【 一 】
失意のままに没した菅原道真を巡るものがたりの始まり。
格好いい安倍晴明を望まれている方には、ちょっと合わないかと思います。
舞う梅の花びらは、あとからあとから降り注ぎ、視界のすべてを埋め尽くす。
それは過たずに梅の花びらだった。
上を見ても下を見ても梅ばかり。
噎せ返る梅の香。
気が狂いそうな梅花の嵐は、まるで何かを覆い隠すように踊り狂う。
ぼんやりと眺めやっているだけで不安になっていく。
戯れに手を伸ばし、淡色のそれを掴み取る。
だが開いた掌に黒い梅花。
いや――黒いのは、花びらではなくて。
その禍々しい闇の色は、赤い花びらに降り掛かった血だった。
驚き突き放す先に、見知った顔。
ぎくりと身が凍った。
その影は鮮やかな血を流している。
「■■!」
名を呼び、走り出す。
まとわりついた梅花が鬱陶しく、呪を叫び蹴散らした。
だが黒い花びらが行く手を阻んだ。
ひときわ強い風にとうとう足が止まる。
「■■!」
必死に呼ばわる、己の声すら聞こえない強風。
思わず顔を庇えば、風がいきなり、ぱたりと止んだ。
腕を下ろして息を呑む。
真っ赤な花をつけた、見事な枝振りの梅の木がそこにあった。
その袂に立ち尽くす一人の男。
呪文のような響きを持つ声で何かをつぶやいていた。
梅の花を見上げる男の目はひどく暗く――。
胸の奥がざわつき、一つの言葉が浮かんだ。
飛び梅。
聞いたことがあるような、ないような言葉は、背筋が粟立つ不吉な響きを含ませていた。ただ不穏な気配ばかりが強くなっていく。
うつむき、かぶりを振った男が重い足取りで歩き出した。
梅の木がざわりと枝を軋ませる。
男の姿が彼方に消えた。
ぎちぎちと身動ぎし、花を散らした梅が大地から抜け出す。
ふわりと飛び上がった木は男を追って空を飛ぶ。
唖然と見送れば、轟音とともに雷光が降り注いだ。
そして闇が満ちる。
夢の中に。
一
見上げる梅の木に花がない。
春の初め、まだ幾分か寒い風に舞う濃紅の花弁はひとひらも見あたらなかった。花の代わりだろうか、梅の木には、緑の葉ばかりがざわざわと揺れている。
ひらり。
落ちてきた緑の葉を眺めやって、渡殿に座していた細面の青年は手にしていた筆を傍らに置いた。緑ばかりの木を寂しそうな面持ちで見上げる。
「今年も梅は咲かないのか……。残念なことだ」
「何をいってるんだ。梅の花なんか、今まで一度も見たことがないじゃないか」
「……確かに見たことはないが。お前、そこで何をしているんだ?」
青年は怪訝そうに眉根を寄せ、声の方を見やった。
眺めやっていた庭の片隅に、目尻は吊り上がっているものの、目許の涼しげな青年が独りだけぽつっと立っていた。陽に眩しい真っ白な狩衣をまとい、裾を冷たい春の風に流している。
その青年は手にした箒を示すように掲げた。
「庭掃除に来たんだ」
「ここは……、朝のうちに掃き終わったんじゃないのか?」
「何度、掃いたって問題はないだろう」
言い返し、大雑把に庭を清め始めた彼の後方から、「晴明!」と大声が一つ。ばたばたと聞こえるは彼を探し回る足音だろうか。
賀茂保憲は大きなため息をついた。
「なぁ晴明、そんなに書庫の整頓が嫌か?」
「……面倒くさいじゃないか。埃っぽいし、終わらない気がするし」
「大切な書を整頓するのも弟子の仕事だろう」
「よい火種だとは思うけどな」
保憲は思わず眉間を狭める。陰陽道において大切な書を火種とは言い過ぎだった。しばし考え、怪訝そうな面持ちで弟弟子を見やる。
「晴明、どうして書庫の整頓が――」
「人に指図されながらやるのが嫌なんだよ。別にいいだろ、逃げたわけじゃないんだ」
口の悪い弟弟子はぶっきらぼうにいって手を振り、箒を動かし始める。保憲は困ったように眉を寄せたが、晴明をしばし見つめ、小さくかぶりを振って春の空を見上げた。
まだ風が冷たい。
遠く、戯れる雀のさえずりが届いてきた。
晴明はしばらく真面目に箒を動かしていたが、なんとなく面倒くさくなってきて、手を止めて視線を彷徨わせた。先ほど己が貶したにもかかわらず、ぼんやりと花のない梅の木を見上げる。
その耳を保憲のつぶやきが掠めた。
「“東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな”……か」
「なんだ、それ」
晴明は渡殿で書を写している兄弟子を振り返った。問われ、保憲は驚いたように目を瞠る。
「知らないのか? 菅公の和歌だ。菅原道真公」
