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拡大 ― 王都への招待状

王都からの調査を乗り越えた試用期間三ヶ月目、マルクたちのヴァスト工房は月間二百個ペースで稼働し、累計純利益六百二十マルクスを達成。ビンボーレ村への仕送りで水車が修繕され、子供たちが週二回肉を食べられるようになる。しかし急成長は三つの危機をもたらす——光り石の原材料枯渇(裏山の浅い層が枯れかけ、月産八十個に減少)、人材育成の壁(ゴルドの暗黙知をトビアスら新職人に伝える困難)、そして模倣品の出現とマジカル・アセット商会による類似商品「マナランタン」の投入。マルクは品質基準書の作成、偽物交換プログラム(ルーナの発案)、ギルド認定マーク申請で対抗策を講じる。そこへ魔道具管理局調査官クラウスが再来訪し、管理局長エルヴィン・フォン・シュタイナーの名による王都商業博覧会への正式招待状を届ける。ゴルドは「王都」の名に三十年前のトラウマ(弟子ダリウスが倒れた音)が蘇り激しく動揺。フェルディナントは博覧会の実態が「取締役会議の品評会」であること、魔道具利権を握るグランツ公爵の存在を警告し、「王都では金も商品力も権力の前には紙切れだ」と忠告する。一方、レオンハルトはグランツ公爵に三通の密書を送り、ゴルドの正体とマナバッテリーの情報を密告。公爵は「今度は逃がさん」と冷笑し、ゴルドの技術と人物そのものを手中に収める準備を命じる。ルーナのマナ視がマジカル・アセット商会から王都への暗いマナの筋を捉え、密告の痕跡を察知。マルクは罠と知りつつも「行かないリスクの方が高い」と判断。翌朝ゴルドが覚悟を決め「わしは行く」と宣言——亡きダリウスの「師匠、もう十分です」という声を聞いたと語る。三人はビンボーレ村に帰郷し、変わった村の姿(回る水車、ふっくらした子供たちの頬、リーナの花壇)を目にする。母リーナとの別れでは「帰ってくること」を約束し、ペーターたちと指切りを交わす。星空の下でマルクは「水車を回し続けるために王都に行く」と語り、三人は手を重ねて旅立ちを誓う。護衛と馬車でリヴァータウンを出発し、三日後の夕刻、巨大な王都キャピタル・シティの城壁が姿を現す。ゴルドの手はもう震えていなかった。商人立志編の最終章が始まる。

 試用期間三ヶ月目——最終月が、始まった。


 リヴァータウンの大通りから二本裏に入った路地。かつては空き倉庫が並ぶだけの寂れた通りだったが、今はその一角に、真新しい看板が掲げられている。


 『ヴァスト工房』


 ——マナバッテリー製造工房。


 木枠に真鍮の文字を打ちつけた看板は、ゴルドが自ら鍛造したものだ。文字の一画一画に、マイスター級の精度が宿っている。


 マルクは工房の入り口に立ち、内部を見渡した。


 六十坪ほどの石造りの建物。かつてヴィクトルの工房の隣にあった空き倉庫を、三週間かけて改装した。壁には棚が据えつけられ、光り石の原石が等級別に整然と並んでいる。中央には作業台が四台。奥に鍛造炉が二基。そして——部屋の右端に、完成品を検査するための検査台が一つ。


 前世のギガファクトリーとは比べるべくもない。だが——原理は同じだ。原材料の搬入から完成品の出荷まで、すべてが一本の流れで繋がっている。


 工房内では、五人の職人が黙々と作業をしていた。


 ヴィクトルが鍛造炉の前で真鍮のインゴットを溶かしている。その隣では、ヴィクトルの弟子であるトビアスという若い男が、ケースの粗削りを担当している。組み立て台では、ビンボーレ村から出稼ぎに来たミルンの息子ハインツが、バルブ機構の取り付け作業に没頭していた。


 そして——検査台の前に、ルーナがいた。


「三十七号、検査完了。マナの流れは均一、色は藍色の七。異常なし!」


 ルーナが完成品を布で包み、出荷用の木箱に丁寧に納める。亜麻色の髪を後ろで束ね、淡い青のエプロンの上から革の前掛けをつけている。リヴァータウンに来た頃の素朴な村娘の面影は残しつつ、その所作には——職人の工房の一員としての自覚が宿っていた。


 マルクはテーブルに帳簿を広げた。


 【試用期間三ヶ月目・第一週販売実績】

 ・週間販売数:五十二個

 ・月間ペース予測:二百八個

 ・累計販売数(三ヶ月間):四百七十一個

 ・累計売上:千六百四十八・五マルクス

 ・累計純利益:約六百二十マルクス

 ・ギルド上納済み:約百八十六マルクス


 六百二十マルクス。


 ビンボーレ村の年間総収入の——十五倍以上。


 マルクは数字を見つめ、小さく息を吐いた。


 前世のテヌラ・モーターズが年間売上十億ドルを突破した時、ムーロン・マスクはシャンパンを開けた。だが——その時感じたのは、達成感よりも「次はどうする」という焦燥だった。数字は上がった。株価も上がった。だが——何が変わったのか。誰が救われたのか。それは、わからなかった。


 今は——違う。


 マルクは帳簿の隣に置いた手紙を手に取った。


 ビンボーレ村のリーナからの返事だ。先週、ガルデン経由の便で届いたもの。


 ——マルクへ。


 仕送り、ありがとう。おかげで、村の水車を直すことができました。バルトスさんが職人を呼んで、歯車を新しくしたの。回り始めた時、村中が集まって見ていたよ。ミルンのおじさんなんか、泣いてた。


 子供たちも、週に二回は肉が食べられるようになりました。この前、カルタの息子のペーターが「今日は鶏肉だ!」って走り回ってて、転んで膝を擦りむいてたの。泣きながら鶏肉を食べてる顔が、おかしくて。


 あんたが送ってくれたお金で、村が少しずつ変わってる。ありがとう。でも、無理はしないで。体が一番大事だからね。


 カルロとヨハンの消息は、まだありません。アカウンタス様に、毎日祈っています。


               母より


 マルクは手紙を折り畳み、胸ポケットに入れた。


 水車が——直った。


 ビンボーレ村の壊れた水車。あれは、転生直後のマルクが最初に目にした「この世界の貧困の象徴」だった。歯車が欠け、軸が錆び、何年も放置されていた木造の水車。


 それが——回り始めた。


 マルクの仕送りで。マルクが作ったマナバッテリーの利益で。


 六百二十マルクスという数字が——初めて、「水車の歯車」という具体的な形に変わった。


 前世のテヌラ・モーターズは、「持続可能なエネルギーへの移行を加速する」というミッションを掲げていた。壮大なビジョン。だが——ムーロン・マスク自身が、そのミッションで具体的に「誰の生活が変わったのか」を実感する機会は、ほとんどなかった。数字は見えた。株価は見えた。だが——ミルンのおじさんが水車の前で泣いている姿は、見えなかった。


 今世では——見える。


 ペーターが泣きながら鶏肉を食べている姿が。母さんが手紙を書く時の、あの不器用な筆跡が。


 これが——本当にやりたかったことだ。


 金だけの成功ではない。数字だけの成長ではない。人が——笑える。人が——食べられる。人が——泣ける。


 それが、本当の意味での「黒字」だ。


「マルク!」


 ルーナの声で、我に返った。


「今日の出荷分、全部検査終わったよ! 十二個、全品合格!」


「ありがとう。——出荷準備を頼む」


「はーい。……あんた、またぼーっとしてた? 最近多いよ、それ」


「考え事だ」


「どんな?」


「……水車のこと」


「水車?」


 ルーナが首を傾げた。マルクは小さく笑って、手紙のことは言わなかった。


 ゴルドが鍛造炉の前から歩いてきた。煤で黒ずんだ手を布で拭きながら、灰色の瞳で工房全体を見渡す。


「小僧。今日の加工分は予定通り仕上がった。ヴィクトルの炉も調子がいい」


「ありがとうございます。明日の生産予定は?」


「標準版を八個、高品質版を三個。——週末までに、出荷分を確保できる」


 月間二百個ペース。三ヶ月前の「月間五十個のノルマ」が、今では冗談のように聞こえる。


 だが——マルクの胸の奥には、じわりと滲む不安があった。


 成功は——守るのが一番難しい。


 前世のテヌラ・モーターズも、最初の急成長期が最も危険だった。需要が供給を上回り、品質管理が追いつかず、競合他社が本腰を入れて反撃を始める——その「成功の罠」に、何度もはまりかけた。


 今のマナバッテリー事業も、同じ段階に差しかかっている。


 売上は伸びている。工房も稼働している。だが——この成長を支えるインフラは、まだ脆い。


 光り石の供給。人材の育成。品質の維持。競合の反撃。


 どれか一つでも崩れれば——すべてが、崩れる。


 マルクは帳簿を閉じ、窓の外を見た。


 リヴァータウンの秋の空。高い雲が、風に流されていく。


 成功の果実は——甘い。だが、甘い果実ほど、腐るのも早い。


「……前世でもやったな」


 小さく呟いた。


 守る戦い。それは——攻める戦いよりも、はるかに難しい。


 だが——やるしかない。


 この工房を。この仲間を。そして——ビンボーレ村の水車を。


 守り抜く。



 ◇


 危機は——三つ同時に来た。


 最初の兆候は、ビンボーレ村からの定期便だった。


「マルク。——これ、今月の光り石の納品だけど」


 ルーナがガルデン経由で届いた木箱を開け、中身を検分した。布に包まれた光り石の原石が、整然と並んでいる。


 だが——数が足りない。


「発注は百二十個だったよね。——でも、これ八十個しかないよ」


 マルクが木箱の底に入っていた手紙を開いた。ミルンからの走り書きだ。


 ——マルク殿。今月の納品は八十個が限界です。裏山のAグレード鉱脈が、浅い層では枯れかけています。深い層にはまだありますが、採掘に人手と時間がかかります。来月は六十個まで減る可能性があります。


 マルクは手紙を畳み、テーブルに置いた。


「……予想より早いな」


「早い? 予想してたの?」


「光り石は有限の資源だ。採掘量が増えれば、いつかは枯渇する。——ただ、もう半年は持つと思っていた」


 前世のリチウムイオンバッテリー事業と同じだ。テヌラ・モーターズも、リチウムの原料供給に常に悩まされていた。需要が急増すれば、原材料が追いつかない。供給のボトルネックが、成長の天井になる。


 マルクの頭の中では、前世のサプライチェーン管理の知識が自動的に起動した。垂直統合。調達先の多角化。代替素材の開発。戦略的備蓄。——テヌラ・モーターズがネバダ州にリチウム精錬工場を建設した時と、同じ思考回路だ。


 だが——この世界には、ネバダ州がない。


 光り石の産出地がビンボーレ村の裏山以外にあるかどうか、そもそも誰も調査していない。管理局のデータベースにすら登録されていない鉱石だ。地質調査の方法も、この世界の技術レベルでは限られている。


 前世なら——衛星データとAIで鉱脈を特定できた。ドローンで地表を走査し、分光分析で地下資源の分布を推定できた。


 この世界では——人の足で山を歩き、目と手で石を探すしかない。


「深い層の採掘を進めるには——村に投資が必要だ。採掘道具、坑道の補強材、人手の確保。概算で五十マルクスは必要になる」


「五十マルクス……結構な額だね」


「それに加えて——代替産地を探す調査も同時に進めなければならない。光り石がビンボーレ村にしかないなら、うちの事業は一つの村の地下資源に完全に依存していることになる。リスクが集中しすぎている」


 前世のサプライチェーン管理の鉄則。シングルソース(単一調達先)は、最大のリスクだ。東日本大震災でトヨタのサプライチェーンが寸断された時のことを、マルクは鮮明に覚えている。一つの部品の供給が止まっただけで、世界中の工場が停止した。


 光り石の供給が止まれば——マナバッテリーの生産は完全に停止する。


 一つ目の危機。原材料の枯渇。


 ◇


 二つ目は——その翌日に来た。


 ヴァスト工房の鍛造炉の前。ゴルドが新しい職人トビアスの仕上げたマナバッテリーを検分していた。


「師匠。——これ、見てもらえますか」


 トビアスが緊張した面持ちで差し出した一個を、ゴルドが無言で手に取り、ルーペを当てた。


 三秒の沈黙。


 ゴルドの灰色の瞳が——暗くなった。


「やり直せ」


 一言。鉄のように硬い声だった。


 トビアスの顔が強張った。二十代半ばの若い鍛冶職人は、ヴィクトルの紹介でヴァスト工房に加わったばかりだ。腕は悪くない。だが——ゴルドの基準は、別次元にあった。


「あの……どこが」


「バルブの摺動面。公差が〇・五ミリ以上ずれている。この精度では、マナの放出量にムラが出る」


「で、でも、動作テストでは問題なく——」


「動作テストに通るだけでは、意味がない」


 ゴルドが——テーブルにマナバッテリーを置いた。置いたというより——叩きつけた、に近い音がした。


「わしの名前が刻まれた商品が、この精度で出荷されるのは——我慢ならん」


 工房内が静まり返った。ヴィクトルが炉の前から振り返り、ハインツが手を止めた。


 トビアスは唇を噛んで、不良品を持ち帰った。その背中は——屈辱と困惑で強張っていた。


 これは——今週だけで三回目だった。


 マルクは作業台の隅から、その光景を黙って見ていた。


 ゴルドの気持ちは、わかる。マイスター級の職人にとって、品質への妥協は存在そのものの否定だ。ダリウスの過労死という過去を経て、なお技術に殉じるゴルドの姿勢は——崇高ですらある。


 だが——問題の本質は、そこではない。


 マルクが近づくと、ゴルドは腕を組んで炉の壁にもたれていた。表情は硬い。苛立ちではなく——もっと深い場所にある、何かに対する苦悩だった。


「ゴルドさん」


「なんだ」


「トビアスの腕は——どう見ますか。率直に」


 ゴルドが少し考えてから答えた。


「……筋はいい。手先は器用だ。ヴィクトルの弟子だけあって、基礎はできている」


「でも、ゴルドさんの基準には届かない」


「届かん。あと三年は必要だろう」


「三年」


 マルクは——その言葉を咀嚼した。


 三年。一人の職人を育てるのに三年。月産二百個を維持するには、あと二人は高精度の加工ができる職人が必要だ。つまり——六年。この事業の成長速度に、人材育成がまったく追いついていない。


