【 六 】
大中臣能宣は扇を紅色の梅花に添え、深く息を吸い込んだ。清々しい香りに少し口許を綻ばせる。
扇を引いて後ろに立っている人影を振り返った。
「美しいというよりは、可愛らしいという感じですね」
「……えぇ。よい香りです」
賀茂保憲はうなづいたが、ふと目を上げると、少し曇った空を見上げる。
心ここにあらずという風で、しばし梅を愛でていた能宣はそれに気付き、扇を懐に入れて陰陽家に身を寄せた。
「どうなさいました、保憲さま? 先ほどから何かが気に掛かって止まないようですが……」
「なんでもありません。本当に綺麗な梅ですね」
少し慌てて感想を述べると、保憲も梅の傍らに立ち、顔の前で揺れている五弁の梅花を見つめた。
身をくねらせ、天を突く梅木の袂には一枚の花びらも落ちていない。わざわざ家人に拾い集めさせているのではないか、とふと思った。
梅の花を見ているだけで、不思議と心が落ち着いていく。父親のことで心を悩ませていた保憲は、小さな吐息を漏らして薄紅の梅花に見入った。
梅香は、ほんのりと漂っているばかり。
「……保憲さま、保憲さま」
どれくらい梅を見ていたのか、幾度も名を呼ばれた保憲ははっと我に返り、振り返った。
能宣が少し困った顔をして立っている。
彼は気遣うように声をひそめた。
「本当に……大丈夫ですか? ずっと、上の空のようですが」
「いえ、申し訳ありません」
「わたしはよいですよ。さっきまで実頼さまがいて、保憲さまと話したいことがあったようなのです。お顔はご存じですよね」
「えぇ、幾度かお会いしました。それはそれは……、失礼なことをしました。あとで謝らなければ」
能宣は笑って首を振ると、保憲を促して歩き出した。
「いえ、そういうことはあまり気にしない方なので、そんなに梅が好きなのかと笑っておられましたよ。梅が気に入られたのなら、いつでも見に来て下さっていいそうです」
「あぁ、それは……有り難い」
「ただし、父上――忠平さまには内密に、ということでした」
それから二人はすぐに藤原邸を辞した。
保憲は徒歩で帰ろうかと思ったのだが、能宣に勧められて牛車に同乗させてもらうこととなった。
能宣は至極満足そうにうなづいた。
「さすがにあの梅には品格がありましたね。神気がありました」
「えぇ……、綺麗でしたね」
「あのような花を見ていると和歌を詠みたくなります。いくつか捻っていたのですが、梅の前では言葉にならなくて、諦めてしまいました。他の梅はそうではありませんが、あの梅は違う」
「他の梅、ですか?」
「えぇ。京の外に咲いていた梅を持ち込んだことがあるのです。けれど、京に一歩でも入るとすぐに散ってしまうのですよ。あれは寂しかったですね。……逆に、怨みの深さを思い知らされましたが」
「そうですか、怨みのほどを……」
短く相づちを打って、保憲はまた深く考え込んでしまう。
能宣は話を続けようと口を開き、言葉を止めて、ゆるりと閉口した。
彼はいつになく気もそぞろで、一言を返すだけでも少し考えなくてはならぬらしい。今までも時折、こういう風に深く考えに沈んでしまうことがあったが、ここまで上の空なのは始めてだった。それに、かなり疲れてもいる。
沈黙が牛車の中を満たした。
能宣はいつものように扇を手のひらや指先で遊ばせ、くるりと回したりする。
ふと、今晩は仲文と飲むのだ、ということを思い出した。あの風変わりな男は、今宵、どんな楽しい話を持ってくるのか……。
賀茂邸の前で牛車が止まった。
手を伸ばし、能宣は同乗者の肩をゆるりと揺する。
「つきましたよ」
