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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第一章 菅原道真編
15/31

【 十三 】




 人気のない渡殿の半ばで、ぴたりと晴明が足を止めた。時を同じくして立ち止まり、保憲は弟弟子の背中を見つめる。

 そこは闇に満ち、照らす月光が二人の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。誰の気配もない邸内はどこか不気味ですらある。いや、夜が更け始めたこの時分は、京の大半が眠りに浸っているのだ。

 京で動くは、あやかしと、その(たぐい)ばかりか。

「晴明」

「保憲。俺が怒ってるのはわかるな……」

 低く、唸るように晴明が問いかけた。

 保憲は細い眉を寄せながらうなづく。彼は痛む肩に手を乗せ、月光に浮かび上がる庭に目を向けた。

「あぁ。どうしたんだ」

「俺はそういうお前が嫌いだ」

 振り返るなり、いきなり晴明が保憲の胸ぐらを掴んだ。

「感情を封じて考えることばっかに集中して、そうやって無表情になったお前が嫌いだっつってんだ!」

「……晴明」

 叩きつけられた語気の激しさに保憲は身動いだ。

 晴明は兄弟子の胸を強く突いて突き飛ばす。

「確かにお前は頭がいいさ! 俺なんか敵わない。暦の計算だって速いし物覚えだっていい。けどな、俺はそんなお前より……、俺の目を見て話してくれるお前がいいんだ。顔を背けるお前じゃなくて!」

「……晴明」

 保憲は優しい響きの声で呼び、しばし逡巡し、きゅっと唇を引き締めた。彼の眼差しは床に張り付いて離れない。

 いつまでも顔を上げない兄弟子に、かっと頬を染めた晴明が本気で怒声を張り上げた。

「どうして俺の目を見ないんだ! 何が気に入らなくて、何が(やま)しくて俺を避ける!」

「……晴明、晴明」

「なんで名しか呼ばないんだよ!」

 ここにきて、ようやく顔を上げ、保憲は真っ直ぐに晴明を見た。

 今までに見たことがないような頼りない目をして、白い頬に悲しげな微笑みを浮かべる。

「……他に何がいえるというんだ。わたしはお前に嘘をついていた。お前を騙してきた。わたしにできることといえば、お前の名を呼ぶことだけだ。名に込められた意味のままに」

「なんで……、名前を呼ぶんだよ」

「お前の名だからだ」

 保憲はそう口にして、何が楽しいのか少し笑った。

 お前だからだ、と肯定されていると喜ぶ己と、はぐらかされて苛立たしい己に挟まれ、晴明は沈黙を強いられる。

 答えを求めて覗き込んだ保憲の瞳には白い月が映り込んでいた。

 それはいつもと変わらぬ優しい色を宿し、心なしか、濡れている。

「俺は」

 俺は――。

 晴明は己が何をいおうとしていたのかわからず、ふたたび黙り込んだ。また保憲は視線を落としている。

 晴明はそろりと手を上げ、一端強く握りしめると、兄弟子の怪我をしていない方の肩に伸ばす。

「…………」

 ゆっくりと掴んでも、保憲は逃れようともせず自然体で佇立していた。

 ただ和んだ横顔を見せつつ笑む。

「もう大丈夫だ。あの時は少し、体調を崩していたからな。それに、お前が変わった」

「……俺は、別にお前が嘘をついてたっていいんだ」

 晴明は目を伏せて囁きながら、保憲の肩に額を押し当てた。

「良源にいわれてわかった。俺の場所はずっと用意されてた。俺が気付かなかっただけだ。人に甘えていただけだ」

 彼は腕を回して保憲の肩を抱き寄せる。

 わずかに鬼気がまとわりついた身。

 晴明は兄弟子が鬼に襲われていた光景を見た時の、慄然とした寒気を思い出した。腹の奥底から冷えて、怒りが湧き上がる。

 怨みのあまり、鬼となった男――。

 晴明は、上等な布の直衣をぎゅっと握りしめた。

「保憲……。俺は歩くよ。これからは自分の足で歩く。お師さまのように立派な陰陽家になる」

「立派な……か」

 保憲は微笑みながら、力強い声で語を接いだ。

「そうだ、お前にはそれだけの力も機会もある。真面目に学べば陰陽や五行の(ことわり)も読めるようになる」

「……お前よりも?」

「さぁ、それはどうかな。お前はどちらかというと天文道(てんもんどう)に向いているから。暦の計算はお前の気質に合わぬ。だが、天意を背負いしお前は天意をより理解できよう」

