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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第一章 菅原道真編
12/31

【 十 】


 晴明は上擦った忙しない息を整えることもできず、塀に背中を押し付けていた。胸のあたりを握りしめ、青年は両手で顔を覆う。ただただ胸が痛い。

 よろけた足取りでふたたび歩き出した。

 いつの間にか七条のあたりまで来ていたようだ。

 人の姿が増える。

 市が開かれ、(みやこ)(びと)たちが集まっていた。中には貴人と思しき姿もちらほらとある。

 晴明はつと、人のざわめきに吐息した。

 いつか忘れたが、このあたりを歩き回っていて、播磨(はりま)から来たという陰陽師(おんようじ)を名乗る男に術比べを申し込まれたこともあった。たぶんともにいた保憲が、かなり目立つ浄衣(じょうえ)を身にまとっていたためだろうか。

 ――お前が着替える暇もくれずに引っ張り出すからだぞ。それで、お前が見たという、水を使う術者(じゅつしゃ)はどこにいるんだ。

 あの時の保憲はとても不機嫌な顔をしていた。

 陰陽寮で扱った祭祀に、父親の薦めでちょっとした手伝いとして参加し、帰ってきたところを晴明に掴まって強引に連れ出されたからだ。美しい色が(みやこ)(びと)に浸透していたこともあり、保憲がまとった真っ白な衣服は清浄なほどに浮かび上がっていた。

 結局、その術者(じゅつしゃ)は晴明がぎろりと睨みつけると急に腰が砕け、二人は市を冷やかして帰ったのだ。

 あれは……、いつのことになるか。

 晴明は胸を締め付けられる想いの中で記憶を手繰りよせる。そう古い記憶ではない。思い起こす保憲の顔は少しばかり幼いだけだから。

 帰った途端、お師さまに怒られたっけ。

 呪詛。

 ぽつりと言葉が零れ出て、晴明はぎくりと肩を震わせる。

 嘘だ、と否定することは容易だった。己の師である忠行がそんなことを許すはずがない。そんなはずは、と。しかし、保憲があんな嘘を口にするはずがないのだ。ならば、本当(まこと)か。

 いきなり肩をぶつけられ、晴明はぐらりとよろめいた。慌ただしい足取りで、水干をまとった男が謝りながら駆けていく。人の往来は晴明を避けながらも平生のように続いている。

 青年はぼんやりと視線を巡らし、市女(いちめ)を見た。

「保憲が俺を……、殺そうとしている?」


   ◇


 母のもとから辞したばかりの千夏は、渡殿を歩む乳兄妹(ちきょうだい)に気付き、少し逡巡してからそろそろと近寄っていった。というのも、彼の後ろには上品な身なりの貴族が歩んでいたからだ。

 粗相にならないよう、そっと控えめに声をかける。

 賀茂保憲が血の気の失せた顔を千夏に向けた。

「どうしました?」

「……あの、晴明さまのことなのですけど」

「あれが何かしましたか」

 気が強いもの同士はなかなか反りが合わない。晴明と千夏がよく喧嘩することを知っている保憲は、怪訝そうに声をひそめながら問うた。わざわざ膝を折って、土の上に立つ千夏に顔を近づける。

「いや、そうじゃないんですけど……、その、様子がおかしかったので」

「様子……、ですか」

「昨日なんですけど、大路の道ばたに座ってたんです。かなり気落ちしていたようで」

「……そうですか。晴明にも悩み事はあるのですね。あとで話を聞いておきましょう。千夏どの、有り難うございました」

「いえ……」

 千夏はかすかに頬を染めながらうつむき、後ずさった。保憲が立ち上がって軽く会釈し、後ろの青年を促しながら歩き出す。

 二人は連れだって保憲の私室へと向かった。

 千夏はその背を見送り、不思議そうに首を傾げた。




 能宣は勧められるまま腰を下ろした。

 まるで文人のような室だった。文台には硯箱が置かれ、脇には文箱が積み重ねられていた。艶やかな色は使っていないが、地味ともいえぬ色の組み合わせの壁代(かべしろ)几帳(きちょう)などは趣味がよい。