「ゴルドさん。一つ、聞いてもいいですか」


「なんだ」


「バルブの摺動面の精度。——何を基準に判断していますか?」


 ゴルドの眉が——微かに動いた。


「見ればわかる」


「何が『見えて』いるんですか? 光の反射ですか。指で触った時の感触ですか。それとも——」


「……言葉にするのは難しい」


 ゴルドが腕を組み直した。灰色の瞳が——少し困惑したように揺れた。


「光の当て方を変えて、表面の微細な凹凸を見る。指で撫でて、引っかかりを感じる。そして——金属を叩いた時の音。正しい精度で仕上がった面は、澄んだ音がする。ずれている面は——くぐもる」


「それを、トビアスに教えることは?」


 長い沈黙。


「……やろうとした。だが——伝わらん」


 ゴルドの声に——苛立ちではなく、困惑が滲んでいた。


「わしには、見えている。感じている。だが——それを言葉にして、他人に渡す方法がわからん。『澄んだ音がする』と言っても、あいつには何が澄んだ音で、何がくぐもった音なのかが——わからんのだ」


 マルクは——その言葉に、前世の記憶を重ねた。


 テヌラ・モーターズのフリーモント工場。最初の量産ラインを立ち上げた時、同じ問題に直面した。熟練のテストドライバーが「このサスペンションは0.5度ずれている」と一発で判断できることを、新人エンジニアに伝えるのに何ヶ月もかかった。


 暗黙知の移転。人間の経験と感覚に蓄積された、言語化できない知識を、他者に伝える——人類が有史以来解けていない難問だ。


 前世では、テヌラは最終的にロボットとセンサーで解決した。人間の感覚に頼らず、機械で品質を測定する仕組みを作った。


 だが——この世界には、ロボットもセンサーもない。


 あるのは——人間の手と目と耳だけだ。


「ゴルドさん。もう一つ、聞いてもいいですか」


「……なんだ」


「ヴィクトルさんは——あなたの基準をどの程度理解していますか」


 ゴルドが一瞬、黙った。


「……七割、といったところか。あいつはわしの工房で三年修行した。わしの癖も、こだわりも、ある程度は知っている。だが——完全ではない」


「では、その七割を——言語化できますか」


「言語化?」


「例えば——『バルブの摺動面が正しい精度であるとは、こういう状態を指す。確認方法はこうだ。判断基準はこの三点だ』——そういう文書を作ることです」


 ゴルドの表情が——微かに歪んだ。


「わしは職人だ。文書を書く人間じゃない」


「わかっています。——だから、僕が書きます。ゴルドさんが言葉にしたことを、僕が文書に起こす。品質基準書を作るんです」


 品質基準書。前世のISO 9001。TQM。シックスシグマ。——品質管理の歴史は、「天才の感覚に頼る品質」から「仕組みで守る品質」への転換の歴史だった。


 ゴルドが——長い間、黙り込んだ。


 マルクはそれを待った。急かしてはいけない。この提案は——ゴルドの職人としてのアイデンティティに関わる問題だ。


 「技術は手と心で伝えるものだ」——それがゴルドの信念だろう。文書化は、その信念を否定するように聞こえるかもしれない。


 だが——ゴルドは、王都で弟子を失った男でもある。技術を「一人で抱え込むこと」のリスクを、誰よりも知っている。


「……正しい話だ」


 ゴルドの声が——静かに、工房に落ちた。


「わしは、いつまでも炉の前に立てるわけじゃない。技術を人に渡す方法を——考えねばならん」


 灰色の瞳が——遠くを見た。三十年前の王都の工房を。自分の隣で火花を散らしていた弟子たちの姿を。


「ダリウスは——見て覚えるのが早かった。わしが言葉にする前に、手が動いていた。千人に一人の才能だ」


 マルクは——黙って聞いた。


「だが——千人に一人の才能を前提にした育成は、組織を殺す。わしは——それを、身を以て知っている」


 その言葉には——十一年分の悔恨が、凝縮されていた。


「小僧。お前の言う品質基準書とやら——作るのを手伝ってやる。ただし、条件がある」


「何ですか」


「最終検査は、わしが行う。文書ではカバーしきれん部分が必ずある。それを見落とさんのは——人間の目だ」


「もちろんです。——ルーナのマナ視と、ゴルドさんの職人の目。この二重チェックは、どんな文書にも代えられません」


 ゴルドが——鼻を鳴らした。だが、その口元には——微かな笑みがあった。


 二つ目の危機。人材育成の壁。


 一人の天才では——組織は動かない。


 それは、前世のテヌラ・モーターズでムーロン・マスクが学ぶのに十年以上かかった教訓を、今世では——三ヶ月で学ぶことになった、ということだ。


 ◇


 三つ目の危機は——その週の終わりに、噴水広場で判明した。


「マルク! ちょっと来て!」


 ルーナが売り台の裏から、血相を変えて走ってきた。


「何だ?」


「これ——お客さんが持ってきたの。『三日で壊れた』って」


 ルーナの手にあったのは、一個のマナバッテリー——のように見えるものだった。


 だが——ヴァスト工房の製品ではなかった。


 ケースの形状が違う。真鍮ではなく、安い黄銅を使っている。角が丸い楕円形ではなく、四角い箱型で、表面の仕上げが荒い。放熱溝もない。何より——ゴルドの刻印がない。


「これは……」


 マルクが手に取り、蓋を開けた。内部構造は——大まかにはマナバッテリーと同じだ。光り石とバルブ機構。だが、光り石の品質が明らかに低い。Cグレード——いや、それ以下だ。くすんだ灰色で、内部に光の粒がほとんど見えない。銅箔の代わりに薄い鉄板が使われ、バルブ機構のスプリングも粗末な作りだった。


「模倣品だ」


 マルクの声が——低くなった。


「誰かが——構造を見て真似した。光り石とバルブ機構という基本設計をコピーして、安い材料で粗雑に作っている」


「お客さん、すごく怒ってた。『マナバッテリーはインチキだ、三日で光らなくなった』って——」


「それは偽物だと説明したか?」


「した。でも、お客さんはうちの売り台で買ったと思い込んでて。よくよく聞いたら、噴水広場の南側の露店で買ったんだって。うちより安かったから、そっちで買ったって」


 マルクは歯を食いしばった。


 模倣品の出現。前世でも何度も経験した悪夢だ。テヌラ・モーターズの電気自動車が成功した途端、深圳のメーカーがコピーEVを大量に投入してきた。品質は低いが、価格はさらに低い。そして——壊れた時に顧客が非難するのは、コピー品のメーカーではなく「電気自動車」というカテゴリー全体だった。


 偽物の失敗が——本物の信用を、殺す。


「ルーナ。その露店の場所は?」


「噴水広場の南側の角。でもね——」


 ルーナが声を落とした。緑色の瞳に——真剣な光が宿っていた。


「あたし、昨日の帰りにそっちを通ったの。売り台を片付けてた露天商を見たんだけど——」


 ルーナが自分の腕を軽くさすった。肌が粟立つ仕草だった。


「あの辺り一帯の空気が——重かったの。前にマジカル・アセット商会の前で感じた、あの暗いマナの流れ。似てた」


 マルクの目が——鋭くなった。


「その露天商の顔は見えたか?」


「フードを被ってて、よく見えなかった。でも——売り台に品物を並べてる時、別の男が来て何か話してたの。その男は——見たことある気がする。マジカル・アセット商会の店員に似てた」


 マルクは——腕を組んだ。


 模倣品の背後にマジカル・アセット商会。直接証拠はない。だが——ルーナの「勘」は、これまで一度も外れたことがない。


 レオンハルトの新しい戦略か。直接手を汚さず、非公認の露天商を使って粗悪な模倣品を流通させる。マナバッテリーのブランドイメージを内側から壊す——前世のFUD戦略の発展形だ。噂を流す代わりに、粗悪品を市場に流す。より巧妙で、より陰湿な手口。


「前世でもやったな……」


 小さく呟いた。だが——前世のテヌラ・モーターズには、商標権と特許権があった。法務チームがあった。裁判所に訴える手段があった。


 この世界には——そのどれもない。


 知的財産権の概念そのものが、存在しない。


 三つ目の危機。模倣品の出現。


 ◇


 その日の午後、マルクは噴水広場の南側まで足を運んだ。


 問題の露店はすでに撤収していた。だが——広場の石畳に、安物の黄銅の削りかすがわずかに残っていた。ここで、加工まで行っていたのかもしれない。


 帰りにマジカル・アセット商会の前を通った。三階建ての建物は、以前と変わらず堂々と大通りに面している。入口のギルド紋章。ガラス越しに見える店内の華やかな陳列。


 だが——店の雰囲気が、変わっていた。


 以前は「永久燃焼のミニ暖炉」が目玉商品として飾られていたショーウィンドウに、新しい商品が並んでいる。


 「マナランタン」——そう銘打たれた商品は、マナバッテリーとは異なるデザインだが、機能は酷似していた。光り石ではなく小さな魔石を使い、金属ケースに収めた発光器具。価格は——四マルクス。


 マナバッテリーの標準版よりわずかに高いが、「マジカル・アセット商会」のギルド認定ブランド力で売っている。


 マルクは——それを見つめた。


 模倣品ではない。似て非なる製品だ。構造も素材も違う。だが——マナバッテリーが切り開いた「マナを持たない者にも使える発光器具」という市場に、堂々と参入してきている。


 レオンハルトは——三つの手を同時に打っている。


 一、露天商を使った粗悪な模倣品で、マナバッテリーのブランドイメージを壊す。

 二、自社で「正規品」としてマナランタンを発売し、マナバッテリーの市場を奪う。

 三、そして——まだ見えていない、三つ目の手。


 フェルディナントの言葉が、頭を過ぎった。


 ——レオンハルトがここで諦めるかどうかは、わたしにはわからん。


 諦めてはいなかった。むしろ——本腰を入れ始めている。


 ◇


 その夜——銀の天秤亭の三人部屋で、緊急会議が開かれた。


 マルクはテーブルに三枚の羊皮紙を並べた。それぞれに、問題点と対策案が書かれている。


「整理しよう。今、俺たちが直面している課題は三つだ」


 ゴルドが腕を組み、ルーナが身を乗り出した。


「一つ目。光り石の原材料不足。当面の対策は——深層採掘のための五十マルクスの投入と、代替産地の調査」


「二つ目。人材育成。品質基準書の作成と、段階的な教育プログラム。これはゴルドさんと僕で進める」


「三つ目。模倣品と——マジカル・アセット商会の反撃」


 マルクが偽物のマナバッテリーとマジカル・アセット商会のマナランタンの情報を、テーブルの上に並べた。


「レオンハルトは粗悪な模倣品を露天商に流す一方で、自社ブランドで類似製品を投入してきている。露天商の模倣品でマナバッテリーの評判を落とし、そこに自社の『正規品』を差し込む——二段構えの戦略だ」


 ゴルドが低く唸った。


「……小賢しい真似をする」


「賢い真似だ」


 マルクの声は冷静だった。苛立ちはあるが——感情に流される余裕はない。


「前世で——いや、昔読んだ本では、模倣品対策の基本は三つだ。一、本物と偽物を明確に区別する印。二、偽物の流通を制度的に阻止する仕組み。三、品質で圧倒的な差をつけること」


「一番目はゴルドさんの刻印で?」


「ああ。だが、今の刻印は小さすぎて消費者が気づきにくい。もっと目立つ位置に、ヴァスト工房の公式印を入れる。それと——ギルド認定マークの使用をフェルディナントに申請する」


「二番目は——難しいよね。この世界に商標とか特許って」


「ない」


 マルクの声に——苦さが滲んだ。


「この世界には知的財産権の概念がない。模倣品を作ること自体を罰する法律が存在しない。——これが、異世界ならではの壁だ」


 前世なら——弁護士チームが特許侵害訴訟を起こし、裁判所が販売差し止め命令を出す。数ヶ月はかかるが、法的な武器は存在した。


 この世界では——その武器そのものがない。前世の知識がまったく通用しない、完全な空白地帯だった。


「だから三番目が最も重要になる。品質で、圧倒的な差をつける。偽物を手にした客が、本物を見た瞬間に『まったく別物だ』と感じるような製品を作り続ける」


 ゴルドの口元が——微かに動いた。


「……それなら、わしの仕事だな」


「はい。ゴルドさんの腕が、最大の模倣品対策です。——ただし」


 マルクが真っ直ぐにゴルドを見た。


「ゴルドさん一人の腕に頼る体制は——脆い。さっき話した品質基準書を作り、トビアスやハインツにも基準を共有する。組織としての品質を、ゴルドさんの個人技に依存しないレベルまで引き上げる。——それが、長期的な模倣品対策でもある」


 ゴルドが——しばらく黙り込んだ。


 前世のムーロン・マスクなら、「一人の天才より、百人の秀才が作る仕組みの方が強い」と即座に断言しただろう。だが——マルクは、ゴルドの沈黙を待った。


 この老人は、自分の手で作ることに命を懸けてきた。その信念を、数字と論理だけで否定してはいけない。


「……わしの弟子——ダリウスは、千人に一人の天才だった」


 ゴルドの声が——静かに、部屋に落ちた。


「あの子がいれば、わしは何も心配しなくてよかった。見て覚え、触って理解し、わしの手の延長のように動いてくれた。——だがな」


 灰色の瞳が——窓の外の闇を見つめた。


「天才が一人いれば安心だと思った。その驕りが——ダリウスを殺した。あの子に頼りすぎた。あの子が倒れる前に、もう一人、もう二人と育てていれば。技術を言葉にして、仕組みにして、組織の中に散らしていれば——」


