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商戦 ― マナバッテリーの洗礼

ギルド登録を果たした翌日、マルク・ルーナ・ゴルドの三人はリヴァータウンの噴水広場でマナバッテリーの販売を開始するが、無名の田舎商人に客は寄り付かず、初日の売上はゼロ。マルクは前世のマーケティング知識を活かし、翌日から実演販売とフリーミアム戦略(五個の無料配布)を実行。ルーナの天性の営業力と口コミ効果で売上が爆発し、五日間で四十個を完売する。しかし快進撃に危機感を覚えたマジカル・アセット商会が「マナ破産者が作った呪いの品」という悪意ある噂を流し、売上が完全に停止。返品も相次ぐ中、マルクは前世のPR危機管理経験を活かし、ギルドの公開品質検査を自ら申請する逆転の戦略を実行。噴水広場での公開検査にはゴルドの元弟子ヴィクトルが偶然居合わせ、ゴルドの腕前を証言(ゴルドの過去の伏線進行)。検査の結果、マナバッテリーは三項目すべてで合格し「マイスター工房レベル」の評価を獲得。噂を流したマジカル・アセット商会の信用が逆に失墜し、検査後は以前以上の売れ行きに。月間六十七個を販売し、ノルマ五十個を大幅にオーバー達成。ルーナのマナ感知能力の伏線が進行(マジカル・アセット商会から「暗いもの」を感じ取る)。祝杯を上げた夜、フェルディナントがマナバッテリーの噂が王都にまで届き始めていること、取締役会議の存在、そしてガルデリウス領主の使いらしき人物がリヴァータウンに来ていることを警告。マナバッテリーという破壊的イノベーションが既存の権力構造を脅かし始め、新たな脅威の影が迫る。

 契約書にサインした翌朝——リヴァータウンの市場は、朝霧の中で目を覚ました。


 大通りの東端、噴水広場に面した一角。三人分の場所代として五コッパを支払い、俺たちは小さな木台を据えた。


 台の上には、十五個のマナバッテリーが整然と並んでいる。真鍮のケースが朝日を反射し、淡い金色に光っていた。残りの十五個は背嚢に入れてある。盗難防止だ。


 台の横には、フェルディナントが発行したギルド認定証が立てかけてある。羊皮紙に金の印章が押された、公式の販売許可証。


「さあ——商売開始だ」


 俺は腕を組んで、通りを眺めた。


 朝七時。大通りには、すでに人の流れができている。買い出しの主婦。開店準備の商人。荷を運ぶ馬車。日雇いの労働者。


 リヴァータウンの一日は早い。この町の人間は、日の出と共に動き出す。


「よーし、あたしに任せて!」


 ルーナが台の前に立ち、大きく息を吸った。


「いらっしゃいませ——! 新商品マナバッテリー、本日発売でーす!」


 声が、朝の空気を切り裂いた。


 ルーナの声量は——正直、驚くほどだった。前世のテヌラ・モーターズの株主総会で使った業務用マイクに匹敵する。


 通行人が——ちらりと、俺たちを見た。


 だが——それだけだった。


 視線は一瞬こちらに向けられ、すぐに逸れる。足は止まらない。誰も、寄ってこない。


 五分。十分。三十分。


 ルーナが声を張り上げ続ける。俺は台の横で立ち続ける。ゴルドは木台の後ろに腕を組んで座っている。


 客は——ゼロ。


「…………」


 一時間が経った。


 大通りの他の店は——賑わっている。


 隣の果物屋には、開店と同時に客が並んだ。向かいの布地屋は、朝一番で大口の取引をまとめたらしく、店主が笑顔で帳簿に書き込んでいる。


 三軒先のマジカル・アセット商会に至っては——店先に十人以上の客が群がっていた。若い店員が実演販売を行い、水晶球に炎を灯して見せるたびに歓声が上がる。


 一方、俺たちの台の前は——無人。


 通行人が避けるように通り過ぎていく。中には、露骨に顔をしかめる者すらいた。


 なぜか。


 答えは——わかっている。


「ねえ、マルク……」


 ルーナが、声を落として俺に寄ってきた。額にはうっすらと汗が浮いている。


「全然、誰も止まってくれない。何がいけないのかな……」


「原因はわかってる」


 俺は通りを見渡した。


「三つある。一つ目——俺たちの見た目だ」


 ルーナが自分の服を見下ろした。粗布の衣服。泥が染みついた裾。色褪せたエプロン。


 周囲の商人たちは——違う。清潔な制服。磨かれた革靴。店の看板は彩色され、棚には商品が美しく陳列されている。


 俺たちは——明らかに、この町の商人ではなかった。辺境の貧村から来た、場違いな田舎者だった。


「二つ目——ブランドの不在。マジカル・アセット商会は、何年もかけて顧客の信頼を積み上げている。看板を見ただけで『あそこの商品なら安心だ』と客は思う。俺たちには——それがない」


 ルーナが唇を噛んだ。


「三つ目は——」


 俺は台の上のマナバッテリーを見た。


「商品を見ただけでは、何かわからないことだ」


 真鍮のケース。蓋を閉じた状態では、ただの金属の箱にしか見えない。これが何に使えるのか、どんな価値があるのか——通行人には、想像すらできない。


 前世で言えば——初めてiPhoneが発表された時に似ている。あの時も、最初は「電話とは思えない」「ボタンがない」と嘲笑された。革新的な商品ほど、顧客は最初、その価値を理解できない。


「前世でもやったな——」


 俺は小さく呟いた。


 テヌラ・モーターズの最初の量産車「モデルS」を発売した時のことを思い出す。ディーラーを通さない直販モデル。試乗会を開いても、来場者は数えるほど。「電気自動車なんか売れるわけがない」と業界の全員が笑った。


 だが——結果はどうなった。


「……でも、今の俺には前世の名声もない。資本もない。あるのは——この三十個のマナバッテリーだけだ」


「マルク?」


 ルーナが不思議そうに俺を見た。


「何かブツブツ言ってる?」


「いや——考え事だ」


 ゴルドが、台の後ろから低い声を出した。


「小僧。予想通りだったろう」


「ああ。……正直、もう少し何とかなると思ってたけど」


「信用のない者の品は売れん。わしが言った通りだ」


 ゴルドの声に責める調子はなかった。ただ——事実を述べているだけだ。


「ギルドの認定証はあるぞ。あれが信用の担保じゃなかったのか」


「認定証は——入場券に過ぎない」


 俺は苦笑した。


「この市場で商売をする『権利』は得た。だが——客に『選ばれる理由』は、まだない」


 前世の言葉で言えば——ブランド・エクイティがゼロ。


 市場参入はできた。だが、顧客獲得の仕組みが、まったくできていない。


 ◇


 昼過ぎ——状況は変わらなかった。


 ルーナは声を枯らしながらも呼び込みを続けていたが、足を止めたのはわずか三人。そのうち二人は商品を一瞥しただけで立ち去り、残り一人は値段を聞いて首を振った。


「三・五マルクス? 聞いたことのない商品に、そんな金は出せないね」


 その言葉が——突き刺さった。


 昼食の時間。三人は台の裏手に座り、宿から持ち出した黒パンを齧った。


「……ゼロか」


 俺は呟いた。


 売上——ゼロ。


 前世で、売上ゼロを経験したことは——ある。テヌラ・モーターズの最初の月だ。一台も売れなかった。投資家たちが「やはり無理だ」と離れていき、銀行は融資を引き上げ、メディアは「電気自動車の夢は終わった」と書いた。


 あの時——俺は何をした?


