【 十一 】
「保胤」
賀茂の嫡男は驚いて腰を浮かせた。
すると、次男の保胤は笑いながら「座ってなよ」と抑え、軽い足取りで室内に入ってくる。
そこでようやっと兄が話している相手に気付き、ぎょっとした。大中臣能宣は優れた和歌で知られ、文人の保胤も当然のように顔を知っている。
「こ、これは能宣さま……」
慌てて膝をつこうとする彼を抑え、座ることを勧めた能宣は相手の顔に見覚えがあることに気付く。
菅原道真の孫、菅原文時の弟子だった。
挨拶する弟を注視する能宣の表情に気付き、保憲が説明を加える。
「保胤は、菅原文時さまに学問の師事を受けているうちに、漢学に興味を持って家を出たのです。――保胤、今日はどうした?」
弟はちらりと能宣を窺って、兄に顔を向ける。
「兄上の調子が悪いと聞いてさ、暇をもらって見舞いに来たんだよ。持ってきた差し入れは厨に置いてきた。保章は大学寮の方に出ているものだから、さすがに来られなくて。でも、具合が悪いのならできるだけ静かにしててね、だってさ。……えぇと、外で待っていようか? 晴明とでも遊んでるよ」
「いえ、保胤どの。できれば……、菅原家のことをお教えていただけますか?」
「……お師さまの?」
微笑む能宣に、保胤は生来の気安さが出てついつい普通に訊ねてしまう。気付き慌てて顔をしかめるが、能宣は気にした様子もなくゆるりとうなづいた。
保憲は弟の言葉に片眉を上げたが、こちらもうなづいてみせる。
「晴明は今、用があって外に出しているんだ。菅公のことを話してもらえるか?」
「お師さまのお爺さまの話? あまり僕も知らないけど、聞いたことならどうにかなるよ。っていっても、……ほら、祟りとかいわれているから大声ではいえないよ」
「お前の声はいつも大きいだろう」
「兄上は時々きついよなぁ、でも元気そうでよかった」
保胤は朗らかに笑って兄の言葉を躱すと、急に声をひそめる。
「聞いた話によるとね、菅公は太宰府に流されてからも、人も天も怨まなかったらしいんだ。だからお師さまにいわせると、雷神になって祟るはずがないんだって。あれはお爺さまではない、というのが文時さまの愚痴」
「……愚痴という言い方はよくないぞ」
「や、いつも聞かされているものだから、愚痴かなぁって」
保胤はにこにこ笑っていう。その悪気のない様子は幼い頃からどこも変わっていなかった。
この保胤と晴明が組むと、晴明のやらかした悪事を――よいか悪いかは知らぬままに――保胤が言いくるめるので、実にたちが悪かった。その後始末に奔走するのは、まるで当然のように、兄の保憲の役目となったが。
保胤の言葉にくすくすと笑って、能宣が雅な面を綻ばせる。
「ならば、文時さまにとって今の噂は苦々しいでしょうね」
「苦々しいどころか、あれは土師道敏だっていいっぱなしで……や、そのようにずっとそういってるんです。菅公の弟子で、太宰府まで一緒に流れていった人なんだそうですけど」
「土師……」
つぶやき、保憲は手許を見つめる。
「あぁ、埴輪を作っていた一族のことか。そういえば、菅原氏はもとの名を土師氏といったな。殉死者の代わりに埴輪を作った野見星禰が功績をあげたことを由に、居地によって土師氏を改めたいと申し出て認められ、菅原を名乗るようになった……、失礼しました」
保憲は口調がぞんざいになったことを詫びて、だが瞳は茫洋としたままに続ける。
「埴輪……古墳においたもの。菅公、梅……春」
「何か気になりますか?」
「いえ、埴輪は土で作るということを思い出しまして」
「埴輪を葉っぱで作ったらすぐにしなびてしまうものねぇ。それじゃぁ意味がないや」
「……保胤」
「そんなに怖い顔しないでよ、兄上。ちょっとした感想だって」
万事が万事、この調子なのだからたまらない。保憲が睨み付けると、保胤はあ、などと口を開いて腰をわずかに浮かせた。すぐに座り直したが、いきなり深々と頭を下げる。
「用事を思い出しました。今日はこれでおいとまします」
「もう帰ってしまうのか?」
「また晴明がいる時に遊びに来るよ。父上によろしく」
保胤は兄に軽く頭を下げて、能宣に向かって丁寧にいとまを告げると、「調子が悪いのだから早く寝なきゃ駄目だよ」と言い残し、見送りも断って去っていった。