「……空ばっかり見上げてるあれか。星は好きだけど、あれは暇でしようがない」

「星から天意を知れば、星はお前に力を与え、その力はお前を救うことになるだろう。お前はただ、己の目と力を信じればよい。……だが、そうなると暦道(れきどう)はわたしの息子に譲るしかないようだな。もちろん、それなりの才があればの話だが」

「お前の子ねぇ……」

 晴明は思うところがあるのか、兄弟子の肩に手を置いて身の重みをかけた。

「お前の子どもは理屈っぽくなりそうだな。母親が若菜だし。きっと、二言目には五行がどうとか、文句ばかりいうんだ。いやな子だぞ」

 片頬に笑みを浮かべ、保憲は小さな声を立てて笑った。

「そんなにわたしは理屈っぽいか? 陰陽と五行は万物を読み解く理だが、平生は柔らかく考えているつもりだぞ。若菜は口うるさいが、正しいこと以外はいわない」

「無理をするなって。お前はお前、若菜も若菜なんだから」

 今度は声を立てず、保憲が笑うのを肩から伝わる震えで感じ取って、晴明もうつむきつつ笑んだ。

 ふとその笑みを消すと、彼は体勢を変えぬまま、低い声で促した。

「呪詛のこと、教えてくれ」

 保憲はうなづき、簡潔に事実だけを述べ始めた。




 それほど遠くないが、またまた晴明の大声が届いて、空の月を(さかな)に酒を飲んでいた僧と大中臣の息子は、身を動かさずに目だけをそちらに向けた。

「本当に騒がしい奴だな」

 どうやら晴明は本気で怒鳴っているらしい。必死に宥める保憲の声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 人払いをしておいてよかった、と内心で安堵しながら、能宣は良源の杯にゆるりと酒を注いだ。

「晴明さまらしいですよ。名とは裏腹に、火のような性質をお持ちの方ですから……」

「つまりはあれだろう? 名前でたちを定めようとする、ってことになるのか」

 能宣は優雅に首を傾げる。

「さぁ、わたしにはよくわかりませんが、月と日が入った名前ということは、忠行さまのいうように陰陽を意味しましょう。さらには日を二つ並べることによって、陽気を強めようとしたのでしょうか」

「ふぅん。名を呼ぶたびに、陽気が強まる、ということか」

「それも必要がなくなりそうです」

 横に座る青年の整った顔に目をやって、良源が酒に濡れた唇を舐めた。

「お前が見る世の中は面白そうだな。鬼だの化け物だの、有象無象(うぞうむぞう)がたくさんいるんじゃないか」

「……ご自分のことを仰っているのですか?」

「俺はどう見える?」

 ひょいと向けられた問いに、能宣はのどの奥で笑ったらしかった。

「本当に美男子なのですね。鬼面の噂、半分ばかり疑っておりました」

 僧が呆れたようにつぶやく。

「お前……、いい性格をしているな」

「わたしが出家するとしたら、恐らく酒は慎むでしょうね」

 当てつけのような言葉をお返しといわんばかりに笑って躱し、良源は月を見つつ杯を干した。

 青年から杯を受けながら真面目に応じる。

「お前の場合は伊勢(いせ)神宮(じんぐう)祭主(さいしゅ)だろう」

「恐らくはそうなるでしょう。それが我が家の宿命です。神祇官庁を勤め上げて伊勢へ……」

「山(叡山)にいるのと変わらんな」

 伊勢神宮には様々な祭祀があり、一概にそうとは言い切れないが、能宣は袂を揺らしてあぐらを崩す。

「わたしには四季を楽しむ和歌がありますから」

「和歌で名を知られし大中臣能宣……、俺も名前は聞いたよ。けど、その目じゃ和歌なんぞにかかりっきりじゃいられんだろう。いろいろと見えて、いらんところにまで気を回してしまう。あの二人に関わってるのはそのせいに見えるがな。……ちょっと静かになったか」