 諦めなかった。


 だが——前世と今では、状況が違う。前世の俺には、数千億円の資産と、世界中のメディアに取り上げられる知名度があった。


 今の俺には——何もない。


「マルク」


 ルーナが、黒パンを千切りながら言った。


「あたし、さっきからずっと通りを見てたんだけど」


「何か気づいた?」


「うん。——あの大きな店、マジカル・アセット商会。あそこの客寄せ、見た?」


「実演販売だろう。水晶球に炎を灯して見せてる」


「そう。お客さん、実演を見てから買ってる。最初から買いに来てる人じゃなくて——通りがかりの人が、足を止めて、見て、それから買ってるの」


 俺は——ルーナの観察力に、内心舌を巻いた。


 その通りだ。マジカル・アセット商会の販売手法は——典型的な実演販売モデル。商品の価値を、言葉ではなく「体験」で伝えている。


「あんたの商品も——見せたら、わかってもらえると思うの。だって、あの光を見たら——誰だって驚くでしょ?」


 ルーナの緑色の瞳が、真っ直ぐに俺を見ていた。


「問題は——見てもらう『きっかけ』がないこと。台の上に並べてるだけじゃ、ただの金属の箱にしか見えない」


 俺は——黒パンを噛み締めながら、考えていた。


 前世の知識が、頭の中で回転する。


 実演販売。口コミ。バイラルマーケティング。フリーミアム。体験型マーケティング。


 この世界にSNSはない。テレビCMもない。ウェブ広告もない。


 だが——人の口がある。


 人が「すごい」と思ったものは——必ず、誰かに伝える。


 それは——どの世界でも、変わらない。


「……方法がある」


 俺は立ち上がった。


「明日——もう一度やる。ただし、やり方を変える」


 ルーナが目を輝かせた。


「何するの?」


「前世で——いや、昔聞いた話だが——新しい商品を売る一番の方法がある」


「何?」


「——タダで配ることだ」


 ルーナとゴルドが、同時に俺を見た。


「は?」


「タダ!?」


 ゴルドが眉をひそめた。


「正気か、小僧。三・五マルクスの商品を——タダで配るのか」


「全部じゃない。最初の五個だけだ。——信じろ。これは、投資だ」


 俺は——自分の言葉に、確信を込めた。


 前世のテヌラ・モーターズは、発売初期にインフルエンサーに無料で車を貸し出した。使ってもらい、語ってもらい、広めてもらった。


 この世界にインフルエンサーはいない。だが——市場には、「声の大きい客」がいる。


 その声を——借りる。


「明日の朝、市場が一番賑わう時間帯に——広場の中央で、公開実演をやる」


 ゴルドが腕を組んだ。


「場所代は?」


「噴水広場の中央は、ギルド認定商人なら申請すれば使える。追加で三コッパの使用料がかかるが——それは、払う価値がある」


「……小僧。お前の言う『投資』とやらが失敗したら——路銀が底をつくぞ」


「わかってます。だからこそ——明日が、勝負です」


 俺は三人の顔を見回した。


 ルーナの表情は——不安と期待が入り混じっている。


 ゴルドの表情は——いつも通り無愛想だが、目の奥に微かな興味の光がある。


「三・五マルクスの商品を五個、タダで配る。十七・五マルクスの投資だ。——でも、そこから生まれる口コミが、その何十倍もの売上を生む」


「本当に?」


「前世で——」


 俺は言いかけて、口を閉じた。


「……昔の経験から言って、間違いない」


 ルーナが、ふっと笑った。


「あんたが『間違いない』って言う時は——だいたい、うまくいくからね」


「だいたい、じゃなくて必ずだ」


「はいはい」


 ゴルドが、立ち上がった。


「まあいい。小僧のやり方に乗ってやる。——だが、失敗したら、わしは知らんぞ」


「失敗しません」


「その自信はどこから来る」


「前世から——」


「また前世か」


 ゴルドが溜息をついた。


 俺は苦笑した。——つい、口が滑る。


 だが——この場では、自信を見せるしかない。


 初日は——完敗だった。


 売上ゼロ。市場の洗礼を、正面から浴びた。


 だが——前世のムーロン・マスクは、テヌラ・モーターズの最初の月で売上ゼロを経験した後、翌月には百台の予約を取った。


 方法は——シンプルだった。


 商品を、見せること。


 体験させること。


 語らせること。


 明日——俺は、この世界でそれを再現する。


 銀の天秤亭への帰路、夕焼けに染まったリヴァータウンの大通りを歩きながら、俺は翌日の計画を頭の中で組み立てていた。


 隣を歩くルーナが、小さく呟いた。


「マルク。今日は——悔しかったね」


「ああ」


「でも——あたし、なんか楽しみになってきた。明日」


「楽しみ?」


「うん。だって——あんたが本気出すところ、久しぶりに見られそうだから」


 俺は——少し、笑った。


「本気も何も、最初から本気だよ」


「嘘。あんた、まだ全然余裕の顔してたもん。今日ゼロだったのに、全然慌ててなかった」


 見抜かれている。


「……前世で——いや、昔から。最初に負けるのは——想定内なんだ」


 ルーナが首を傾げた。


「変なの。負けるのが想定内って」


「大事なのは、最初の一勝じゃない。最後の一勝だ」


 その言葉を、夕暮れの風が攫っていった。


 販売二日目——朝。


 噴水広場の中央に、俺たちは陣取っていた。


 昨日とは場所が違う。大通りの端ではなく、広場の真ん中。リヴァータウンで最も人通りが多い場所だ。噴水の水音が絶え間なく響き、その周囲を行き交う人々の流れが途切れることはない。


 使用料三コッパ。村人たちからの路銀が、また少し減った。


 だが——今日は、昨日とは違うものを用意していた。


「ルーナ」


「うん」


「手はず通りに頼む」


「任せて」


 ルーナが広場の中央に立った。


 だが——昨日のように「いらっしゃいませ」とは叫ばない。


 代わりに——彼女は、五個のマナバッテリーを腕に抱えて、通行人の中に歩いていった。


「あの——すみません、ちょっとお時間いいですか?」


 最初に声をかけたのは、買い出し帰りの中年女性だった。両手に荷物を抱え、急ぎ足で通り過ぎようとしていた。


「忙しいんだけど——」


「一分だけ! あたし、ビンボーレ村から来たルーナって言います。今日は——これを、差し上げたくて」


 ルーナが、マナバッテリーを一つ差し出した。


「は? ……何これ」


「マナバッテリーっていう新しい道具なんです。これ、タダでもらってください」


「タダ?」


 女性が足を止めた。


 タダ——という言葉は、どの世界でも人の足を止める魔法の言葉だ。


「何か裏があるんじゃないの?」


「ないです! ただ、使ってみてほしいんです。——あたしが、今ここで使い方を見せますから」


 ルーナがマナバッテリーを手に取り、目を閉じた。三秒——マナを込める。


 そしてレバーを引いた。


 青白い光が——朝の陽光に負けない輝きで、噴水広場を照らした。


「——!」


 女性が、目を見開いた。


 同時に——周囲の数人が、振り返った。


「何あれ——」


「光ってる——魔道具?」


「あの子が何か持ってる——」


 人が集まり始めた。


 これだ。


 前世のスティーブ・ジョブズが、初代Macintoshを発表した時の手法と同じだ。プレゼンテーションの冒頭で、一番インパクトのある「デモ」を見せる。言葉より先に、体験を届ける。


 ルーナは——天性の営業マンだった。


「ね、すごいでしょ? これ、マナバッテリーって言うんです! 魔法が使えない人でも——こうやって、レバーを引くだけで光るんですよ!」


 女性がおそるおそるマナバッテリーに手を伸ばした。


「触っても大丈夫?」


「もちろん! はい、レバーを引いてみてください」


 女性がレバーを引いた。


 光が灯る。


「——あら! 本当に光った! あたしでも——」


「そうなんです! マナがなくても使えるのが、この子のすごいところで——」


 ルーナの周りに、人だかりができていた。五人、十人、十五人——次々と足を止める通行人たち。


 俺は少し離れた場所から、その光景を見ていた。


 口コミの起点——「最初の五人」を作ること。それが、今日の目標だ。


 前世のマーケティング理論で言えば、「イノベーター理論」。新商品の普及は、まず好奇心の強い「イノベーター層」が採用し、その体験が「アーリーアダプター層」に広がり、やがて一般層に浸透する。


