できません」
「だいたい、天文の書に至っては天文生ですら読むことを禁じられているのだ。だがお前は特別に見ることができる。一つ一つの物事を大切にしてこなさなければ駄目だろう。お前には人を越えた力があるのだからこそ、基本をしっかりと学ばねばならん」
「……今夜は天文道を教えてくれるんだろう?」
兄弟子は渋い顔でかぶりを振る。
「そのつもりだったが、無理だな。やらねばならないことができた」
「江人さまのことか」
「……お前にも話せるよう、父上に聞いて」
いきなり忙しない足音が近づいてきて、保憲と晴明は顔を上げてそちらを見やった。
肩で息をした少年がぺこりと頭を下げる。邸で使っている少年だった。
「良源と名乗る僧が来ております。いかがなさいますか?」
「……ここまで通してくれ。いや待て」
命じ、彼は文台に向き直って筆を取り上げると、さらさらと何かを記した。その符を招いた少年の手に乗せる。
「これを渡してくれ。懐に入れるように、と」
うなづいて、少年は水干の袂を翻して走っていく。
晴明はその姿を見送って、こちらに向き直った兄弟子に訊ねた。
「今の符は?」
「結界の影響を受けぬようにするものだ。……良源さまは、少し変わっておられるからな。仏の加護があるので必要ないとは思うが」
「……良源が変わってる?」
保憲は意外そうに目を瞠り、問うた青年を見る。
「お前には見えていないのか? 良源さまには――」
件の人物がふらりと姿を現す。
「あぁ、二人ともいたのか。ちょうどよい。忠平公の梅について、話したいことがあるんだ。これはちょっとした手土産よ」
二人の傍らへ腰を下ろし、良源は酒の入った瓶子を置いた。
彼は不審な顔をしている保憲と、何を言い出すのかと待っている晴明へ交互に視線を放ち、低く問うた。
「賀茂江人というのは何ものだ?」
祖父の名が僧から出た瞬間、孫は弾かれたように弟弟子を見やったが、その顔には静けさはあっても驚きはなかった。
冷静ともいえる動作で首を巡らす。
僧に問いただす声は厳しかった。
「どなたからその名をお聞きになりましたか」
「忠平公のところにいる老人だ。幾度も聞き、ようやっと思い出してくれたのさ。陰陽寮に居たことと、忠平公より、年配だったことをな。なんでも、よく出入りしていたらしいが……」
「――わたしのお爺さまで間違いありません」
観念して、保憲はかすかな吐息とともに白状した。その手が彷徨って懐の扇を取り出す。くるりと手中で回し、握りしめた。
「お爺さまは数名の陰陽師を殺め、陰陽寮から、朝廷からその名を抹殺されました」
「……どういうことだ?」
晴明は唖然と口を開いた。その弟弟子に微笑んで、保憲は他の誰にも聞かせぬという風に声を低める。
「これはわたしの独断。父上はきっとお許しになるまい。だが晴明、お前に隠し事はしたくないのだ。それにお前にも害が及ぶかも知れぬ。……そして、良源さまにはお知恵をお借りしたい」
声にただならぬ覚悟を感じ取って、僧は面の下で顔をしかめ、小さくうなづいた。
「……わかった。俺にやれることはやろう」
顎を引き、保憲は目を伏せた。
記憶を探るようにしばし一点を見つめ、張りのある声で語り始める。
「まず、一つの呪術についてお話ししましょう。この国の大地には、いくつもの強力な呪が刻まれております。陰陽道をこの国の形として用いたその呪術は、かつて、陰陽寮のものと山岳修行者――験者によって作られておりました。
「かつて、強大な権力を誇った蘇我入鹿さまは陰陽道を学んでおられました。その陰陽道を用い、多くの古墳、また蘇我馬子さまの墓所などに呪術をかけたのです。また、その以前からも陰陽道は用いられて参りました。
「一例を挙げるならば、崇神帝の御陵天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墓所。すなわち古墳。、景行帝の御陵、これら二つには、珍しくも対として呪術がかけられております。
「崇神帝の御陵の中心は、三輪山北方に向けられております。その方位は辰、すなわち穀雨。陽気が動き、雷が鳴り草木が伸びる状態であり、穀物を育てる雨を意味します。
