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商路 ― 最初の一歩を踏み出す

ガルデンでのマナバッテリー販売開始から一ヶ月。累計売上五十二マルクス、純利益三十九マルクスで村の帳簿は黒字転換。しかしガルデンの小さな市場では飽和が迫り、マルクはより大きな市場・リヴァータウンへの進出を決意する。改良版マナバッテリー(発光一時間+暖房機能)三十個を携え、マルク・ルーナ・ゴルドの三人はビンボーレ村を旅立つ。道中、ゴルドがリヴァータウンのギルド支部長フェルディナントとの因縁を語り、ルーナは「頭だけで考えないで」とマルクに助言。リヴァータウン到着後、商業都市の光と影(大通りの繁栄と路地裏のスラム)を目撃。フリーマーケッツ支部で門前払いされかけるが、ゴルドのマイスター級の肩書でフェルディナントとの面談を取り付ける。交渉ではマナバッテリーのデモンストレーションが成功し商品力は認められるが、マルクのマナ破産体質が発覚し個人のギルド登録は拒否される。フェルディナントは製造方法の開示と利益の六割上納を要求。マルクは製造方法の開示を拒否し第三者品質検査を逆提案。ゴルドが保証人として名乗り出て流れを変え、最終的に利益の三割上納、三ヶ月の試用期間(月間五十個の販売ノルマ)で合意。しかしルーナはフェルディナントの真意を見抜き「泳がせて刈り取る」戦略を警告。マルクは分業による増産体制とギルド外販路の並行構築で対抗する計画を立て、三ヶ月以内にフェルディナントの想定を超える成長を遂げると誓う。翌日の契約署名を控え、リヴァータウンの夜に「商人立志編」の本当の戦いが始まる。

 ガルデンの市場でマナバッテリーを初めて売り上げてから、一ヶ月が経った。


 ビンボーレ村の鍛冶場——いまや「工房」と呼ばれるようになったその場所では、今日も朝から作業の音が響いている。


 カン、カン、カン。ゴルドの槌打ちが、朝もやの空気を切り裂く。


 ゴシゴシ、ゴシゴシ。ミルンと老人たちが、金属ケースを磨き上げる。


 カチャリ、カチャリ。村の女たちが、選別した光り石を丁寧にケースに嵌め込んでいく。


 俺はその全てを、工房の入口に立って見渡していた。


 一ヶ月——その間に、村は変わった。


 週に十個のペースで量産体制を敷き、ガルデンの市場に四度、売りに出た。初回の二十マルクスを含めて、累計売上は五十二マルクス。製造原価を差し引いた純利益は三十九マルクス。


 年貢の増徴分を差し引いても、村の帳簿は——ついに黒字に転じた。


 数字にすると小さい。前世の俺なら、四半期決算の端数にも満たない金額だ。


 だが——この三十九マルクスは、ビンボーレ村の百二十年の歴史で、農業以外から得た初めての収入だった。


「マルク、これで合ってる?」


 ルーナが光り石を一つ差し出した。手のひらに載せた石は、透明度が高く、内部で微かに青白い光の粒が揺れている。


 俺はそれを手に取り、チェックリストと照合した。


 大きさ——直径二・三センチ。基準内。


 透明度——グレードA。最上位。


 重量——約十二グラム。軽すぎず重すぎず。


 ルーナがマナを込めると、石は瞬時に発光した。三秒で最大輝度に達し、安定している。


「完璧だ。Aグレード。組み立てラインに回してくれ」


「了解っ」


 ルーナが嬉しそうに石を布に包み、ゴルドの作業台に運んでいく。


 この品質管理体制を構築するのに、二週間かかった。


 前世のテヌラ・モーターズでは、一台の車に三万個以上のパーツが使われていた。その全てに品質基準があり、一つでも基準を満たさなければラインが止まる。


 マナバッテリーのパーツは、たった三つだ。光り石、金属ケース、バルブ機構。


 だが——品質管理の本質は同じだ。


 「良いものを、安定して、繰り返し作る」


 それが——製造業の基本だ。


 ◇


「小僧、新しいケースができたぞ」


 ゴルドが作業台に金属の塊を置いた。丁寧に磨き上げられた真鍮のケース。蓋を開けると、内部は二つの区画に仕切られている。


 上段——発光用の光り石を収める部屋。


 下段——新しく追加した、暖房用の光り石の部屋。


 改良版マナバッテリー。発光一時間に加え、暖房機能を搭載した新モデルだ。


「精度はどうですか?」


「聞くまでもないだろう」


 ゴルドが不機嫌そうに腕を組んだ。


「わしが作ったものに、精度の問題があったことがあるか」


「……ないですね」


「ならば聞くな」


 ぶっきらぼうだが——その言葉の裏には、職人としての絶対的な自信が宿っている。実際、ゴルドの加工精度は驚異的だった。ケースの内壁と光り石の隙間は〇・五ミリ以下。バルブの可動域も完璧に調整されている。