 最初の五個を無料で配ることで——イノベーター層を強制的に作り出す。


 彼らの体験が、口コミとして市場に広がる。


 これが——フリーミアム戦略だ。


「マルク!」


 ルーナが手を振った。


「こっち来て! みんな、色々聞きたいって!」


 俺は人だかりの中に入った。


「この商品を設計した、マルクです」


「あんたが作ったの? こんな若い子が?」


「はい。——では、詳しくご説明します」


 俺はマナバッテリーを手に取り、群衆に向かって声を上げた。


「マナバッテリーは、三つの特徴を持っています」


 指を立てる。前世のプレゼンテーション技術が、体に染み付いている。


「一つ。魔法が使えない人でも、レバーを引くだけで使えます。充電はマナを持つ方にお願いしますが、使用自体は誰でもできます」


 群衆がざわめいた。


「二つ。充電すれば何度でも使えます。一度買えば——ずっと使えるんです。消耗品じゃありません」


「何度でも?」


「はい。着火石は一回使えば終わりですが、マナバッテリーは繰り返し使えます」


 さらに大きなざわめき。着火石を買い替える費用を考えれば——マナバッテリーの方が遥かに経済的だと、客たちは瞬時に計算し始めている。


「三つ。この改良版は、光だけでなく暖房機能も搭載しています。冬の夜——これ一つで、明かりと暖かさが手に入ります」


「いくらなの?」


「三・五マルクスです」


 群衆が——一瞬、静まった。


「マジカル・アセット商会の暖炉は八マルクスだよ。それの半分以下?」


「はい。しかも——何度でも使えます」


 それが——決定打だった。


「一つちょうだい!」


「あたしも!」


「二つ欲しいんだけど——」


 売り台に客が殺到した。


 ゴルドが台の後ろから商品を出し、俺が代金を受け取り、ルーナが充電して渡す。三人の連携が、歯車のように噛み合った。


 一個目。二個目。三個目——


「マルク、すごい! 売れてる!」


 ルーナが興奮した声を上げた。


「まだだ。まだ序の口だ」


 だが——内心、俺も興奮していた。


 前世の記憶が蘇る。テヌラ・モーターズのモデルSが、最初の試乗会で百台の予約を受けた時の感覚。あの時の手の震えと、今の手の震えが——重なった。


 ◇


 午前中だけで——八個売れた。


 売上二十八マルクス。


 昨日のゼロから——二十八マルクス。


 無料で配った五個を差し引いても、十個の在庫を消化した計算だ。


「信じられない……」


 ルーナが、売り台の裏で目を丸くしていた。


「昨日はゼロだったのに——今日は、もう八個……!」


「口コミの力だ」


 俺は市場を見渡した。


 最初にマナバッテリーを無料で受け取った五人の女性たち。彼女たちは——今頃、家に帰って近所に見せびらかしているだろう。「タダでもらった不思議な道具が、本当に光ったのよ!」と。


 そして、その話を聞いた近所の人が、広場に来る。実物を見て、買う。買った人が、また別の人に話す。


 口コミの連鎖——バイラルループ。


 SNSがなくても——人間の口さえあれば、情報は広がる。


 午後になると、客足はさらに増えた。


「あの——マナバッテリーっていうの、ここで売ってるの?」


「隣の人が買ったのを見たんだけど、本当にマナなしで光るの?」


「うちのおばあちゃんが欲しいって言ってるんだけど——」


 俺は一人一人に丁寧に説明し、実演し、充電して渡した。


 ルーナの明るい笑顔が——客の心をほぐしていた。


「はい、充電完了! おうちに帰ったら、暗くなった時にレバーを引いてみてくださいね!」


「ありがとう、お嬢ちゃん。あんた、いい笑顔してるねぇ」


「えへへ、ありがとうございます!」


 ルーナのコミュニケーション能力は——前世で俺が雇ったどの営業マネージャーよりも優秀だった。


 嘘がない。媚びがない。ただ純粋に——商品のことが好きで、お客さんに喜んでほしいという気持ちが、そのまま言葉と表情に出ている。


 それが——一番強い営業力だ。


「ゴルドさん」


 俺は台の後ろに座るゴルドに声をかけた。


「……何だ」


「嬉しくないですか?」


 ゴルドが、微かに目を見開いた。


「自分が作ったものが、こうやって人に喜ばれてる。——嬉しくないですか?」


 ゴルドは——長い沈黙の後、背を向けたまま答えた。


「……悪くない」


 それが——ゴルド流の「嬉しい」だった。


 ◇


 販売三日目。四日目。五日目——


 口コミの効果は、日を追うごとに加速した。


 三日目は十二個。四日目は十五個。五日目には——在庫が尽きた。


 五日間の合計——四十個。売上百四十マルクス。


 無料配布の五個を差し引けば、純売上は百二十二・五マルクス。ギルドへの三割上納を引いても、八十五・七五マルクス。


 ビンボーレ村の年間収入の二倍以上を——五日で稼いだ。


「在庫がない……」


 ルーナが、空になった背嚢を見つめた。


「全部売れちゃった。まだ欲しいって人、いっぱいいるのに……」


「だから——増産が必要なんだ」


 俺は木の板に数字を書き込んだ。


 【販売実績(五日間)】

 ・総販売数:40個(+無料配布5個)

 ・売上:140マルクス

 ・ギルド上納(30%):42マルクス

 ・純利益:98マルクス(原価差引後)

 ・月間販売ペース予測:240個/月


 月間二百四十個のペース。


 販売ノルマは月間五十個。


 軽々とクリアできる数字だ——生産さえ追いつけば。


「マルク、どうする? 村に帰って作るの?」


「ああ。リヴァータウンでの販売は軌道に乗った。あとは——供給の問題だ。村に戻って増産体制を整えて、定期的にリヴァータウンに運ぶルートを確立する」


「でも——あたしたちがいなくなったら、誰がここで売るの?」


 それが——次の課題だった。


 俺は噴水広場を見渡した。


 五日間で——この広場には、マナバッテリーのことを知る人が増えた。「噴水広場の田舎の子たちが、すごい魔道具を売ってる」という噂が、市場に広まっている。


「ギルドの流通網を使う。フェルディナントとの契約には、ギルド経由での販売も含まれている。ギルドの取扱商品として棚に並べてもらえれば——俺たちが常駐しなくても売れる」


「フェルディナントさんが、引き受けてくれるかな?」


「断る理由がない。——売れる商品を棚に並べないのは、商人として不合理だ」


 ゴルドが、低い声を出した。


「小僧。あの男のことを甘く見るな」


「甘くは見ていません。——ただ、今は利害が一致している。俺たちの商品が売れれば、フェルディナントも三割の上納金を受け取れる。当面は——味方に近い立場だ」


「当面は、か」


 ゴルドの声に、警戒の色があった。


「ああ。——当面は」


 俺はその言葉に、意図的に含みを持たせた。


 フェルディナントとの関係は——同盟ではなく、取引だ。利害が一致している間は協力的だが、利害が衝突すれば——敵になる。


 それは——前世のビジネスでも、同じだった。


「とにかく——まず、フェルディナントに報告しよう。五日で四十個の実績は、予想以上の成果だ。これなら——交渉のテーブルで、少しは有利に立てる」


 ルーナが、ぱんと手を叩いた。


「すごいね、マルク! 五日で四十個! このペースなら——月間のノルマなんて、余裕で達成できるじゃん!」


「生産が追いつけばな」


「追いつかせるんでしょ? あんたのことだから」


「……ああ。追いつかせる」


 俺は——広場を見渡した。


 五日前、この広場は俺たちにとって冷たい場所だった。誰も見向きもしなかった。


 今は——通りがかりの人が「あ、マナバッテリーの人だ」と声をかけてくる。買った客が「良かったよ」と報告に来る。


 小さな信頼の芽が——育ち始めていた。


 だが——その芽は、まだあまりにも脆い。


 一つの悪い噂で、簡単に踏み潰される程度の——小さな芽だ。


 俺は——まだ、その危険に気づいていなかった。


 異変に気づいたのは——販売六日目の朝だった。


 在庫を補充するため、マルクはゴルドとルーナを残してビンボーレ村に一旦帰村し、四日かけて新たに三十個のマナバッテリーを製造・搬入した。村では分業体制の準備が着々と進み、ミルンたちが光り石の選別と粗加工を受け持つ体制が動き出している。