「景行帝の御陵は、耳成山を傍らとし、その方位は坤、すなわち立秋。その中心が向かう方位は甲であり啓蟄。甲とはよろいであり、草木の種子を覆う皮のこと。啓蟄とは春になって虫が動き出す季節の意。
「つまり、崇神帝の御陵の意味は、天の有り様を意味し、景行帝の御陵は地の有り様を意味しております。天は震え、陽動の季節、豊穣の雨はほどよく振り、甲は破れて芽をのぞかせようとし、草木は勢いよく活動を始める……。
「また南北を考え合わせれば、北、すなわち上が崇神帝の御陵、南、すなわち下が景行帝の御陵、つまりはこの二つは対となって天地を意味します。
「天が穀雨の象意であれば、地はつまり、火の象意をもつのです。すなわち火と水の関係が成り立ち、万物を生ずる。これがこの御陵に施された呪なのです。このように、この国の大地には多くの呪がかけられております」
あまりにも唐突で大きな話に、晴明も良源も言葉なく、響きのよい保憲の声に耳を傾けていた。
少し話疲れたのか、うつむいた保憲は胸のあたりに手をやって、先を続ける。
「無論のこと、これらの呪術には人手が多く必要であり、高度な技術が必要となります。当初は蘇我氏が多くを握っておりました。また多くの帰化人から、こういった呪術の技術が帝に奏上されたのです。
「しかし、大化の改新が起こってすべてが改まり、この呪術を天武帝が重く用いるようになります。この時に、皇祖を祀る伊勢神宮の遷宮祭も定められました。この遷宮祭にも陰陽道から見て大きな意味があるのですが……、ここでは説明は止めておきましょう。
「皇祖を祀る伊勢神宮にかけられた呪術は壮大にして華麗、そして荘厳さに満ちています。わたしは一度、伊勢の地に足を運んだことがありますが……あの時の恐ろしい力を、感触を、未だに忘れることができません。
「そして時が経て、呪術も三合の理――十二支を用いたものに変化し、天武帝によって作られた陰陽寮がその多くを担い、地方にまで広がっていったのです。
「しかし、この頃から陰陽寮のものたちだけでは足りなくなり、多く山地が選ばれたこともあって、山岳修行者たちが用いられたのです。この呪術には正確な測量の技術と、強靱な身が必要だったということもあります。とくにこの呪術に優れていたのは、賀茂役君、つまり役小角でした」
一息入れて、保憲はふたたび袂を払った。
「舒明六年(六三四)にお生まれになった役君にはやはり、特別なお力があったのでしょう。地の理を読み、方位を生まれながらに知る。さらには呪力にも優れ、式神を初めて用いたのは役君でした。役君はその力ゆえ、神聖と崇められていた山地に入ることもでき、山岳修行者に協力を得ることもできました。
「蘇我氏が滅びた大化の改新ののち、役君は密かにこれらの呪術を多くの験者に伝え、広めました。そして一方で民の救済に奔走なされたのです。
「役君を含めた験者が、雑密空海が伝える以前の密教の呪法。や道教、陰陽道や仏道を多く知っていたことは周知の通り。そのため、この呪術は験者に広く伝わっていったと思われます。当時、この呪術は秘となされていたため、民のために用いようとした役君は流謫の身になられました――のちに罪を許されますが。
「ですが、広く用いられるに連れて、呪術に大きな変化が生まれ、奇形となっていきました。新たな意味を持つものともいえますが、呪術のための呪術となって、次第に陰陽や五行からかけ離れていったのです。
「そして時が下り、最澄さまや空海さまによって純密雑密に対する正統密教。が広まりますと、これらの呪術は人手が多く必要だったこともあって、忘れ去られ、行われなくなりました」
保憲は袂を払い、弟弟子と僧を見据えた。
「陰陽寮でも宮廷で行われる呪術が重視されるようになり、忘れ去られていきましたが、賀茂は役君が関わっていたこともあって、いくつか口伝として残されて参りました。完全な形ではなく、あくまでも陰陽道に加味した形で、ですが。
「しかし、父上の父上、すなわちわたしのお爺さまは、口伝のみを残し、呪術のことを知っていた陰陽師を殺め、陰陽寮に残っていた書物のすべてを焼いてしまわれました。これが……、江人さまです。