 前世のCNC加工機に匹敵する精度を、この老人は手作業で実現している。


 つくづく——化け物だ、この爺さんは。


「ありがとうございます。これで、改良版の試作に入れます」


「急げよ。注文が溜まっとる」


 ゴルドが炉に向き直り、再び槌を振り上げた。


 注文が溜まっている——それは、嬉しい悲鳴だった。


 ガルデンの魔道具商が定期的に買い取ってくれるようになり、さらに口コミで近隣の行商人からも引き合いが来ている。先週は、十五個の注文を受けた。


 だが——ここに、問題があった。


 ◇


 昼休み、俺は工房の裏手にある作業テーブルで、木の板に数字を書き込んでいた。


 【ガルデン市場分析】

 ・人口:約二千人

 ・魔道具購買層:推定三百〜五百世帯

 ・マナバッテリー購入済み:約四十世帯

 ・飽和予測:あと二〜三ヶ月で市場飽和


 ガルデンは小さな城下町だ。領主ガルデリウスの領地の中心ではあるが、交易路からは外れている。市場規模には明確な限界がある。


 前世の言葉で言えば——TAM(Total Addressable Market:獲得可能な最大市場規模)が小さすぎる。


 さらに問題がある。現在の販売は、魔道具商を通じた間接販売だ。俺たちが二マルクスで卸し、商人が三マルクスで売る。利益率は確保できているが、最終顧客との接点がない。


 顧客のフィードバックが取れない。市場のニーズが見えない。新製品の開発方向が定まらない。


 前世のテヌラ・モーターズは、ディーラーを介さない直販モデルで業界に革命を起こした。顧客と直接つながることで、ニーズを即座に製品に反映できたからだ。


 この世界でも——同じ戦略が必要だ。


「何してるの?」


 ルーナが隣に座った。手には、二人分の水と干し肉。


「市場分析だ」


「しじょう、ぶんせき?」


「ガルデンだけじゃ、そろそろ限界が来る。もっと大きな市場に出ないと、村の収入は頭打ちになる」


 ルーナが水を一口飲んで、首を傾げた。


「もっと大きな市場って——リヴァータウンとか?」


 俺は頷いた。


「リヴァータウン。ガルデンから南西に一日半の距離にある交易都市。人口は推定一万五千。商人ギルド『フリーマーケッツ』の支部がある」


「あー……お父さんが前に言ってた。リヴァータウンは商人の町だって。何でも手に入るけど、何でも高いって」


「そうだ。だが——それは、購買力がある市場だということでもある」


 ルーナが干し肉を齧りながら、考え込んだ。


「でも——遠いよ。一日半もかかるんでしょ? 往復で三日。その間、工房が止まっちゃう」


「だからこそ——個人での露店販売じゃなく、ギルドを通じた流通ルートを確保したい」


「ギルド?」


「商人ギルドに登録して、正式な取引先として認めてもらう。そうすれば——ギルドの流通網を使って、リヴァータウンだけじゃなく、もっと広い地域に販売できる」


 俺は板に描いた図をルーナに見せた。


 ビンボーレ村(製造拠点)→ リヴァータウン(流通拠点)→ 各地の小売店


「ここを抑えれば——年間二百個、いや三百個は売れる。売上にして四百マルクスから六百マルクス」


「よ、四百——!?」


 ルーナが目を丸くした。


「村の年間収入が三十九マルクスだったのに——十倍以上!?」


「理論上はな。ただ——ギルドに認められるかどうかが問題だ」


 ルーナの顔が曇った。


「ギルドって——あの、フリーマーケッツ? お父さんが言ってたけど、あそこは平民には厳しいって」


「だろうな。どの世界でも、既得権益層は新参者を嫌う。前世でも——」


 俺はそこで言葉を切った。


「……前世?」


「何でもない」


 前世でも、既存の自動車メーカーはテヌラ・モーターズを潰そうとした。ディーラー組合が販売を妨害し、石油業界がロビー活動を仕掛け、メディアが「電気自動車は危険だ」とネガティブキャンペーンを張った。


 だが——俺は全てを突破した。


 今回も——突破する。


「とにかく、村長に話を通そう。ゴルドさんにも相談する」


「うん。……でもマルク」


 ルーナが俺の目を見た。その緑色の瞳に、心配の色が浮かんでいる。


「無茶はしないでね。あんた、すぐ一人で突っ走ろうとするから」


「……わかってる」


「本当に?」


「たぶん」


 ルーナが呆れたように笑った。


「『たぶん』じゃないでしょ。……まあいいけど。あたしも行くから」


「え?」


「リヴァータウン。あたしも一緒に行く。あんた一人じゃ、絶対ダメ」


 その言葉に——俺は少し、笑った。


「……ありがとう」


「お礼はいいから、干し肉食べなよ。午後も作業あるんでしょ」


 ◇


 その日の夕方、俺はバルトスの家を訪ねた。


 村長の家は村の中央にある、他の家よりわずかに大きな木造の建物だ。それでも、前世の基準で言えば物置小屋程度のものだが。


「リヴァータウンに——行きたいだと?」


 バルトスが腕を組んだ。囲炉裏の火に照らされた顔には、驚きと不安が入り混じっている。


「はい。ガルデンの市場だけでは、マナバッテリーの販売に限界があります。もっと大きな市場に出なければ、村の収入は頭打ちになります」


「だが、リヴァータウンまで一日半はかかる。往復で三日以上だ。その間——」


「工房はミルンさんたちに任せます。製造工程は全て標準化してあります。俺がいなくても、生産は止まりません」


 バルトスが唸った。


「それは——そうかもしれんが——」


「村長」


 俺はバルトスの目を真っ直ぐ見た。


「今のペースでガルデンに売り続けても、年貢を払って村人が食べていくのがやっとです。でも——リヴァータウンの市場を開拓できれば、村は本当の意味で豊かになれる」


「……リヴァータウンの商人ギルドに行くのか」


「はい。フリーマーケッツのリヴァータウン支部に登録して、正式な取引ルートを確保します」


「フリーマーケッツ——」


 バルトスの顔が曇った。


「マルク、あのギルドは——わしらのような辺境の貧民を相手にしてくれるとは思えん。奴らは金で動く。金と、コネクションで」


「だからこそ——商品で勝負します。マナバッテリーの品質は、どんな魔道具にも負けません」


 バルトスは長い間、黙っていた。囲炉裏の炎が、パチパチと爆ぜる音だけが響く。


「……ルーナも行くのか?」


「ルーナは——」


「あたしも行くよ、お父さん」


 戸口から声が聞こえた。ルーナだ。いつの間にか来ていたらしい。


「盗み聞きか」


「偶然。……お父さん、マルクだけじゃ心配でしょ? あたしが見張ってるから」


 バルトスが苦笑した。


「見張る、ね。……ゴルドは行かんのか?」


「行きます」


 今度は、工房の方角から低い声が聞こえた。ゴルドが、煤だらけの顔で戸口に立っている。


「リヴァータウンには——わしも行く理由がある」


 その声には、いつもと違う重みがあった。


「理由?」


「フリーマーケッツのリヴァータウン支部長は——わしが王都にいた頃の知り合いだ」


 俺とルーナが同時に振り返った。


「知り合い——?」


「ああ。名をフェルディナントという。わしと同じ時代に、王都の商人ギルドで頭角を現した男だ。狡猾で、欲深く、だが——商売に関しては、確かに天才だった」


 ゴルドが腕を組んだ。


「小僧。あの男は、手強いぞ。だが——わしがいれば、少なくとも門前払いは食わん」


 バルトスが、三人を順に見た。若い起業家。村娘。老職人。


 そして——深く、息を吐いた。


「……わかった。行きなさい」


 バルトスが立ち上がった。


「だが——約束してくれ。三人とも、必ず無事に帰ってくると」


「約束します」


 俺は頭を下げた。


 ルーナが、父親に抱きついた。


「お父さん、ありがと。心配しないで。あたしたち、絶対うまくやるから」


「心配するなという方が無理だ。——だが、信じてる」


 バルトスの声が、かすかに震えていた。


 ◇


 翌朝——出発の日。


 工房には、三十個の改良版マナバッテリーが整然と並んでいた。


 真鍮のケースが朝日を反射し、淡い金色に輝いている。一つ一つが、ゴルドの技術とルーナのマナと俺の設計が結集した結晶だ。


 それを丁寧に布で包み、三つの背負い袋に分けた。


 マルク——十個。

 ルーナ——十個。

 ゴルド——十個。


 重い。だが——この重さは、村の未来の重さだ。


 広場には、村人たちが集まっていた。まだ夜明け前の薄暗い中、松明の灯りに照らされた顔、顔、顔。


「マルク」


 ミルンが前に出た。手には、小さな布袋。


「これは——」


「村のみんなで集めた。旅の路銀だ。五マルクスしかないが——」


 俺は——その袋を、両手で受け取った。


 五マルクス。銅貨にして五百コッパ。村人たちにとっては、決して小さな金額ではない。


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。——売ってこい、マルク。わしらの未来を」


 村人たちが頷いた。


 リーナが、俺の前に立った。


「マルク」


 母の目には、涙が浮かんでいた。だが——笑っていた。


「気をつけてね。ちゃんと食べて、ちゃんと寝るのよ」


「ああ、わかってる」


「無理しないで。体が一番大事なんだから」


「……うん」


 リーナが俺の頬に手を当てた。温かい手。農作業で硬くなった、でも優しい手。


「あんたのお父さんも——きっと、誇りに思ってるわ」


 その言葉に——胸が詰まった。


「……行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 俺は背を向けた。振り返れば、泣いてしまいそうだった。