 三十個の新品を背負ってリヴァータウンに戻り、噴水広場に売り台を出した——その朝。


 客が、来なかった。


 最初の一時間——ゼロ。


 初日と同じだ。だが——状況は初日とはまったく違う。


 五日間で四十個を売り、口コミは広がっていたはずだ。「マナバッテリーの人が戻ってきた」と知った常連客が、朝一番に来るはずだった。


 なのに——誰も来ない。


 いや——正確には、来ようとする客が、途中で引き返していた。


 俺はそれに気づいた。


 噴水広場の角に立った中年の女性。明らかに俺たちの台に向かって歩いてきていたのに——途中で立ち止まり、何かを考えるような表情を浮かべ、くるりと踵を返して去っていった。


 その後も——同じことが、何度か起きた。


「……マルク」


 ルーナが、台の陰から小声で俺を呼んだ。


「何かおかしい」


「ああ。俺も気づいてる」


「お客さんが——来ようとして、やめてる。何かに——怯えてるみたいに」


 ルーナの勘は——やはり鋭かった。


 俺は通りに出て、市場を歩いた。


 そして——聞こえた。


 果物屋の店先で、二人の主婦が声をひそめて話している。


「あの噴水広場のマナバッテリーって道具、知ってる?」


「知ってるよ。——でも、あれ、やめた方がいいって」


「え? 隣のミツさんが買って、すごく良いって言ってたけど——」


「あのね——あれ、出所がわからないのよ。聞いた話じゃ、作ったのはマナ破産の子供なんだって。マナがない人間が作った魔道具なんて——呪いがかかってるかもしれないって」


「呪い!?」


「そうよ。マジカル・アセット商会の人が言ってたの。ギルドの認定は受けてるけど、あの認定は見せかけで、実際は品質検査を通してないって——」


 俺は——足を止めた。


 血が、沸騰するような感覚が全身を駆け巡った。


 ——噂だ。


 意図的に流された、悪意のある噂。


 「出所不明の危険な魔道具」


 「マナ破産者が作った呪いの品」


 「品質検査を通していない」


 すべてが——嘘だ。ギルドの認定は正式なものだし、品質は確かだ。だが——噂は、真偽に関係なく広がる。


 前世でも——同じことがあった。


 テヌラ・モーターズの急成長期。石油業界がスポンサーのメディアが「電気自動車のバッテリーは爆発する」「自動運転は人を殺す」というネガティブキャンペーンを張った。事実に基づかない恐怖の喧伝——FUD(Fear, Uncertainty, Doubt)戦略。


 競合他社が、新興企業を潰すための常套手段だ。


 俺は——急いで売り台に戻った。


「ルーナ。ゴルドさん。——問題が起きた」


 二人に、聞いた内容を伝えた。


 ゴルドの顔が、硬くなった。


「マジカル・アセット商会か——」


「間違いないですか?」


「間違いない。あの商会は——リヴァータウンの魔道具市場を独占している。わしらのマナバッテリーが売れ始めれば——客を奪われるのは、あの商会だ」


 俺は歯を噛みしめた。


 マジカル・アセット商会。大通りに面した三階建ての魔道具専門店。永久燃焼のミニ暖炉を八マルクスで売っている、あの店だ。


 俺たちのマナバッテリーは三・五マルクスで、暖房と照明の両方をカバーする。しかも繰り返し使える。


 マジカル・アセット商会の客が——俺たちに流れるのは、時間の問題だった。


 だから——潰しにかかった。


「マルク」


 ルーナが、真剣な目で俺を見た。


「あたし、さっきからずっと——変な感じがしてたの」


「変な感じ?」


「うん。……うまく言えないんだけど——空気が、重い。市場全体の空気が、なんか——澱んでるっていうか」


 ルーナが目を閉じた。


「あの商会の前を通った時——特にひどかった。何か——暗いものが、あの建物の中から漏れ出してるみたいな——」


「暗いもの?」


「うん。——見えるわけじゃないの。感じるの。皮膚がざわざわするような——嫌な感覚」


 俺は——ルーナの言葉を、真剣に受け止めた。


 前世の俺なら「気のせいだ」と一蹴しただろう。だが——この世界には、マナという目に見えないエネルギーが存在する。ルーナの「感覚」は、マナに関連する何かを感知している可能性がある。


 ゴルドが、腕を組んだまま低い声を出した。


「嬢ちゃん。それは——マナ感知だ」


「マナ感知?」


「稀にだが——マナの流れを肌で感じ取れる者がいる。魔法を使えるかどうかとは別の、もっと原始的な感覚だ。……お前には、その素質があるのかもしれん」


 ルーナが目を丸くした。


「あたしに? そんな——」


「今は詮索している場合じゃない」


 俺は話を切った。


「問題は——この噂を、どう止めるかだ」


 ◇


 噂の影響は——想像以上に深刻だった。


 六日目の午後——ついに、返品が来た。


「すみません。——これ、返したいんだけど」


 売り台の前に立ったのは、三十代の男性だった。手には、三日前に販売したマナバッテリーが握られている。


「返品ですか? 不具合がありましたか?」


「不具合っていうか——近所の人に言われたんだよ。マナ破産の子供が作った魔道具を使ってると、マナが吸い取られるって」


「それは——事実ではありません。マナバッテリーはマナを放出するだけで、吸収する機能は——」


「わかってるよ! でも——嫁さんが怖がってるんだ。『あんなもの家に置くな』って。俺は気に入ってたんだけど——」


 男性の顔には、申し訳なさと困惑が入り混じっていた。


 俺は——金を返した。


 三・五マルクス。手のひらの銀貨が、ずしりと重かった。


 その後も——返品が続いた。


 七日目に二個。八日目に三個。


 同時に、新規の売上は——完全に止まった。


 噂が——市場を覆い尽くしていた。


「マナバッテリーって、危ないらしいよ」


「マナ破産の子供が作ったんだって。怖いわね」


「ギルドの認定って言ってるけど、本当かしら?」


 俺は——銀の天秤亭の部屋で、テーブルに突っ伏した。


「……くそ」


 低い声で、吐き捨てた。


 前世のFUD戦略を知っているからこそ——この手口の厄介さがわかる。


 噂を否定しようとすればするほど、逆効果になる。「火のないところに煙は立たない」——人は、否定されるほど疑いを深める。


 テヌラ・モーターズの時は——メディアの力を使って反論した。記者会見を開き、データを公開し、実車のテストを中継した。


 だが——この世界にメディアはない。テレビもない。新聞もない。


 噂を覆すための——公的な手段が、ない。


「マルク」


 ルーナが、テーブルの向かいに座った。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない。——噂が広がりすぎた。このままだと、マナバッテリーは『危険な商品』として市場から締め出される」