 この時期には少し寒いとはいえ、春という和やかな季節のためか、仕切りに使う御簾を紐で(くく)り上げていた。おかげで室の中から碧空(へきくう)がよく見える。

 保憲は待つように言い置き、しばらく衣箱(ころもばこ)を探っていたが、やがて、薄い紙にくるみ、封を施した包みを引き出してきた。

 腰を下ろしながら能宣の前に置く。

「……これは?」

 手にとらずとも漂い出す穢れはわかる。大中臣の青年は手を出さず、ただ視線で相手を窺った。

「晴明が殺めた男の衣です」

「せ、晴明さまが……?」

「あれは、晴明が安倍の家より我が家に引き取られ、ようやっと落ち着いた頃のことでした」

 淡々とした声で保憲は語り出す。

 安倍家は遡ること数代ばかり昔、陰陽頭を出すような家であった。だがその呪力の弱まること著しく、望みをかけた子である晴明はあまりの異常さに、「(もの)()の子」として賀茂家に預けられることになったのだった。

 晴明の父、安倍(あべの)益木(ますき)は、忠行に深く頭を下げて口にした。


 “わたしには見えぬものに話しかける童をどうしてやることができましょう。陰陽家として優れた忠行さまならば、あれを間違いなく導いてくれると信じております”


 晴明の母は誰か知れなかった。そして、益木もいわなかった。だから「物の怪の子」と呼ばれてしまったのだろう。

 たっぷりと悩んだ末、忠行は晴明を引き取った。

 幼い頃から、今と同様に晴明は果てがないほどに気が強かった。父親に残されたことを知ると、かなり暴れてものを壊し、人を傷つけた。

 言葉よりも手が出てしまうたちで、一度など止めようとした保憲は本気で蹴飛ばされ、しばし寝込んだほどだ。

 だがしばらくすると観念したのか、晴明は大人しくなって、忠行の牛車などに従うようになった。この時に百鬼夜行を見たのだ。

 しかし、それだけではなかった――。

 保憲は目を伏せ、紙に包んだそれに暗い眼差しを向ける。

「あれは……、どこの(やしき)からの帰りだったのか、わかりませんが、しかしすでに夜であって、わたしたちは物寂しい路を歩いておりました。晴明はいつもの癖で少し先を歩いておりまして、家人の握ったたいまつの明かりの外にいたのです」

 そこに、夜盗が襲いかかった。

 忠行は盗人に当て身を喰らわしつつ、家人にたいまつで応戦させ、素早く呪を唱えて数人の気を奪って失神させた。

 保憲は驚いて父親の側から離れることができなかった。

「けれど……、すぐに晴明のことを思い出したのです。思い当たった途端、わたしは飛び出していました。晴明がいたあたりに立って、始めて気付いたのです。血の臭いが満ち満ちていて、足許に血溜まりがあることに。驚いて大声で父を呼び、たいまつの明かりに……四肢を引きちぎられた夜盗の骸が、ばらばらと転がっていているのがわかって」

 その時の光景を思い出したのか、保憲の顔がぎこちなく強張る。

 膝に乗せた手がすぅっと白くなった。

「晴明は塀のところに座り込んでおりました。何が起きたのかまったくわからないようで、幸いなことに傷はありませんでしたが、返り血を浴びて真っ赤になり……。父上はすぐに失念の呪をかけました。童に耐えられるようなことではないと思ったのでしょう。さらには家人に口止めをし、検非違使(けびいし)には、夜盗が獲物を巡って仲間割れをしたと報告したのです」

「……晴明さまは」

「しばらく寝込んでおりました。呪も知らず、いきなり力を使ったことが身体に負担をかけたのでしょう。……それから長いこと、父上は気難しい顔でずっと黙り込んでおりました」

 忠行は苦慮の末、晴明に呪詛をかけることに決めた。

 晴明の力を殺ぐためのものを。

 呪力の核である魂魄(こんぱく)を弱める呪詛を。

 しかしそれは諸刃の決断だった。晴明の魂魄は知らずに呪詛を跳ね返している。しかも晴明より殺いだ呪力の大半が、散らすこともできず身のうちに残ってしまうのだ。ゆえに忠行の力は研ぎ澄まされた。だが、人ではなく鬼に近しい力は忠行を苦しめ、返ってきた呪詛が時に彼を寝込ませた。