またも唐突に正気に戻って、保憲は慌てて礼をいうと、滑るように牛車から降りた。
差し出された沓を履いて牛車の主を振り返る。
「大変に申し訳ありませんでした。わざわざ約束を取り持っていただいたのに、ずっとぼんやりとしていて……」
「いえ、何か気に掛かることがあるご様子。またお暇な時はぜひ、わたしの邸まで来て下さい。仲文でも呼んで飲みましょう」
「はい。本日は有り難うございました」
保憲は深く頭を下げ、牛車を見送ると、額に手を当てながら門の方に向いた。その動きが淀む。
門の前に佇んでいる青年がいた。門の柱に背を預けて、ひどく待たされたという不機嫌な顔をしている。
保憲は訝って片眉を上げた。
「晴明、何をしているんだ」
名を呼ばれた青年は腕組みを解き、狩衣の埃を払った。
「お前が帰ってくるのを待ってたんだ。お師さまが目を覚ましたぞ」
「そうか、……よかった」
保憲は肩から力を抜くと、脱力したのか膝に手を当てた。徹夜が響いたのかひどく憔悴した顔をしている。
晴明は細く門を開けると、疲れ切った兄弟子の腕を掴んで素早く中に引き入れた。人目を嫌って、急いで門をばたっと閉める。
「陰陽寮の方はどうなんだ。抜け出して平気か」
「ちょうどよく能宣どのがわたしのところに来たので、何かあるのだろうと皆が邪推をしていたが、用があるとのことで中座はさほど怪しまれてはいないと思うが……」
「とにかく来てくれ。何か呪をかけられたらしい」
「呪だって? 父上の身に何か――」
弟弟子が保憲を促し、邸に上がった。と、二人の前に少女が姿を見せる。
若菜は、整った白い顔に今にも怒鳴り出しそうな色を浮かべていた。彼女の後ろからちょこんと、童が顔を出す。
少女がきつい目で夫を睨んだ。彼女の手には、保憲が式神に持たせた文が握りしめられている。桜が散るよう、ひらりと小さな紙切れが空に舞い、廊下に落ちた。癇癪を起こして破いたのだろう。
佇立する妻に、夫は困惑の視線を向けた。
「なぜここにいるのだ? 若菜」
「由も説かない文に従うことはできません。いきなり父のところに行けとは、一体、どういうことなのですか。きちんと説明して下さい」
「説明は……できん」
「ならば行きません!」
若菜がそっぽをむいた。
困り切った保憲は声の調子を和らげる。
「若菜、わかってくれ。お前の身も危ないのだ」
「わたしは絶対にいやよ」
少女は強い調子で言い切った。
「だって、お父様もあんな目にあって、もしもあなたにまで何かがあったら、わたしは、わたしは――」
「若菜、わたしのいうことが聞けないのか?」
低く、威圧を込めた鋭い声に少女がびくりと身を震わせる。童もただならぬ父の声に驚いて母に抱きつく。
若菜はしばし唖然と夫を見ていたが、透明な涙を目に浮かべると、子を素早く抱き上げるなり身を翻した。
「……いいのか、保憲」
母子の姿が消えて、晴明は気遣いながら問うた。
保憲はしばらく床を睨んでいたが、苦しげな顔でうなづき、弟弟子に顔を向ける。晴明を仕草で促しながら歩き出した。
「それで、父上はなんといっているんだ?」
「あ、あぁ……、牛車から降りた覚えも、家の前まで歩いてきた覚えもないというんだ。失念の呪をかけられたのだと思うが、なにぶん、当人に身の害がないというので断じはできない。調子は悪いみたいだけど」
「……失念の呪? なぜそのようなものをかけるんだ」
「わからん。お師さまから何かを聞き出したか、それとも――」
二人は急ぎ足で師匠の室に辿りついた。
晴明は口を噤むと、兄弟子に先を譲って、廊下の壁に身を預けた。
保憲は御簾を手で押しのけると、畳の上に臥している父親に近づいた。