「でも——嘘でしょ? あたしたちの商品は安全だし、ちゃんとギルドの認定も受けてる」


「事実かどうかは関係ない。人は——感情で判断する」


 俺は椅子に座り直した。


「特に『恐怖』は——最強の感情だ。人は、得をする可能性よりも、損をする恐怖の方に強く反応する」


 行動経済学の基本——プロスペクト理論。損失回避バイアス。


 マナバッテリーの価格優位性や利便性という「得」よりも、「マナを吸い取られるかもしれない」という「損失の恐怖」の方が、はるかに強く顧客の判断を支配する。


「どうするの?」


 ルーナの声には——不安があった。だが、諦めの色はなかった。


「……考えている」


 俺は目を閉じた。


 前世の経験を、総動員する。


 テヌラ・モーターズのFUD対策。スペースYのロケット爆発後の信頼回復。Y(旧ツブヤッター)買収後の広告主離れへの対応——


 いや、Yの対応は失敗した。あの時は——感情を無視して、論理だけで押し切ろうとした。結果、広告主は戻ってこなかった。


 この世界でも——同じ轍は踏めない。


「論理じゃ、噂は消せない」


 俺は呟いた。


「じゃあ——何で消すの?」


「もっと強い事実——それも、誰の目にも明らかな、圧倒的な事実だ」


 ゴルドが、窓辺に立ったまま振り返った。


「何を考えている、小僧」


「ゴルドさん。——ギルドの品質検査制度について、詳しく知っていますか?」


「品質検査?」


「フェルディナントとの交渉の時に、俺が逆提案した——ギルド認定の魔道具師による第三者品質検査。あれは——公開で行うことはできますか?」


 ゴルドの目が——光った。


「公開品質検査——か」


「はい。閉じた部屋でこっそりやるんじゃなく——市場の、みんなが見ている場所で。マナバッテリーの安全性と性能を、ギルド公認の検査官に証明してもらう」


 噂を否定するのではなく——噂を上回る事実を、目の前で見せつける。


 前世のテヌラ・モーターズがやったのと同じだ。「バッテリーは爆発する」という噂に対して、工場見学ツアーを開放し、実際の安全テストを生中継した。


 百の否定より、一つの証明。


「それは——ギルドの規約にある」


 ゴルドが答えた。


「商品の品質に疑義が生じた場合、販売者はギルドに公開品質検査を申請できる。検査はギルド認定の魔道具師が行い、結果は公的な記録として残される」


「それだ」


 俺は立ち上がった。


「明日——フェルディナントに、公開品質検査を申請する」


 ルーナが、息を呑んだ。


「あの人に——また会うの?」


「会うしかない。——噂を流したのがマジカル・アセット商会だとしても、それを証明するのは難しい。だが——品質検査に合格すれば、噂の根拠が消える」


「でも——フェルディナントさんが、協力してくれるかな?」


「あの男は商人だ。——売れる商品の噂が潰されるのは、あの男にとっても損失だ。三割の上納金が消えるんだからな」


 ゴルドが、低い声で付け加えた。


「……ただし、あの男がマジカル・アセット商会と結託している可能性もある」


 俺は——その可能性を、既に考えていた。


「フェルディナントがマジカル・アセット商会の味方なら——公開検査を拒否するだろう。逆に、受け入れるなら——少なくとも、今の段階では俺たちの味方だ」


「賭けだな」


「ああ。——だが、他に手はない」


 俺は窓の外を見た。リヴァータウンの夜景。魔道具の街灯が、大通りを橙色に照らしている。


 あの光の中に——マナバッテリーの光が加わる日は、まだ遠い。


 だが——諦める気は、毛頭ない。


「前世でもやったな——」


 俺は小さく呟いた。


 ネガティブキャンペーンに屈したら——イノベーションは死ぬ。


 テヌラ・モーターズも、スペースYも、何度も「もう終わりだ」と言われた。何度も、嘘の噂で信用を傷つけられた。


 だが——生き残った。


 今回も——生き残る。


「ルーナ。ゴルドさん」


 俺は二人の顔を見た。


「明日が——本当の勝負だ。噴水広場での販売じゃない。フェルディナントの応接室での——信頼の戦いだ」


 ルーナが、拳を握りしめた。


「やるよ。あたしたちの商品は——本物なんだから」


 ゴルドが、短く頷いた。


「……行くぞ、小僧。明日は早い」


 俺は頷いた。


 テーブルの上には、売れ残ったマナバッテリーが並んでいる。


 真鍮のケースが、窓から差し込む月明かりを反射して——微かに、光っていた。


 この光を——消させはしない。


 翌朝——俺たちは再び、フリーマーケッツ・リヴァータウン支部の階段を上っていた。


 白い石造りの建物。金文字の銘板。青い制服の衛兵。


 前回ここに来た時は——ギルド登録を勝ち取るための戦いだった。


 今回は——信頼を取り戻すための戦いだ。


 フェルディナントの応接室。赤い絨毯。黒檀のテーブル。そして——革張りの椅子に座る、恰幅の良い男。


「——来たか」


 フェルディナントが、テーブルの上で指を組んだ。


 鋭い茶色の目が、三人を順に見据える。


「五日で四十個の販売実績。なかなかの出足だった。——だが、ここ数日は売上がゼロだと聞いている」


「ご存知でしたか」


「この町で起きることは——すべてわたしの耳に入る」


 フェルディナントが、椅子の背にもたれた。


「マナバッテリーに関する噂についても——把握している」


「では——噂の出所も?」


 フェルディナントが、微かに口角を上げた。


「さて。——噂というものは、風のようなものだ。どこから吹いてきたかを特定するのは、難しい」


 狡猾な答えだ。知っているが、言わない。


 だが——俺には、フェルディナントの態度から読み取れるものがあった。


 この男は——マジカル・アセット商会の妨害を、知っている。だが、止めていない。止める気もない。


 なぜか。


 答えは簡単だ。フェルディナントにとっては——マナバッテリーが噂で潰されても、別に困らない。マジカル・アセット商会はギルドの有力な取引先だ。マナバッテリーが消えても、ギルドの収益には大した影響はない。


 むしろ——マナバッテリーが逆境を乗り越えるかどうかを「観察」している。


 泳がせて、育てて、刈り取る。


 ルーナが警告した通りだ。


「フェルディナントさん」


 俺は姿勢を正した。


「公開品質検査を申請します」


 フェルディナントの眉が——微かに動いた。


「公開品質検査?」


「はい。ギルド規約に基づく、商品の品質に疑義が生じた場合の正式な検査申請です。ギルド認定の魔道具師による公開検査を、噴水広場で実施することを要請します」


 フェルディナントが——長い沈黙の後、笑った。


「面白い」


 いつもの口癖だ。だが——今回の「面白い」には、純粋な興味の響きがあった。


「普通の商人なら——噂が広がった時点で、逃げるか、値下げするか、ギルドに泣きつくか。いずれにしても守りに入る。——だがお前は、攻めに出るのか」


「守っても噂は消えません。——攻めて、事実で上書きする方が確実です」


「なるほど。——だが、リスクは理解しているか?」


 フェルディナントが身を乗り出した。


「公開品質検査に不合格だった場合——ギルドの認定は即座に取り消される。お前たちの商品は、この町で二度と売れなくなる」


「合格します」


「根拠は?」


「商品の品質に自信がある。——ゴルドさんの技術は、マイスター級です。検査で落ちる品質のものを、あの人は作らない」


 ゴルドが、椅子に座ったまま腕を組んだ。その沈黙が——何よりの肯定だった。


 フェルディナントが、ゴルドを見た。


「……ゴルド。お前は——あの頃と変わらんな。口数が少なく、腕だけが雄弁だ」


「お前も変わらん。口が多く、腹の底が見えん」


 一瞬——空気が張り詰めた。だが、フェルディナントは声を上げて笑った。


「ハハハッ! ——いいだろう。公開品質検査を承認する」


 フェルディナントが引き出しから書類を取り出し、羽根ペンを走らせた。


「日時は三日後。場所は噴水広場。検査官は、ギルド認定の上級魔道具鑑定士を手配する。——公開検査だから、見物人の数は制限しない。市場の連中が全員見てもいい」


「ありがとうございます」


「礼は——合格してから言え」


 フェルディナントが書類を俺に渡した。


「もう一つ。——マジカル・アセット商会についてだが」


 俺は——耳を澄ませた。


「あの商会の主人、レオンハルトという男がいる。彼もまた——わたしのギルドの会員だ。噂の出所がどこであれ、ギルドは中立の立場を取る。わたしは——どちらの味方でもない」


「承知しています」


「だが——」


 フェルディナントが、俺をじっと見つめた。


「公開検査の場で、不正がなかったと証明されれば——ギルドとして、マナバッテリーの品質を公的に保証する。それは——レオンハルトの商会にとっても、相応の打撃になるだろう」