とすとす、という軽い足音が遠ざかっていく。
日の光が御簾越しに落ちるようになってきていた。かなりの間、話し込んでいたらしい。
身に冷ややかな涼気が二人の間をすり抜ける。
能宣がぱちりと扇を閉じた。
「ずいぶんと楽しい弟君ですね」
「……あれで漢学を学んでいるらしいですが、どうにも信じられませんね。今では陰陽道と聞くだけでいやそうな顔をしますが、昔はよく、不思議な夢を見たといっていたものです」
「賀茂の血、ですか」
保憲は小首を傾げた。
「それはわかりません。父上も期待していたのでしょうが、滅多に口には出しませんからね。土と聞いて、五行の話が出るかと思い、急に帰ると……すみません、関係のないことを」
「いえ。それで、土で何を思い浮かべたのですか?」
かすかに身を乗り出す能宣には気付かず、保憲は空を見上げる。
その瞳が不安げに彷徨った。
晴明は相も変わらず、頼りない足取りで歩んでいた。
人気のない、右京の方へふらりと踏み込む。湿地帯であるため、うち捨てられた右京は、家が朽ち野原が広がっていた。
晴明はさびれた光景を茫然と眺めやる。
そして立ち尽した。
帰る場所が、ない。
賀茂の邸以外に、彼には帰る場所がなかった。父は己を見捨て、師は――賀茂忠行は陰陽寮にいるだろうが、彼のもとへ行くことはできない。保憲が呪詛を行っているのならば、それは当然のように、忠行も承知していることだろうから。
所詮は……他人の子か。
晴明は醜く唇を歪める。
父と慕っても兄と慕っても、所詮は他の子か。
保憲があのように口やかましくするのは、きっと保胤(弟)たちが側にいないためであるし、ようよう考えてみれば、彼は誰に対しても同じように接するではないか。
あの彰行にも優しい言葉をかける。
己だけじゃない。
お師さまだってそれは同じ。才能のあるものなら誰だっていいのだ。……それが、たとえ、誰であっても。
俺でなくたって、いいんだ。
晴明は胸のうちでつぶやき、心についた傷を広げる。
忠行も保憲も、本当は己に死んで欲しかったのだ。あの親子は二人で、優しい顔をしながら、己を騙していたのか――。
「どけ!」
いきなり砂埃が舞い上がり、何かに突き飛ばされた晴明は尻餅をついた。どころか勢いあまって頭を打ち付けてしまう。だが彼は生来の俊敏さを失ったままだった。ずきずきと痛む頭を放っておいて、晴明は魂が抜けたようになって、ぼんやりと青空を見上げるばかり。
その晴明をひょいっと覗き込んだのは、鬼。
角の生えた鬼がいる。
「――っ!」
晴明は思わずのどの奥で悲鳴を上げた。慌てて起きあがれば、ついでといわぬばかりに胸ぐらを掴まれて立ち上がらせられる。「離せ!」と叫んだ晴明はその手を振り払って後ずさった。
「き、鬼魅か!」
晴明は慌てて印を結ぼうとしたが、そこでふと、その鬼が面であることに気付いた。
角はあるが、どこか柔らかい顔をした、木彫りの鬼面である。
僧衣をまとった男が鬼面をつけているのだ。彼が手にしているのは手綱。男の後ろに、黒毛の美しい馬が立っていた。晴明を突き飛ばしたのはこの馬なのだろう。
僧は黙ったまま腰に手を当てて晴明を見つめている。
面の黒い二つの穴から、言い知れぬ強い視線を感じ、晴明は粟立った背筋にぞっとした。
だが、この気配は――。
「……お前、人、か」
春風に僧衣をはためかせて、男は剃髪していない頭に手をやった。安堵の吐息が面の下で漏れる。
「やれやれ、危なかったなぁ。頭をかち割ったら、いくら俺でも生き返らせるのは難しい。どうだ、気がすんだか? 俺は人だ」
「……なんで鬼面なんかつけてるんだよ」
「ふぅん、そっちを見たか。修行が足りんなぁ。もうちっと勉強せねばよい方術使いにはなれんぞ。どうだ、出家して僧にならないか。そっちの方がお前には向いてるかも知れん」
「な、なんだぁお前」
ずばりとすべてを見抜かれて、晴明はのどの奥からおかしな声を上げた。警戒してさらに距離をとる。狩衣の袖の中で見られぬように印を結んだ。
しかし僧は軽い調子で続ける。
「俺? 俺は見ての通り僧だ。他に何がある。名を良源。平生は比叡山におる」
「良源……」
聞いたことのある名前だった。しかし誰に聞いたのかは思い出せぬ。