 廊下に出た二人の気配にちらりと耳を向け、能宣がようやく己の杯に口をつけた。

「この目を恨んだことはありますよ。少しばかり、見えすぎていけない」

「自分の定めも見えるのか?」

 僧は無遠慮に問いかける。

 能宣は酒で赤くなった頬を隠すよう、少し広げた扇を顔に当てた。

「……見えるのかも知れませんね。もっとも、わたしの友にいわせると、それらは思い過ごしでしかないということです。先が決まっていては面白くないというのですよ。彼は逆に、託宣に縛られているわたしが面白いらしくて」

「ほう、珍しいな。神も鬼魅も恐れんのか」

 良源が感心したようにつぶやいた。

 牛が建物に入ったり多くの鼠が走っただけで恐ろしく、物忌(ものいみ)をせねば夜も明けぬという貴族が多い中で。

「恐れないのではありませんよ」

 大中臣の青年は穏やかに否定する。

「鬼魅を見て笑うことができるだけです。わたしの目の話も、始めは笑って、次には大変だなと感心していました。ついで、御簾や几帳越しに女の顔が見えるのかと訊ねてきましたがね」

 僧がくつくつと笑った。

「いい(ともがら)じゃないか」

「本当に、いい友ですよ」

 語尾に絡めて騒がしい足音が近づいてくる。ほどよい酒気に包まれつつ、二人はそちらへ首を巡らせた。




 ほのかな灯火の中に入ってきた彼らは、仏頂面の晴明が保憲に従っているという風に思えたが、先を歩く兄弟子は無表情のまま怒っているようで、弟弟子は顔をしかめながらも悄然としていた。

 能宣はおやおや、と少し口許を綻ばせる。呪詛に関わる(わだかま)りは消えたらしい。が、晴明が駄々をこねて保憲を怒らせたか。

「お騒がせしました」

 保憲が背筋を正しながら円座に腰を下ろした。

 その隣に座って、頬杖をついた晴明は素早く瓶子を取り上げると、己の杯に酒を注ぐ。感情の出やすい彼はむっつりと黙ったまま。

「……どうかしましたか」

 声をひそめて、能宣が保憲に声をかけた。

 淡々とした表情の保憲は、そこだけ怒りの籠もっている眼差しを弟弟子に流す。

「なんでもありません。ただ、晴明が呪詛を止めねば出て行くといったので、それを止めていただけです」

「……やはり、すぐには止められないのですか」

「晴明が修行不足ゆえ、制御できぬ呪力などとても恐ろしくて、絶対に与えられません。これまで生来の力を磨こうともしなかった己を悔やむべきでしょう」

 聞いた能宣は面に出さず内心で苦笑する。

 保憲の声はいつもの通りだが、言葉の一つ一つに棘があって、聞いている晴明はさぞ痛かろうと思われた。同じことを感じたのか、後手をついてあぐらを崩した良源も笑っていた。

 陰陽博士の息子は平坦な声で続けた。

「実をいうと、先ほどの話、まだ続きがあるのです」

「土師氏のことですね」

「はい。……実をいうと、梅花の咲かぬ怪異が、五行説では説明ができないのです。確かに梅は菅公が愛され、菅原家の家紋にもなっております。だが木はそのまま(もく)、大地である()に打ち勝つのです。つまり、この場合は梅が咲き乱れるべきなのです」