衾をかけられた父の身が、一回り小さくなったように感じ、保憲は唇を噛んだ。側に膝をついて小さな声で話しかける。
「父上、ただいま帰りました」
「……保憲か」
薄目を開き、忠行はとても疲れた声でつぶやく。
その声に息子は苦しげに眉を寄せ、はい、とうなづいた。
「今のところ、保胤と保章、子も無事でございます。若菜も養父(父)の邸に行かせます。何もお気になさらずに……、ここでお休み下さい。陰陽寮には病により、しばらく出仕は無理と言いつけておきます」
ぼんやりとした目で天井を見上げ、忠行はうなづいた。
「この歳だ、誰も不審には思わぬだろう。……晴明はいるか」
「廊下におります」
「晴明にも気を配ってくれ。……呼び込んだのはあれかも知れん。晴明が戻ってすぐに、父から式神、そしてわしの神隠し」
忠行は少し面白そうに笑った。
「賀茂の名が、晴明より漏れたのかも知れんぞ。少々、晴明は口が軽いからな……」
忠行はまた笑おうとしたが、急にのどを詰めると、唇を手で覆って軽く咳き込んだ。
保憲はその肩をさする。
「……わかりました。どうぞごゆるりとお休み下さい。あとのことは、すべてわたしがやっておきますゆえ」
「頼んだぞ」
そこだけは力強い声で、陰陽家はいう。
顎を引いた保憲は、父の細い肩にそっと触れ、小さな声で真言をつぶやいた。瞑目した父の呼吸が楽になったのを見て取って、膝で後ずさり立ち上がった。
腰も重く廊下に出ると、晴明が壁から背を引き剥がした。
いつになく厳しい顔で保憲の隣に並び、歩き出す。
「どう見た?」
兄弟子はゆるりとかぶりを振った。
「……呪詛のようなものはかけられていないだろう。だが、相当な衝撃を受けている。歳のせいもあるから、しばらくはご静養なさった方がいい」
「心当たりはあるのか?」
「お前が指示を出して、邸の結界をもう二つ、張ってくれ。それから若菜を養父(父)の邸まで送ってくれないか。わたしは少し、やらねばならないことがある」
命ずる声に、晴明はいきなりぴたりと足を止めた。
「保憲、何か知ってるなら話してくれよ。なんでお師さまがこんな目に遭うんだ。お前は何か――知ってるんだろう?」
「……晴明、これは賀茂の主として命じる」
袂を揺らしながら振り返って、保憲が顎を引く。
その眦はいつになく切り上がって険しい。
「何もいわずに命に従ってくれ。それらが終わったら、わたしの室に来い。お前の疑問に答えられるかはわからぬが、聞かねばならぬことがある」
兄弟子の声はいつになく硬く張りつめていた。
晴明は上目遣いで彼を見つめ、しばし唇を真一文字に引いていたが、急にきびすを返して足音も高く歩き去った。
怒りのまとわりついた背に保憲は苦笑した。
ぎこちない笑みを浮かべながら歩み出す。
晴明の声に応じ、急に慌ただしくなった邸内を横切って、保憲は己の室に戻ると、文台の前に座った。あぐらを掻いて背筋を伸ばす。
しばし文台に映った己の影を見つめ、おもむろに両手で印を結んだ。
瞑目して口中で小さくつぶやく。
「ノウボウ・バギャバティ・ウシュニシャヤ・オン・ロロ・ソボロ・ジンバラ・チシュタ・ロシャニ・サラバアラタ・サダニエイ・ソワカ……」
保憲は目を閉じ、密の真言をひたすらに重ねていく。
一心に真言を紡ぎながら心のうちを空にし、一切の考えを捨て、印と真言に身を委ねる。
「――!」
やがて、保憲ははっと面を上げる。彼は見失っていた何かを探すよう、虚ろな瞳で組んだ印をまじまじと凝視したが、いきなり胸に激痛が走り、耐えきれずに身を折った。それでも真言を重ねようと口を開いたが、痛みはひどくなるばかりで、とうとう印を解かざるを得なくなった。