 前世では——こんなふうに送り出されたことはなかった。


 火星への旅路に就くとき、見送りに来たのは報道陣だけだった。家族の姿は、一人もなかった。


 だが今——百二十人の村が、俺を送り出してくれている。


「さあ、行こう」


 ゴルドが先に歩き出した。その背中は、いつも以上に大きく見えた。


「うん!」


 ルーナが俺の隣に並ぶ。


 そして——三人は、ビンボーレ村を後にした。


 背後から、村人たちの声が聞こえる。


「頑張れよ——!」


「マルク、ルーナ、ゴルドじいさん——!」


「必ず帰ってこいよ——!」


 その声に——背中を押されるように、俺たちは歩き出した。


 朝焼けの空の下。


 三十個のマナバッテリーを背負って。


 ビンボーレ村の未来を背負って。


 最初の一歩を——踏み出す。


 村を出て一時間。


 道は、ビンボーレ村を取り囲む痩せた畑地帯を抜け、なだらかな丘陵へと差しかかっていた。


 朝露に濡れた草が足元で光る。遠くには、薄紫色の山脈が連なっている。空気は澄んで冷たく、深く吸い込むと肺の奥まで洗われるようだった。


「きれい……」


 ルーナが立ち止まり、丘の頂上から周囲を見渡した。


 ビンボーレ村は、もう小さな点になっている。灰色の屋根が寄り集まった、世界の片隅の小さな集落。


「あの村が——俺たちの工場だ」


 俺は呟いた。


「前世で言えば、テヌラ・モーターズのフリーモント工場くらいの重要拠点だ」


「なんの工場?」


「……何でもない。行くぞ」


 道は獣道に近かった。ビンボーレ村からガルデンまでは二時間程度の道のりだが、ガルデンからリヴァータウンへはさらに丸一日かかる。三人はガルデンを経由せず、南西に伸びる街道を目指して丘陵地帯を横断していた。


 先頭を行くのはゴルドだ。六十を超える老体とは思えない足取りで、背負い袋を揺らしながら黙々と歩いている。


「ゴルドさん」


 俺は歩きながら声をかけた。


「リヴァータウンのフェルディナントという人——どんな人物ですか?」


 ゴルドが足を止めずに答えた。


「商人だ。骨の髄まで」


「それだけですか?」


「それで十分だ。——あの男は、すべてを損得で計る。友情も、信頼も、忠誠も。すべてが取引の道具だ」


 ゴルドの声に、かすかな苦さが混じっていた。


「王都時代——わしの作った魔道具を、あの男が売りさばいていた。わしは職人で、あいつは商人だった。まあ——悪い組み合わせじゃなかった」


「なぜ過去形なんですか?」


 ゴルドが黙った。五歩。十歩。二十歩。


「……あの男は、利益のためなら職人を使い捨てる。わしの弟子が死んだとき、あの男は——『惜しい人材を失った。次の職人を手配しなければ』と言った」


 その言葉に、俺は眉をひそめた。


「弟子の死を——コストとして計算した?」


「ああ。あれがあの男の本質だ。人間を——資源としか見ていない」


 ゴルドが振り返った。灰色の瞳が、俺を射抜く。


「小僧。お前も、時々そういう目をする」


 その指摘に——俺は言葉を失った。


 ゴルドが再び前を向いた。


「だが——お前は、あの男とは違う。お前は——村人の顔を見ている。数字だけじゃなく、人間を見ている。それが——お前とあの男の違いだ」


 俺は——何も言えなかった。


 前世の俺は——ゴルドが言う「あの男」と、どれほど違っていただろうか。


 従業員を数字で管理し、四半期の利益で評価し、「人材」という名の「資源」として扱っていた。


 今世では——そうならないと、誓ったはずだ。


「……気をつけます」


「そうしろ」


 ゴルドが短く答えて、歩き続けた。


 ◇


 昼過ぎ、三人はガルデンとリヴァータウンを結ぶ街道に合流した。


 ここからは整備された石畳の道だ。幅は馬車二台分ほどあり、両脇には等間隔で道標が立っている。


 街道に出た途端——世界が変わった。


 人がいる。


 行商人が荷馬車を引いて通り過ぎる。騎馬の護衛を連れた商隊が前方を行く。徒歩の旅人が反対方向から歩いてくる。


 ビンボーレ村では一日に他人と擦れ違うことすら稀なのに——ここでは、人の流れが絶えない。


「すごい。人がいっぱい」


 ルーナが目を輝かせた。


「当たり前だ。これが街道だ。物流の動脈だよ」


「ぶつりゅう?」


「モノが動く道、ってことだ。この道を通って、農産物が都市に運ばれ、都市の工芸品が農村に届く。経済の基本だ」


 ルーナが不思議そうに首を傾げた。


「あんた、時々すごく難しいこと言うよね。普通の農民の男の子じゃないみたい」


「……よく言われる」


 前方を行くゴルドが、振り返らずに言った。


「小僧。歩きながらでいい。リヴァータウンでの作戦を聞かせろ」


「作戦?」


「お前のことだ。何も考えずに行くわけがないだろう」


 俺は少し笑った。確かに——頭の中にはすでに、詳細な計画がある。


「まず、到着したらリヴァータウンの市場を偵察する。魔道具の品揃え、価格帯、顧客層を確認する。これが市場調査だ」


「ふむ」


「次に、フリーマーケッツの支部に行って、ギルドへの登録を申請する。登録が承認されれば、ギルドの流通網を通じてマナバッテリーを販売できるようになる」


「簡単に承認されるとは思えんが」


「だからこそ——デモンストレーションをする。マナバッテリーの実物を見せて、性能を証明する。商品の品質で、ギルドを説得する」


 ゴルドが鼻を鳴らした。


「品質だけでは動かんぞ。あの男は」


「わかってます。だから——三つの交渉カードを用意している」


「三つ?」


「一つ目は、商品力。マナバッテリーは現存する魔道具よりも安価で、汎用性が高い。これは客観的な事実だ」


 ルーナが俺の横で、メモ代わりに指を折っている。


「二つ目は、独占性。マナバッテリーの製造技術は俺たちしか持っていない。ギルドにとって、独占的に扱える商品があることは大きなメリットになる」


「三つ目は?」


「三つ目は——ゴルドさんの存在だ」


 ゴルドが足を止めた。


「わし?」


「フェルディナントと面識がある元王都の魔道具職人が製造に関わっている。それは——信用力になる。辺境の村の少年が作った怪しい商品ではなく、元マイスター級の職人が技術保証した製品だと示せる」


 ゴルドは黙って歩き出した。数歩進んでから、低い声で言った。


「……あの男に、わしの顔を見せるのは——正直、気が進まん」


「わかっています。でも——」


「わかっておる」


 ゴルドが小さく息を吐いた。


「村のためだ。わしの個人的な感情で、チャンスを潰すわけにはいかん」


 その言葉には——深い覚悟が込められていた。


 ◇


 午後、街道の傍らで三人は休憩を取った。


 ルーナが持参した干し肉とパンを分け合い、水筒の水で喉を潤す。


「ねえ、マルク」


 ルーナが木の根に腰掛けながら、少し真剣な顔で言った。


「あんたの作戦、よくわかった。頭いいなって思う。でも——」


「でも?」


「頭だけで考えてない?」


 俺は眉を上げた。


「どういう意味だ?」


「んーと、うまく言えないんだけど——」


 ルーナが空を見上げた。亜麻色の髪が風に揺れる。


「商売って、数字とか作戦とかだけじゃないと思うの。相手も人間でしょ? その人が何を考えてて、何を怖がってて、何を欲しがってるか——そういうのを感じないと、うまくいかない気がする」