「なるほど……」

 能宣が顎に手を当て、良源も杯を持った手を膝に乗せたまま庭を睨み付ける。一人、黙って杯を重ねていた晴明がぶっきらぼうに割り込んだ。

「どこもおかしくないじゃんか。だって、梅は五行なんだろ」

 決めつけたように告げて、晴明は杯を、ようやっと己を見た兄弟子に勧める。

 だが保憲に厳しい目で先を促され、突っかかりながら由を口にした。

「だって、菅原家は五行の巡りを止めてたんだろ? だから菅公は五行を形とった(ほし)(うめ)(ばち)(もん)を使って、た……え? 違った?」

「梅が五行? なぜそう思うんだ」

「形を見ればそうじゃないか。え……、書くものどこだよ」

 能宣が人を呼ばずに立ち上がって居室を出て行くと、すぐに戻ってきて晴明の前に高価な唐紙(からかみ)を広げた。筆と硯を傍らに置く。

 晴明は杯を置き、かわりに筆を取り上げると、酒臭い息を止めながらさらさらと紋を描いていく。

 定規も使わずに綺麗な円をいくつも描いた。

 中心に小さなもの、その周囲に五つを配する。

「ほら、見ろよ」

 紙を全員の前に押し出し、彼は懐から出した扇の先で、梅の花弁である五つの円を示した。

「これは菅公が使ってた星梅鉢紋だ。右回りに上から、木、火、土、金、水。円は星になるから、やはり五行の五星(ごせい)、つまり木星、火星、土星、金星、水星かな。これを右にぐるりと巡らせば相生。で、こうやって……結べば相剋。

「ま、土を中心として四方に木火金水を配する()(おう)(せつ)が普通だけど、相生としては巡るとの意味で、こうやってぐるりと円を描いた方が正しいだろうな。円は星も意味するし、相剋を意する巡りの場合は、角が五つの綺麗な形――五芒星にもなる。

「中央の円は……周囲が()(せい)なら、やはり日や月と考えるべきだな。日、すなわち(にち)(りん)、とくれば天照大神(あまてらすおおみかみ)。すなわち帝の祖神……つまりはその血を引く主上(おかみ)、てことになるかな。

「主上なら保憲の話ともつじつまが合うんじゃないか? 五行の中心に置いて守り、盛り立てていると読める」

「――――」

 声を失って、保憲は描かれたばかりの、まだ墨が乾かぬ梅紋を見つめた。

 確かにそう見える。咲かぬ梅に気をとられて、菅原家の紋にまで気が回らなかった。

 能宣も紋を覗き込んでいたが、ふと気付いたように、扇を手に打ち付けて拍子を刻みながら、小さく口ずさむ。

「月の輝きは晴れたる雪の如し、梅の花は照れる星に似たり……。わたしの記憶に間違いがなければ、菅公は幼いころに、こういう漢詩をお詠みになったことがあるはずです」

 深くうなづいて、保憲は晴明に目を向けた。

「いつ気付いたんだ?」

「これか? お前が五行云々って説明したからだ。俺が梅から連想できるのは飛び梅と、これくらいなものだ。ほら、菅原家にいる保胤のところに何度も行ってるから」

 だからとはいえ、そう容易に思いつくものではない。

 保憲は晴明の生来の才に感心する。

 己を見つめる兄弟子の眼差しに気付いたか、晴明がにへらっと締まりのない笑みを浮かべた。

「……つまり、だ」

 良源が身を引いて酒杯を手にすると、塩をつまんで(さかな)にした。

「菅公は梅紋を用いて、己が帯びた木気の性質を強めつつ、調和をとった。が、それが(わざわい)したんだな」

「禍? なんでだ?」

 晴明の素直すぎる問いに、感心すれば次はこれか、と呆れながら保憲が答える。

「土師高遠が五行の――とくに土を掻き乱し、五行を意味する梅が、土の五位、すなわち中央であるこの(みやこ)で咲けなくなってしまったんだ。梅の花弁が星、星が五星、五星が万物流転の五行に繋がるがゆえに」

「“東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 (あるじ)なしとて 春を忘るな”……、菅公は自分がいなくなっても、東風が吹けば咲くようにと梅に歌いました。だが(みやこ)で梅が咲かない。祟りの雷神、菅公ではないと早く気付くべきでした」

 珍しく語尾に感情を滲ませ、能宣が悔しげにつぶやいた。

 独り蚊帳の外にいるような良源が大中臣の青年の背をつつき、その杯に酒を注ぐ。

 全員を色の違う目で眺めやった。

「じゃぁ菅公はどこで何をしてるんだ? 弟子に祟らせておいてどこに消えた?」

「これは推測となりますが……、菅公は潔白なお方であったと聞き及んでおります。自分のために雷神となった弟子をお見捨てにはならないでしょう。となれば、見守っているのではないかと」