 悩んだあげく、忠行はある日、保憲を呼んで告げた。

 子の力を己よりも上と見抜いて。

「代わって、呪詛を続けてくれと……いわれました。わたしはそれを引き受けました」

 優美な眉を寄せて、能宣は保憲を見つめる。

「なぜ引き受けたのですか? 害あることを知りつつ――」

「わたしに起こっている弊害(へいがい)は鬼魅が見えぬことくらいのものです。呪詛が返ってきているのか、それとも呪力が相殺されてしまったせいなのか、そのあたりはわかりません。ですが、陰陽道にたずさわるものとして、必要なだけの呪力はあります」

 言い切りながらも、保憲は目を閉じた。

 だが、その力も今は身のうちにない。

 顔を隠したあの鬼魅に気を奪われ、晴明の鬼に近しい力が強くなりすぎ、体調を崩してしまったのだ。鬼魅と接触した直後、晴明が身に触れたことがまさに(とど)めとなった。

 今のこの身に、呪詛の相手であり、鬼に近しい力を持つ晴明に触れられれば、体調を崩す程度ではすまないだろう――あのような態度で、晴明を不安の沼に落とすつもりはなかったのだが。

 知らずのうちに晴明の気を探る。

 手応えが頼りなく、遠い。心が乱れ、その気が鬼に近しくなってしまったのだろうか……。これでは、父上は晴明を鬼魅としてしか捉えられまい。

 保憲はきゅっと眉を寄せ、眉間に深い皺を刻んだ。

「……父上は修行によって呪力を得ましたが、やはりその力のために苦しみました。常人が見ぬものは苦痛にもなります。常人が持たぬ力は苦しみに繋がります。晴明を呪詛することを決めたのも、その力のため。それは……わたしとて同じ。晴明にはそのような苦しみを味わって欲しくなかったのです。それでなくとも彼の非凡さは見るものが見ればわかる。今もその力によって苦しんでいる。彼のため、わたしに何かができるのならば、してやりたかったのです」

 賀茂の青年は烏帽子が落ちそうなほどにうつむいて、手を膝の上で握りしめる。

 その身のうちで、人の力と鬼に近しい力がせめぎ合っているのか。

 重苦しい空気の中、能宣が両肩から力を抜いた。

「……わかりました。この話、聞かなかったこととしましょう」

「能宣どの……」

「わたしの手に負えることではなさそうですから」

 少し驚いた顔をする保憲に微笑んで、能宣は深く頭を下げる。

「いささか急ぎすぎました。申し訳ありません」

 青年の後ろ頭を見て、保憲は癖でゆるりと片目を細めた。

 面を上げるように頼んでから真面目に答える。

「呪詛は詮議の対象になるものです。問いつめられて然るべきでしょう」

「……保憲さまの言葉を聞いていると」

 端整な面を上げ、能宣はふと庭に目を流した。そこにも、若木とはいえ梅の木が植えられていた。

「清廉潔白なお人柄であったという、菅公を忍ばせますね」

 これには保憲が困った。

 誉め言葉であると受け取ってもいいのだろうが、右大臣まで出世した殿上人(てんじょうびと)と比べられて、どのような顔をすればいいのか。

「能宣どの……、わたしはどのように答えればいいのですか」

 それに気付いて、能宣も艶やかな苦笑を浮かべる。

「失礼しました。しかし、菅公は……なぜ、ここまで荒ぶる御霊になられたのでしょう。どのような苦境にあっても、帝に仕え、清廉であり続けたと聞き及んでいますが……」

 保憲は空を見やって、小さくつぶやいた。

「……五方が東、五時が春の五行(ごぎょう)において、(もく)は命ある存在、そして青龍(せいりゅう)。それすなわち五位は(しん)であり、震は雷つまり霹靂(へきれき)であって、不浄を清めて命を生むもの……。

「菅公は聡明で理想高きお方であったために、雷神となられたのでしょう」

「帝釈天の属神であるがゆえに雷神であるとも聞きますが……」

 のんびりした声が割り込んだ。

「神さまのお許しがないと祟れないなんて、お師さまのお爺さまらしいよね」

 二人は弾かれたように顔を上げた。

 午後の気だるげな日差しを背負い、ひょこりとそこに立っていたのは、保憲とよく似た面差しの、文人らしい青年。

 その青年は会釈し、にこやかに笑った。

「お久しぶりです、兄上」




保憲は、今で言う(生真面目な)中央官僚です。

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