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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第一章 菅原道真編
13/31

【 十一 】


保胤(やすたね)

 賀茂の嫡男は驚いて腰を浮かせた。

 すると、次男の保胤は笑いながら「座ってなよ」と抑え、軽い足取りで室内に入ってくる。

 そこでようやっと兄が話している相手に気付き、ぎょっとした。大中臣能宣は優れた和歌で知られ、文人の保胤も当然のように顔を知っている。

「こ、これは能宣さま……」

 慌てて膝をつこうとする彼を抑え、座ることを勧めた能宣は相手の顔に見覚えがあることに気付く。

 菅原道真の孫、菅原(すがわら)文時(のふみとき)の弟子だった。

 挨拶する弟を注視する能宣の表情に気付き、保憲が説明を加える。

「保胤は、菅原文時さまに学問の師事を受けているうちに、漢学(かんがく)に興味を持って家を出たのです。――保胤、今日はどうした?」

 弟はちらりと能宣を窺って、兄に顔を向ける。

「兄上の調子が悪いと聞いてさ、暇をもらって見舞いに来たんだよ。持ってきた差し入れは厨に置いてきた。保章(やすあき)大学寮(だいがくりょう)の方に出ているものだから、さすがに来られなくて。でも、具合が悪いのならできるだけ静かにしててね、だってさ。……えぇと、外で待っていようか? 晴明とでも遊んでるよ」

「いえ、保胤どの。できれば……、菅原家のことをお教えていただけますか?」

「……お師さまの?」

 微笑む能宣に、保胤は生来の気安さが出てついつい普通に訊ねてしまう。気付き慌てて顔をしかめるが、能宣は気にした様子もなくゆるりとうなづいた。

 保憲は弟の言葉に片眉を上げたが、こちらもうなづいてみせる。

「晴明は今、用があって外に出しているんだ。菅公のことを話してもらえるか?」

「お師さまのお爺さまの話? あまり僕も知らないけど、聞いたことならどうにかなるよ。っていっても、……ほら、祟りとかいわれているから大声ではいえないよ」

「お前の声はいつも大きいだろう」

「兄上は時々きついよなぁ、でも元気そうでよかった」

 保胤は朗らかに笑って兄の言葉を(かわ)すと、急に声をひそめる。

「聞いた話によるとね、菅公は太宰府に流されてからも、人も天も怨まなかったらしいんだ。だからお師さまにいわせると、雷神になって祟るはずがないんだって。あれはお爺さまではない、というのが文時さまの愚痴」

「……愚痴という言い方はよくないぞ」

「や、いつも聞かされているものだから、愚痴かなぁって」

 保胤はにこにこ笑っていう。その悪気のない様子は幼い頃からどこも変わっていなかった。

 この保胤と晴明が組むと、晴明のやらかした悪事を――よいか悪いかは知らぬままに――保胤が言いくるめるので、実にたちが悪かった。その後始末に奔走するのは、まるで当然のように、兄の保憲の役目となったが。

 保胤の言葉にくすくすと笑って、能宣が雅な面を綻ばせる。

「ならば、文時さまにとって今の噂は苦々しいでしょうね」

「苦々しいどころか、あれは土師(はじの)道敏(みちとし)だっていいっぱなしで……や、そのようにずっとそういってるんです。菅公の弟子で、太宰府まで一緒に流れていった人なんだそうですけど」

土師(はじ)……」

 つぶやき、保憲は手許を見つめる。

「あぁ、埴輪を作っていた一族のことか。そういえば、菅原氏はもとの名を土師氏(はじし)といったな。殉死者の代わりに(はに)()を作った()(みの)星禰(すくね)が功績をあげたことを(よし)に、居地によって土師氏を改めたいと申し出て認められ、菅原を名乗るようになった……、失礼しました」

 保憲は口調がぞんざいになったことを詫びて、だが瞳は茫洋としたままに続ける。

「埴輪……古墳においたもの。菅公、梅……春」

「何か気になりますか?」

「いえ、埴輪は土で作るということを思い出しまして」

「埴輪を葉っぱで作ったらすぐにしなびてしまうものねぇ。それじゃぁ意味がないや」

「……保胤」

「そんなに怖い顔しないでよ、兄上。ちょっとした感想だって」

 万事が万事、この調子なのだからたまらない。保憲が睨み付けると、保胤はあ、などと口を開いて腰をわずかに浮かせた。すぐに座り直したが、いきなり深々と頭を下げる。

「用事を思い出しました。今日はこれでおいとまします」

「もう帰ってしまうのか?」

「また晴明がいる時に遊びに来るよ。父上によろしく」

 保胤は兄に軽く頭を下げて、能宣に向かって丁寧にいとまを告げると、「調子が悪いのだから早く寝なきゃ駄目だよ」と言い残し、見送りも断って去っていった。

 とすとす、という軽い足音が遠ざかっていく。

 日の光が御簾越しに落ちるようになってきていた。かなりの間、話し込んでいたらしい。

 身に冷ややかな涼気が二人の間をすり抜ける。

 能宣がぱちりと扇を閉じた。

「ずいぶんと楽しい弟君ですね」

「……あれで(かん)(がく)を学んでいるらしいですが、どうにも信じられませんね。今では陰陽道と聞くだけでいやそうな顔をしますが、昔はよく、不思議な夢を見たといっていたものです」