 俺は——少し、驚いた。


 前世の俺なら、こんな意見は鼻で笑っていただろう。感情論だ、と。データと論理で動かないものはない、と。


 だが——前世の俺は、何度も「人間」を見誤った。


 Y(旧ツブヤッター)の買収。四百四十億ドルを投じて手に入れたSNSは、ユーザーの感情を無視した改革の連続で、企業価値が半減した。


 数字は完璧だった。だが——人間の心を、読み違えた。


「……お前の言う通りかもしれない」


「え、素直に認めるの? 珍しい」


「うるさいな」


 俺は苦笑した。


「だが——俺は、人の心を読むのが得意じゃない。前世——いや、昔から」


「だから、あたしがいるんでしょ」


 ルーナが胸を張った。


「あたし、人の顔色見るの得意だよ。誰がウソついてるかとか、誰が怒ってるかとか——大体わかる」


「勘が鋭い、ってやつか」


「うん。お父さんは『ルーナの鼻は犬並みだ』って言ってる」


「……褒めてるのか、それ?」


「たぶん、半分くらい?」


 二人で笑った。


 ゴルドが、少し離れた場所で腕を組んだまま、空を見上げていた。


「ゴルドさん」


 俺が声をかけると、ゴルドが視線を下ろした。


「王都にいた頃——商人との交渉で、一番大事だったことって何ですか?」


 ゴルドは少し考えてから、短く答えた。


「……相手が何を恐れているかを知ることだ」


「恐れ?」


「人間は、欲で動いているように見えて——実は恐怖で動いている。損をすること。地位を失うこと。面子を潰されること。商人ギルドの連中は——特にそうだ」


 ゴルドが立ち上がった。


「小僧。リヴァータウンに着いたら、まず観察しろ。売り込む前に——相手を知れ」


「……了解です」


 ◇


 日が傾き始めた頃、三人は街道沿いの林に野営地を作った。


 火を起こし、簡素な夕食を取る。残った干し肉と、街道沿いの茂みで見つけた野生の実。


 ゴルドは火の番を買って出て、ルーナは背負い袋を枕にして横になった。


「マルク、明日の朝は早いんでしょ?」


「ああ。日の出と同時に出発する。昼前にはリヴァータウンに着くはずだ」


「じゃあ、もう寝る。おやすみ」


「おやすみ」


 ルーナはあっという間に寝息を立て始めた。この子は、どんな状況でもすぐに眠れる。ある意味、才能だ。


 俺は焚き火の傍に座り、空を見上げた。


 二つの月が、夜空を照らしている。


 星々が——前世とは違う配列で、散りばめられている。


「……眠らんのか」


 ゴルドが低い声で聞いた。


「少し——考えたいことがあって」


「何をだ」


「リヴァータウンでの価格設定です。改良版は発光一時間+暖房機能で、従来の二マルクスより高く設定したい。三マルクス——いや、三・五マルクスが適正かもしれない」


「高すぎんか」


「着火石が三マルクス、湧水の瓶が五マルクスです。それと比較すれば、三・五マルクスは十分に競争力がある。しかもマナバッテリーは充電すれば何度でも使える。ランニングコストを考えれば、圧倒的に安い」


 ゴルドが焚き火に枝をくべた。炎が揺れ、二人の影が踊る。


「価格の問題じゃないぞ、小僧」


「というと?」


「問題は——信用だ。誰が作ったかわからん商品を、誰が買う? 特に、魔道具は命に関わることもある。信用のない者の品は、いくら安くても売れん」


 前世の知識が、ゴルドの言葉を裏付けた。


 ブランディング。


 前世のテヌラ・モーターズも、最初は「よくわからない新興メーカーの電気自動車」だった。それが世界で最も信頼される車のブランドになったのは——品質の積み重ねと、ストーリーの力だ。


「だから——ギルドの信用を借りたいんです」


「ギルドの名前で売る、ということか」


「最初はそうです。フリーマーケッツの認定商品として流通させれば、信用の問題はクリアできる」


「だが——その代わり、ギルドに利益を持っていかれる」


「それは——必要なコストです。前世でいう——いや、この世界の言葉で言えば、信用を買うための投資です」


 ゴルドが鼻を鳴らした。


「投資、か。あのフェルディナントが好きそうな言葉だ」


 沈黙が降りた。焚き火がパチリと爆ぜた。


「ゴルドさん」


「何だ」


「フェルディナントに会うの——怖いですか?」


 ゴルドは答えなかった。長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「怖くはない。だが——」


 ゴルドが焚き火を見つめた。炎の明かりが、深い皺の刻まれた顔を照らす。


「あの男に会えば——王都にいた頃の自分を、思い出す。才能を認められ、技術を搾取され、弟子を失い、逃げ出した——あの頃の自分を」


「今は違います」


 俺は言った。


「今のゴルドさんは——自分の意思で、自分が正しいと思うもののために、技術を使っている。誰かに搾取されるんじゃなく——自分で選んで、作っている」


 ゴルドが、俺を見た。


「……小僧。お前は時々——年寄りみたいなことを言うな」


「よく言われます」


 ゴルドが、珍しく——笑った。声を出して。


「ふん。——まあ、お前の言う通りかもしれん。わしは——もう、逃げんよ」


 二つの月が、雲の切れ間から差し込んだ。


 焚き火の向こうで、ルーナが寝返りを打った。小さな寝言が漏れる。


「……ん……マナバッテリー……五百個……」


 俺とゴルドは顔を見合わせた。


「寝言で商売の話か。大した嬢ちゃんだ」


「ああ。——頼りになる共犯者だ」


 炎が揺れる。星が瞬く。


 俺は——前世のことを考えていた。


 火星への旅路。あのロケットの中で、俺は一人だった。


 管制室との通信はあった。だが——隣に座る仲間は、いなかった。


 七人の子供がいた。だが——彼らの寝顔を見たことは、ほとんどなかった。


 今——焚き火を挟んで、ゴルドがいる。ルーナが寝息を立てている。


 俺は——一人じゃない。


「……ゴルドさん」


「何だ」


「明日——うまくいくかわかりません。でも——三人なら、何とかなる気がします」


 ゴルドは答えなかった。だが——焚き火に照らされたその横顔は、穏やかだった。


「寝ろ、小僧。明日は長い一日になる」


「……はい」


 俺は背嚢を枕にして横になった。空を見上げると、見知らぬ星座が瞬いている。


 前世の星座とは違う。だが——同じ空だ。


 どこにいても、空は一つだ。


 目を閉じる。明日への緊張と期待が、胸の奥で交互に脈打っている。


 大丈夫だ。


 前世のムーロン・マスクは——一人で世界と戦った。


 だが、今世のマルクには——仲間がいる。


 ◇


 翌朝。


 日の出と同時に、三人は出発した。


 朝霧の中を歩く。街道は徐々に広くなり、行き交う人も増えてきた。荷車の轍が道に深く刻まれ、蹄の跡が無数に重なっている。


 空気が——変わった。


 田園の穏やかさから、商業の活気へ。


 風に乗って、市場の喧騒が微かに聞こえてくる。鉄を打つ音。牛の鳴き声。人々の怒鳴り合い。


 そして——


「見えた」


 ゴルドが足を止めた。


 丘の頂から、俺たちの眼下に——リヴァータウンが広がっていた。


 石造りの城壁が、町を囲んでいる。高さは十メートル以上。その上に、等間隔で見張り塔が立つ。城壁の外には堀が巡らされ、跳ね橋が正門に架かっている。


 城壁の内側には——建物が密集していた。二階建て、三階建ての石造りの家々。赤い屋根瓦が朝日に照らされ、橙色に輝いている。


 町の中央には、ひときわ大きな建物がそびえていた。四階建ての白い石造りの建造物。屋上には、旗がはためいている。


「あれが——フリーマーケッツのリヴァータウン支部だ」


 ゴルドが顎で指した。


「でかい……」


 ルーナが目を見開いた。


「ビンボーレ村が——全部入っちゃうくらい大きい……」


 俺も——驚いていた。


 いや、前世のマンハッタンのビル群に比べれば、小さなものだ。だが——この世界の基準で言えば、間違いなく「大都市」だった。


 人口一万五千。ガルデンの七倍以上。商人ギルドの支部がある交易の要衝。


 ここが——俺たちの次の戦場だ。


「……行くぞ」


 俺は一歩を踏み出した。


 背中の荷が重い。マナバッテリー十個の重量。


 だが——それ以上に重いのは、村人たちの期待だ。


 リヴァータウンの正門が——近づいてくる。


 三人の影が、石畳の上に伸びた。


 ビンボーレ村の少年。元王都の職人。村長の娘。


 辺境の貧民が——商都の門を叩く。


 これが——「商人立志編」の、本当の始まりだ。


 正門は、巨大だった。


 高さ五メートルはある鉄扉が左右に開かれ、門番が二人、長槍を手に立っている。門の上部には、フリーマーケッツのシンボル——天秤と握手を組み合わせた紋章が、石に刻まれていた。


