【 一 】
春は、すべてを閉ざし闇とする冬が終わって、生命が生まれて心躍る季節でもある。土において青々しい芽吹きを見、空に鶯が鳴くのを聞き、風があたたかく和み出すのを感じると、忘れもしない一つの約束が脳裏を過ぎる。
庭に立って賀茂保憲は空を仰いでいた。
あれから三年。
約束の年である――。
羅城門をくぐり、一人の青年が平安京に足を踏み入れた。
闊達とした足取りで京を悠々と歩む。
くたびれた狩衣をまとい、手に使い古した錫杖を持つっていたが、僧でも修験者でもないようだった。
長い黒髪を適当に結い上げ、笈も背負わずさして荷もなく、まるで京に暮らすもののように迷わず大路を進んだ。
やがて、彼は一つの邸の前で立ち止まる。
赤い唇を嬉しそうに綻ばせて門を眺めやった。
見慣れた、いや、何も変わらぬ邸。
するりと近寄って錫杖で門を叩く。
門を開けて顔を見せたのは少年だった。
少年は錫杖を持った青年を見るなりぎょっと目を見開き、まろぶようにしてきびすを返し、邸内に駆けていく。
青年は開けっ放しの門から招かれずに中に入り、そこで立ち止まった。
やがて、一人の男が邸内から駆け出てきた。
こちらは烏帽子を被り、きちんとした直衣姿だった。
髪を高く結っただけの青年を見て驚いたように目を見開く。
「久しぶりだな、保憲」
手にした錫杖をわざとらしく鳴らし、青年は嬉しそうに目を細めた。
久方ぶりの弟弟子の姿を見、保憲は笑んだ。
「……お帰り、晴明」
安倍晴明が那智での厳しい修行に出向いたのは、師である賀茂忠行の邸で怪異が頻発してすぐのことだった。
山岳修行で名の知られた、那智滝で千日修行を行うためだ。
賀茂家の一存による決定であり、名が知られていたとはいえ晴明は忠行の弟子に過ぎなかったため、このことが都中に知れるまでずいぶんと時間が掛かった。
賀茂邸での怪異を引き合いに出し、その理由が晴明にあったから追い出されたのだとの穿った見方もあった。
しかし、本当は、浄蔵の勧めにより晴明が決心し、忠行が息子の保憲に決定を委ねた結果であった。
浄蔵はその広く名を知られた験者だった。
父は文章博士の三好清行で、七歳に仏道を志した。十二歳で宇多上皇の弟子となって、比叡山の修験者――験者、修入と行った験比べでさらに有名となった。
修入と浄蔵はある石の前で対座した。
浄蔵がその石を浮かべ、それを見た修入が「うるさい石」だとこれを落とした。もちろん浄蔵はこれを浮かべようとし、押さえようとした修入の力が競り合って、石が真っ二つに割れたという。
他にも傾いた八坂塔を戻したという話もあった。
だが不思議なことに、藤原時平にとり憑いた菅公の調伏を命じられたものの、十九歳の浄蔵は調伏を自ら中断し、比叡山に籠もって菅公が好んだ花や管弦を供してその霊を慰めたのだった。
大中臣能宣は己の言葉通り、その浄蔵に文を出し、調伏を取りやめた本当の理由をどうにか聞き出したのだ。
ある日、突然に賀茂の邸にやってきた能宣は忠行と保憲を捕らえて告げた。
「やはり、この怪異は菅公の仕業ではありませぬ。雷神の正体は知れぬものの、鬼魅の後ろに、神となることを許された菅公の姿を浄蔵さまは見ております。ゆえに菅公の神性を高めるため、比叡山に籠もり祈念したとのお話でした」
そしてすべての事情を聞いた浄蔵は、かつて己も修行を積んだ那智滝で千日修行を修めるよう、晴明に勧めた。
京にいる鬼魅は、京に張り巡らされた結界のため外に出ることができない。いっそのこと京を出てしまった方が安全なことは確かだった。
師匠を前に、晴明は固く強張った声で告げた。
「俺は修行不足です。それにこのままではお師さまと保憲に負担ばかりかけてしまう。一度、この京を出て、まったく知らぬ地で修行を積みたいと思います」