 ゴルドが目を閉じた。


「一人の天才では——組織は動かん。それは、わしが十一年前に学ぶべきだった教訓だ」


 部屋が——静まり返った。


 ルーナが、唇を噛んでいた。ゴルドの言葉の重みが——この部屋にいる全員の胸を、打っていた。


「ゴルドさん」


 マルクが口を開いた。


「品質基準書は——明日から始めましょう。トビアスには、まずバルブの摺動面の加工から。基準は、ゴルドさんの七割の精度を最低ラインに設定します。七割を超えた分は——ゴルドさんの最終検査でカバーする」


「七割か。——まずは、そこからか」


「はい。七割を安定して出せるようになったら、八割を目指す。段階的に」


 ゴルドが——深い溜め息をついた。だがそこには、諦めではなく——覚悟があった。


「……いいだろう。やってみよう」


 ルーナが手を挙げた。


「あと——あたしからも一つ、提案があるの」


「何だ?」


「偽物を買っちゃったお客さんへの対応。偽物を持ってきてくれたら、うちの本物を割引で売るの。偽物は回収して、市場から消す。そうすれば——」


 ルーナの緑色の瞳が——真剣に輝いていた。


「怒ってるお客さんが、うちのファンになるでしょ? 偽物で嫌な思いをした人ほど、本物のありがたみがわかるもん。『あの店は、自分たちの製品じゃないのに対応してくれた』って——そういう信頼が、一番強いんだよ」


 マルクは——目を見開いた。


 前世のテヌラ・モーターズが中国のコピー車対策で実施した「正規品交換プログラム」と、顧客ロイヤリティを利用した「逆境マーケティング」——その両方の本質を、ルーナは直感で言い当てていた。


 しかもルーナの提案には、前世のMBAホルダーが見落としがちな要素が含まれていた。「偽物を回収する」という行為は、単なるブランド保護ではなく、市場から偽物の現物を物理的に消去する手段でもある。


「ルーナ。——いつからそんなことを考えていた?」


「え? 今、思いついたけど。——だって、怒ってるお客さんの顔を見てたら、自然にそう思ったの。あの人、本当にがっかりしてたんだよ。光が欲しくて買ったのに、三日で消えちゃったんだもん。その気持ちを、あたしたちが救えたら——嬉しいじゃん」


 顧客の感情。それは——マルクの前世の分析的な思考では、「数字の背後にあるもの」としか認識できなかった要素だ。市場調査。顧客満足度スコア。NPSネットプロモータースコア。前世では、すべてを数値化しようとした。


 ルーナは——数字ではなく、人の顔を見ている。客が怒っている顔。がっかりしている顔。そして——本物を手にした時の、笑顔。


 マルクに見えないものが、ルーナには見える。


「採用する。——明日から、偽物交換プログラムを実施しよう。偽物の持ち込みに対して、本物の標準版を二割引で提供する。費用は——短期的には利益を圧迫するが、中長期のブランド投資として計上する」


「ブランド投資?」


「信頼の貯金だ。今使う二割引は——将来、何倍にもなって返ってくる」


 ルーナがにっこり笑った。


「あたしの提案、採用されたの初めてじゃない? うれしいなぁ」


「初めてじゃない。噴水広場での実演販売の時、お前の接客スタイルを全面採用したのが最初だ」


「あれは——提案じゃなくて、勝手にやっただけでしょ」


「結果は同じだ」


 ゴルドが鼻を鳴らした。


「……嬢ちゃん。お前は、商売の勘がある」


「え? ゴルドさんにそんなこと言われるの、初めてだよ」


「言葉にするのが苦手なだけだ。——前から思っていた」


 ルーナの目が——わずかに潤んだ。だが、すぐに笑顔に変わった。


「じゃあ、もっと提案していい?」


「……程々にしろ」


 マルクは窓の外を見た。リヴァータウンの夜空に、星が瞬いている。


 三つの危機。原材料。人材。模倣品。


 どれも——一朝一夕には解決しない。前世の知識が通用する部分もあれば、まったく通用しない部分もある。この世界には、この世界の壁がある。


 だが——方向は見えた。


 そして——三人でいる限り、乗り越えられない壁はない。


 マルクの頭脳。ゴルドの技術。ルーナの直感。


 一人の天才では、組織は動かない。だが——三人の凡才が力を合わせれば、天才一人にはできないことができる。


 ……いや、凡才ではないな。マルクは心の中で苦笑した。


 ゴルドは一世代に一人のマイスターだ。ルーナは十年に一人のマナ視の持ち主であり、天性の商売人だ。そして自分は——前世六十年分の知識を持つ、チートな転生者だ。


 凡才どころか——この三人は、とんでもない化け物の集まりだ。


 それでも——足りない。


 成長は止まらない。課題は増え続ける。


 前世のテヌラ・モーターズも、スペースYも——危機の連続だった。ロケットは三回連続で爆発し、工場は「生産地獄」と呼ばれ、CEOは毎週のように辞任しそうになった。


 それでも——一つずつ、乗り越えてきた。


 今世でも——同じだ。


 マルクはペンを取り、翌日からの行動計画を羊皮紙に書き始めた。


 【緊急アクションプラン】

 ①ビンボーレ村への追加投資(深層採掘資金五十マルクス送金)

 ②品質基準書の作成開始(ゴルドとの共同作業、三週間で初版完成目標)

 ③偽物交換プログラムの開始(ルーナ主導、売り台に告知掲示)

 ④フェルディナントへの模倣品情報の報告(ギルド認定マーク申請と併せて)

 ⑤マジカル・アセット商会の「マナランタン」の市場調査


 ペンが、迷いなく走る。


 ルーナがテーブルの向かいで、売り台の告知文を考え始めていた。「偽物にご注意! 本物にはゴルド刻印がついています」——そんな文面を、真剣な顔で下書きしている。


 ゴルドは窓際で、品質基準書の最初の項目——バルブの摺動面の検査基準について、低い声で独り言のように呟いていた。「まず光を当てる角度は三方向。次に指の腹で……いや、爪の裏で……」


 三人が、それぞれの持ち場で動いている。


 一人の天才では——組織は動かない。


 だが、三人が一つのチームとして動けば——組織になる。


 マルクは——小さく笑った。


 前世のテヌラ・モーターズの創業メンバーは五人だった。スペースYは七人。最初は、全員が何でもやった。エンジニアが営業をし、CEOがトイレ掃除をし、インターンが株主に電話した。混沌の中から——秩序が生まれた。


 今世のヴァスト工房も——同じ段階にいる。


 混沌の中から——何かが、生まれつつある。


 窓の外で、リヴァータウンの鐘楼が十時を告げた。


 夜は——まだ長い。だが、やるべきことは——明確だった。



 ◇


 それは——セクション二の危機対策を始めてから一週間後のことだった。


 ヴァスト工房の朝。ゴルドとヴィクトルが炉に火を入れ、トビアスが真鍮のインゴットを並べ、ハインツがバルブ機構の部品を整列させている。ルーナは検査台の前で、昨日仕上がった分のマナ視検査の準備をしていた。


 マルクはテーブルで、ビンボーレ村への深層採掘用の資金送金手配書を書いていた。五十マルクスの送金。村の未来への投資だ。


 日常だった。順調に回り始めた歯車の——その朝。


「小僧。——客だ」


 ゴルドの声に顔を上げると、工房の入り口に一人の男が立っていた。


 灰色のローブ。銀の紋章。短く刈り込んだ灰がかった茶髪。そして——氷を溶かした水のような、青灰色の瞳。


 クラウス・ヘルムシュタット。


 魔道具管理局の調査官が——再び、リヴァータウンに現れた。


「おはよう、マルク」


 声は相変わらず事務的だったが——前回の去り際に見せた、あの微かな笑みの名残が、どこかに残っている気がした。


「調査官殿。——定期報告の期限はまだ一ヶ月先ですが」


「定期報告の件ではない」


 クラウスが工房に一歩踏み入り、ローブの内ポケットから——一通の封書を取り出した。


 羊皮紙ではなかった。白い上質な紙。金の縁取り。そして——蝋印。


 蝋印の意匠を見た瞬間、マルクの目が鋭くなった。


 王冠と天秤と剣。魔道具管理局の紋章。だが——その上に、さらにもう一つの紋章が重なっている。二頭の獅子が向かい合い、その間に燃える炎のような文様。


 見たことのない紋章だ。だが——格が違う。管理局の紋章が銀なら、この紋章は——金だ。


「マルク。これを、お前に渡すよう命じられた」


 クラウスが——封書をテーブルの上に置いた。


 置き方に——わずかな慎重さがあった。クラウスのような感情を排した男が見せる、数少ない「人間らしい」仕草だった。


「命じられた? 誰にですか」


「封を開ければわかる」


 マルクは——封書を手に取った。


 紙の質感が違う。この世界で目にしてきた羊皮紙とは別物だ。前世で言えば——大統領からの招待状に使われるような、コットンペーパーに近い。


 蝋印を丁寧に剥がし、封を切った。


 中には——一枚の書状が入っていた。


 金のインクで書かれた流麗な筆致。一行目に、大きく——



 『ヴァルストリート王国・第十七回 王都商業博覧会 正式招待状』



 マルクは——二行目を読んだ。


 ——ヴァルストリート王国魔道具管理局長エルヴィン・フォン・シュタイナーの名において、マナバッテリー製造者マルク及びその工房「ヴァスト工房」を、王都キャピタル・シティにて開催される第十七回王都商業博覧会に正式に招待する。


 ——出展期間は、秋の収穫祭後の十日間。博覧会はヴァルストリート王国最大の商業イベントであり、王国内外から五千を超える商人・職人・貴族が集う。出展者には王都内の専用宿舎と出展ブースが無償で提供される。


 ——なお、本招待は魔道具管理局特別調査部調査官クラウス・ヘルムシュタットの推薦に基づくものである。


 マルクは——書状を、二度読んだ。


 王都商業博覧会。


 前世で言えば——CESコンシューマー・エレクトロニクス・ショーだ。年に一度、ラスベガスに世界中のテクノロジー企業が集結し、新製品を発表する。テヌラ・モーターズも、モデル3の量産開始前にCESでプロトタイプを展示し、世界中のメディアの注目を集めた。あの時の——一夜にして企業の運命が変わる、あの興奮。


 だが同時に——CESは、ライバル企業が一堂に会する場所でもあった。競合がこちらの技術を盗み見る場。政府の規制当局が目を光らせる場。そして——メディアの餌食になる場。


 チャンスと——罠が、等しく存在する。


「クラウスさん。これは——あなたの推薦ですか」


 マルクは封書から顔を上げ、クラウスの目を見た。


 氷の瞳が——わずかに、動いた。


「わたしの業務報告に基づいて、管理局長が判断したものだ。マナバッテリーの技術審査報告書の中で、わたしは『王国の技術革新に資する新規商品』として評価した。その報告を受けて、管理局長エルヴィン・フォン・シュタイナーが直々に招待を決定した」


「管理局長が——直々に?」


「シュタイナー局長は、新しい技術に対して常に関心を持っておられる。マナバッテリーの性能データは——局長の目にも留まった」


 クラウスの説明は事務的だった。だが——マルクは、その行間を読んでいた。


 クラウスが「推薦した」。それは——クラウス個人の意志だ。審査官として職務上の報告書を書いただけではなく、意図的に管理局長の注意を引くような書き方をした。「王都で会おう」という去り際の言葉は——脅しでも予告でもなく、こういうことだったのか。


「招待の受諾期限は?」


「三週間後。受諾する場合は、わたしを通じて管理局に回答してもらう」


 クラウスが——一瞬、言葉を切った。事務的な口調がわずかに揺らぎ、もっと個人的な響きが——滲んだ。


「マルク。——一つ、言っておくことがある」


「何ですか」


「この招待は——チャンスだ。博覧会で成功すれば、マナバッテリーは一地方の商品から王国規模の商品になる。販路は飛躍的に広がり、模倣品も淘汰される。管理局の公式な推薦という後ろ盾もつく」


 クラウスの瞳に——技術者としての純粋な光が宿った。


「だが——同時に、リスクもある」


 その光が——消えた。代わりに、氷の冷徹さが戻った。


「王都は——政治の街だ。博覧会には、取締役会議の関係者も出入りする。魔道具の利権を握る貴族たちが——お前の技術を見ることになる。それが何を意味するか——」


 クラウスが口を閉じた。それ以上は、調査官という立場では言えない——そういう沈黙だった。


「わかっています」


 マルクが静かに答えた。


 取締役会議。七人の大貴族が利権を独占する、ヴァルストリート王国の影の支配者。フェルディナントが繰り返し警告してきた存在。そして——ゴルドの技術を奪い、弟子を間接的に殺し、資格を剥奪した権力の源泉。