「入門税、一人二コッパ」


 門番が無表情に告げた。


 三人で六コッパ。村人たちが集めてくれた路銀から支払う。


 門をくぐった瞬間——世界が変わった。


 音。


 まず、音が違う。人々の叫び声、荷車の軋み、馬の嘶き、金属を打つ音、子供の泣き声——あらゆる音が一度に押し寄せてきた。


 匂い。


 焼き肉の匂い。香辛料の匂い。革の匂い。馬糞の匂い。花の匂い。それらが混然となって、鼻孔を刺激する。


 そして——色。


 ガルデンが灰色と茶色の世界だとすれば、リヴァータウンは極彩色だった。


 大通りの両側に並ぶ店の看板は、赤、青、金、緑と色とりどりに塗られている。店先には絹の布地が風にはためき、陶器の皿が日光を反射し、宝石のネックレスがきらめいている。


「すごい……」


 ルーナが、口をぽかんと開けた。


「見て、マルク! あんなに大きなパンがある! それに——あの赤い布、きれい! あ、あっちに——」


「落ち着け。まだ買い物しに来たんじゃない」


「わかってるけど——でも、すごい!」


 確かに——すごかった。


 前世の俺なら、ニューヨークのタイムズスクエアを見ても動じなかった。だが——中世レベルの技術で、これだけの商業集積を実現しているのは、素直に感心する。


 俺は歩きながら、目に映るものを片端から分析していた。


 魔道具の価格——路上の露店で、着火石が三・五マルクス。ガルデンより〇・五マルクス高い。都市部のプレミアムだ。


 客層——大通りを歩いているのは、比較的裕福な平民が多い。シルバークラスの中でも上層。ゴールドクラスの貴族は馬車で移動している。


 競合商品——魔道具専門店が少なくとも五軒は見える。品揃えはガルデンの比ではない。


「ゴルドさん」


「何だ」


「あの店——見てください」


 俺が指差した先には、大通りに面した三階建ての魔道具専門店があった。看板には「マジカル・アセット商会」と記されている。


 店先で、実演販売が行われていた。


 若い魔道具師が、手のひらサイズの水晶球を掲げている。球体の中で、小さな炎が踊っていた。


「永久燃焼のミニ暖炉! お値段たったの八マルクス! 冬の必需品、今ならお買い得ですよ!」


 客が群がっている。八マルクス——かなりの高額だが、暖房機能付きの魔道具は需要が高いのだろう。


「八マルクスか」


 俺は呟いた。


「俺たちの改良版マナバッテリーは、暖房機能付きで三・五マルクス。価格差は二倍以上。しかも充電すれば何度でも使える」


「だが——」


 ゴルドが低い声で言った。


「あの店には、ギルドの認定マークがある。わしらの商品には——ない」


 確かに——店の入口には、フリーマーケッツの紋章が掲げられていた。「認定商品取扱店」の証だ。


「認定がなければ、いくら安くても信用されない。それがこの世界の商売の掟だ」


 ゴルドの言葉が重い。


「やはり——ギルドの認定を取るしかないですね」


「ああ。だから——あの建物に行くんだろう」


 ゴルドが顎で示した先には——フリーマーケッツのリヴァータウン支部。白い石造りの四階建て。大通りの突き当たりに、城のようにそびえ立っている。


 ◇


 だが——支部に向かう途中で、俺は別のものを見た。


 大通りを一本裏に入った路地。


 そこには——光と影の「影」が広がっていた。


 薄暗い石畳の上に、ぼろ布をまとった人々が座り込んでいる。痩せこけた体。虚ろな目。差し出された手。


 物乞いだ。


 ルーナが立ち止まった。


「……あの人たち——」


「コッパークラスだ」


 ゴルドが短く言った。


「隷属階級。この町にも、大勢いる。大通りの華やかさの裏側に——こういう連中がいるんだ」


 子供が一人、路地の奥から走ってきた。裸足で、肋骨が浮き出ている。ルーナの目の前で立ち止まり、手を差し出した。


「お姉ちゃん——一コッパでいいから——」


 ルーナが息を呑んだ。


「……マルク」


 その声は——震えていた。


 俺は——ポケットから銅貨を出して、子供の手に乗せた。


「ありがとう!」


 子供が笑って走り去った。


 ルーナが俺を見た。その緑色の瞳に——涙が光っていた。


「ビンボーレ村は——貧しいと思ってた。でも——」


「ああ。もっと貧しい人たちがいる」


 俺は路地を見つめた。


 前世でも——同じだった。マンハッタンの高層ビルの足元に、ホームレスのテントが並んでいた。シリコンバレーの億万長者たちが暮らす隣の通りに、車上生活者が溢れていた。


 格差——それは、どの世界にも存在する。


「この町で成功すれば——村を豊かにできる。でも——」


 俺は自分の言葉に、責任の重さを感じた。


「俺たちがやろうとしていることは——ただ金を稼ぐことじゃない。この格差を——少しでも変えることだ」


 ルーナが頷いた。


 ゴルドは何も言わなかった。だが——その灰色の瞳が、路地裏の子供たちをじっと見ていた。


 ◇


 フリーマーケッツ・リヴァータウン支部。


 近づくにつれ、その威容が際立つ。


 正面入口は磨かれた大理石で装飾され、左右に衛兵が立っている。衛兵といっても、軍人ではなく、ギルドの私兵だ。揃いの青い制服に、腰には剣を佩いている。


 入口の上部には、金文字の銘板が掲げられていた。


 『フリーマーケッツ・リヴァータウン支部 ——見えざる手が、市場を導く——』


「見えざる手……」


 俺は思わず呟いた。


 アダム・スミス。国富論。自由市場経済の父。


 前世の経済学の基礎を築いた思想が——この世界のギルドの理念になっている。なんとも皮肉な話だ。


「さあ、入るぞ」


 三人は階段を上り、正面の扉を押した。


 中は——広かった。


 高い天井。磨かれた木の床。壁には各地の地図や、取引相場を記した掲示板が並んでいる。


 ホール中央にはカウンターがあり、受付係が三人、忙しそうに対応している。商人風の客が列を作り、書類を手にやり取りをしている。


「いらっしゃ——」


 受付係の女性が俺たちを見て——一瞬、言葉を切った。


 その目が、俺たちの服装を上から下まで舐めるように見た。


 粗布の衣服。擦り切れた靴。泥だらけの裾。日に焼けた肌。


 明らかに——場違いだった。


「……何かご用でしょうか」


 女性の声が、目に見えて冷たくなった。


「商人ギルドへの登録を希望します」


 俺は真っ直ぐに告げた。


「登録——?」