これを聞いて、忠行は己が判ずることではないと息子に決断を委ねた。
晴明の決断を聞き、しばし黙っていた保憲は弟弟子を見、優しく告げた。
「行ってこい。そしてここに帰っておいで」
思い立ったが吉日といわぬばかりに、それからすぐ、晴明は師匠と兄弟子に別れを告げて遠い那智の地に旅立った――。
彼は一つの約束を残した。
三年後の春には、必ず戻る、と。
その約束はここに果たされた。
「お前、陰陽寮の方はいいのか?」
肩を並べて懐かしい廊下を歩みながら晴明は問いを発した。
すると隣で、保憲は少し人の悪い笑みを浮かべる。
「つい先日、能宣どのからお前が戻ってくるとの話があってな、わたしも占ったところ同じ日だと出た。さらに父上の結果も同じ。だから今日は休むと申し出てあったんだ。さすがに父上は無理だったが」
「……なんだ、驚かそうと思ってたのに」
「わたしは十分に驚いている。お前の成長にな」
「成長してるか?」
晴明は疑わしそうに己の身を見下ろす。
「俺にはよくわからん」
「その狩衣を着替えてこい。お前の居室はそのままだ。きちっと汚れを落としてから、わたしの居室に来るといい。酒でお前の帰京を祝おう」
「わかった」
「御簾の傍らに包みがある。それは能宣どのからお前に、祝いだそうだ」
「あいつからぁ?」
「上等な綾織物の狩衣だ。位もないお前では着られぬものだぞ」
笑って晴明の肩を叩き、保憲は私室に向かう。
晴明は反対側に歩もうとして立ち止まり、兄弟子の後ろ姿を見た。
彼の背が小さく見えた。いや、小さくなったのではなく、晴明の視線が上がったのだ。
那智に赴く前、晴明の背丈は保憲とさして変わらなかったが、どうやら修行の間に伸びてしまったらしい。
「さっきの成長の意、背の丈のことかもな……」
心のことではなくて。
そうぼやきながら晴明は私室に入った。
新鮮な水が満たされた角盥から水をくみ上げ、手早く汚れを洗い流すと、能宣が帰京の祝いで寄越した狩衣に着替える。
その滑らかな布は、襤褸をまとって修行していた身にはすぐに馴染まず、晴明はくすくすと笑いながら帯を締めた。
三年の間、伸びた髪は高く結い上げたまま、面倒な烏帽子は放って兄弟子の私室に向かった。
保憲はいつものよう文台の前に座っていた。
その背後には瓶子や果物、真秋が気をきかしたのか、晴明が好物とする焼き魚がいくつも並べてあった。質素なのだが、腹に響く匂いと、引かれる酒の香りは修行明けの身を誘って止まない。
筆を握ったまま保憲は適当に座れと手を振る。
晴明は円座を引っ張って料理の前に腰を下ろした。
「暦生の方、どうなんだ?」
「……暦生の身ながら、宣旨をいただいて暦博士とともに造暦にあたっている。その一方で陰陽の道について父上から手ほどきを受けているのでな、なかなかに忙しいよ」
「暦と陰陽、両方やるのか?」
「それに天文も。いずれも才はあるらしい。とはいえ、わたしは造暦が好きだな。できればもっと新しい造暦の手法を知りたい」
「大陸にでも行く気かよ」
「それも悪くない」
嘘とも本気ともつかぬ声でいって、保憲は筆を置いて身体の前後を入れ替えた。
酒を欲しそうにしている晴明を見、真顔で口にした。
「かなりの修行を積んだようだな」
「三年も那智にいたんだ、当たり前だろ」
誉められて、ゆるみそうになる頬を引き締めると、晴明は顎を引いて気難しい顔を作る。
本当は開口一番に聞きたいことだった。
「お前、菅公に関わってないだろうな」
厳しい声に、ちょっと驚いたように目を瞠って、兄弟子はゆるりとうなづく。
「お前との約束だ、守っているよ。父上と能宣どのから意見は求められはしたが、実際には何もしていない。おかげで造暦にかかりきりになれた」
