【 九 】
保憲は私室に戻ると、手早く直衣から水干に着替えた。
やはり、陰陽頭から邸内に引っ込んでいろといわれた身で、軽々しく外に出ることは憚られたのだ。
だから、というわけではないが、何となく水干を身にまとい、家人には暦の計算をするからと室に入らぬよう言いつけた。
そうしてから素知らぬ顔で邸を抜け出す。
彼が向かったのは、邸からそう遠くない大路の道ばただった。しばし待っていると彼の前に牛車が止まる。
「お待たせいたしました」
柔らかく、優美な声とともに中から少し顔を出したのは能宣だった。
保憲は促されるまま、牛車に乗り入れる。腰を下ろすなり、ふわりと漂った匂いに顔へ手をやった。
清々しいが、濃くなれば頭痛がぶり返しそうな香り。
「この匂いは……」
「梅です。頼んで手に入れてもらったのですよ。ですけど、炊きこめすぎたらしく」
「……よい匂いなのですがね」
いささか強すぎる。
かすかに顔をしかめたまま、保憲は四つばかり年下の青年に視線を向けた。
「それで、この度は……」
「晴明さまの意見を伺いたいと思いまして。わたしはずいぶんと嫌われているようですので」
保憲は苦く笑った。
「申し訳ない。晴明は人と話すのが苦手なのですよ。どうにかして人に慣らそうと、陰陽頭にまで頼んで、雑用などを扱う大舎人などにも出仕させたのですが、甲斐はありませんでした。幼い頃から化け物と噂され、人に疎まれて生きてきましたから、誰であれ人と接することが怖いのだと思います」
「化け物……、ですか」
柳眉をしかめ、能宣が考え深げにつぶやく。
「けれど、晴明は化け物ではありません」
穏やかな眼差しで保憲は否定する。
「人とは違う天意を背負って生まれて来たのでしょう。それがわからず、足掻いているだけです。時が来れば、晴明にも己のなすべきことが見える。わたしはそう思っていますよ」
「……過酷な定めを背負われていますね」
「本人はそんなもの、いらないと思うでしょうがね」
うつむいた能宣は、晴明の背負うものに想いを馳せたのかしばし瞑目していたが、不意に白い面を上げ厳しい眼差しで保憲を射った。声音が低くなる。
「わたしの思い過ごしであればよいと思っていたのですが」
「……なんのことです?」
「やはり、あなたは呪詛を行っていますね」
保憲の目が大きく見開かれた。
腰を浮かせる。
「謂われのないことを――」
青年は確信に満ちた声で語を遮った。
「間違いありません。わたしは始め、晴明さまが行っているのかと思いました。けれど接してみて違うと気付いたのです。次は忠行さまが行っているのかと思いました。ですがあなたと忠行さまの気はとてもよく似ており、ともに現れたので断ずることができなかったのです。けれどあの時、晴明さまを追い、あなたが去って知った。忠行さまではない。残されたのはあなたです」
「……気付いただの知っただの、わたしにはあなたの言葉がわからない」
反論する保憲の声は掠れ、上擦っていた。
逃れようとして腰を上げたまま能宣を睨め付けている。
黒目がちの瞳をゆるりと細め、捕らえた獲物を絡め取ろうとするよう、大中臣の青年は言の葉を重ねた。
「始めはあなたが呪詛を受けているのかと思いました。しかし違った。この淀みは間違いなくあなたから発せられています。わたしの目でも耳でもない、別の何かがいうのです。あなたが――この、詛しげな気配の源だと」
「……止めて下さい!」
血の気を失った唇で囁きのように叫び、保憲は牛車から飛び降りた。
草履を引っかける間も惜しんでその場から逃れる。しかし邸に駆け込むことはなく、数十歩離れたところで足取りをゆるめ、立ち止まった。
追って、能宣も素早く牛車から降りた。何事かと身構える家人を遮って、厳しい調子で遠ざける。彼は確信に満ち満ちている足取りで保憲に近づいた。
周囲の目を憚って能宣の声は低くなるが、保憲には身を切り裂くような鋭さをもって響く。
「なぜ呪詛を行っているのです? 事と次第によっては、わたしはあなたのことを神祇官に報告しなければなりません」
背を向けた保憲の肩が震えているのを見、青年は声の調子を和らげた。
「どのような由があるのか、教えて下さい。誰を呪詛していらっしゃるのですか? 賀茂忠行の子であり、優れた暦生として陰陽頭のおぼえもめでたいあなたが、なぜ……呪詛を行っているのですか?」
「――――」
返るのは沈黙。
保憲は唇を噛み、蒼白な面を地に向けていた。
かと思えば極めて厳しい表情で振り返る。能宣は少し驚いた。観念したものの顔ではなく、立ち向かおうとする強き意志も露わに、平生は穏やかな目を険しく据えていた。
決然とした声が宣する。
「脅されようが罰せられようが、わたしは誰にも何をいうつもりもない。あなたがわたしをどうなさろうとご随意に。だが、わたしの口は開かぬと覚悟することです」
「……保憲さま」
つぶやいて、これはやり方を間違えたと能宣は後悔する。陰陽博士の息子、賀茂の嫡男としての立場をかなぐり捨てる強さを彼は持っている。――思っていた以上に手強い。
能宣は額に手をやって、すぐに下ろした。
「わかりました……。神祇官という件は忘れて下さい」
「宥めてもわたしはいいません」