 女性が眉をひそめた。


「失礼ですが——ご身分は?」


「平民階級です。ビンボーレ村から来ました」


「ビンボーレ……?」


 女性がカウンターの下で何かを確認した。


「……申し訳ありませんが、当支部への商人登録には——推薦人が必要です。既存のギルド会員二名以上の推薦状か、あるいは——」


「金か」


 ゴルドが低い声で割り込んだ。


「登録料を払えばいいんだろう。いくらだ」


 女性が、ゴルドを見た。煤だらけの顔。白髪。鍛冶屋の手。


「……登録料は、五十マルクスです」


 五十マルクス。


 ルーナが小さく息を呑んだ。村の累計利益に匹敵する金額だ。


「あるいは——」


 女性が付け加えた。


「——ギルド役員との面談を経て、特別承認を得るという方法もございます。ただし、面談の申請にも十マルクスかかりますし、承認される保証は——」


「フェルディナント支部長に取り次いでくれ」


 ゴルドが告げた。


「わしは——元王都の魔道具師ギルド所属、マイスター級鍛造師ゴルドだ。フェルディナントとは——旧知の仲だ」


 受付の女性が——目を見開いた。


「マイスター級——?」


 周囲の商人たちも、振り返った。マイスター級の職人という肩書は、この世界では相当な重みを持つ。


「……少々お待ちください」


 女性が慌てて奥の部屋に消えた。


 俺はゴルドに小声で言った。


「助かりました」


「まだ早い。——面談が取れてからだ」


 ゴルドの声は、硬かった。


 五分ほど待った。


 奥の扉が開き、受付の女性が戻ってきた。


「フェルディナント支部長がお会いになるそうです。二階の応接室へどうぞ」


 俺は——内心、小さくガッツポーズをした。


 最初の関門は突破した。


 だが——ルーナが、俺の袖をそっと引いた。


「マルク」


 小声で、囁くように。


「あの受付の人——最初は冷たかったのに、急に態度が変わった。ゴルドさんの名前を聞いて、すぐに奥に走った」


「それは——マイスター級の肩書が効いたんだろう」


「違う。あの人、怯えてた」


「怯え?」


「うん。ゴルドさんの名前を聞いたとき——驚いたんじゃなくて、怯えてた。何かを——恐れてるみたいに」


 ルーナの勘。


 俺は——前世の経験から、その直感を軽視しなかった。


 Y(旧ツブヤッター)の買収交渉中、弁護士チームが「何か変だ」と言ったのを無視した結果、四百四十億ドルの大損失を出した。


 「何か変だ」という直感は——しばしば、分析よりも正確だ。


「わかった。注意する」


 ルーナが頷いた。


 三人は階段を上り、二階の廊下を歩いた。


 壁には、歴代のギルド支部長の肖像画が掛けられている。厳めしい顔。威厳ある表情。どの顔も——金の匂いがする。


 廊下の突き当たりに、重厚な木の扉があった。


 扉の上には、金の銘板。


 『支部長 フェルディナント・グロッサー』


 ゴルドが一瞬、足を止めた。


 その横顔に——かすかな緊張が走る。だが、すぐに消えた。


「……行くぞ」


 ゴルドが扉を開けた。


 ◇


 応接室は、予想以上に豪華だった。


 赤い絨毯。磨かれた黒檀のテーブル。壁には精密な世界地図と、各地の交易路を示した図表が掛けられている。窓からは、リヴァータウンの大通りが一望できた。


 そして——部屋の奥、革張りの大きな椅子に——男が座っていた。


 五十代後半。恰幅の良い体型。だが、ただの肥満ではない。その身体つきには、威圧感がある。


 黒い髪を後ろに撫でつけ、顎には短く刈り込んだ髭。鋭い茶色の目が、入室した三人を射抜くように見据えた。


 上質な深紅のローブを纏い、指には三つの金の指輪。その指輪の一つには——フリーマーケッツの紋章が刻まれている。


「——久しぶりだな、ゴルド」


 低く、よく通る声だった。


 フェルディナント・グロッサー。


 商人ギルド「フリーマーケッツ」リヴァータウン支部長。


 その声に——ゴルドが答えた。


「ああ。十年ぶりか、フェルディナント」


「十一年だ。お前が王都から姿を消してから——正確に十一年と四ヶ月」


 フェルディナントが立ち上がった。ゴルドの前に歩み寄り、太い手を差し出す。


「まさか——辺境の貧村に隠れていたとはな。王都中が、お前を探したぞ」


「探してくれなくてよかった」


 ゴルドが握手に応じた。だが——その手に力が入っているのが、俺にはわかった。


 フェルディナントの目が、ゴルドから俺とルーナに移った。


 値踏みするような目。商品を鑑定するような目。


「——で。この若いのは?」


 俺は一歩前に出た。


「マルク。ビンボーレ村から参りました。本日は、商人ギルドへの登録と——新しい商品のご提案に伺いました」


 フェルディナントが、俺を見た。


 五秒——いや、十秒。


 その目が、俺を上から下まで、ゆっくりと見定めた。


 そして——口角が、わずかに上がった。


「面白い。——座りなさい」


 フェルディナントが手で椅子を示した。


 交渉が——始まる。


 三人が革張りの椅子に腰を下ろすと、フェルディナントは自分の席に戻り、テーブルの上で指を組んだ。


 その指が——太い。金の指輪を三つも嵌めた、肉厚の指。だが爪は手入れが行き届いており、この男が単なる成金ではなく、自己管理の行き届いた人間であることを示していた。


「さて——ゴルド。お前が十一年ぶりに姿を現したということは、よほどのことがあったのだろう」


「ああ。——面白い小僧に出会った」


 ゴルドが俺を顎で示した。


 フェルディナントの目が、再び俺に向いた。


「ビンボーレ村のマルク——か。聞いたことのない名前だ。家名は?」


「マルクス家です」


「マルクス……」


 フェルディナントが眉を上げた。


「通貨と同じ名前か。縁起が良いのか悪いのか」


「少なくとも——名前負けはしないつもりです」


 フェルディナントが、ふっと笑った。


「なるほど。口は達者だな。——で、提案とは何だ?」


 俺は背嚢から布に包んだマナバッテリーを取り出し、テーブルの上に置いた。


 真鍮のケースが、窓から差し込む光を受けて淡く輝く。


「これが——マナバッテリーです」


 フェルディナントが身を乗り出した。


 その動きは微かだったが——俺は見逃さなかった。この男は、新しいものに対する好奇心を隠せないタイプだ。前世のベンチャーキャピタリストにも、こういう手合いは多かった。