「でも、陰陽寮は平将門の調伏で忙しかったんじゃないのか? あと藤原純友も続いて騒いでいたようだし、二人の行いが菅公の祟りだって話もあったんだろう?」
京を恐怖に陥れた二人の名を聞き、保憲は困惑して手許に視線を落とした。
あまり触れられたくない話のようだった。
「……確かに。浄蔵さまも比叡山で調伏加持を行ったそうだ。他にも幾人かがあれは己の加持によるものだと名乗りを上げている。父上も藤原師輔さまに白衣観音法を修すべきと勧めた……。だが、それはいいだろう。あまり気分のいい話ではないからな」
意味ありげに間を空けて、保憲は真摯な顔で告げた。
「浄蔵さまの読みの通り、菅公が現れた」
「やっとか」
晴明は思わず身を乗り出す。
「祀られる場を自ら託宣したのか」
晴明が京を出たのは、神として菅公が祀られる場をいずれ選ぶだろう、という浄蔵の言葉もあったからだった。
験者曰く、菅公が神として祀られれば、その弟子である土師道敏もいずれ鎮まっていくだろうということだった。
三年前、忠行たちが無理にも土師道隆を調伏しなかったのはそのためだった。
土師道隆を葬れば、その背後にいる、神となるべき菅公も姿を消すだろう。
菅公は、己のために雷神となり、終いには鬼と成り果てつつある土師道敏の汚名を被るつもりなのだから。
さらには、土師道敏を調伏すれば、土師氏以降、続いてきた木剋土の関係も失せてしまう。菅公が神となれば、五行の関係は永遠となるが……。
菅公を神として祀らなければならない。そのためには、菅公がその地を選ぶまで待つしかなかった。
無論のこと、鬼となって祟っている土師道隆が鎮まらねば、菅公も姿を見せることができない。
ようやっと機が熟したということなのか。
「去年のことだが、右京、七条の二坊に住む多治比文子どののところに現れて、“昔世にありし時、しばしば右近馬場に遊覧せり。彼の馬場に向へば胸炎すこぶる薄らぎぬ。早く彼処ら祠を構へ給へ”と告げたらしい」
「それでどうした」
躊躇うように口端を噛んで、保憲は背を丸めて頬杖をついた。
「事実を告げるわけにもいくまい。多治比どのには密かに文を出し、邸の傍らに小さな祠を建ててもらった。父上も藤原師輔さまに掛け合っているし、良源さまも関白である師輔さまの父上、藤原忠平さまに掛け合うとはいってくれたが……」
「なんだ、あの坊主にも話してるのか?」
「わたしと能宣どのがひどく気に入ったようでな、暇を見てはここに来る」
「気に入ったって……」
晴明は唸りながら腕を組み、不満顔で虚空を睨みやる。
「そんな話、聞いてないぞ」
「……どういうことだ?」
「良源の奴、時々、俺のところに来てたんだよ。振り返ったらそこにいるんだ。驚くと修行不足って笑うんだぜ。どうやって来てたのか未だにわからないんだが……」
「那智にまで?」
晴明はこくりとうなづいた。
「そう。ま、いい話し相手にはなったけどさ。狼とか熊よりはよっぽど話せるしな」
「……熊を倒したとかいうなよ」
「安心しろ、俺にだって分別はある。頭にきたから木に叩きつけてやっただけだ。人が苦労してとった魚を奪おうとするもんでな」
その場面を想像し、笑うべきか感心すべきなのか困惑した保憲は、しばしのちに話の道筋を変えるよう、大きく咳払いを零した。
「その話はまた聞こう。わたしよりも保胤が喜びそうだ」
「保胤も来るのか?」
「お前が帰って来るという話をしてある。三年前、保胤には何もいわずに出て行っただろう。あのあと、保胤は仲間はずれにされたと揶揄することがあってな。わたしをからかっているのだろうが、疚しいところがあるだけに困った」
「保胤も菅公には関わっているものな……」