 王都に行くということは——その権力の中枢に、自ら飛び込むことを意味する。


「回答は——三週間以内に」


 クラウスが身を翻した。灰色のローブが翻り——だがその時、工房の奥から、ガシャン、と金属が床に落ちる音がした。


 全員が振り返った。


 ゴルドだった。


 白髪の老鍛冶師が——鍛造用のトングを、足元に落としていた。


 いや——落としたのではない。手から、滑り落ちたのだ。


 ゴルドの太い腕が——震えていた。


 あの鉄のような腕が。マイスター級の精密さで真鍮を削り、コンマ一ミリの狂いも許さない、あの腕が。


 顔色が——蒼白だった。


 前話の審査の時にも見た、あの蒼白さ。だが今回は——もっと深い。もっと原始的な。


 恐怖だ。


 灰色の瞳が——虚空を見つめていた。焦点が合っていない。ここではない、どこか遠い場所——三十年前の王都の、あの工房を見ている。


「ゴルドさん!」


 ルーナが検査台から飛び出し、ゴルドの腕を掴んだ。


「ゴルドさん、大丈夫? 顔色が——」


「…………」


 ゴルドは答えなかった。唇が微かに動いたが、声にならなかった。


 クラウスが——足を止めていた。扉に向かいかけた体を戻し、ゴルドを見ていた。氷の瞳に——何かが揺れた。それは職業的な観察ではなく、もっと——人間的な感情だった。


「ゴルド・マイスター」


 クラウスの声が——静かに、工房に落ちた。


「王都は——あなたにとって、複雑な場所だと理解している。だが——」


「黙れ」


 ゴルドの声が——掠れて、低く、しかし鋭く響いた。


 クラウスが口を閉じた。


 工房が——静まり返った。鍛造炉の火だけが、パチパチと低い音を立てている。


 ゴルドが——ゆっくりと、身を屈めた。床に落ちたトングを拾い上げる。その動作は——いつもの鉄のような正確さが、消えていた。ぎこちなく、重く、老人の動きだった。


「……すまんな。手が——滑った」


 嘘だった。全員がわかっていた。


 ゴルドはトングを作業台に戻し、無言で工房の奥——鍛造炉の横の壁にもたれた。腕を組み、目を閉じた。


 それ以上、誰にも何も言わなかった。


 クラウスが——マルクに視線を移した。


「……回答は、三週間以内に。くれぐれも——慎重に」


 それだけ言って、灰色のローブが工房を出ていった。


 銀の紋章が陽光を反射する。そしてその光は——扉が閉まると同時に、消えた。


 ◇


 工房の作業を早めに切り上げ、マルクは三人を銀の天秤亭の部屋に集めた。


 テーブルの上に、王都からの招待状が広げてある。金のインク。二頭の獅子の紋章。流麗な筆致。


 それを挟んで——三人が向かい合っていた。


 マルクは帳簿用の椅子に座り、腕を組んでいた。ルーナはベッドの端に腰を下ろし、不安げに招待状と二人の顔を交互に見ている。


 ゴルドは——窓際の椅子に深く腰を下ろしていた。腕を組み、目を閉じている。工房で見せた蒼白さは幾分か戻っていたが、灰色の瞳には——暗い影が落ちたままだった。


 沈黙が——重い。


 最初に口を開いたのは、マルクだった。


「整理しよう」


 声を努めて冷静にした。前世の緊急取締役会で議長席に座った時の、あの感覚。感情を排し、論理で場を制する。


「王都商業博覧会への正式招待が来た。管理局長直々の名前で、クラウスの推薦に基づくものだ。出展期間は十日間。宿と出展ブースは無償提供。——これは、事実だ」


 マルクが一拍置いた。


「次に——行く場合のメリットとリスクを明確にする」


 羊皮紙にペンを走らせた。


「メリット。一、王国規模の販路拡大。リヴァータウン以外の都市の商人と直接取引ができる。二、管理局の公式推薦というブランド力。模倣品対策にもなる。三、王都の情報収集。取締役会議の動向、競合の技術水準、法制度の最新情報——前世で言えば、業界カンファレンスの情報収集機能だ」


「リスク」


 マルクのペンが——止まった。


「一、取締役会議の関係者にマナバッテリーの技術が直接目に触れる。技術の搾取や政治的な介入のリスクが飛躍的に高まる。二、ゴルドさんの過去——王都で技術を奪った貴族と、再び接触する可能性がある。三、リヴァータウンを長期間離れることで、工房の管理と販売が停滞する」


 マルクは羊皮紙を掲げ、二人の方を見た。


「——以上が、俺の分析だ。議論したい」


 ルーナが——おずおずと、手を挙げた。


「マルク。あの——メリットとリスクを並べるのはわかるんだけど。その前に——」


 緑色の瞳が、窓際のゴルドを見た。


「ゴルドさんに、聞かなきゃいけないことがあるんじゃないの」


 マルクは——その言葉に、はっとした。


 また、頭だけで考えていた。


 ルーナの言う通りだ。メリットもリスクも重要だが——この議論の核心は、数字でも論理でもない。ゴルドの心だ。


「……ゴルドさん」


 マルクが、椅子ごとゴルドの方に体を向けた。


「工房で——トングを落とした時。何を、思い出していましたか」


 長い沈黙。


 窓の外で、リヴァータウンの鐘楼が遠く鳴った。午後一時。世界は何事もないように回っている。


 ゴルドが——目を開けた。


 灰色の瞳が——今まで見たことのない深さで、マルクを見据えた。恐怖と、怒りと、悲しみが——複雑に絡み合った色だった。


「……三十年前の話は——前に、した」


 ゴルドの声は低く、掠れていた。


「工房を奪われた。弟子を失った。資格を剥奪された。——それは、知っている」


「はい」


「だが——わしが『王都』という名前を聞いた時に、本当に思い出すのは——そういう出来事じゃない」


 ゴルドの太い指が——自分の膝を、ぎゅっと掴んだ。指先が白くなるほどの力。


「音だ」


「音?」


「ダリウスが炉の前で倒れた時の——あいつの体が石の床に当たった、あの音」


 部屋の空気が——凍った。


「ゴタ、と。鈍い音だった。人の体が倒れる音は——何かの道具が落ちる音とは違う。もっと——湿った、重い音だ。あの音が——三十年経った今でも、耳の奥に残っている」


 ルーナが——唇を噛んだ。緑色の瞳が潤んでいる。


「王都という名前を聞くと——あの音が聞こえる。あの朝の冷たい空気が——肌に蘇る。炉の火が消えていて、工房が暗くて、ダリウスの顔が——白くて」


 ゴルドの声が——震えた。


 あの鉄のような老人の声が。


「わしは——三十年間、あの音から逃げてきた。ビンボーレ村に隠れ、鍛冶仕事だけに没頭し、過去を忘れようとした。だが——忘れられるはずがない。あの音は、わしの中に——ずっと住み着いている」


 マルクは——何も言えなかった。


 前世のムーロン・マスクにも、スターシッパー号の爆発の瞬間がフラッシュバックすることがあった。管制室の悲鳴。機体が粉々になる光。最後の瞬間の——死ぬほどの恐怖。


 だが——それは自分の死だ。自分一人の痛みだ。


 ゴルドの痛みは——他者の死だ。自分の不注意で失った、大切な弟子の死。それは——自分の死よりも、はるかに重い。


「ゴルドさん」


 マルクが口を開いた。声が——少し、震えていた。論理的でも冷静でもなかった。十六歳の少年の声だった。


「王都に行くかどうかは——ゴルドさんの気持ちが一番大事です。俺がどれだけメリットを並べても、ゴルドさんが行きたくないと言うなら——行かない。それで、いい」


 ゴルドが——マルクの目を見た。


「小僧。お前は——わしに判断を任せるのか」


「はい」


「お前なら——メリットの方が大きいと、わかっているはずだ。商人としては、行く以外の選択肢はないと」


「商人としては、そうです。でも——」


 マルクが一瞬、口を閉じた。そして——言い直した。


「俺は——商人である前に、ゴルドさんの仲間です」


 ゴルドの瞳が——微かに、揺れた。


 ルーナが——そっと、ゴルドの横に歩み寄った。老人の硬い手の上に、自分の小さな手を重ねた。


「ゴルドさん。あたしも——ゴルドさんがつらいなら、行かなくていいと思う」


 ルーナの声は小さかったが——温かかった。


「でもね——もし、行くって決めたら。あたしは、ゴルドさんの隣にいるよ。あの音が聞こえても——一人じゃない。あたしとマルクがいるから」


 ゴルドは——長い間、黙り込んだ。


 窓の外から差し込む午後の光が、白髪を銀に染めている。深い皺が刻まれた顔。太い腕。鍛冶仕事で硬くなった手。


 三十年間——逃げてきた男の、横顔。


「……答えは——少し、待て」


 ゴルドが立ち上がった。


「今日は——一人にさせてくれ」


 マルクとルーナは顔を見合わせた。そして——頷いた。


「わかりました」


 ゴルドが部屋を出ていった。重い足音が廊下に響き——やがて、消えた。


 ◇


 ゴルドが出ていった後——マルクはフリーマーケッツ支部に向かった。


 フェルディナントに会うためだ。王都行きの判断に必要な情報が——まだ、足りない。


 支部長室の赤い絨毯。黒檀のテーブル。壁に掛けられた精密な交易路図。


 フェルディナントは椅子の背にもたれ、金の指輪をはめた手で顎をさすりながら、招待状の写しに目を通していた。


「……王都商業博覧会。管理局長の名による招待。——面白い」


 フェルディナントの「面白い」。その言葉が出る時は——状況が単純ではないことを意味する。


「フェルディナントさん。率直にお聞きします。——この招待を、受けるべきですか」


 フェルディナントが——鋭い茶色の目を、マルクに向けた。


「マルク。わたしは——商人だ。慈善家ではない。助言はするが、その助言がお前の利益になるとは限らん。——それを承知の上で聞くか」


「承知しています」


「ならば言おう」


 フェルディナントが椅子から身を起こした。恰幅の良い体が——威圧的な影を落とす。


「王都商業博覧会は——表向きは、商業イベントだ。新商品の展示。商談の場。技術の発表。王国の経済を活性化させる、年に一度の祝祭。——建前は、そうだ」


「実態は?」


「取締役会議の品評会だ」


 フェルディナントの声が——低く、鋭くなった。


「七人の取締役が——博覧会に出展される新技術を品定めする。気に入った技術があれば、その場で出展者を自分の陣営に引き込む。金で。地位で。あるいは——脅しで」


 マルクの背筋を、冷たいものが走った。


「断れば——どうなりますか」


「断った者がどうなったかを、わたしは何人も見てきた。ある者は、事業を潰された。ある者は、投獄された。そしてある者は——」


 フェルディナントが一拍置いた。


「——姿を消した」


 部屋の空気が、重くなった。


「王都は——権力の巣窟だ。この町でわたしが持っている程度の力では、あの場所では赤子同然だ。わたしが王都ではなくリヴァータウンに拠点を構えているのは——偶然ではない」


 マルクの目が——わずかに見開かれた。


 フェルディナント自身が——王都から逃れてきた人間。


 この男が持つ計算高さ、人間を資源として見る冷徹さ——それは、王都の権力闘争で身につけたものだったのか。


「フェルディナントさん。——取締役会議の中で、魔道具の利権を握っているのは」


「グランツ公爵」


 フェルディナントが即答した。


「ハインリヒ・フォン・グランツ。取締役会議の古参にして——魔道具製造の独占的利権を握る男だ。王国内で流通する魔道具の六割は、グランツ公爵傘下の工房で製造されている。その利権を守るためなら——手段を選ばん男だ」


 グランツ公爵。


 マルクは——その名前を、心の中で反芻した。


「ゴルドさんの過去——王都で技術を奪った貴族は」


 フェルディナントが——沈黙した。


 長い、長い沈黙。


「……ゴルドの話か」


「ゴルドさんは名前を言いませんでした。『取締役会議に連なる貴族の一人で、魔道具の利権を握る大貴族』——それだけです」


 フェルディナントの鋭い茶色の目が——微かに、曇った。


「わたしは——中立だ」


 また、あの言い回し。否定しない、という形での肯定。


「だが——一つだけ言える。三十年前にゴルドの技術を奪った人間が、今も王都で権力を握っているとすれば——博覧会でマナバッテリーが注目を浴びた場合、その人物は必ず動く」


 マルクの拳が——膝の上で、硬く握りしめられた。


「グランツ公爵にとって、魔道具の利権は存在の根幹だ。マナバッテリーのような破壊的な技術は——その根幹を脅かす。しかも製造者が——三十年前に逃した職人だと知れたら」


 フェルディナントが——金の指輪をはめた手で、テーブルを軽く叩いた。


「マルク。わたしは、売れる商品の味方だと言った。それは変わらん。——だが」


 鋭い茶色の目が——マルクを射抜いた。


「王都での戦いは——リヴァータウンでの商売とは、次元が違う。ここでは金と商品力で戦える。だが王都では——金も商品力も、権力の前には紙切れだ。それだけは——覚悟しておけ」


 マルクは——立ち上がった。


「ありがとうございます。——助言の対価は」


「今回は——無料だ」


 フェルディナントが——初めて、マルクに対して「無料」という言葉を使った。


 この男が——金を取らない。


 それは——フェルディナント自身が、マルクの王都行きに対して「金では計れない何か」を感じていることを意味していた。


「ただし——一つだけ条件がある」


「何ですか」


「生きて——帰ってこい。お前が王都で潰されたら、わたしの取引先が一つ減る。——それは困る」


 フェルディナントの祝辞は——いつも、こうだ。


 利己的な言葉の裏に——かすかな、人間味を隠す。


 マルクは——小さく頭を下げて、支部長室を後にした。


 ◇


 夜が来た。


 銀の天秤亭の三人部屋。だが——今夜は、三人が同じ部屋にはいなかった。


 ゴルドは——昼間から戻っていない。ヴィクトルの工房にいるとだけ、宿の番頭が教えてくれた。


 ルーナは——ベッドの上で毛布に包まり、壁を向いて丸くなっていた。眠っているのかと思ったが——目は開いていた。緑色の瞳が、暗がりの中で微かに光っている。


 マルクは——テーブルの前に座り、灯りも点けずに窓の外を見ていた。


 リヴァータウンの夜空。星が瞬いている。前世と同じ——いや、前世よりもはるかに多い星。光害のない世界では、天の川までくっきりと見える。


 スターシッパー号で火星を目指した時——あの宇宙空間から見た星々を、マルクはふと思い出した。死ぬ直前に見た、あの最後の光景。


 あの時は——一人だった。


 今も——一人だ。


 いや、違う。ルーナがいる。ゴルドがいる。だが——この瞬間は、三人それぞれが一人きりで、それぞれの恐怖と向き合っている。


 マルクの恐怖は——明確だ。


 王都に行けば、取締役会議と直接対決することになる。前世のワシントンD.C.でのロビイング活動の比ではない。この世界には、法の支配も、報道の自由も、司法の独立もない。権力者が「消す」と決めれば——消される。


 だが——行かなければ。


 マナバッテリーはリヴァータウンの一地方商品に留まり、模倣品に蝕まれ、やがて——消える。王都からの招待を断った「弱腰の田舎商人」として、権力者たちに侮られる。そして——グランツ公爵が、こちらの都合の良い時期ではなく、向こうの都合の良い時期に仕掛けてくる。