 フェルディナントの本心が——ほんの一瞬、垣間見えた。


 この男は——マジカル・アセット商会の独占を、快く思っていない。


 独占は、ギルドの収入源を一つの商会に依存させることを意味する。それは——ギルド長としてのリスクだ。


 マナバッテリーという新しい商品が市場に定着すれば——ギルドの収入源が多角化する。フェルディナントにとっても、メリットがある。


 だから——公開検査を承認した。


 利害が一致している——今のところは。


 ◇


 三日後——噴水広場。


 朝の九時。広場は——人で溢れていた。


 公開品質検査の告知が市場に貼り出された結果、噂を聞いていた市民が大挙して押し寄せたのだ。


 噴水の周囲に、百人以上の見物人が集まっている。主婦。商人。職人。子供。老人。リヴァータウンの市場を構成する、あらゆる層の人々。


 その中には——マジカル・アセット商会の店員らしき人物の姿もあった。腕を組んで、冷ややかな目でこちらを見ている。


 広場の中央には、検査用のテーブルが設置されていた。白い布が敷かれ、その上にマナバッテリーが三個並んでいる。


 テーブルの向こう側には——ギルド認定の上級魔道具鑑定士が座っていた。五十代の痩せた男性。銀縁の眼鏡をかけ、白いローブを纏っている。胸には、ギルドの鑑定士資格を示す銀のバッジが光っていた。


「ギルド認定上級魔道具鑑定士、ハンス・メルヒオールです」


 鑑定士が名乗った。淡々とした、感情を排した声。


「これより、商品名『マナバッテリー』の公開品質検査を行います。検査項目は三つ。安全性、機能性、耐久性。すべての項目で合格基準を満たした場合、ギルドの公的品質保証が付与されます」


 群衆がざわめいた。


「本当にやるのか——」


「あの田舎の子たち、よっぽど自信があるんだね——」


「不合格だったらどうなるの——」


 俺は——テーブルの横に立ち、群衆を見渡した。


 緊張している。前世のどんなプレゼンテーションよりも——緊張している。


 前世では、失敗しても金と名声で巻き返せた。だが今は——失敗したら、すべてが終わる。


 ルーナが、俺の袖をそっと引いた。


「マルク。——大丈夫」


 小さな声。だが——その声に、俺の心が少し落ち着いた。


「あたしたちの商品は——本物だから。大丈夫」


「……ああ」


 鑑定士が、最初のマナバッテリーを手に取った。


「まず、安全性検査。——外装の確認から」


 鑑定士の細い指が、ケースを隅々まで検分していく。蓋の噛み合わせ。ヒンジの強度。光り石の固定状態。バルブ機構の可動域。


「外装——問題なし。加工精度は——」


 鑑定士が、眼鏡の奥の目を見開いた。


「これは——驚いた。ケースの内壁と光り石の隙間が〇・三ミリ以下。バルブの可動域も精密に調整されている。——この加工精度は、王都のマイスター工房に匹敵する」


 群衆がどよめいた。


「マイスター工房に——!?」


「あの小さな箱が?」


「嘘でしょ——」


 鑑定士が、ゴルドを見た。


「製造者は——あなたですか?」


「ケースの加工はな」


 ゴルドが短く答えた。


 その時——群衆の中から、声が上がった。


「待ってくれ。——その声は——」


 人垣をかき分けて、一人の男が前に出てきた。


 四十代前半。褐色の肌に、短く刈り込んだ黒髪。鍛冶職人らしい逞しい体格。右手の甲に、古い火傷の痕がある。


 その男が——ゴルドを見た瞬間、凍りついた。


「ゴルド——師匠……?」


 ゴルドが——目を見開いた。


「……ヴィクトル?」


 群衆がざわめいた。


 ヴィクトルと呼ばれた男が、震える声で言った。


「ゴルド師匠……本当に——生きていたのか。十年以上——王都中が探していた……」


 ゴルドの顔に——複雑な感情が走った。動揺。懐かしさ。そして——痛み。


「お前は——ダリウスの……」


「はい。ダリウスと同期の——ヴィクトルです。師匠の工房で、三年間修行させていただいた」


 ダリウス。——ゴルドが話していた、過労死した弟子の名前だ。


 ヴィクトルの目に、涙が浮かんでいた。


「師匠。——ダリウスのことは、師匠のせいじゃありません。俺たちは——みんな、わかっていました。師匠が誰よりもダリウスを大切にしていたことを」


 ゴルドが——言葉を失った。


 白髪の老人が、唇を震わせている。鉄のように硬い表情が——崩れかけていた。


「……ヴィクトル。なぜ——ここに?」


「リヴァータウンで鍛冶屋をやっています。王都を出た後、ここに流れ着いて——。……師匠の技を受け継いで、細々とやっています」


 ヴィクトルが、テーブルの上のマナバッテリーに目を向けた。


「このケースの加工……見ればわかります。この精度は——師匠の仕事だ。他の誰にも真似できない」


 鑑定士が、興味深そうに二人のやり取りを見ていた。


「失礼ですが——あなたは、この製品の製造者を知っているのですか?」


「知っています」


 ヴィクトルが、はっきりと答えた。


「このケースを作ったのは——元王都魔道具師ギルドのマイスター級鍛造師、ゴルド・マイスターです。王都で最も腕の立つ職人の一人でした。——この加工精度は、間違いなく師匠の仕事です」