「見守っているのか?」

 僧が不思議そうに訊ねて、二人の会話に気付いた陰陽博士の弟子も大中臣の息子に目をやった。

 思案に満ちた目を酒杯に落とし、能宣はゆるりと続ける。

「はい。一度憎しみに心を焼かれれば、その目はただ怨敵(おんてき)ばかりに向けられましょう。そうであれば見守る菅公には気付かない。荒れ狂う心が水のように静まるまでお待ちなのかと」

 月星を仰いで、良源がため息を漏らす。

「……確かめようがない話だな。しかし、そうであればいずれあの鬼も鎮まるだろう」

「確かめることはできますよ」

「はぁ? 誰に聞くってんだよ? あの鬼魅か」

「晴明!」

 馬鹿にした調子で問う晴明を保憲が小声で叱った。兄弟子の鋭い叱責に、弟弟子はふて腐れて腕を組む。

 能宣は優美に微笑んだ。

「藤原時平さまの加持祈祷をなさった(じょう)(ぞう)さまなら、何かご存じかも知れません」

 良源が思わせぶりに眉を上げ、験者の名を聞いた保憲と晴明が思わず顔を見合わせた。




 月が明るく、星が瞬く。

 晴明は単衣(ひとえ)をまとっただけの薄着で、大中臣家の庭に出て空を見上げていた。

 そのきらめきは時に驚くほど激しく瞬き、手に掴めそうな光は美しく輝かしい。

「……月星、か」

 星が告げる天意。

 晴明はまだそれを読み解くことができない。

 だがこうやって見上げていると、これから先の己の道が、ぼんやりと思い描けるように感じるから不思議だ。

 晴明が白い(おとがい)を上げてしばしのち、廊下を歩む静かな足音が響いて、彼はそちらに目をやった。

 単衣を羽織った能宣が立っている。

 晴明の視線に気付き、彼はいつもの笑みを浮かべる。

「星がお好きなのですか?」

「……好きだけど、今は違う。天意を知りたい」

「ご自分の、ですか」

「俺が天意を背負っているなら、星はその天意を俺に知らせるべきだ」

「……して、星はどのように?」

 その問いに、晴明は視線を下げて困ったように腕を組んだが、不意に空を仰ぎ、確信に満ちた声で告げた。

「俺はしばらく京を離れる」

「そのように星が告げているのですか?」

 かぶりを振り、晴明は唇を歪めて不機嫌に応じる。

「そんな気がするだけだ。星の位置、月の位置、そういったものから導いたものじゃない。俺が勝手にそう思っただけだ」

「……京を離れたいのですか」

「違う」

 強い声で反論し、晴明は腕組みを勢いよく解いた。

 能宣を強い目で睨み付けるが、その力も徐々に失われて、悲しげな色だけが残った。

 彼は小さくかぶりを振る。

「俺は……、できることならばここにいたい。だが、俺には……助けられるか、自信がない。俺には、力がない」

 能宣が慰めるように口を開く。

「晴明さまのお力は、見るものが見れば歴然としております」

 陰陽博士の弟子はふたたび、ゆるりとかぶりを振った。

「そういう意味じゃないんだ。……先見を変えるだけの、力だ。そのために今ある力を磨きたい」

「先見、を」

 能宣はつぶやいて、夜気に小さく身を震わせた。

 月光の中に立ち尽くす同い年の青年に目を当て、つと真顔になる。

「晴明さまが案じられる方々はわたくしが守りましょう」

「……なんだって?」

「陰陽道に優れていたとしても、己のことは見えぬもの。……とくに、己の死は不思議と見えない」

 晴明が驚いたように能宣を見、目を見開いた。

 反射的に身構える。

 それを見つめて、大中臣の青年は意味ありげにゆっくりと顎を引く。優しげな瞳が厳しさを帯びた。

「もし京から離れることになったならば、安心してお行き下さい。わたしの力及ばずとも、必ずや守りきりましょう」

 自信に満ちた声は晴明の顔を歪ませる。

 しばし腰を据えていた晴明は、ゆっくりと背筋を伸ばし、ふたたび、夜空を見上げる。幼い頃から幾度もそうやってきたように。

 頼んだ、との小さなつぶやきは、流れ星が一つ流れてからぽつりと落ちた。



 


これで、「第一章 菅原道真編」が終わります。

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