 行くリスクは高い。だが——行かないリスクは、もっと高い。


 前世のテヌラ・モーターズも、そうだった。ウォール街の空売り筋が株価を叩き落とそうとした時、マスクはCNBCに出演して反撃した。「逃げるな。正面から殴り返せ」——あの時の教訓が、今も生きている。


 だが——一人では、殴り返せない。


 ゴルドが一緒に来なければ——王都で戦うことは、できない。


「マルク」


 ルーナの声が——暗がりの中で、小さく響いた。


「ん?」


「起きてたんだ」


「眠れないの。——あんたも?」


「ああ」


 毛布がごそごそと動き、ルーナがベッドの端に座り直した。暗がりの中で、亜麻色の髪がぼんやりと揺れている。


「ねぇ。あたし——不安なの」


「何が?」


「全部。王都のことも。ゴルドさんのことも。マルクのことも」


 マルクは振り返った。


「俺のこと?」


「うん。あんたさ——さっき、『ゴルドさんの気持ちが一番大事だ』って言ったでしょ。あれ、本気?」


「本気だ」


「嘘」


 ルーナの声が——静かに、だが鋭く響いた。


「あんたの頭の中は——もう王都に行くことで固まってるでしょ。メリットとリスクを並べてたけど、あんたの目は——メリットの方しか見てなかった。あたし、わかるの。あんたが『決めてる時の顔』って、独特だから」


 マルクは——黙った。


 図星だった。


 分析的にはリスクとメリットを並べた。だが——心の奥では、もう決まっていた。行く。行かなければならない。前世のムーロン・マスクなら——一秒も迷わない。


 だが——今世のマルクは、一人ではない。ゴルドの痛みを無視して突き進むことは——できない。できないと思いたい。


「……正直に言う」


 マルクが息を吐いた。


「行きたい。商人として——チャンスを逃すのは、死ぬのと同義だ。前世のテヌラ・モーターズが最初のCESに出展しなかったら——世界は変わらなかった」


「前世の話は——わかんないけど」


 ルーナが毛布から足を出し、床に降りた。スリッパもなく、素足が冷たい床に触れる。


「あたしが心配してるのは、そこじゃないの」


「何だ?」


「ゴルドさんが——壊れちゃうかもしれないこと」


 マルクは——言葉を失った。


「今日の工房で、トングを落とした時のゴルドさんの顔——あたし、初めて見たの。あんな顔。EP6の審査の時よりもっとひどかった。ゴルドさんって、普段は鉄みたいに強いでしょ? でも——王都って言葉を聞いた瞬間、全部崩れたの。あの人の中に——三十年間、ずっと閉じ込められてた何かが、一気に溢れ出したみたいに」


 ルーナが——窓際に歩み寄った。マルクの隣に立ち、同じ星空を見上げた。


「あたしね——マナ視で人の感情は見えないの。マナの色と温度と流れは見えるけど、心までは見えない。でも——ゴルドさんのマナが、あの瞬間だけ、乱れてたのは感じた。いつもはすごく安定してる人なのに。深い藍色が——一瞬だけ、灰色にくすんだの」


 マルクは——ルーナの横顔を見つめた。


 この少女は——数字では測れないものを見る。分析では辿り着けない場所に、一足で踏み込む。


「ルーナ。お前は——行きたいか?」


 ルーナが少し考えた。


「行きたい、とか行きたくない、とかじゃなくて。——あたしは、あんたたちと一緒にいたいだけ。あんたが行くなら行く。ゴルドさんが行くなら行く。二人とも行かないなら、行かない。——あたしは、あたしだけの理由じゃ決められない」


「それは——お前自身の意志を放棄しているように聞こえるが」


「違うよ。——あたしの意志は、『この三人でいること』。場所はどこでもいいの」


 マルクは——小さく息をついた。


 前世のムーロン・マスクには、こんな仲間はいなかった。側近は全員、金か権力か名声で繋がっていた。会社の株価が下がれば離れ、上がれば戻ってきた。


 ルーナの言う「一緒にいたい」は——株価に左右されない。


 それが、どれほど貴重なことか。前世で六十年生きても理解できなかったことを——今世の十六歳は、もう知っている。


「……ルーナ。ありがとう」


「何が?」


「お前がいて——助かってる」


 ルーナが——少し、目を丸くした。そして——ふっと、笑った。


「何それ。急に素直じゃん」


「たまには言わないと、忘れるからな」


「忘れないよ。あたしは——あんたが思ってるより、ちゃんと覚えてるから」


 窓の外で、リヴァータウンの鐘楼が、十時を告げた。


 ゴルドは——まだ、帰ってこなかった。


 マルクとルーナは、それぞれのベッドに横になった。だが——二人とも、眠れなかった。


 天井の木目を見つめながら、マルクは考えていた。


 王都。グランツ公爵。取締役会議。権力。恐怖。


 そして——ダリウスが炉の前で倒れた時の、あの音。


 ゴルドの中に三十年間住み続ける、あの音を——俺は、聞くことができない。だが——聞かなくても、そこに在ることは理解できる。


 前世のムーロン・マスクは——他人の痛みを理解するのが、致命的に下手だった。七人の子供の気持ちがわからなかった。離婚した妻たちの涙がわからなかった。社員の疲弊がわからなかった。


 今世では——わかりたい。わかる努力をしたい。


 だから——ゴルドの答えを、待つ。


 急かさない。論理で説得しない。メリットとリスクの計算表を突きつけない。


 ただ——待つ。


 それが、今のマルクにできる、精一杯の「仲間としての在り方」だった。


 深夜——ゴルドが帰ってきた。


 扉が静かに開く音。重い足音。そして——椅子が軋む音。


 マルクは薄目を開けたが、声はかけなかった。


 暗がりの中で、ゴルドが窓際の椅子に腰を下ろすのが見えた。腕を組み、窓の外を見つめている。


 月明かりが——白髪を銀に染めていた。


 その横顔には——迷いと、覚悟が、混じり合っていた。


 まだ——答えは、出ていない。


 だが——逃げるための沈黙ではなかった。


 向き合うための——沈黙だった。


 マルクはそれを確認して——目を閉じた。


 三人の夜は、静かに更けていった。


 窓の外に——王都への道が、闇の中にまっすぐ伸びている。


 その道の先に何が待っているのか、まだ誰にもわからなかった。


 ◇


 その夜——リヴァータウンの大通りから三本裏に入った路地。


 マジカル・アセット商会の裏口に、一台の馬車が横づけされていた。


 窓のない黒塗りの箱馬車。車輪には布が巻かれ、石畳を踏む音が殺してある。御者台に座る男はフードを深く被り、手綱を握ったまま微動だにしない。


 馬車の傍らに、もう一人。


 商会の裏口から滑り出るように現れたその人物は——痩せぎすの中年男だった。


 灰色がかった金髪を後ろに撫でつけ、鉤鼻の下に薄い唇が引き結ばれている。上質だが目立たない暗緑色の外套を纏い、胸元には商会の紋章を模したブローチが鈍く光っていた。


 レオンハルト。


 マジカル・アセット商会の主人。リヴァータウンの魔道具市場でかつて独占的な地位を築き、マナバッテリーの出現によってその座を脅かされた男。


 噂を流す妨害は——失敗した。


 公開品質検査で、自らの信用を逆に傷つけた。模倣品を市場に流す策も、ヴァスト工房の偽物交換プログラムによって効果を削がれつつある。そしてマナランタンの売り上げは——マナバッテリーの足元にも及ばなかった。


 手を打つたびに——裏目に出る。


 あの小僧。マルクという名の、十六歳の貧農の息子。マナすら持たない欠陥品。そんな子供の商品が——リヴァータウンの魔道具市場を塗り替えようとしている。


 だが——レオンハルトは、まだ切り札を残していた。


 自分の手で戦わなければいい。もっと大きな手で——押し潰せばいい。


 裏口の暗がりで、レオンハルトは馬車の傍に立つ人影に声をかけた。


「準備はできたか」


「はい、旦那さま。書状は封蝋まで済ませてあります」


 人影が恭しく差し出したのは——三通の封書だった。


 レオンハルトの細い指が、一通目を取り上げた。蝋印を確認する。宛名は——ヴァルストリート王国・キャピタル・シティ。


 二通目。同じく王都宛。ただし宛先が異なる。


 そして三通目——これだけは、宛名に個人名が記されていた。


 ハインリヒ・フォン・グランツ公爵閣下。


 レオンハルトの薄い唇が——ゆっくりと、弧を描いた。笑みと呼ぶには冷たすぎる。だが——確実に、笑っていた。


「書状の内容は——間違いないな」


「旦那さまが口述された通りに。一字一句」


「よろしい」


 レオンハルトが三通の封書を馬車の窓から差し入れた。車内には、革の鞄を抱えた密使が一人座っている。顔はフードに隠れ、見えない。


「王都までの道中は三日。グランツ公爵邸への書状は——必ず、家令に直接渡せ。門番に預けるな。家令の名は——カスパル。カスパルにだけ渡せ。それ以外の人間には、書状の存在すら悟らせるな」


「承知しました」


「もう一つ——」


 レオンハルトが声を落とした。路地裏の闇の中で、その声は蛇のように這った。


「公爵が書状を読んだ後——返答を持って帰れ。口頭の伝言でもいい。公爵が何と言ったか、一言一句、わたしに伝えろ。——それが報酬の条件だ」


「承知」


 馬車の扉が閉まった。御者が静かに手綱を引く。布を巻いた車輪が石畳の上を滑り、黒い馬車は路地裏の闇に溶けるように消えていった。


 レオンハルトは——馬車が見えなくなるまで、裏口の暗がりに立ち尽くしていた。


 薄い唇が、もう一度——歪んだ。


 書状の内容は、三段で構成されている。


 第一段。マナバッテリーという新しい魔道具が、リヴァータウンで急速に市場を拡大していること。魔道具管理局の技術審査を通過し、管理局長直々の推薦で王都商業博覧会への招待を受けていること。


 第二段。マナバッテリーの製造者が——ゴルド・マイスター。十一年前に王都から姿を消した、元マイスター級鍛造師であること。資格を剥奪された男が、辺境の村で密かに魔道具の製造を再開していること。


 そして——第三段。


 レオンハルトの目が——暗がりの中で、鋭く光った。


 第三段には——ゴルドの技術の核心に関する推測が書かれている。公開品質検査で得た情報。露天商に模倣品を作らせた際に分析した構造の特徴。そして——マルクのマナ破産体質という弱点。


 マナを一切持たない少年が設計し、資格剥奪された老人が製造する魔道具。その異常な効率は、既存の魔道具市場の秩序を根底から覆しかねない。


 この情報を——グランツ公爵が見逃すはずがない。


 三十年前、若きレオンハルトはまだ駆け出しの商人だった。王都の魔道具市場で頭角を現し始めた頃——グランツ公爵の「庇護」を受けた。公爵の傘下に入ることで市場への参入を許され、その見返りとして——公爵の利権を守るための「目」と「手」となった。


 リヴァータウンへの赴任も、公爵の意向だった。地方の魔道具市場を監視し、公爵の利権を脅かす存在が現れた場合は——排除する。


 それが、レオンハルトに与えられた役割だった。


 今回は——排除すべき存在が、現れた。


 しかも——よりによって、ゴルド・マイスター。


 三十年前、公爵が技術を奪い、弟子の死を利用して脅迫し、資格を剥奪した男。逃がした獲物が——再び姿を現した。


 レオンハルトは裏口の扉を閉め、商会の中に戻った。


 暗い廊下を歩きながら、心の中で呟いた。


 ——あのゴルドという老人は、三十年前に公爵から逃げた。だが、逃げた先で新しい技術を生み出した。それを担いで王都に戻ろうとしている。


 ——愚かな。逃がしてもらえたことに感謝すべきだったのに。


 レオンハルトの薄い唇が、さらに歪んだ。


 あの小僧——マルクも、厄介だ。十六歳の少年の顔をしているが、目が違う。あの目には——何十年もの経験が凝縮されたような、異質な深さがある。噂を流しても、模倣品をばら撒いても、そのたびに逆手に取ってくる。


 だが——王都の権力を相手にして、同じことができるかどうか。


 リヴァータウンの小さな市場での知恵比べは——終わりだ。


 ここからは——権力の戦いだ。


 そして権力の戦いでは——レオンハルトの側に、圧倒的な利がある。


 グランツ公爵。取締役会議の古参。魔道具製造の独占的利権を握る男。王国内で流通する魔道具の六割を支配する、巨大な影。


 その影の前では——マナバッテリーなど、蝋燭の炎に過ぎない。


 レオンハルトは商会の自室に入り、窓の外を見た。


 リヴァータウンの夜空。星が瞬いている。どこかの宿屋で、あの三人が——マルクとルーナとゴルドが、王都行きを悩んでいるのだろう。


 悩め。迷え。


 そして——来い。


 王都に来れば——もう、逃げ場はない。


 ◇


 三日後——王都キャピタル・シティ。


 ヴァルストリート王国の中枢に位置するこの街は、リヴァータウンの十倍の規模を誇る。白亜の城壁に囲まれた都市の中央には王宮が聳え立ち、その周囲を貴族たちの壮麗な邸宅が取り囲んでいる。大通りは黄金に輝く街灯で照らされ、夜でも昼のように明るい。


 だが——その華やかさの裏には、リヴァータウンの路地裏とは比較にならない深さの闇が潜んでいた。


 グランツ公爵邸。


 王宮の東翼、貴族街の一角に建つその邸宅は——城と呼ぶべき規模だった。三階建ての石造り。正面に六本の柱が並ぶ荘厳なファサード。屋根の上には、公爵家の紋章——双頭の鷲が翼を広げた意匠の旗が、秋の夜風にはためいている。


 邸宅の三階。書斎。


 壁一面の書架には、革装丁の書物が隙間なく詰められている。窓際の黒檀の机には、地図や書簡が積まれ、銀の燭台が二本、暖かい光を落としていた。暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜ、秋の夜の冷気を追い払っている。