 群衆が——大きくどよめいた。


「マイスター級——」


「王都の職人が——」


「あの老人が——そんなすごい人だったの?」


 ゴルドは——何も言わなかった。ただ、背筋を伸ばして立っていた。


 その姿に——職人としての誇りが、静かに宿っていた。


 鑑定士が咳払いをして、検査に戻った。


「では——機能性検査に移ります」


 マナバッテリーに、ルーナがマナを充電した。鑑定士がレバーを引く。


 青白い光が——噴水広場を照らした。


 朝の陽光の中でも——はっきりと認識できる、安定した輝き。


 群衆が息を呑んだ。


「発光の安定性——良好。光量は——通常の照明用魔道具の一・五倍以上。暖房機能も確認。——機能性、合格」


 次に、耐久性検査。鑑定士がマナバッテリーを台の上から落とした。高さ一メートル。


 真鍮のケースが石畳にぶつかり、カンッと硬い音を立てた。


 拾い上げて、レバーを引く。


 ——光った。


「衝撃耐性——問題なし。再充電後の動作も正常。耐久性——合格」


 鑑定士が、三個すべてのマナバッテリーを検査し終えた。


 そして——立ち上がった。


「検査結果を発表します」


 広場が——静まり返った。


 百人以上の視線が、鑑定士に集中している。


「商品名『マナバッテリー』。安全性——合格。機能性——合格。耐久性——合格。三項目すべてにおいて、ギルドの品質基準を満たしていることを確認しました」


 鑑定士が、一拍置いた。


「また、加工精度について特記事項があります。本商品のケース加工精度は、ギルドの最上級基準を超えており——王都のマイスター工房に匹敵するものと評価します」


 一瞬の静寂の後——


 群衆が、わっと湧いた。


「合格だって!」


「安全だったんだ!」


「マイスター工房レベル——!?」


「やっぱり噂は嘘だったんだ——」


 ルーナが——飛び上がって、俺に抱きついた。


「マルク! 合格! 合格だよ!」


「ああ——」


 俺は——ルーナの背中を、軽く叩いた。


 胸の奥で——何かが、熱く燃えていた。


 前世のテヌラ・モーターズが、アメリカ道路交通安全局の安全テストで最高評価を獲得した時の感覚と——同じだった。


 事実が——噂を打ち破った。


 ゴルドが——ヴィクトルの前に立っていた。


 二人は、しばらく無言で見つめ合っていた。


「師匠。——その子たちと、一緒にいるんですか?」


「ああ。——面白い小僧でな」


「師匠が面白いと言うなら——よほどの才能なんでしょうね」


「……かもしれん」


 ゴルドが——ほんの一瞬だけ、微笑んだ。


 その微笑みを——俺は、初めて見た。


 ◇


 公開検査の結果は——噂以上の速度で、市場に広がった。


 「マナバッテリーは安全だった」


 「ギルドの公式検査で、最高評価を受けた」


 「作ったのは、王都のマイスター級の職人だった」


 噂を流した側——マジカル・アセット商会の信用が、逆に傷ついた。「あの商会は、競合商品に嘘の噂を流すような所なのか」という疑念が、市場の人々の間に広まり始めた。


 午後——噴水広場に、客が殺到した。


「マナバッテリー、まだある?」


「さっき検査見てたんだけど——一つ欲しいんだけど」


「うちの分と、お隣の分と、二つ!」


 ルーナが嬉しい悲鳴を上げた。


「マルク——! 売れてる——! すごい勢いで——!」


 俺は代金を受け取りながら、心の中で計算した。


 検査後の三時間で——十二個。


 すでに返品分を取り戻し、さらに上積みしている。


 噂による信頼の毀損は——公的な検査結果という「強い事実」によって、完全に覆された。


 いや——覆された以上の効果があった。


 検査前は、「聞いたことのない新商品」だった。


 検査後は、「ギルドが公的に品質を保証した、マイスター級の商品」になった。


 前世のマーケティング用語で言えば——「信頼のピボット」。危機を逆手に取って、ブランドの信頼性を一段階引き上げる手法だ。


 テヌラ・モーターズが安全性テストで最高評価を取った時も、同じことが起きた。「電気自動車は危ない」という噂が、「電気自動車は最も安全な車」という評価に変わった。


 恐怖は——事実で、超えられる。


 夕暮れ——売り台を片付けながら、俺はルーナとゴルドに言った。


「今日の売上——十八個。五十三マルクス」


「一日で——五十三マルクス!?」


 ルーナが目を丸くした。


「検査前の最高記録が十五個だったのに——」


「ああ。検査のおかげで、むしろ以前より売れるようになった」


「ピンチがチャンスになったってこと?」


「まさにそうだ」


 ゴルドが、背嚢を肩にかけながら言った。


「……ヴィクトルのことは——想定外だったぞ、小僧」


「ああ。——あれは、俺の計算じゃない。偶然だ」


「偶然、か」


 ゴルドの声には——珍しく、温かみがあった。


「あの子が生きていて——よかった。ダリウスが死んだ後、残った弟子たちがどうなったか……わしは、ずっと気にしていた」


「ヴィクトルさんは——ゴルドさんを恨んでませんでした」


「……ああ」


 ゴルドが空を見上げた。夕焼けが、リヴァータウンの街並みを橙色に染めている。


「わしは——逃げた。弟子を失った責任から、技術を捨てて、辺境の村に逃げた。——だが」


 ゴルドが、俺とルーナを見た。


「お前たちに出会って——もう一度、作ることの意味を思い出した。今日の検査で——わしの技術が、正しく評価された。ヴィクトルが、わしを覚えていてくれた」


 ゴルドが、目を伏せた。


「……悪くない一日だった」


 それは——ゴルドが語った、最も長い感謝の言葉だった。


 公開品質検査から二週間が経った。


 その間——マナバッテリーの売れ行きは、止まることがなかった。


 ビンボーレ村との往復を三度。一回の運搬で三十個。村では分業体制が本格的に稼働し始め、ミルンたちの光り石加工チームが安定した品質の材料を供給していた。ゴルドがケースの精密加工に専念し、村の女たちがバルブの組み立てを担当する——マルクが設計した分業ラインが、ようやく形になった。


 そして——月末。


 俺は銀の天秤亭の部屋で、木の板に最終的な数字を書き込んだ。


 【月間販売実績】

 ・総販売数:六十七個

 ・総売上:二百三十四・五マルクス

 ・ギルド上納(30%):七十・三五マルクス

 ・返品・無料配布:八個

 ・原価合計:約六十七マルクス

 ・純利益:約九十七マルクス


 月間六十七個。


 販売ノルマは——五十個。


 十七個のオーバー達成。


「……やった」


 俺は、ペンを置いた。


 手が——震えていた。


 前世なら、一億ドルの契約を決めても手は震えなかった。だが——九十七マルクスの利益で、手が震えている。


 たった九十七マルクス。前世なら、ランチ代にもならない金額だ。


 だが——この九十七マルクスの裏には、百二十人の村人の汗と希望がある。ゴルドの技術がある。ルーナのマナと笑顔がある。


 前世の利益とは——重みが、違う。


「マルクー!」


 ドアが勢いよく開き、ルーナが飛び込んできた。


「フェルディナントさんから、正式な通知が来たよ! ギルド支部の受付で渡された!」


 ルーナが差し出した羊皮紙を、俺は受け取った。


 フリーマーケッツの紋章が押された、公式文書。


 ——試用期間第一月の販売ノルマ達成を確認。契約は継続される。


 短い文面だった。だが——その一文に込められた意味は重い。


 ギルドが、正式にマナバッテリーを継続取扱商品として認めた。


「やったね! ノルマ達成!」


 ルーナが両手を上げた。


「これで——来月も売れるんだよね?」


「ああ。来月も、再来月も。——三ヶ月の試用期間が終われば、本契約に移行する」


「本契約って——つまり?」


「ギルドの正式な取扱商品になる。試用期間の不安定さがなくなり——もっと大きなスケールで展開できるようになる」


 ルーナが、ぱっと顔を輝かせた。


「すごい……! 村のみんなに伝えなきゃ! お母さんにも、お父さんにも——」


「ああ。——だが、まだ喜ぶのは早い」


「え? なんで?」


「これはまだ——第一歩だ」


 俺は窓の外を見た。


 リヴァータウンの夕暮れ。大通りに灯る魔道具の街灯。行き交う人々。


 この町での販売は軌道に乗った。だが——ビンボーレ村の未来を本当に変えるには、もっと大きなスケールが必要だ。


「来月の目標は——百個」


「百!? 今月の倍じゃん!」


「分業体制が安定すれば、可能だ。ゴルドさんには最精密な加工だけに専念してもらい、標準的な部品は村人たちが製造する。さらに——ヴィクトルさんの協力が得られれば」


 公開検査の日以来、ゴルドとヴィクトルは再び師弟としての交流を取り戻していた。ヴィクトルはリヴァータウンの鍛冶屋として独自の工房を持っており、ケースの一部加工を委託できる可能性がある。


「リヴァータウンに製造拠点を作れれば——輸送コストも時間も大幅に削減できる」


 ルーナが、感心したように首を振った。


「あんた、もう次のこと考えてるんだ」


「当然だ。——ビジネスは、止まったら終わりだ」


 ◇


 その夜——銀の天秤亭の食堂で、三人は祝杯を上げた。


 ゴルドが奮発して、エール酒を三杯注文した。村人たちから預かった路銀はとっくに底をつき、すべて自分たちの稼ぎで賄っている。


「乾杯」


 ゴルドが、ジョッキを掲げた。


「ノルマ達成だ」


「乾杯!」


 ルーナが満面の笑みでジョッキを合わせた。彼女のジョッキには、酒ではなく蜂蜜水が入っている。


「乾杯——」


 俺も、ジョッキを合わせた。


 カン、と小気味いい音が食堂に響いた。


 エールの苦みが、喉を通る。前世では最高級のシャンパンを飲んでいた俺が——安い酒場の安いエールに、心から「うまい」と思った。


「ゴルドさん」


 俺はジョッキを置いた。


「ありがとうございます。ゴルドさんの技術がなければ——あの品質検査は通りませんでした」


「わしの技術は——道具に過ぎん。使う方向を決めたのは、お前だ」


「でも——ヴィクトルさんとの再会も。あれは——ゴルドさんが王都で築いた信頼の結果です」


 ゴルドがエールを一口飲み、短く言った。


「……あの時代も、悪いことばかりではなかったということだ」


「ルーナ」


「ん?」


「お前がいなかったら——最初の五日間の売上はなかった。お前の笑顔が、客の心を開いた。ありがとう」


 ルーナが、照れくさそうに鼻をこすった。


「やだ。改まって言わないでよ。——あたしは、自分がやりたいことをやっただけだもん」


「それが——一番強いんだ」


 俺は——三人が囲む小さなテーブルを見回した。


 前世では——こんな食事をしたことがなかった。


 仕事の仲間と食事をすることはあった。だが、それは常に「ビジネスミーティング」だった。契約の話。戦略の話。数字の話。


 今——この小さなテーブルには、数字だけじゃないものがある。


 信頼。友情。共に戦い抜いた者だけが共有できる、温かい絆。


「……前世でも、こういう時間があったら——」


 俺は小さく呟いた。


「前世?」


 ルーナが首を傾げた。


「何でもない」


 もし前世で——こういう仲間がいたら。金や名声ではなく、純粋に共に戦える仲間がいたら。


 あのロケットに、一人で乗ることはなかったかもしれない。


「マルク」


 ゴルドが、珍しく俺の名前で呼んだ。


「ん?」


「今日は——よくやった。だが——気を抜くな」


 ゴルドの灰色の瞳が、鋭く光った。


「マジカル・アセット商会は、今回の件で引き下がるような相手じゃない。それに——」


「それに?」


「フェルディナントだ。あの男は——わしらの売上が伸びれば伸びるほど、次の手を打ってくる。今は三割の上納で満足しているが——いずれ、もっと大きなものを要求してくるだろう」