「賀茂の血、ですか」

 保憲は小首を傾げた。

「それはわかりません。父上も期待していたのでしょうが、滅多に口には出しませんからね。土と聞いて、五行の話が出るかと思い、急に帰ると……すみません、関係のないことを」

「いえ。それで、土で何を思い浮かべたのですか?」

 かすかに身を乗り出す能宣には気付かず、保憲は空を見上げる。

 その瞳が不安げに彷徨った。




 晴明は相も変わらず、頼りない足取りで歩んでいた。

 人気のない、右京の方へふらりと踏み込む。湿地帯であるため、うち捨てられた右京は、家が朽ち野原が広がっていた。

 晴明はさびれた光景を茫然と眺めやる。

 そして立ち尽した。

 帰る場所が、ない。

 賀茂の(やしき)以外に、彼には帰る場所がなかった。父は己を見捨て、師は――賀茂忠行は陰陽寮にいるだろうが、彼のもとへ行くことはできない。保憲が呪詛を行っているのならば、それは当然のように、忠行も承知していることだろうから。

 所詮は……他人の子か。

 晴明は醜く唇を歪める。

 父と慕っても兄と慕っても、所詮は他の子か。

 保憲があのように口やかましくするのは、きっと保胤(弟)たちが側にいないためであるし、ようよう考えてみれば、彼は誰に対しても同じように接するではないか。

 あの彰行にも優しい言葉をかける。

 己だけじゃない。

 お師さまだってそれは同じ。才能のあるものなら誰だっていいのだ。……それが、たとえ、誰であっても。

 俺でなくたって、いいんだ。

 晴明は胸のうちでつぶやき、心についた傷を広げる。

 忠行も保憲も、本当は己に死んで欲しかったのだ。あの親子は二人で、優しい顔をしながら、己を騙していたのか――。

「どけ!」

 いきなり砂埃が舞い上がり、何かに突き飛ばされた晴明は尻餅をついた。どころか勢いあまって頭を打ち付けてしまう。だが彼は生来の俊敏さを失ったままだった。ずきずきと痛む頭を放っておいて、晴明は魂が抜けたようになって、ぼんやりと青空を見上げるばかり。

 その晴明をひょいっと覗き込んだのは、鬼。

 角の生えた鬼がいる。

「――っ!」

 晴明は思わずのどの奥で悲鳴を上げた。慌てて起きあがれば、ついでといわぬばかりに胸ぐらを掴まれて立ち上がらせられる。「離せ!」と叫んだ晴明はその手を振り払って後ずさった。

「き、鬼魅か!」

 晴明は慌てて印を結ぼうとしたが、そこでふと、その鬼が面であることに気付いた。

 角はあるが、どこか柔らかい顔をした、木彫りの鬼面である。

 僧衣をまとった男が鬼面をつけているのだ。彼が手にしているのは手綱。男の後ろに、黒毛の美しい馬が立っていた。晴明を突き飛ばしたのはこの馬なのだろう。

 僧は黙ったまま腰に手を当てて晴明を見つめている。

 面の黒い二つの穴から、言い知れぬ強い視線を感じ、晴明は粟立った背筋にぞっとした。

 だが、この気配は――。

「……お前、人、か」

 春風に僧衣をはためかせて、男は剃髪していない頭に手をやった。安堵の吐息が面の下で漏れる。

「やれやれ、危なかったなぁ。頭をかち割ったら、いくら俺でも生き返らせるのは難しい。どうだ、気がすんだか? 俺は人だ」

「……なんで鬼面なんかつけてるんだよ」

「ふぅん、そっちを見たか。修行が足りんなぁ。もうちっと勉強せねばよい方術使いにはなれんぞ。どうだ、出家して僧にならないか。そっちの方がお前には向いてるかも知れん」

「な、なんだぁお前」

 ずばりとすべてを見抜かれて、晴明はのどの奥からおかしな声を上げた。警戒してさらに距離をとる。狩衣の袖の中で見られぬように印を結んだ。

 しかし僧は軽い調子で続ける。

「俺? 俺は見ての通り僧だ。他に何がある。名を(りょう)(げん)。平生は比叡山におる」

「良源……」

 聞いたことのある名前だった。しかし誰に聞いたのかは思い出せぬ。

 晴明の顔色から彼の考えをすべて読んだのか、良源は面に手をやり、紐を解いて外した。

「これでどうだ?」

 鬼面の下から現れたのは、ぎょっとするほど整った顔だった。しかもその眉は長く、その下の瞳は、右が空を映したように青く、左が闇のように黒い。にやりと吊り上げられた唇は、血に濡れたように赤く。