「マナ……バッテリー? 聞いたことのない名前だ」


「新しい概念だからです。——実演させていただけますか?」


 フェルディナントが手で促した。


 俺はルーナに目配せした。


「ルーナ、頼む」


「うん」


 ルーナがマナバッテリーを手に取り、目を閉じた。三分間——静かにマナを込める。


 フェルディナントは、その三分間をじっと観察していた。腕を組み、目を細め、ルーナの手元を凝視している。


 三分後——ルーナが目を開けた。


「充電完了」


 俺はマナバッテリーを受け取り、テーブルの上に置いた。


「では——ご覧ください」


 レバーを引く。


 瞬間——


 応接室全体が、青白い光に包まれた。


 窓から差し込む日光を凌ぐほどの輝き。安定した、揺るぎない光。


 フェルディナントの目が——見開かれた。


 商人としての冷静さが、一瞬だけ崩れた。


「……これは——」


「マナバッテリーです。空気中の魔素を光り石に蓄積し、必要な時に放出する装置です。特徴は三つ」


 俺は指を立てた。


「一つ。マナを持たない者でも使える。充電はマナ保有者に依頼し、使用時には誰でも操作できます」


「二つ。充電すれば何度でも使える。消耗品ではなく、耐久財です」


「三つ。この改良版は、発光一時間+暖房機能付き。市場の着火石が三・五マルクスのところ、これは——三・五マルクスで、遥かに高い汎用性を持ちます」


 光は——一分経っても消えない。二分経っても。三分経っても。


 フェルディナントは、ずっと光を見つめていた。


 やがて——ゆっくりと、椅子の背にもたれた。


「……消してくれ」


 俺がレバーを戻すと、光が消えた。残像が目に焼き付いている。


 フェルディナントが沈黙した。十秒。二十秒。


 そして——口を開いた。


「作りを見せろ」


 俺はマナバッテリーを手渡した。


 フェルディナントが蓋を開け、内部を検分する。太い指で、光り石の固定状態を確認し、バルブ機構を触り、ケースの精度を測るように撫でた。


「……ケースの加工精度が異常だ。これは——」


 フェルディナントの目が、ゴルドに向いた。


「お前が作ったのか」


「ケースはな」


 ゴルドが短く答えた。


「設計は——この小僧がやった」


 フェルディナントが俺を見た。その目には——先ほどまでの余裕が消え、鋭い光が宿っていた。


「マルク。お前は一体何者だ?」


「ビンボーレ村の農民の三男坊です」


「農民の三男坊が——こんな設計をするのか?」


「世の中、不思議なことはあるものです」


 フェルディナントが鼻を鳴らした。


「……まあいい。素性の詮索は後にしよう」


 フェルディナントがマナバッテリーをテーブルに戻した。


「商品としては——認めよう。品質は高い。市場ニーズもある。価格競争力もある」


 俺の心臓が跳ねた。認められた。第一関門は突破——


「だが」


 フェルディナントの声が、冷たくなった。


「問題がある」


 俺は身構えた。


「——お前のマナを、測らせてもらおう」


 フェルディナントがテーブルの引き出しから、小さな水晶球を取り出した。マナ測定器——エピソード1で村の治療師に測ってもらったのと同じタイプの道具だ。


「これに触れろ」


 俺は——躊躇した。


 わかっている。触れれば——俺のマナが完全にゼロであることが露呈する。


 だが——嘘は通じない。


 俺は水晶球に手を触れた。


 何も起こらない。


 水晶球は——まったく反応しなかった。微かな光すら灯らない。完全な無反応。


 フェルディナントが、俺の手と水晶球を交互に見た。


「……マナゼロ。完全な、マナ破産体質」


 その言葉が——部屋の空気を凍らせた。


「ゴルド」


 フェルディナントがゴルドを見た。その目には——非難の色があった。


「お前は——マナゼロの小僧を連れてきたのか?」


「マナの有無と、商品の品質は関係ない」


「関係がないものか」


 フェルディナントが椅子から身を乗り出した。


「ギルドの商人登録には——最低限のマナ保有が条件だ。これは規約の第七条に明記されている。マナを一切持たない者は、魔道具の品質を自ら検証できない。検証できない者が、魔道具を販売する——ギルドとして、そんな商人を認定するわけにはいかん」


 冷徹な論理。だが——商人としては正しい。


 前世でいえば、医師免許のない者が薬を売るようなものだ。消費者保護の観点から、規制があるのは当然と言える。


「……つまり、俺個人のギルド登録は認められないと」


「その通りだ」


 フェルディナントが椅子に座り直した。


「ただし——」


 その目が、計算を始めていた。商人の目。利益を嗅ぎ取る、獣の目。


「商品そのものには——価値がある。これは否定しない」


 俺は——ここが勝負所だと悟った。


 前世の交渉術が、脳裏で高速回転する。


 BATNA——Best Alternative to Negotiated Agreement。交渉が決裂した場合の最善の代替案。


 俺のBATNA——ギルドを通さず、独自に小売販売を続ける。だが、それでは市場拡大に限界がある。


 フェルディナントのBATNA——マナバッテリーなしでも、既存の魔道具市場で十分な利益を上げている。新商品がなくても困らない。


 つまり——交渉のパワーバランスは、圧倒的にフェルディナント側に傾いている。


 だが——ゼロではない。


「フェルディナントさん」


 俺は姿勢を正した。


「マナバッテリーの市場ポテンシャルを——数字でお示しします」


「数字で?」


「はい。リヴァータウンの人口は約一万五千。そのうち、マナを保有しない平民——つまり魔道具に頼る層は、推定で八割以上。一万二千人です」


 フェルディナントが微かに頷いた。数字には興味を示す男だ。


「その一万二千人のうち、照明や暖房の魔道具を購入できる経済力を持つのは、推定三割。三千六百世帯。現在の魔道具市場の平均購入価格は五マルクス前後」


「……続けろ」


「マナバッテリーは三・五マルクスで、既存商品より安価かつ高機能です。仮に市場の二割を獲得できれば——七百二十個。売上にして二千五百二十マルクス」


 フェルディナントの目が——光った。


「二千五百——」


「これはリヴァータウン単独の数字です。ギルドの流通網を使えば、周辺の町や村にも展開できる。年間売上は——一万マルクスを超える可能性がある」


 一万マルクス。ゴルダにして百枚。金貨百枚——平民にとっては、一生分の稼ぎに等しい。


 フェルディナントが顎を撫でた。


「……面白い試算だ。だが——それは机上の空論だ」


「だからこそ——実証する機会をいただきたい」


「機会?」


「はい。まずは少量の取引から始めます。三十個を、ギルドの認定商品として販売させてください。売れ行きが数字を裏付ければ——本格的な取引に移行する」


 フェルディナントが腕を組んだ。


 沈黙が流れた。


 そして——フェルディナントが口を開いた。


「製造方法を開示しろ」


 俺は——一瞬、息が止まった。


「製造方法の開示は——」


「ギルドが認定商品を扱うには、製造工程の全容を把握する必要がある。安全性の担保だ。原材料、加工手順、充電方法——すべてを、文書で提出しろ」


 これは——予想していた要求だ。だが、受け入れるわけにはいかない。


 製造方法を開示すれば——模倣される。俺たちの唯一の武器である技術的優位性が、失われる。


 前世のテヌラ・モーターズは、特許をオープンソース化した。だがあれは、市場シェアが確固たるものになった後の戦略的判断だった。今の段階で製造方法を開示するのは——自殺行為に等しい。


「製造方法の完全な開示は——できません」


 俺は明確に断った。


 フェルディナントの目が細くなった。


「できない?」


「企業秘密です。ただし——安全性に関わる情報は開示します。原材料の光り石の産地、ケースの素材、充電上限の安全マージン。品質を保証するためのデータは、すべて提供します」


「それでは不十分だ」


「では——」


 俺は切り返した。


「ギルド認定の魔道具師に、完成品の品質検査をしていただく。製造方法は開示しませんが、製品の安全性と性能は第三者が保証する。それなら——ギルドの規約にも抵触しないはずです」