「わかっています」


 俺はエールの残りを飲み干した。


「だからこそ——三ヶ月の試用期間が終わるまでに、ギルドに依存しない販路を確立する。ガルデンへの直接卸売を維持しつつ、さらに別の町への展開も視野に入れる」


「焦るな。一歩ずつだ」


「ええ。——一歩ずつ。でも、速い一歩で」


 ゴルドが鼻を鳴らした。


「お前のペースについていくのは——骨が折れるぞ、小僧」


 ◇


 食堂を出て、宿の廊下を歩いていた時だった。


 フェルディナントが——いた。


 銀の天秤亭のロビーに、深紅のローブを纏った恰幅の良い男が立っていた。


「フェルディナントさん——?」


 俺は驚いた。ギルド長が、こんな時間にわざわざ宿を訪ねてくるのは異例だ。


「ああ。——少し、話がある」


 フェルディナントが、俺をロビーの隅のテーブルに促した。ルーナとゴルドは先に部屋に戻った。


 テーブルを挟んで、二人が向かい合う。


「ノルマ達成、おめでとう」


「ありがとうございます」


「月間六十七個。予想以上だった。——わたしは、五十個ギリギリだと見積もっていたが」


 フェルディナントが、金の指輪をはめた手をテーブルの上に置いた。


「マルク。お前に——一つ、教えておくことがある」


 俺は——身構えた。


「お前のマナバッテリーの噂が——王都にまで届き始めている」


 心臓が——一拍、止まった。


「王都——?」


「ああ。リヴァータウンから王都への交易ルートを通じて、行商人たちが噂を運んでいる。『マナを持たない者でも使える新しい魔道具がある』と」


 フェルディナントの目が——いつになく、真剣だった。


「面白い商品だと思うのは、わたしだけではないということだ」


「それは——良いことではないのですか? 市場が広がるということでしょう」


「市場が広がる——確かにそうだ。だが——」


 フェルディナントが声を低くした。


「お前は知らんだろうが——この世界の魔道具市場は、一つの存在によって支配されている。取締役会議ボード・オブ・ディレクターズ——ヴァルストリート王国の実質的な最高権力機関だ」


「取締役会議……」


「七名の大貴族で構成される。彼らが——魔道具の流通と価格を、事実上コントロールしている。新しい魔道具が——特に、既存の市場構造を脅かすほど革新的な商品が現れた時——彼らが黙っているとは限らん」


 俺は——フェルディナントの言葉の意味を、咀嚼した。


 前世で言えば——政府による規制介入。巨大企業によるロビー活動。市場を支配するプレイヤーが、新興企業を潰すために政治力を行使する。


 テヌラ・モーターズが直面した、ディーラー組合の販売妨害と——構造は同じだ。


「なぜ——教えてくれるんですか?」


 フェルディナントが——少し、笑った。


「わたしは商人だ。——取引先が、知らないうちに潰されるのは、わたしの利益にならん」


 嘘ではないだろう。だが——それだけでもない。


 フェルディナントは——マナバッテリーの将来性を、計算している。王都からの圧力にマルクがどう対応するか——それもまた、「観察」の一環だ。


「それと——もう一つ」


 フェルディナントが立ち上がった。


「今日の夕方——ガルデン方面から、見慣れない人物がリヴァータウンに入った。領主の紋章を掲げた馬車だった」


「領主——ガルデリウスの?」


「確認は取れていない。だが——ガルデン領主の使いがリヴァータウンに来るのは、珍しいことだ」


 フェルディナントが、ロビーの出口に向かった。


「気をつけろ、マルク。——お前の商品は、思った以上に大きな波を起こし始めている」


 その言葉を残して——フェルディナントは、夜の大通りに消えていった。


 ◇


 俺は——ロビーに一人、残された。


 フェルディナントの言葉が、頭の中で反響している。


 王都に噂が届いている。


 取締役会議。大貴族。政治力。


 そして——ガルデリウスの使い。


 ビンボーレ村を管轄する領主だ。年貢の増徴を命じた、あの領主。


 マナバッテリーが売れれば——ビンボーレ村に金が流れる。税収が増える。それ自体は、領主にとって悪い話ではないはずだ。


 だが——領主が直接動くということは、「税収が増えた」以上の関心を持っているということだ。


 マナバッテリーの「異常な効率」。


 マナを持たない者でも使える魔道具。


 それは——この世界の身分制度の根幹を揺るがしかねない技術だ。


 マナを持つ者が上位。持たない者が下位。——それが、この世界の秩序だ。


 マナバッテリーは——その秩序に、穴を開ける。


 前世のテヌラ・モーターズが、石油産業の支配構造に穴を開けたように。


 破壊的イノベーション——それは、既存の権力者にとって、最大の脅威だ。


「……前世でもやったな」


 俺は——小さく笑った。


 前世では、石油メジャーと戦った。自動車業界と戦った。政府の規制と戦った。


 今世では——領主と戦うことになるのか。取締役会議と戦うことになるのか。


 まだわからない。だが——逃げる気はない。


 宿の階段を上り、部屋のドアを開けた。


 ルーナがベッドに座って、窓の外を見ていた。ゴルドは、すでに寝息を立てている。


「マルク。——フェルディナントさん、何の話だった?」


「……いろいろ」


「いろいろって?」


「マナバッテリーの噂が、王都にまで届いてるらしい」


 ルーナの表情が——固くなった。


「王都……」


「ああ。それに——ガルデリウス領主の使いらしき人物が、リヴァータウンに来ているとも」


「ガルデリウス——お父さんが言ってた、あの領主? 年貢を増やした——」


「そうだ」


 ルーナが——膝の上で、拳を握りしめた。


「マルク。——怖い?」


「怖い」


 俺は正直に答えた。


「でも——前世で学んだことがある」


「何?」


「本当に怖いのは——敵じゃない。戦わないことだ」


 ルーナが、ふっと笑った。


「あんた、時々すごくかっこいいこと言うよね」


「時々じゃなくて、いつもだ」


「はいはい」


 ルーナがベッドに横になった。


「おやすみ、マルク。——明日も、頑張ろうね」


「ああ。おやすみ」


 俺も横になった。天井を見つめる。


 目を閉じると——噴水広場の光景が浮かんだ。


 マナバッテリーの青白い光。群衆の歓声。ルーナの笑顔。ゴルドの誇り高い横顔。


 そして——その光に引き寄せられるように近づいてくる、大きな影。


 領主。取締役会議。王都の権力者たち。


 光が強ければ強いほど——影もまた、濃くなる。


 だが——影を恐れて、光を消すわけにはいかない。


 ビンボーレ村の百二十人が——その光を、待っている。


 俺は——目を閉じた。


 明日から、新しい一ヶ月が始まる。


 販売ノルマの二ヶ月目。増産体制の確立。販路の拡大。そして——見えない敵との戦い。


 前世のムーロン・マスクは——テヌラ・モーターズが成功し始めた時、既存の自動車業界から総攻撃を受けた。ディーラー組合。石油業界。政治家。メディア。


 全員が——新参者を潰そうとした。


 だが——生き残った。


 今世も——生き残る。


 窓の外で、リヴァータウンの夜が静かに更けていく。


 遠くで、夜番の鐘が鳴った。


 その音を聞きながら——俺は、眠りに落ちた。


 夢の中で——ロケットが爆発する音が、した。


 だが今回は——爆発の後に、光が見えた。


 青白い、マナバッテリーの光。


 闇の中に——小さな、だが確かな光。


 大貧民の物語は——次の章へ、進む。

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