序章
序章
「オン・アボキヤ・ビジャヤ・ウンハッタ、オン・アボキヤ・ビジャヤ・ウンハッタ――」
凛とした響きを持つ真言が野を渡っていく。
秋の草草が揺れる野に立ち、一心に唱え上げていた青年は、ゆるりと印を――神仏を象徴する指の形をほどき、顔を上げた。鋭い眼差しで周囲を薙ぎ払う。草の上を渡る風に、狩衣の裾と袂がふわりと巻き上がった。
彼は烏帽子を被った頭を巡らし、天を仰いだ。
穏やかな秋の空だ。
「……救われる道をも選ばぬもの、か」
涼気の混じった風が頬が掠める。
ゆるりとかぶりを振って、青年はきつく眉を寄せて地を睨んだ。
厳しい面にふと悲しみが混じる。
「やはり、ここだったのか」
いきなり背に声が掛かって、青年は驚きながらそちらに目をやった。直衣姿の男がこちらに歩き寄って来ている。あちらこちらに咲く花々を避けつつ、時折足を止めては、桔梗などの秋の七草を眺めていた。
青年が訝りに眉根を寄せた。
そちらへ数歩、近づく。
「こんなところまで遠出して来て大丈夫なのか?」
「もう出仕もしているんだ、少しの遠出くらい平気さ」
男は肩をそびやかして青年の横に並ぶ。風を嫌って細めた目で、ゆっくりと周囲を眺めやった。
笹の擦れ合うかさかさという音がひどく耳につく。緑の葉に満ちていた野は、秋の枯れた色に変わりつつあった。夏の時分ならば高い陽も、すでに西の空に掛かり、日差しが赤く変じ始めている。もうしばらくすれば京から鐘の音が聞こえてくるだろう。
風へと混ぜるように、男が感慨深げにつぶやいた。
「もうすっかり、秋になってしまったのだな……。風がずいぶんと冷たい」
「お前に夏はなかったからな」
「……なかったというより、感じ取れぬままに終わってしまったのだな。暑かったような気もするし寒かったような気もする。まったく、わたしの心は何処にあったのか」
男は苦笑してふと、真顔に戻った。
横に立つ青年に面を向ける。
細面にじわりと悔恨が浮かんだ。
「本当に……、お前には」
何かをいいかけた男は、ふと目を伏せて微苦笑を口許に浮かべると、小さくかぶりを振って唇を閉じた。一方、声が聞こえていたはずの青年もあらぬ方に瞳を向け、唇を真一文字に引き結んでいる。
ふたりは黙って風に揺れる薄を眺めやった。
ついと、男が肩を動かす。
「わたしは帰るよ」
「あぁ……、邸まで送るか?」
心配そうに顔を歪める青年へ、男はくすりと笑って、止めてくれと手を振る。
「独りでちゃんと帰れるさ。夕刻までには京へ戻れよ」
男はもう一度手を振ってみせ、ゆったりとした動きで背を向けた。その足取りがまだぎこちない。足の運びを一歩一歩、確かめているようにすら見えた。遠ざかる男の姿を見送った青年は、ゆるりと悲しげに目を細め、白い手をきつく握りしめる。
「俺が――あの時……」
悔しげに吐き出して、青年はふと、真顔で秋の野を見やった。
狩衣の袂が風に流される。
今は秋だが、いずれ暗闇に閉ざされる冬が訪れて、生命が芽吹く春が来るのだろう。
梅の咲く春が……。
「あの、もし……」
あまりにもかすかな声だったので、風に掻き消されてすぐには気付かなかった。青年は幾度か呼ばれてようやっと気付く。訝りながら振り返れば、そこに笠を被った女人が一人、佇んでいた。抱えた篭には秋の七草が大切そうに入れられている。
「もしかして、あなたは――」
振り返った青年を見、女人が少しばかり声を弾ませて語を紡ぐ。
青年は小首を傾げて彼女を見やった。
かなり長いお話になっています。
よろしければ、お付き合いくださいませ。