「父上の養父、峯雄さまの話では、八歳にして陰陽の書を読み、式神を操り、役君の再来とも思われていたそうです。しかし、出仕には興味を示さず、子の父上に会うこともほとんどなく、京を出られました」
良源が膝に肘を乗せ、身を乗り出す。
「忠平公に梅紋のことを教えたのも、その男で間違いはないのか」
「恐らくは。しかし、江人さまがなにゆえ、忠平さまに梅紋のことを教えたのかはわかりませぬ。……けれど、今の賀茂家が忠平さまや師輔さまの覚えがめでたいのも、恐らくは江人さまのおかげ。政の隆盛を見抜かれたのやも知れません」
「そうか……。確かに、菅公の死を契機に、藤原一門は勢いを増しているからな。藤原一門を抑えるだけの人物もおらず、帝には抗う力もない。平将門や藤原純友の乱などは、朝廷の力が弱まったことを意する……。まぁ、忠平公には時平さまのような理想はないからな。弱まって当然だろうが」
「良源さま」
お声が高い、と保憲が注意するものの、僧はさして気にした風もなく続ける。
「あの忠平公だ。飛び梅から一枝切り取り、己の邸に挿し木さなれたのは戯れだったのかも知れん。菅公が愛でた梅を、手に入れてみたかったのかもな」
「菅公の梅好きは、当時でも有名だったのでしょうね」
「なぁ、保憲」
いきなり口を開いた晴明が割って入り、訊ねた。
「なぜ、江人さまは陰陽師を殺して京を出たんだ?」
「……父上は、この呪術が継承されるのを嫌ったのだろうといっていた。陰陽師を殺めて書物を焼いてしまえば、この呪術のことを知っているのは、かつて協力した験者のみ。その験者たちを、殺めるために京を出たのだと――」
良源と晴明は唖然と口を開けた。
「なんだって?」
「父上は、強力な呪術を験者が勝手に用いることを嫌ったのではないか、と考えておりました。強すぎる力を持つがゆえに、その力を知り、封じを図ったのではないかと」
「そんなに凄まじいものなのか?」
「……これはあくまでも仮の話と心得ておけ。もし、わたしが呪を使えば、どのような殿原であれ命を奪うことができる。これはわたしという人から、人に作用するものだが、このような力が国という単位で働くと思えばよい」
「あぁ……、わかった」
聞いた晴明の顔が自然と険しくなった。
良源は鬼面のために表情はわからなかったが、腕組みして沈黙したまま、保憲の声に耳を傾けていた。
「父上は若い頃、呪力を磨くために修行に出られましたが、その時に江人さまのお姿を捜し求めたのだそうです。しかし、聞こえてくるは恐ろしげな噂ばかり。終いには山を下りられたそうです」
保憲は手にした扇をゆっくりと広げ、何かのけじめを付けたようばちりと、大きな音を立てて閉じる。
「江人さまは……、験者の数多を手にかけた。その身内か弟子か、誰かはわからぬが、京に入り禍をもたらそうとしている。江人さまは賀茂の名をお捨てにならなかったらしい……」
晴明が弾かれたように顔を上げた。
驚き、茫然としながら兄弟子を見つめる。
「それじゃ、俺が――俺が悪いのか? 験者と交わったから」
「否定は……できぬ。だが、お前が気にすることではない。父上の名は広く知られている。いずれ同じようなことが起きただろう。お前のせいばかりではない」
「けど、俺が――」
「晴明」
言い募ろうとする晴明の肩を良源が軽く叩いた。
「起こってしまったことはどうしようもないさ。これからどうするかを考えねばならんだろう」
「わたしもそう思う。晴明、お前は賀茂に深く関わっている。だから正体も知れぬ験者はお前をも標的にするかも知れぬ。そのことをよく覚えていてくれ」
「……保胤や保章、保遠、それにお前の子には?」
「すべてに式神をつけてある。それに二人とも陰陽道には関わっていないからな、始めに狙われるのはこちらだろう。……父上が神隠しにあわれたのも、恐らくはその験者の仕業」
「忠行さまが?」
驚く良源に、保憲は父の身に起こったことを簡単に説明した。すると僧は鬼面を付けた面をうつむかせ、じっと考え込む。
やがて、ぽつりといった。
「京に怨みを持つ鬼が二人、か」
天皇陵などの呪術については、「「呪術・巨大古墳と天皇陵」 斉藤至輝著 雄山閣出版 」を参考にしています。