 暖炉の前の——一脚の椅子に、男が座っていた。


 六十代後半。だが——老いを感じさせない体躯だった。背筋はまっすぐに伸び、肩幅は広く、大きな手が椅子の肘掛けを掴んでいる。白髪交じりの銀髪を後ろに撫でつけ、鷲のように鋭い灰色の瞳が——手元の書状に注がれていた。


 顔には深い皺が刻まれているが、それは衰えではなく、権力を行使し続けてきた歳月の証だった。上質な黒いローブの胸元には、双頭の鷲の紋章が金糸で刺繍されている。


 ハインリヒ・フォン・グランツ。


 ヴァルストリート王国取締役会議——七人の大貴族の一人にして、魔道具製造の独占的利権を握る男。


 彼の手にあるのは——レオンハルトが送った三通の書状のうち、三通目だった。


 書斎の扉の前には、家令カスパルが直立不動で控えている。白髪の老僕は、四十年以上グランツ家に仕える古参の従者だ。密使から書状を受け取り、他の誰の目にも触れさせずに公爵の手元に届けた——それが、この男の仕事だ。


 グランツ公爵は——書状を、ゆっくりと読んでいた。


 薄い紙の上に踊るレオンハルトの筆致。公爵の灰色の瞳は、一行一行を噛み砕くように追っていく。


 第一段。マナバッテリー。既存の魔道具を凌駕する効率。管理局の審査を通過。博覧会への招待。


 公爵の表情は——変わらなかった。新しい魔道具が現れること自体は、珍しいことではない。毎年のように、地方から「革新的な発明」を引っ提げた職人や商人が王都を目指す。そしてその大半が——取締役会議の利権の壁に跳ね返されて、消えていく。


 第二段。


 公爵の目が——止まった。


 ——製造者の名は、ゴルド・マイスター。


 ゴルド。


 その名前が、公爵の灰色の瞳に入った瞬間——暖炉の火が、ひときわ大きく爆ぜた。薪が崩れ、赤い火の粉が舞い上がる。


 だが——公爵の表情は、変わらなかった。


 変わらないことが——異常だった。


 普通なら驚くはずの名前。三十年前に自らの手で追い落とし、王都から追放した男の名。それを目にして——眉一つ動かさない。


 それは——この男が、驚きという感情を、とうの昔に権力の下に埋葬したことを意味していた。


 公爵は書状を読み終え——暖炉の前のテーブルに、静かに置いた。


 長い沈黙。


 暖炉の火がパチパチと音を立てる以外、書斎には物音がなかった。


「カスパル」


 公爵の声は——低く、よく通った。感情を一切含まない、命令するためだけに存在する声だった。


「はい、閣下」


「密使は——まだ邸内か」


「控えの間でお待ちです」


「呼べ」


 カスパルが一礼し、書斎を出ていった。


 数分後——密使がフードを被ったまま書斎に通された。革の鞄を胸に抱え、恐縮したように頭を下げている。


「顔を見せろ」


 公爵の一言に、密使がフードを下ろした。三十代の、取り立てて特徴のない顔。レオンハルトが雇った、使い捨ての伝令だ。


「レオンハルトの書状は読んだ。——返答を、口頭で伝える。一字一句、漏らさずに伝えよ」


「はっ……はい」


 密使の声が震えていた。グランツ公爵の前に立つということが、どれほどの重圧か——その男の額に浮かぶ汗が、雄弁に物語っていた。


「まず——レオンハルトの忠勤を、わたしは認める。辺境の目として、よく働いた」


 密使が深く頭を下げた。


「次に——マナバッテリーとやらについて。商品そのものには、興味はない。田舎者が作った小さな灯りだ。取るに足らん」


 公爵の声は平坦だった。まるで——天気の話をしているような淡泊さ。


「だが——」


 公爵の灰色の瞳が——初めて、動いた。


 暖炉の炎を映し込んで——深い、冷たい光が宿った。


「ゴルド・マイスター」


 その名前を口にした時——公爵の声の温度が、明確に下がった。


「あの男が——まだ生きていたか」


 密使は顔を上げられなかった。床を見つめたまま、公爵の声を聞いていた。


「三十年前——わたしはあの男に、すべてを渡す機会を与えた。わたしの庇護の下で、王国最高の魔道具職人として名を馳せる機会を。だが——あの男は拒んだ」


 公爵が椅子の肘掛けを、ゆっくりと指で叩いた。規則的な、冷たいリズム。


「技術は自分のものだ、と。誰にも渡さない、と。——職人の矜持とでも言うのか。くだらん」


 指が止まった。


「技術は——権力に仕える道具だ。権力なくして、技術に価値はない。わたしの庇護がなければ、あの男の作る魔道具は——ただの鉄の箱に過ぎんのだ。それを理解できなかった愚か者が——三十年経って、また同じ過ちを繰り返そうとしている」


 公爵が——立ち上がった。


 暖炉の炎が、公爵の影を書斎の壁に大きく投げかけた。双頭の鷲の紋章が、暗闇の中で鈍く光っている。


「レオンハルトに伝えろ」


 密使が体を硬くした。


「博覧会への出展は——好きにさせておけ。来るなら来い。むしろ——来てもらった方が、都合がいい」


 公爵の唇が——薄く、歪んだ。


 笑み。


 だがそれは——人間の温かみとは無縁の、権力者だけが浮かべる種類の笑みだった。獲物が自ら罠に向かって歩いてくるのを眺める、猟師の笑み。


「三十年前——わたしはゴルドの技術を手に入れた。設計図を。製法を。そのすべてを。だが——あの男自身は取り逃がした。設計図はあっても、あの男の手がなければ再現できない技術があった。それが——三十年間の、唯一の心残りだ」


 公爵が窓辺に歩み寄った。王都の夜景が、窓ガラスの向こうに広がっている。黄金の街灯。闇に浮かぶ王宮の白い塔。その向こうに——星空。


「今度は——逃がさん」


 公爵の声が——冷たく、書斎に落ちた。


「ゴルドが王都に来た暁には——三十年前の借りを、利子をつけて返してもらう。技術だけではない。今度は——あの男自身を、わたしの手中に収める」


 密使は——震えていた。書斎の暖炉は十分に燃えているのに、背筋が凍えるような冷気を感じていた。


「それと——」


 公爵が振り返った。暖炉の炎が背後にあるため、顔が影に沈んでいる。灰色の瞳だけが——暗闇の中で、鋭く光っていた。


「マルクとやいう少年。マナ破産体質で、魔道具を設計した小僧。——面白い。レオンハルトの書状には、あの小僧の目が異質だと書いてあったな。何十年もの経験が凝縮されたような深さがある、と」


 公爵の指が——再び、椅子の肘掛けを叩き始めた。


「その小僧の出自と背景を——徹底的に洗え。ビンボーレ村の貧農の三男。それが本当にすべてなのか。どこで、誰から、あの技術を学んだのか。——わたしの手の者を使え。費用はわたしが持つ」


「か、畏まりました」


「もう一つ。博覧会の出展者リストに——ゴルドとマルクの名が載ったら、すぐに知らせろ。わたしの方でも——準備がある」


 準備。


 その言葉の中身を、密使は聞く勇気を持たなかった。


「以上だ。——下がれ」


 密使が書斎を出ていった。震える足で廊下を歩き、階段を降り、邸宅の裏口から夜の王都に滑り出す。


 書斎に一人残ったグランツ公爵は——椅子に腰を下ろし、暖炉の炎を見つめた。


 ゴルド・マイスター。


 三十年前、王都で最も精密な魔道具を作れた男。その技術は——公爵の傘下の工房のどの職人をも凌駕していた。だからこそ——欲しかった。公爵の利権を支える、最高の道具として。


 だが——あの男は「道具」になることを拒んだ。


 技術は自分のものだ、と。


 その傲慢を——公爵は許さなかった。管理局を動かし、弟子の死を利用して脅迫し、設計図を奪い、資格を剥奪した。あの男は——壊れたように王都を去った。


 それで終わったはずだった。


 だが——終わっていなかった。


 辺境の村で、あの男は再び炉に火を入れた。新しい技術を生み出した。しかも——三十年前よりもさらに革新的な。


 マナバッテリー。マナを持たない者にも使える魔道具。そんなものが広まれば——魔道具の利権構造そのものが揺らぐ。現在の魔道具市場は、マナ保有者を前提にした製品で成り立っている。その前提が崩れれば——公爵が独占してきた六割の市場シェアは、意味を失う。


 だが——公爵の関心は、市場シェアだけにあるのではなかった。


 ゴルドの手。あの、鉄のように正確な手。


 三十年前に奪った設計図は、確かに役に立った。だが——設計図だけでは再現できない「何か」が、ゴルドの製品にはあった。加工の精度。金属を鍛える時の微妙な力加減。公差〇・二ミリ以下の仕上げ。それは——どの弟子にも、どの職人にも、真似できなかった。


 暗黙知。言語化できない、職人の手の中にしか存在しない技術。


 それを——今度こそ、手に入れる。


 設計図だけではない。職人そのものを。


 グランツ公爵は——暖炉の炎を見つめながら、薄く笑った。


「三十年か」


 独り言が——暗い書斎に落ちた。


「長い利子がついたな——ゴルド」


 暖炉の火が——また、大きく爆ぜた。赤い火の粉が舞い上がり、公爵の銀髪を一瞬だけ赤く染めた。


 そして——闇に沈んだ。


 ◇


 翌朝——リヴァータウン。


 ルーナは、噴水広場への道すがら、いつもと違う道を選んだ。


 理由は——ない。強いて言えば、朝の空気が妙にざわついていたからだ。秋の冷たい風に混じって、何か——不快な匂いが漂っている気がした。鼻で嗅ぐ匂いではない。もっと奥の——マナを感じる器官が、反応していた。


 大通りを一本外れた裏通り。石畳の道幅は狭く、両側の建物が頭上を覆うように迫っている。朝日が届かない薄暗い通り。


 その通りの先に——マジカル・アセット商会の裏手が見えた。


 ルーナは足を止めた。


「……何だろう、これ」


 目を閉じた。


 マナ視が——自然と起動した。


 最近は、意識しなくても見えることが増えてきた。マルクに言葉にする訓練を受けてから、マナの色や温度を捉える感覚がより鮮明になっている。品質検査の時だけでなく、日常の中でも——空気に漂う魔素の流れが、うっすらと見えるようになっていた。


 普段のリヴァータウンの街並みは——淡い水色のマナに満ちている。人々が行き交い、店が営業し、魔道具が使われている。その営みが生み出すマナの流れは、穏やかで温かく、のんびりとした川のようだ。


 だが——今、目の前に見えているものは、違った。


 マジカル・アセット商会の裏手一帯に——暗い色のマナが、澱んでいた。


 黒ではない。だが——濃い灰色。くすんだ、重い色。温度は——冷たい。周囲の空気よりも明らかに低い。そして——流れがない。水たまりのように、その場に滞留している。


 ルーナは以前にも、マジカル・アセット商会から似た気配を感じたことがあった。EP5の噂騒動の頃に、商会の前を通った時——「暗いもの」を感じ取っていた。


 だが——今回は、以前よりもはるかに濃い。


 そして——それだけではなかった。


 ルーナが目を凝らすと——灰色の澱みの中に、一筋の暗い流れが見えた。商会の裏口から伸びる、細く冷たいマナの筋。それは——南の方角に向かって、まっすぐに伸びていた。


 南。


 王都の方角だ。


 ルーナは——目を開けた。


 背筋が、ぞくりとした。


 何かが——動いている。マジカル・アセット商会から、王都に向けて——何かが、送り出されたのだ。つい最近。おそらく——一両日中に。


 マナの流れは嘘をつかない。人が強い意志や感情を込めて行動すると、その行為にマナの痕跡が残る。悪意を込めた行為は、暗く冷たい痕跡を。善意に基づく行為は、明るく温かい痕跡を。


 今、マジカル・アセット商会の裏手に残っているのは——紛れもなく、暗い意志の痕跡だった。


 ルーナは小走りで噴水広場に向かった。


 ◇


「マルク!」


 ヴァスト工房の入り口で帳簿を広げていたマルクが顔を上げた。


 ルーナが——息を切らして、工房に飛び込んできた。亜麻色の髪が乱れ、緑色の瞳が大きく見開かれている。


「どうした。走ってきたのか?」


「うん——ちょっと聞いて。大事な話」


 ルーナがマルクの隣に来て、声を落とした。工房内ではヴィクトルとトビアスが作業中で、ゴルドはまだ来ていなかった。


「マジカル・アセット商会の裏手——あたし、さっき通ったの。そしたら——マナの流れが、おかしかった」


 マルクの目が——鋭くなった。


「おかしい、というのは」


「暗い色のマナが——溜まってた。すごく濃い灰色で、冷たくて、動かないの。前にも似たのを感じたことはあるけど、今朝のは——もっとずっとひどい。水たまりじゃなくて——泥沼みたいな感じ」


「それだけか?」


「ううん。もう一つ——」


 ルーナが唇を噛んだ。言葉を選んでいる。


「商会の裏口から——暗いマナの筋が、南に向かって伸びてた。細い一本の線みたいに。南って——」


「王都の方角だ」


 マルクが即座に答えた。


「うん。何かが——商会から王都に向けて送られた。悪い意図を込めて。つい最近——たぶん、一日か二日前」


 マルクは——帳簿を閉じた。


 頭の中が、高速で回転し始めた。


 レオンハルトが——動いた。


 マジカル・アセット商会から王都への密使。フェルディナントが警告した「もっと大きな力」。そして——グランツ公爵。


 点が——線で繋がった。


 前話のセクション三で、フェルディナントが言った言葉が蘇る。


 ——レオンハルトがここで諦めるかどうかは、わたしにはわからん。


 諦めていなかった。それどころか——レオンハルトは最初から、自分の手で戦うつもりなど、なかったのかもしれない。噂も模倣品も——あれは時間稼ぎだ。本命は——王都の権力を動かすこと。