「でも陰陽道の話は嫌いだからな、話すに話せん」
「なんで保胤は陰陽道が嫌いなんだ?」
弟のことを問われて、兄は眉の両端を下げて当惑する。
「……それは当人に聞いてくれ。わたしにも話してくれないんだ。保章は……妻を娶ったばかりで、酒が嫌いなので来ないだろう。ま、話はこれくらいにして食べよう。夕刻になれば皆も来るさ」
「皆?」
「杯をとれ。まずは祝おう」
うなづいて、晴明は己の前に置かれた杯をとった。
保憲は瓶子を取り上げ、弟弟子の杯をなみなみと満たす。
晴明が返杯すると、兄弟子はどこかくすぐったそうに顔を綻ばせた。
そのもの柔らかな表情に、晴明は顔をしかめた。瓶子を置きながら、何がおかしかったのだろうと己の手許を眺めやる。
「……気にするな」
笑って、保憲は杯を掲げる。
「お前とこうやって酒を酌み交わせることが嬉しいだけだ。あんなに幼かったお前が、酒を飲めるようになったんだ」
「幼い頃など思い出すな」
「仕方あるまい」
二人は同時に杯を干した。
「実をいうとな、わたしの弟なんだが」
保憲が楽しみながらいって、手酌で杯を満たした。
「一人、増えたんだ。その子の顔を見ているとどうしてもお前の幼い頃を思い出してしまってな、少し笑ってしまったのさ」
晴明は唖然と口を開ける。
「……ほんとかよ」
「父上はすでに名を決めているらしくて、その名を並べるとなかなかに面白いんだ。保憲、保胤、保章、保遠……、となる。お前も知っている通り、保章は保胤と同じように漢学の道に入った。保遠は陰陽の道にたずさわるだろう」
「この邸にはいないのか?」
「あぁ。賀茂の遠縁に預けてある。父上たっての願いでな」
「へぇ、お師さまもなかなかに――」
「それ以上いうと、お前の頭を引っぱたくぞ」
下世話な会話が嫌いな保憲が不機嫌に遮る。
「陰陽の道は基礎を学ぶだけでかなり月日が経ってしまう。後継者の数を増やしたがる父上の気持ちもわからなくはない」
「じゃ、お前はどうなんだよ。まだ男の子だけだろう?」
「……だからなんだというんだ?」
上目遣いになった保憲は杯を口につけ、少し飲む。
「妻もいないお前にいわれたくはない。早くよい女性を見つけることだ」
「若菜さまのように?」
「あぁ、そうだな。若菜は少し気が強すぎるが――」
声に軽い足音が混じる。
保憲が弾かれたように立ち上がり、滑るような足取りで御簾の外に出て行った。晴明は訝りながら振り返る。
小声でやり取りが続いたのち、保憲が小さな子を抱き上げ、室の中に入ってきた。
「晴明、わたしの子だ。三年前は赤子だったな」
手招きされ、晴明は腰を上げた。
童は不思議そうに近寄ってきた青年を見る。
「……父上、誰ですか?」
「わたしの弟弟子だ。お爺さまの弟子で、安倍晴明という」
「せいめい……」
童がぎこちない声でつぶやく。
晴明が手を伸ばすと、四つばかりの子は真っ直ぐな眼差しで見上げてきた。人見知りをしないたちのようだ。
童は頬に触れた晴明の手を小さな手で掴み、ぎゅっと握って、何が楽しいのかにこりと笑う。
「これがお前のいう、理屈ばかりで文句をいう子さ」
物覚えのいい保憲が笑いを交えつつ、皮肉っぽくいう。
晴明は思わず苦く笑い、穏やかな顔でそうっと、童の頭を撫でた。
中国云々という件ですが、保憲は新たな大陸の暦法を導入しようとしたことがあります。結局、導入は出来ませんでしたが。
このころ、日本で使われていた暦はすでに古くなっており、暦道で争いが起こっていたため(保憲の師匠がその争いの渦中の人物で、このあとに触れます)、その争いを無くすためにも導入を試みたのかな、とも思います。
まあ、賀茂家が暦道を独占しようとした、ともとれる話なのですが。