晴明の顔色から彼の考えをすべて読んだのか、良源は面に手をやり、紐を解いて外した。
「これでどうだ?」
鬼面の下から現れたのは、ぎょっとするほど整った顔だった。しかもその眉は長く、その下の瞳は、右が空を映したように青く、左が闇のように黒い。にやりと吊り上げられた唇は、血に濡れたように赤く。
「鬼!」
晴明は無遠慮に相手を指さし素っ頓狂な声を上げる。
良源の話をしていたのは彰行たちだ。彼らが当てつけのように鬼や鬼魅の話を披露していた中に、良源の名があったのだ。
鬼と叫ばれ指をさされ、僧はやれやれと頭を掻いた。
「おいおい、鬼はないだろうが、鬼は。俺は人だ。ただ、ちょっとばかり、人と変わっているがな。それは認めよう。お前も似たようなものだな。形は人だが、鬼に近い――」
晴明の顔色が劇的に変わったことに気付き、良源は思わず口を閉じた。
青年の顔に浮かんだのは悲しみだった。
あまりに切なそうな表情に、僧は釣られて哀れむような表情を作る。続けて悩むようなそぶりで首を傾げ、眉を寄せた。
歪めた面を伏せ、鬼に近いと称された青年は、何も見たくないと目を閉じる。
「どうせ俺は鬼さ。親にも見捨てられた鬼だ……」
両手を強く握りしめて、晴明は血を吐くように悲しみながら口にする。鬼という言葉に憎しみすら混じっていた。
良源は星のような輝きを持つ目を細めた。
肩を震わせ、唇を噛みしめる晴明をしばし見つめる。
そして、ゆるりと諭した。
「……誰かを恨むのもいいが、その代償は高いと覚悟しておけよ。お前の魂魄は異相かも知れん。けどな、お前は今まで人として育てられ、そうやって生きてきたのだ。いいか。心が鬼となれば、お前の身も恐ろしき鬼となるぞ」
晴明は音を立てて息を呑んだ。目を見開き、唇を薄く開く。驚きのあまり言葉も出ない。
眉のあたりを掻いて、良源は優しく言葉を続ける。
「だが異相の俺と違って、お前の形はちゃんとした人だ。人に慈しまれて育ってきたんだろう? もう一度己の周りを見渡し、お前が鬼となって悲しむものがいるのなら……、止めとけ。人を恨むってのはむなしいもんだ」
喘ぐように晴明は問いを絞り出した。
「な、んで――」
「なぜわかるかって? 俺も同じだからさ」
良源は己の額を叩いた。
「俺の魂魄も鬼に近い。いや、鬼そのものだったかも知れん。それを悟って幼い頃に比叡へ上がり、まぁ……今では藤原忠平公の護持増をしているが、俺の魂は、いつも仏とともにある。だから俺は鬼であろうと、人としていられるのさ」
異相の男は美しい顔を微笑みの形に変える。
「お前は独りじゃない。だろう? 側にいる人の顔を思い浮かべろ。彼らが何をしてくれたのか思い出せ。彼らを捨ててまで、恨む価値のあるものなどおらんさ」
「…………」
言葉の意味が染み渡っていき、急に胸が塞いで、晴明はそのあたりの布を掴んだ。頬を熱いものが流れていく。次から次へと涙が溢れ、止まらない。
師匠や兄弟子を恨めるか。
そう問われれば、晴明はきっと言葉に詰まる。そしていう。恨めるはずがない、と。
忠行は己を叱り、誉め、頭を撫でた。保憲はいつだって己の我が儘を受け入れた。真秋はいつも本気で怒ってくれた。口調は厳しいものの、若菜は弟のように可愛がってくれた。千夏は己を見かけると、必ず声をかけてくれたではないか――。
晴明は涙を拭う。
そして蚊の鳴くような声で答えた。
「……俺は、独りじゃない」
側に近寄り、良源はうつむく晴明の後ろ頭に優しく触れた。
「少しびっくりしただけだな。お前はちゃんと人だよ。俺にはそう見える」
「――止めろって」
頭を撫でられるのを嫌がり、晴明は後ろに逃れた。頭に触られたことで我を取り戻したらしい。急いで涙を拭い、赤くなった顔を隠すように半身を背けた。
良源がにやりと笑って鬼面をつけ直した。
彼は加持祈祷をする際、あまりに美男子のため女官に騒がれ、いつも面をつけているのだとひそやかに噂されていた。
良源は晴明を見据え、訊ねる。
「さて、お前の名前を聞こうか。俺はもう名乗っているぞ」
「……安倍晴明。賀茂忠行が弟子」
賀茂の邸に戻り、保憲に子細を問いただそうと胸に決めながら、晴明ははっきりとした声で名乗った。
良源は比叡山中興の祖と呼ばれています。