「あぁ……、あったな、そんなの」
「そんなの、か。お前にかかるとすべて軽くなってしまうようだな。だが、いくらお前とて菅公の祟りは知っているだろう。お前が十にもならぬころ、内裏で雷が落ちて大騒ぎになったはずだ」
一瞬、ちらりと晴明の顔が強ばったが、それには気付かず保憲は語を紡ぐ。彼の膝には小さな黒猫がじゃれついていた。
「菅公はこの四十年、荒ぶる御霊となられて祟り続けている。誰も鎮めることのできぬ凄まじき祟りは未だに、政敵であった藤原の一門を襲っているのだ……」
ひょいと子猫をつまみあげ、保憲は腕に抱いて大切そうに頭を撫でた。顎をくすぐれば、黒猫は嬉しそうに目を細める。
「なぁ、保憲」
考え込むような面持ちで、地を這っていた晴明の眼差しが刹那、鋭いものとなる。
「菅公はもともと、学者だったんだろう?」
「そうだ。権勢を増してきた藤原一門を押さえるため、宇多帝に厚く遇されたのだよ。そのため藤原一門の恨みを買い、讒言によって太宰府まで流されてしまった……。珍しいな、お前がこの様な話に興味を持つとは。少しは学ぶ気になったか」
兄弟子が投げてきた声には応じず、晴明は小さな声で零した。
「……飛び梅、か」
「菅公は……、白菊とともに梅を好んだという」流れてきた晴明の言葉に、保憲はゆるりとうなづき、ふたたび梅の木を見上げた。「そのため、菅公を慕った梅が太宰府まで飛び、それから京で梅が咲くことはない……」
「祟りってのは、それから始まったのか?」
「あぁ。……なんだ、本当に興味があるようだな」
驚くほど真顔の弟弟子に、兄弟子は不思議がりながら首を傾げる。
「気になるような何かがあるのか?」
「――別に」
低くつぶやいて晴明は急に表情を硬くすると、唇を真一文字に引いて遠くを見つめた。空に向けて放たれた眼差しまでもが硬い。
保憲は困ったように笑い、指先で子猫の鼻を撫でた。それを嫌がって首を振った猫は細い指先にじゃれつく。爪で軽く引っかかれ、保憲は慌てて手を引いた。己が使役する子猫の使役鬼を眺めやって、顎を撫でながら独りごちる。
「……やはり、式神でもそこらにいる猫と変わらないな。可愛いのだが」
「なぁ保憲。菅原道真について教えてくれないか」
いきなり、少し強ばった晴明の声が請うてくる。黒猫を一枚の符に戻した保憲は顔を上げ、訝りも露わにまじまじと弟弟子を見つめた。
「やはり、何かあるのか……?」
「教えてくれ」
弟弟子の単調な声は問いを拒んでいた。保憲はしばらく彼を見つめていたが、ゆるりとうなづき、腰を上げた。式神の符を懐に入れながら手早く硯や筆を片づける。
「本当ならお前の師である父上に頼めというところだが、お前の真面目さに免じて教えてやろう。だが、あとでその由を聞かせてくれよ。話す気になってからでよいから」
「……わかった」
もっとも、父上に問うたところでわたしに振るだろうが。保憲は陰陽寮で学生に教える陰陽博士である父、賀茂忠行の顔を思い浮かべて心中でつぶやいた。
「おいで。奥の室に行こう」
草履を脱いで渡殿に上がった弟弟子に声をかけ、保憲は軽い足取りで廊下を歩き出した。
もともと、二十六歳という若さで方略試に合格した学者の菅原道真を登用したのは、宇多帝であった。
この頃、藤原一族が政権を握ろうとしており、藤原氏と外戚関係のない帝はそのことをよく思っていなかった。
しかし寛平九年(八九七)、宇多帝は藤原氏に政権を牛耳られないためには息子を帝位につけて己が院となった方がよいと考え、醍醐帝に帝の位を譲って出家した。このことが、道真の命運を大きく分けることになる。
この時に上皇は、道真を遠ざけようとした醍醐帝を諫め、説得し、重く用いることを約束させた。このことは、菅原道真が右大臣になったと同じ時、左大臣となった藤原時平の妬みをさらに増すことになった。
そして昌泰四年(九○一)年の正月の二十五日、道真はいきなり九州の太宰権師に左遷される。醍醐帝を廃して、己が娘を嫁がせていた帝の弟である斎世親王を皇位につけようとした、というのがその理由だった。
道真を深く信頼していた宇多上皇は、この報に接して内裏に向かい、左遷を止めるよう帝に要請しようとした。しかし内裏を警護するものたちが上皇の車を遮り、道真の門弟であった蔵人頭の藤原菅根も、上皇の参内を天皇に取り次がなかった。上皇は終日を庭に座り込んで帝に謁することを求めたが、願い叶わず、夕方になってむなしく帰ったという……。
……序章っぽい話ばかりで、すみません。