しかし保憲ははね除けるような強さで述べ、半ば顔を背ける。その横顔に漂ったのは困惑と入り交じった悲哀だった。それをすぐに見抜いて、能宣は眉を寄せる。
もしや、これは――。
大中臣の青年は密かに息を呑んだ。
「……保憲さま。一つだけ訊ねてもよいでしょうか」
無言で首だけ振り返り、無表情に近しい眼差しで促す保憲。そこに現れた決意は、誰を守るためのものなのか。
能宣は柔らかな声で訊ねた。
「晴明さまに関わっているのですね?」
◇
晴明は独り、書庫の整頓に勤しんでいた。先ほどの輩が残していった分を終え、先日の続きに取りかかろうとしていた彼は、いきなり鳥の声に呼ばれて振り返る。
そこに式神の雲雀がいた。
小首をことことと傾げながら、爪で音を立てつつ書庫に入ってくる。晴明は書を置いてそちらに近寄った。
「どうした、なんかあったか」
雲雀を掴み上げた手に残ったのは一枚の符だった。途端に彼の顔が強張って虚空を睨む。ただならぬ様子の保憲が、能宣の牛車から飛び降りたことを知ったのだ。
「くそ……っ」
床を蹴って、晴明は庭に飛び出した。素早く左右に視線を巡らせた彼は兄弟子の気配を追って勘を研ぎ澄ませる。左、と断じて駆け出す。
面倒なので塀を乗り越えた。いきなり路地に降り立った青年に驚き、声を上げる女や験者を気にもかけず、雲雀が残した光景にあった牛車に向かって走った。
牛車は晴明の方に牛を向けていた。その彼方で能宣が背を向けて立っている。大中臣の青年から少し離れたところに佇み、保憲は地に視線を這わせていた。
二人の間は緊迫しているものの、術などが使われる気配はどこにもなかった。安堵し、足をゆるめた晴明の耳を能宣の声が叩く。
それは、己の名を含んでいた。
「……晴明さまに関わっているのですね?」
思わず足を止め、青年は兄弟子の後ろ姿を見た。保憲の肩がふるりと震える。それは明らかに肯定を意味していた。
やがて、保憲はうつむいたままに答えた。往来の中でもその声ははっきりと届く。
「そう、わたし呪詛の相手は――晴明です」
「…………」
晴明はぱたりと目を瞬く。
兄弟子が何をいっているのか、すぐにはわからなかった。呪詛。それは呪いをかけることだ。相手に禍をもたらすことだ。大半は――、人の命を奪うために行われる凄まじき法。
「保憲が……、に?」
意味がようやく理解できて、晴明はゆるゆると目を見開く。驚きよりも衝撃よりも、悲しみが胸に広がった。
「保憲が……俺を呪ってる?」
誰の悪戯か、茫然と零れたその囁きが風に乗って保憲に届いた。弾かれたように頭を上げた賀茂の青年は、もとから白い顔をさらに青ざめさせている晴明を見つけた。
「せ、い……」
名も呼べず、保憲は唇だけではなく動きも凍らせた。
能宣が振り返って晴明を見い出し、すぐさま失念の呪を唱えようとする。だが気付いた保憲が鋭く青年の名を呼んで、止めた。
驚く能宣を押さえながらおぼつかない足取りで前に出て、保憲はいつもの瞳で真っ直ぐに弟弟子を見つめる。
「晴明、どこまで聞い――」
だが名を呼ばれた青年はふいと無言のままきびすを返す。
裸足で風のように駆け出した。
「晴明!」
名を呼び、駆け出そうとした保憲は能宣に腕をとられて体勢を崩した。腕を振り払おうと足掻きながら相手を睨み付ける。
「能宣どの、何を――っ」
「駄目です、今の彼に近寄れば保憲さまの身が傷つきます!」
「……っ」
保憲は何を思い出したのか、顔をこれ以上ないほどに強張らせる。二度ばかり振り払おうとしたが、諦念して肩から力を抜くと、急に目眩を覚えたのかがくりと膝をついた。
「保憲さま!」
「……いえ、大丈夫です、大丈夫ですよ」
支えようとする能宣の手を払って、保憲はゆっくりと立ち上がる。
「少しばかり、目眩がしただけですから」
「それは呪詛のせいです。晴明さまの力は強い。いくら保憲さまであろうとも――」
気遣う能宣の言葉を、ゆるゆるとかぶりを振って否定し、保憲は力のない声音で答えた。
「違います。わたしは確かに晴明に呪詛をかけている。ですが、それは晴明に禍をもたらす類のものではないのですよ」
「……どういう意味です?」
賀茂邸の方へ足を踏み出し、保憲は疲れた笑みを作った。
「わたしの居室へ」
「……ん?」
忠行は書を持った手を膝の上に落とし、顔を上げた。
探るような目つきで彼方を見上げる。
「どうなさいました?」
声をかけたのは彰行だった。どのような努力をしたのか、喧嘩の形跡が見られぬこざっぱりとした姿をしている。
陰陽寮の一室で、忠行は大陸よりもたらされた書を読んでいた。稀代の陰陽家は書を閉じてゆるりと顎を撫でる。
「いやな、今……」
声を聞いたのだ、と続けようとした忠行はぎょっとして呼気を呑み込む。立ち上がろうとした忠行は、急に力が抜けたように膝を落とした。
「忠行さま!」
驚いて大声を出す彰行を制し、忠行は目のあたりに手をやった。
「今の鬼気は……」
背筋が粟立って言葉も掻き消える。驚きのあまり、忠行は茫然と一点を見つめた。やがて、ぎこちない動きで視線を空に放つ。
「……晴明」
小さくつぶやいて、老人は膝に乗せた手を握りしめる。
人には決して窺い知ることのできない彼の視界から、きかん気の強い弟子の姿が掻き消えていた。