「鬼!」

 晴明は無遠慮に相手を指さし素っ頓狂な声を上げる。

 良源の話をしていたのは彰行たちだ。彼らが当てつけのように鬼や鬼魅の話を披露していた中に、良源の名があったのだ。

 鬼と叫ばれ指をさされ、僧はやれやれと頭を掻いた。

「おいおい、鬼はないだろうが、鬼は。俺は人だ。ただ、ちょっとばかり、人と変わっているがな。それは認めよう。お前も似たようなものだな。(なり)は人だが、鬼に近い――」

 晴明の顔色が劇的に変わったことに気付き、良源は思わず口を閉じた。

 青年の顔に浮かんだのは悲しみだった。

 あまりに切なそうな表情に、僧は釣られて哀れむような表情を作る。続けて悩むようなそぶりで首を傾げ、眉を寄せた。

 歪めた面を伏せ、鬼に近いと称された青年は、何も見たくないと目を閉じる。

「どうせ俺は鬼さ。親にも見捨てられた鬼だ……」

 両手を強く握りしめて、晴明は血を吐くように悲しみながら口にする。鬼という言葉に憎しみすら混じっていた。

 良源は星のような輝きを持つ目を細めた。

 肩を震わせ、唇を噛みしめる晴明をしばし見つめる。

 そして、ゆるりと諭した。

「……誰かを恨むのもいいが、その代償は高いと覚悟しておけよ。お前の魂魄は異相かも知れん。けどな、お前は今まで人として育てられ、そうやって生きてきたのだ。いいか。心が鬼となれば、お前の身も恐ろしき鬼となるぞ」

 晴明は音を立てて息を呑んだ。目を見開き、唇を薄く開く。驚きのあまり言葉も出ない。

 眉のあたりを掻いて、良源は優しく言葉を続ける。

「だが異相の俺と違って、お前の形はちゃんとした人だ。人に慈しまれて育ってきたんだろう? もう一度己の周りを見渡し、お前が鬼となって悲しむものがいるのなら……、止めとけ。人を恨むってのはむなしいもんだ」

 喘ぐように晴明は問いを絞り出した。

「な、んで――」

「なぜわかるかって? 俺も同じだからさ」

 良源は己の額を叩いた。

「俺の魂魄も鬼に近い。いや、鬼そのものだったかも知れん。それを悟って幼い頃に比叡へ上がり、まぁ……今では(ふじ)(わらの)(ただ)(ひら)(こう)の護持増をしているが、俺の魂は、いつも仏とともにある。だから俺は鬼であろうと、人としていられるのさ」

 異相の男は美しい顔を微笑みの形に変える。

「お前は独りじゃない。だろう? 側にいる人の顔を思い浮かべろ。彼らが何をしてくれたのか思い出せ。彼らを捨ててまで、恨む価値のあるものなどおらんさ」

「…………」

 言葉の意味が染み渡っていき、急に胸が塞いで、晴明はそのあたりの布を掴んだ。頬を熱いものが流れていく。次から次へと涙が溢れ、止まらない。

 師匠や兄弟子を恨めるか。

 そう問われれば、晴明はきっと言葉に詰まる。そしていう。恨めるはずがない、と。

 忠行は己を叱り、誉め、頭を撫でた。保憲はいつだって己の我が儘を受け入れた。真秋はいつも本気で怒ってくれた。口調は厳しいものの、若菜は弟のように可愛がってくれた。千夏は己を見かけると、必ず声をかけてくれたではないか――。

 晴明は涙を拭う。

 そして蚊の鳴くような声で答えた。

「……俺は、独りじゃない」

 側に近寄り、良源はうつむく晴明の後ろ頭に優しく触れた。

「少しびっくりしただけだな。お前はちゃんと人だよ。俺にはそう見える」

「――止めろって」

 頭を撫でられるのを嫌がり、晴明は後ろに逃れた。頭に触られたことで我を取り戻したらしい。急いで涙を拭い、赤くなった顔を隠すように半身を背けた。

 良源がにやりと笑って鬼面をつけ直した。

 彼は加持祈祷をする際、あまりに美男子のため女官に騒がれ、いつも面をつけているのだとひそやかに噂されていた。

 良源は晴明を見据え、訊ねる。

「さて、お前の名前を聞こうか。俺はもう名乗っているぞ」

「……安倍晴明。賀茂忠行が弟子」

 賀茂の邸に戻り、保憲に子細を問いただそうと胸に決めながら、晴明ははっきりとした声で名乗った。



良源は比叡山中興の祖と呼ばれています。

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