 前世のテヌラ・モーターズの競合がワシントンD.C.のロビイストを動かした時と——まったく同じ構造だ。自社の市場で勝てないなら、政治の力で潰す。


 レオンハルトは——グランツ公爵に密告した。


 マナバッテリーの存在を。ゴルドの正体を。王都商業博覧会に来ることを。


 つまり——博覧会に行けば、グランツ公爵が待ち構えている。


「マルク……どうしたの。顔色が——」


 ルーナの声で、我に返った。


「……ルーナ。お前の目は——本当に、すごいな」


「え?」


「今の情報で——全部繋がった。レオンハルトが何を企んでいるか。なぜマジカル・アセット商会が最近おとなしかったか。そして——王都に何が待っているか」


 マルクは立ち上がった。窓の外に、リヴァータウンの朝の光が広がっている。


「レオンハルトは——グランツ公爵に密告した。ゴルドさんの正体と、マナバッテリーの存在を。公爵は——三十年前にゴルドさんの技術を奪った人物だ。その公爵が、博覧会でゴルドさんを待ち構えている」


 ルーナの顔が——蒼ざめた。


「じゃあ——王都に行ったら、ゴルドさんが——」


「ああ。三十年前と同じことが——いや、もっとひどいことが起きる可能性がある」


 マルクは拳を握りしめた。


 行くリスクは——予想以上に高い。グランツ公爵が相手なら、リヴァータウンでの小競り合いとは次元が違う。前世で言えば、テヌラ・モーターズが連邦政府を敵に回すようなものだ。


 だが——ここで足を止めれば。


 マナバッテリーはリヴァータウンの一地方商品のまま、模倣品に侵食され、いずれ消える。ヴァスト工房はゆるやかに衰退し、ビンボーレ村への仕送りも止まる。修繕された水車は——再び、錆びていく。


 そしてグランツ公爵は——招待を断った「弱腰の小僧」を、いつでも好きな時に潰せる。王都に来なくても、公爵の手はリヴァータウンにまで届く。レオンハルトという「目と手」が、すでにここにある。


 逃げても——追ってくる。


 前世のムーロン・マスクは知っていた。逃げる相手を、権力は必ず追い詰める。だが——立ち向かう相手には、交渉の余地が生まれる。


 行かないリスクは——行くリスクよりも、はるかに高い。


「ルーナ」


 マルクの声は——静かだった。だが、その奥に——鉄のような決意が、固まりつつあった。


「行かなきゃいけない」


「でも——」


「わかってる。罠だ。わかっていて——踏み込むんだ」


 ルーナが目を見開いた。


「前世で——いや、昔読んだ本に、こう書いてあった。『罠を知っている者は、罠の中でも戦える。罠を知らない者だけが、罠に殺される』と」


 マルクの目が——真っ直ぐに、ルーナを見た。


「レオンハルトが密告したことは、向こうは俺たちに知られていないと思っている。だが——ルーナ。お前のマナ視が、それを暴いた。敵の手の内が見えている。これは——巨大なアドバンテージだ」


 ルーナは——数秒、黙った。


 緑色の瞳が——揺れた。恐怖と、不安と。だが——その奥に、芯のように光る何かがあった。


「……あたしの目が——役に立つなら」


「役に立つどころじゃない。お前の目がなければ——俺たちは、何も知らないまま王都に飛び込むところだった。敵の意図が見えているだけで、戦い方はまったく変わる」


 マルクが深く息を吸い、吐いた。


「ただし——これは俺一人では決められない。ゴルドさんの答えを、待たなければならない。あの人が『行かない』と言うなら——別の方法を考える。俺とルーナだけで行くのか、それとも——」


「マルク」


 ルーナが遮った。


「三人で行くか、三人で行かないか。——それしかないでしょ」


 マルクは——ルーナの顔を見つめた。


 あの太陽のような笑顔は、今はなかった。代わりにあったのは——静かな覚悟。十五歳の少女が見せるには、あまりにも大人びた表情だった。


「……ああ。——その通りだ」


 マルクは窓の外に目を向けた。


 リヴァータウンの朝。噴水広場の水がきらめいている。行き交う人々。商人の呼び込み。日常の風景。


 だが——その日常の裏で、暗い影が動いている。


 レオンハルトの密告。グランツ公爵の冷笑。王都に張られた罠。


 そして——ゴルドの三十年間の痛み。


 すべてが——王都という一点に、収束しようとしている。


 マルクは拳を開き、掌を見つめた。マナのない、空っぽの手。


 だが——この手には、前世六十年分の知識がある。仲間がいる。そして——ルーナの目がある。


 空っぽの手で——世界を変える。


 それが、この物語の始まりだった。


 そしてその物語が——今、最も危険な章に差しかかっている。


 窓の外で、リヴァータウンの鐘楼が朝の八時を告げた。


 秋の陽光が、工房の中に差し込んでいる。


 だが——その光の届かない場所で、暗い影が——確かに、動いていた。



 ◇


 ゴルドが答えを出したのは——ルーナがマナ視で暗い影を察知した、その翌朝だった。


 銀の天秤亭の三人部屋。秋の朝日が窓から斜めに差し込み、木のテーブルの上に光の帯を作っている。


 マルクとルーナがテーブルで朝食の黒パンを齧っていた。昨夜、マルクはルーナに伝えた。レオンハルトがグランツ公爵に密告した可能性が高いこと。博覧会に行けば罠が待っていること。そして——それでも行かなければならない理由。


 ルーナは黙って聞いていた。そして最後に一言だけ言った。「ゴルドさんの答えを待とう」と。


 その答えが——今、来た。


 窓際の椅子から——ゴルドが、静かに立ち上がった。


 一晩中、あの椅子に座っていた。マルクは深夜に何度か薄目を開けたが、そのたびにゴルドは窓の外を見つめていた。月が沈み、星が消え、東の空が白み始めるまで——ずっと。


 だが今朝のゴルドの顔は、昨日までとは違っていた。


 蒼白さは消えていた。灰色の瞳に——覚悟の光が宿っていた。鉄のような硬さが戻っている。だがそれは、殻に閉じこもるための硬さではなかった。


 前に進むための——刃の、硬さだった。


「小僧。嬢ちゃん」


 ゴルドの声が——朝の部屋に、低く響いた。


 マルクとルーナが、同時に顔を上げた。


「わしは——行く」


 短い言葉だった。だがその三文字に、三十年分の重みが乗っていた。


 ルーナのパンを持った手が、止まった。


「ゴルドさん——」


「昨夜、一晩考えた。いや——考えたというより、聞いていた。自分の中の声を」


 ゴルドが窓際から一歩、テーブルに近づいた。朝日が白髪を金に染めている。


「三十年間——わしの中には二つの声があった。一つは『逃げろ』と言う声。もう一つは——『戻れ』と言う声だ」


 マルクは——黙って聞いた。


「逃げろ、という声は——ダリウスの音だ。あいつが倒れた時の、あの鈍い音。あの音を二度と聞きたくないから——逃げろ、と」


 ゴルドの太い指が——自分の胸を、軽く叩いた。


「だが——戻れ、という声もある。それは——わし自身の声だ。鍛冶屋の声。炉に火を入れ、鉄を打ち、何かを作りたいという——職人の声だ」


 ゴルドが——マルクの目を見た。


「小僧。お前がビンボーレ村に来て、わしにもう一度作れと言った時——『戻れ』の声が、初めて『逃げろ』の声を上回った。それから半年。お前と嬢ちゃんと一緒に作り、売り、戦ってきた。その間ずっと——『戻れ』の声が、大きくなり続けていた」


 マルクは——胸の奥が、熱くなるのを感じた。


「昨夜——最後に聞いたのは、ダリウスの声だった」


 ルーナが息を呑んだ。


「あいつが——何と言ったか」


 ゴルドの灰色の瞳が——微かに、揺れた。


「『師匠。もう、十分です』と」


 部屋が——静まり返った。


 朝日が、テーブルの上の黒パンと、水差しと、三人の影を照らしている。


「幻聴かもしれん。老人の妄想かもしれん。——だが、わしには聞こえた。ダリウスの声で。あの子の、不器用で真面目な声で」


 ゴルドが——深く、息を吸った。


「もう十分、逃げた。もう十分、悔いた。——これからは、前に進む」


 ゴルドが右手を差し出した。鍛冶仕事で硬くなった、太い掌。


「小僧。王都に——連れて行け」


 マルクは——立ち上がった。


 ゴルドの手を、両手で握った。十六歳の少年の手と、六十代の老人の手が——重なった。


「行きましょう。——三人で」


 ルーナが——椅子から跳ね上がった。黒パンをテーブルに放り投げ、二人の手の上に自分の手を重ねた。


「あたしも——行くからね! 絶対!」


「……わかっておる。お前は置いていっても勝手についてくるだろう」


「当たり前じゃん!」


 三人の手が——朝日の中で重なっていた。


 マルクは——その温もりを感じながら、心の中で呟いた。


 前世のムーロン・マスクは、火星に行くと決めた時、一人だった。ロケットに乗り込んだ時も、一人だった。そして——死んだ時も、一人だった。


 今世では——二人がいる。


 この手を離さなければ——どこまでも行ける。


「まず準備だ。王都に行く前に——ビンボーレ村に帰る」


「村に? 今から?」


「ああ。工房の留守をヴィクトルに任せる手配。ビンボーレ村の採掘チームへの指示。そして——母さんに会っておきたい」


 ルーナが——ふっと、笑った。


「マルクがそんなこと言うの、珍しいね」


「珍しくない。前から思ってた。——言えなかっただけだ」


 ゴルドが鼻を鳴らした。


「……行くぞ。荷造りしろ」


 ◇


 三日後——ビンボーレ村。


 マルクが最後にこの村を見たのは、リヴァータウンに旅立った日だった。あの時は——壊れた水車と、痩せた畑と、栄養失調の子供たちの村だった。


 今——目の前にある風景は、同じ村でありながら、違っていた。


 村の入り口の小さな丘を越えた瞬間、最初に目に入ったのは——水車だった。


 あの水車。転生直後のマルクが最初に目にした「貧困の象徴」。歯車が欠け、軸が錆び、何年も動かなかった木造の水車。


 それが——回っていた。


 新しい歯車。磨かれた軸。木組みは修繕され、水路には清らかな水が流れ込んでいる。ギイ、ギイ、と規則的な音を立てて、大きな車輪がゆっくりと回転している。


 マルクは——足を止めた。


 母の手紙で読んでいた。だが——実際にこの目で見ると、文字の上の情報とはまったく別の何かが、胸に押し寄せてくる。


 六百二十マルクスが——歯車と軸の音になった。帳簿の数字が——現実の世界で回り始めた。


「マルク! マルクが帰ってきたぞ!」


 畑で作業をしていた子供の声が上がった。


 あっという間に村中に知らせが広がった。小さな家々から人が出てくる。ミルンが走り出し、カルタが手を振り、女たちがエプロンで手を拭きながら駆け寄ってくる。


 子供たちの頬が——少しだけ、ふっくらしていた。


 以前はどの子供の顔にも栄養失調の影があった。頬がこけ、目の下に暗い隈があった。だが今は——頬にほんのりと血色が差している。


 週に二回の肉。たったそれだけのことが——子供たちの顔を、変えた。


「にいちゃん! おかえり!」


 カルタの息子ペーターが、泥だらけの足で走ってきた。七歳の小さな男の子。前歯が一本抜けていて、その隙間から舌が見えた。


「にいちゃん、見て見て! 水車、回ってるよ!」


「ああ。——見たよ」


「すっごいんだよ! ゴロゴロゴロって回って、粉がいっぱいできるの!」


 マルクはペーターの泥だらけの頭に手を置いた。


 前世のムーロン・マスクは、七人の子供がいた。だが——誰の頭を撫でた記憶も、ない。


「……よかったな」


「うん!」


 ルーナが隣で、目を赤くしていた。


「ルーナ。泣くな」


「泣いてない……。——嬉しいだけ」


 ◇


 母——リーナの家。


 小さな木造の家は以前と変わらなかった。壁板は古く、屋根には苔が生えている。だが——庭先に、変化があった。


 小さな花壇。


 紫と黄色の小さな花が、秋風に揺れている。仕送りで食費の心配が減り、初めて「花を植える余裕」ができたのだろう。


 花を植える余裕。それもまた——十五マルクスの仕送りが生んだ成果だった。


「マルク!」


 リーナが家の中から飛び出してきた。色褪せたエプロン。一つに束ねた髪。ごつごつした手。


 リーナはマルクの前に立ち、両手で息子の頬を包んだ。


「……大きくなった」


「そんなに変わってないよ」


「変わったわ。——顔つきが。大人になった」


 リーナの目が潤んでいた。だが、泣かなかった。笑っていた。


「上がって。ご飯、作るから。今日は——鶏肉があるの」


 かまどに火が入り、鶏肉の焼ける匂いが漂い始めた。ルーナとゴルドは外で待っていた——ルーナが「二人で話しておいで」と気を利かせたのだ。


「母さん」


「なに?」


 マルクは深呼吸した。


「王都に——行くことになった」


 リーナの菜箸が——一瞬、止まった。


「王都……」


「魔道具管理局から、正式な招待が来た。大きなチャンスだ。——でも、危険もある。王都には、ゴルドさんの過去に関わる権力者がいる。俺たちの商品を脅かす人間がいる」


「マルク」


 リーナが菜箸を置いて、振り返った。


 その目は涙ぐんでいなかった。母としての、強い光が宿っていた。


「あんたが『行く』って決めたんでしょう?」


「……はい」


「なら——行きなさい」


 マルクは——目を見開いた。


「カルロとヨハンが徴兵で行った時も——止められなかった。あの子たちは、国の命令で行った。自分の意志じゃなかった。でも——あんたは、自分の意志で行くんでしょう? 自分で決めて、自分の足で。それなら——止める理由はないわ」