額に浮かんだ汗を拭い、保憲は血の色を失うほどに唇を噛んだ。
「……駄目か。気付かれて隠形印を結ばれたな」
恐らく、相手の実力は同等か、もしくはそれ以上――。
相当に修行を積んだ呪術者ということか。
「……貴様は誰だ?」
保憲はぽつりとつぶやき、空を仰いだ。
◇
「オン・アビテヤマリシ・ソワカ、オン・アビテヤマリシ・ソワカ……」
隠形印をゆるりと解き、験者は顎の汗を拭った。
疲れた面をあらぬ方に向ける。
朱雀大路の片隅に座しつつ、彼はいきなりくすくすと笑った。唇を手で覆いながら、笑わぬ厳しい目で灰色の雲を睨め付ける。
「さすがに賀茂の血よ。仏眼仏母法を用いてくるとはな……なかなかあなどれんわ。危うく、見つかりそうになった。いや――京に入ったことは知られたか」
しゃらりと錫杖を鳴らし、験者は腰を上げる。
朱雀大路を下りだしたところで、験者はいきなり女に行く手を遮られ、驚きに足を止めた。
いささか気の強そうな女が、市女笠を被って立っていた。ひどく不思議なものを見る眼で、じっと験者の顔を見つめる。やがて、急に驚いたように後ずさった。
「やはり保憲さまではありませんか」
女性は少しばかり腰を折って、不躾な眼差しで物珍しそうに験者の全身を眺め回す。
「験者の格好などして、どうなさったんです。山にでも籠もるのですか? 真面目な方なのに、たまにおかしなことをなさるのですから。母上が見たらきっと卒倒しますわ」
「――――」
験者は当惑して相手を睨みやる。
すると、それがひどく心外であったのか、女はさらにびっくりしたよう目を瞬いた。
「いやだ、わたしを忘れてしまったのですか? 千夏、千夏ですよ。今はお使いの最中なのですけど……つい先日に会ったばかりなのに、どうしたというんです?」
一気にまくし立て、千夏と名乗った女は験者の困惑も知らず、朱雀門の方に顔を向けた。
「そういえば、先ほど彰行さまにお会いしましたよ。陰陽寮に向かう途中のようで、ひどく急いでおられました。あの人、いつもばたばたと慌てていて、少しもじっとしていないのだから……いつも一生懸命ということなのかしら」
ここでようやっと、千夏も験者の沈黙が不自然だと気付く。
不安げな眼差しで、乳兄弟の顔を見つめた。
「まさか、本当にわたしを忘れたのですか? 保憲さま」
「……人違いではありませんか? 保憲などという名、聞いたこともありません」
験者の声を聞き、千夏が口を押さえてさらに後退した。
「いやだ、お声までよく似ていて。……あの、本当に、保憲さまではないのでしょうか?」
「人違いも甚だしい。いい加減にしてもらえませぬか」
苛立って突っぱねると、千夏は験者が保憲ではないと知ってあからさまに顔を赤らめた。験者の物言いは保憲であれば絶対にせぬものだった。
千夏は慌てて幾度も頭を下げる。
「申し訳ありません、本当によく似ていたもので……」
「いえ、勘違いは誰にもあるもの。お気になさらず」
「それでは、本当に失礼しました……」
千夏はもう一度頭を下げると、験者から急いで離れて歩き出した。
その背を見つめ、験者は素早く手印を組んだ。
「疾っ!」
短く呪を放って千夏の後ろ姿に手印の先を向けた。すると女性は少しよろめき、また何事もなかったかのように歩んでいく。だが、その頭から己と会ったことは消えたはずだった。
予想外だったな、と独りごちて験者は己の顔を撫でた。
「まさか、そこまで似ているとは……」
また思わぬ知人にあっては厄介。
験者は曇り空に一瞥をくれると、右京の方に歩き出した。
誰か、隠形印を教えてください。