 マルクの喉がつまった。


 前世のムーロン・マスクは火星に行くと決めた時、母親に何も言わなかった。会社の記者会見で発表し、ニュースで知らされた。「気をつけてね」の一言だけだった。


 今世の母は——目の前に座って、手を握って、「行きなさい」と言ってくれた。


「ただし——一つだけ、約束して」


「何?」


「帰ってくること。——それだけ。王都で何が起きても、何を手に入れても失っても——この村に、帰ってくること」


 マルクは——その手を、強く握り返した。


「約束する。必ず——帰ってくる」


 声が少し震えた。十六歳の少年の声ではなく、もっと深い場所から出た声だった。


 リーナが笑った。涙は最後まで流さなかった。ただ少しだけ長く、息子の手を握っていた。


「さあ——鶏肉が焦げちゃう。ルーナちゃんとゴルドさんも呼んできて。たくさん食べなさい。王都まで歩くんでしょう? 痩せっぽっちで行ったら、舐められるわよ」


「……はい」


 マルクは立ち上がり、外に向かった。


 扉を開ける前に振り返った。かまどの前で鶏肉を焼くリーナの背中。色褪せたエプロン。束ねた髪の後れ毛が、火の光に照らされている。


 前世では——母の背中を見る機会など、なかった。


 今世では——見える。この背中を守るために、王都に行く。そのために——帰ってくる。


 ◇


 その夜——ビンボーレ村の集会所で、ささやかな壮行会が開かれた。


 村長バルトスが音頭を取り、村人たちが持ち寄った料理がテーブルに並んだ。黒パン、チーズ、山羊のミルクのシチュー。そして——鶏肉。半年前なら祭りでもなければ出なかった食材が、「特別な日」くらいなら出せるようになっていた。


 村人たちの反応は複雑だった。


「王都って——あの、王都?」


「遠いんだろ? 馬車でも三日はかかるんじゃねぇか?」


 不安の声が上がる中——ミルンが立ち上がった。


「まあまあ。落ち着け、おめぇら。こいつが村にマナバッテリーを持ってきてから、何が変わった? 水車が直ったろう。子供らが肉を食えるようになったろう。——こいつが王都に行くっつってんなら、もっとでかいことをやろうとしてんだ。邪魔すんな」


 村人たちが少しずつ頷き始めた。


 バルトスが立ち上がった。


「マルク。——一つ、渡すものがある」


 テーブルの下から取り出されたのは革の袋だった。


「村の共有基金から。餞別だ」


 マルクが受け取り中を確認した。——二十マルクス。


「バルトスさん。これは——」


「お前の仕送りで村の家計は楽になった。共有基金にも貯まっている。——その一部を、お前に戻すだけだ」


 バルトスがマルクの肩に手を置いた。


「わしの娘を——頼む」


 父親としての言葉だった。


「守ります」


 マルクが答えた。


 ルーナが横で頬を赤くしていた。


「お、お父さん! あたし、自分で自分を守れるから!」


「お前が危なっかしいから心配しとるんだ」


「危なっかしくないもん!」


 村人たちが——笑った。半年で初めて聞くような、屈託のない笑い声だった。


 ◇


 壮行会の後——子供たちが三人を取り囲んだ。


 ペーターを先頭に五人の子供たちが目を輝かせていた。


「にいちゃん、王都ってどんなとこ?」


「まだ行ったことがないから、わからない。——でも、帰ってきたら教えてやる」


「約束だよ!」


「ゴルドさーん! 帰ってきたらまた鉄の人形作ってー!」


 ゴルドが困ったような顔をした。だが口元は——微かに、緩んでいた。


「……帰ってきたらな」


 ペーターがマルクの手を掴んだ。


「にいちゃん。約束して。必ず帰ってくるって。——みんなで、もう一回お祭りやろうよ」


 マルクはペーターの小さな手を握り返した。前歯が一本抜けた、泥だらけの七歳の少年。鶏肉を食べて少しだけふっくらした頬。キラキラした目。


「約束する」


「指切りだよ! 嘘ついたら針千本飲ますやつ!」


 マルクは小指を差し出した。ペーターの小さな小指が絡まった。


 ルーナが横から自分の小指も絡めた。


「あたしも入れて!」


「ゴルドさんもー!」


「……わしはいい」


「だめー! みんなでやるの!」


 ペーターがゴルドの太い手を引っ張った。ゴルドの小指は子供の手と比べると鉄の棒のように太かった。


「……仕方ないな」


 四本の小指が——絡み合った。


「指切りげんまん! 嘘ついたら針千本飲ます!」


 子供たちの声が秋の夜空に響いた。


 マルクは思った。前世のムーロン・マスクは——誰と指切りをしたことがあっただろうか。たぶん——一度もない。


 契約書よりも、株主総会での宣誓よりも——はるかに重い約束だった。


 ◇


 深夜——村外れの丘。


 転生初日の夜、星空を見上げて「今度こそ世界を変える」と誓った、あの丘。


 三人が並んで座っていた。


 秋の夜空に星が瞬いている。天の川が空を横切り、無数の光点が闇の中に散りばめられている。


「マルク」


 ルーナが隣で膝を抱えていた。


「ん?」


「セクション四で——あたしが見たこと、ゴルドさんにも話した方がいいよね」


 マルクは一瞬考え、頷いた。


「……ゴルドさん。一つ、伝えておくべきことがある」


 ゴルドが横を向いた。灰色の瞳が星明かりに光っている。


「レオンハルトが——グランツ公爵に密告した可能性が高い。ルーナのマナ視がマジカル・アセット商会から王都への暗いマナの筋を捉えた。おそらく密使を使って、ゴルドさんの正体とマナバッテリーの情報を送った」


 沈黙が落ちた。


 ゴルドの表情は——変わらなかった。今朝見せた覚悟の光が、揺らがずにそこにあった。


「……そうか」


 ゴルドの声は低く、静かだった。


「公爵が待ち構えているかもしれない——それでも、行くんですか」


「小僧」


 ゴルドが——鼻を鳴らした。


「わしは今朝、行くと言ったぞ。罠があろうがなかろうが——変わらん」


 マルクは——その言葉の重みを、噛みしめた。


「ただし——無策で飛び込むつもりはない」


 マルクの目が鋭くなった。前世のムーロン・マスクが敵対的買収に直面した時の、あの目だ。


「敵の手の内が見えていることが、俺たちの最大の武器だ。レオンハルトは密告がバレていないと思っている。公爵も、こちらが何も知らないと思って罠を仕掛ける。——その油断を、利用する」


「どうやって?」


 ルーナが聞いた。


「まだ全部は見えていない。だが——前世の経験で言えば、罠を知っている者は罠の中でも戦える。知らない者だけが殺される。博覧会で何が起きるか、王都に着くまでに——対策を練る」


 マルクがルーナを見た。


「ルーナ。お前の目が——俺たちの切り札だ。王都でも、暗いマナの流れを感じたら、すぐに教えてくれ」


「うん。任せて」


 ルーナの緑色の瞳に——静かな覚悟が宿っていた。太陽のような明るさとは違う。月のような、静かで確かな光。


 ゴルドが空を見上げた。


「……小僧。一つ、聞いていいか」


「何ですか」


「お前は——何のために、王都に行く」


 マルクは——少し考えた。


 嘘はつきたくなかった。論理的な答えなら、いくらでもある。販路拡大。ブランド確立。模倣品対策。前世のCEOとして、数字と戦略の言葉でいくらでも語れる。


 だが——今夜、この丘の上では、そういう言葉は似合わない。


「……水車を回し続けるためです」


 ゴルドが——眉を上げた。


「ビンボーレ村の水車。今は俺の仕送りで回っている。でも——仕送りが止まれば、また止まる。村が自分の力で回り続けるには——もっと大きな仕組みが必要だ。マナバッテリーが王国中に広がれば、村は原材料の供給元として安定した収入を得られる。子供たちが毎日肉を食べられるようになる。ペーターが大きくなった時——この村を出なくても、生きていける」


 マルクは——拳を握った。


「前世では——世界を変えると言いながら、誰の生活も変えられなかった。株価は上がった。ロケットは飛んだ。だが——誰かの水車を直したことは、一度もなかった」


 星空の下で、マルクの声が——静かに響いた。


「今世では——水車を直した。あとは、それが止まらない仕組みを作る。そのために——王都に行く」


 ゴルドが——長い間、マルクを見つめていた。


「……お前は——変わった小僧だ」


「よく言われます」


「褒めておる」


 ルーナが——くすっと笑った。


「ゴルドさんが褒めるの、珍しいね」


「……うるさいぞ、嬢ちゃん」


 三人が——笑った。静かな、だが温かい笑い声が、丘の上に広がった。


 マルクは立ち上がった。丘の上からビンボーレ村を見下ろす。暗がりの中に小さな灯りが点在していた。マナバッテリーの光だ。かつては真っ暗だった村に——小さな光が灯っている。


 その光の向こうに——リヴァータウンの方角。さらにその先に——王都がある。


「ここから始まった」


 マルクが振り返り、二人を見た。


「ビンボーレ村の裏山の光り石から。ゴルドさんの炉から。ルーナの充電から。——全部、ここから始まった。次のステージは王都だ」


 マルクが右手を差し出した。


「三人で行こう。三人で——帰ってこよう」


 ルーナが手を重ねた。


「うん。三人で」


 ゴルドが太い手を重ねた。


「……行くぞ」


 三人の手が——星空の下で、重なっていた。


 風が吹いた。秋の、冷たく澄んだ風。丘の草が揺れ、三人の髪が揺れ、遠くで水車の音が——微かに聞こえた。


 ギイ、ギイ。


 回っている。止まらずに。


 マルクは——その音を聞きながら、思った。


 帰る場所がある。


 だから——行ける。どこへでも。


 ◇


 翌朝——三人は、ビンボーレ村を旅立った。


 リヴァータウン経由で王都へ。護衛二人と馬車一台を手配済み。荷台には博覧会に出展するマナバッテリー五十個と、新商品「マナランプ」の試作品三個が積まれている。


 村の入り口で——村人たちが見送りに来ていた。ミルンが手を振り、カルタが声を上げ、子供たちが走り回っている。


 バルトスが門の前に立ち、右手を上げた。


「マルク。ルーナ。ゴルド殿。——武運を祈る」


 リーナは——家の前に立っていた。走ってきて見送ることもせず、大声で叫ぶこともしなかった。ただ——色褪せたエプロンの下で両手を握りしめ、静かに微笑んでいた。


 花壇の紫と黄色の花に囲まれて。


 マルクは馬車の上から母の姿を見つめた。小さくなっていく。丘を越える前に——マルクは小さく口を動かした。


 ——行ってきます。


 声にはならなかった。だが——リーナには伝わったのだろう。色褪せたエプロンの女性が、一度だけ——小さく、頷いた。


 村が丘の向こうに消えた。


 水車の音が——最後まで、聞こえていた。


 ◇


 リヴァータウンでヴァスト工房の留守をヴィクトルとトビアスに任せ、フェルディナントに王都行きを報告した。


「面白い」


 あの男は深紅のローブの中で金の指輪を光らせながら、それだけ言った。そして——不意に、声を低くした。


「マルク。一つだけ——忠告する」


「何ですか」


「王都では——わたしの名前を出すな。わたしの存在を、誰にも気取らせるな」


 マルクは——フェルディナントの鋭い茶色の目を見た。その奥に——珍しく、計算ではない何かが光っていた。


「わかりました」


「生きて帰ってこい。——お前が潰されたら、わたしの取引先が一つ減る」


 いつもの口上だった。だが——今日は、その言葉の裏にある温度が、ほんの少しだけ高い気がした。


 ◇


 そして——出発の朝。


 リヴァータウンの南門から、馬車が走り出した。


 石畳の街道が南へ——王都へ向かって、まっすぐに伸びている。秋の風が馬車の幌を揺らしていた。


 馬車の中で、マルクは帳簿を広げていた。博覧会での出展計画。展示方法。価格戦略。そして——グランツ公爵への対策。


 ルーナは幌の隙間から外を眺めていた。


「マルク、見て! 畑がすっごく広い! ビンボーレ村の何十倍もあるよ!」


「王都に近づくほど農地は肥沃になる。辺境と中央の格差は——前世でもこの世界でも変わらないな」


「また前世」


 ゴルドは馬車の隅で腕を組み、目を閉じていた。眠っているように見えたが——時折、指先が微かに動いていた。何かを鍛えるように。何かを作るように。


 三日目の夕刻——馬車が最後の丘を越えた時。


 マルクは——それを、見た。


 地平線の彼方に——巨大な白い壁が、夕陽に照らされて輝いていた。


 城壁だ。


 リヴァータウンのそれとは比較にならない。高さは目測で二十メートル以上。城壁の上には等間隔に塔が並び、旗がはためいている。その向こうに——尖塔とドーム。そして城壁の中央、最も高い場所に聳える白亜の塔。


 王宮だ。


 ヴァルストリート王国の首都——キャピタル・シティ。


「……あれが」


 ルーナが息を呑んだ。


「王都——」


 ゴルドが——目を開けた。


 灰色の瞳が城壁を見た。三十年前に逃げ出した場所。弟子を失った場所。技術を奪われた場所。


 その場所が——夕陽に照らされて、金色に輝いていた。


 ゴルドの手は——震えていなかった。


「……変わらんな。あの壁は——三十年前と、同じだ」


「壁は変わらなくても——俺たちが変わった」


 マルクが言った。


「マナバッテリーを持って、三人で来た。三十年前のゴルドさんは一人だった。——今は、違う」


 ゴルドがマルクを見た。そしてルーナを見た。


「……ああ。違う」


 マルクは馬車の幌を大きく開けた。秋の風が吹き込み、三人の髪を揺らした。


 夕陽の中に——王都の城壁が、近づいてくる。


 あの壁の向こうに何が待っているのか。グランツ公爵の冷笑か。取締役会議の権力か。それとも——三十年越しの、借りを返す機会か。


 マルクは胸ポケットに手を当てた。リーナからの手紙が入っている。その隣に——ペーターと交わした指切りの感触が、まだ残っている。


 帰る場所がある。守るものがある。


 そして——隣に、仲間がいる。


 マルクの目が——前を見据えた。夕陽に染まった王都の城壁を。


 ビンボーレ村の貧農の三男。マナを一滴も持たない少年。前世の記憶と——今世の仲間だけを武器に。


 マナバッテリー五十個と、新商品と、鍛冶屋の老人と、村長の娘と。


 小さな約束を胸に。


 商人立志編の——最終章が、始まる。


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