 フェルディナントが——ほんの一瞬だが、笑った。


「なるほど。……ゴルド、この小僧は——お前の弟子か?」


「弟子じゃない。——わしが弟子を取ることは、もうない」


 ゴルドの声に、かすかな痛みが混じった。フェルディナントはそれに気づいたようだったが、追及しなかった。


「いいだろう。品質検査は受けよう。だが——」


 フェルディナントがテーブルの上で指を組み直した。


「もう一つ、条件がある」


 俺は身構えた。


「販売利益の六割を、ギルドに上納してもらう」


「——六割!?」


 ルーナが思わず声を上げた。


 六割。売上の六割ではなく、利益の六割。


 仮にマナバッテリーを三・五マルクスで売り、原価を一マルクスとすれば、利益は二・五マルクス。その六割——一・五マルクスがギルドに持っていかれる。俺たちの取り分は、一マルクス。


 悪くない条件に見えるかもしれない。だが——


「通常のギルド手数料は二割のはずです」


 俺は冷静に指摘した。


「今回は特例だ」


 フェルディナントが表情を変えずに答えた。


「理由は三つ。一つ、お前個人のギルド登録ができないため、ギルドが販売の全責任を負う。二つ、製造方法が開示されないため、ギルドが品質に対するリスクを取る。三つ——お前が、マナ破産体質だからだ」


「マナ破産体質であることと、商品の品質は——」


「関係がないとでも?」


 フェルディナントが身を乗り出した。


「マルク。この世界では——マナは信用だ。マナを持つ者は信頼され、持たない者は疑われる。それが正しいかどうかは別として——それが、現実だ」


 その言葉に——俺は反論できなかった。


 前世でも、同じだった。信用——それは、実績と資格と、社会的な肩書で測られる。


 マナ破産体質という俺の「欠陥」は——この世界では、致命的な信用の欠如を意味する。


「六割は——高すぎます」


「ならば——帰りなさい」


 フェルディナントが冷たく言った。


「ギルドなしで、露店で一つずつ売ればいい。それが嫌なら——わたしの条件を呑め」


 テーブルの下で、俺の拳が握りしめられた。


 ここで引き下がるか——それとも——


 その時——ゴルドが口を開いた。


「フェルディナント」


 低い声。静かだが、部屋の空気を震わせるような重み。


「わしの名前を使え」


「……何?」


「この商品の製造責任者として、わしの名前——マイスター級鍛造師ゴルドの名前を、登録しろ。わしはギルドの元会員だ。マナも持っている。品質の保証人として——わしが立つ」


 フェルディナントが——一瞬、目を見開いた。


「ゴルド。お前は——十一年前にギルドを除籍された身だ。それを——」


「復籍させろ。条件は——この商品の認定だ」


 ゴルドとフェルディナントの目が、真っ向からぶつかった。


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


 やがて——フェルディナントが、笑った。


 声を出して。


「ハッ——ハハハ! ゴルド、お前は——変わらんな。十一年経っても、相変わらず頑固な爺だ」


「お互い様だ」


 ゴルドが不機嫌そうに答えた。


 フェルディナントが笑いを収め、椅子に座り直した。


「いいだろう。ゴルドが保証人として立つなら——話は変わる」


 フェルディナントの目が、再び計算モードに入った。


「条件を修正する。利益の上納率は——四割」


「三割」


 俺が即座に切り返した。


「三・五割」


「三割」


「……マルク。お前、農民の三男坊とは思えん交渉をするな」


「恐れ入ります」


 フェルディナントが溜息をついた。


「わかった。三割だ。ただし——」


 指を一本立てた。


「三ヶ月の試用期間を設ける。その間に、マナバッテリーが月間五十個以上売れなければ——契約は白紙だ。ゴルドの復籍も取り消す」


 月間五十個。


 現在の生産能力は週十個——月四十個。ギリギリ足りない。


 だが——


「受けます」


 俺は即答した。


 フェルディナントが目を細めた。


「即答か。——自信があるのか、無謀なのか」


「自信です」


「根拠は?」


「改良の余地があります。生産効率を上げれば、月間六十個は可能です。そして——この商品は、売れます。俺が——保証します」


 フェルディナントが俺を見つめた。


 十秒。二十秒。


 そして——立ち上がった。


「面白い」


 その一言に——商人としての全ての感情が込められていた。興味。計算。警戒。そして——ほんの僅かな、敬意。


「契約書は明日用意する。今夜は——町の宿に泊まるといい。ギルドの指定宿なら、安くしてやれる」


 フェルディナントが扉に向かって歩き出した。


 だが——扉の前で立ち止まり、振り返った。


「マルク」


「はい」


「お前のその目——どこかで見たことがある気がする」


「気のせいでしょう」


「かもしれんな。——だが、忘れるな。この町では——わたしが法だ」


 その言葉を残して、フェルディナントは部屋を出ていった。


 フェルディナントが去った後、応接室に三人だけが残された。


 窓から差し込む午後の日差しが、黒檀のテーブルに長い影を落としている。


 沈黙。


 最初に口を開いたのは、ルーナだった。


「……ねえ、マルク」


 その声は——平静を装っていたが、微かに震えていた。


「あの人——フェルディナントさん。最後に笑ったよね。『面白い』って」


「ああ」


「あの笑い方——嫌な感じがした」


 俺は椅子の背に身体を預けた。天井を見上げる。


「どういう嫌な感じだ?」


「んーとね……猫が鼠を見つけた時の顔。まだ食べないけど、もう逃がさないって決めた時の——あの顔」


 鋭い比喩だ。


 ルーナの勘は——おそらく、正しい。


「ゴルドさん」


 俺はゴルドに問いかけた。


「フェルディナントは——何を考えていると思いますか?」


 ゴルドは腕を組んだまま、窓の外を見ていた。リヴァータウンの大通りが眼下に広がっている。人々の往来。馬車の行き交い。商売の喧騒。


「あの男は——すべてを計算している」


 ゴルドが低い声で言った。


「三割の上納率。三ヶ月の試用期間。月間五十個の販売ノルマ。——すべてが、わしらにギリギリ達成できる水準に設定されている」


「つまり——」


「わしらが必死に働いて、ギリギリで条件を達成する。その間に、あの男はマナバッテリーの市場価値を見極める。売れるとわかれば——」


 ゴルドが振り返った。


「条件を引き上げてくるだろう。五割に、六割に。最終的には——製造方法の完全開示か、あるいは——」


「買収」


 俺が先を読んだ。


「マナバッテリー事業そのものを、ギルドの管轄下に置く。俺たちは下請けになる」


 ゴルドが頷いた。


「王都時代と、同じ手口だ。あの男は——新しい技術を見つけると、まず泳がせる。育てさせる。そして——十分に育った頃に、刈り取る」


 前世でも、同じ手法を使う投資家はいた。


 スタートアップに投資し、成長させ、十分に大きくなったところで経営権を奪う。ベンチャーキャピタルの「支援」という名の搾取。


 俺自身も——前世では、そうやって企業を手に入れた側だった。


「じゃあ——どうするの?」


 ルーナが不安そうに聞いた。


「契約を断る?」


「いや——」


 俺は首を振った。


「断らない。受ける」


「え? でも——」


「受けた上で——フェルディナントの計画を上回る」


 俺は立ち上がった。テーブルの上に、指で目に見えない図を描く。


「フェルディナントの計算は——俺たちの成長速度を、低く見積もっている」


「どういうこと?」


「あの男は、辺境の貧村が月間五十個を『ギリギリ達成できる』と計算した。だが——俺の計算では、二ヶ月以内に月間百個まで増産できる」


「百——? どうやって」


「工程の改善だ。今は一個一個手作りしている工程を、分業と治具の導入で半自動化する。光り石の加工、ケースの組み立て、バルブの調整——それぞれの工程を独立させて、並行作業にする」


 ルーナが目を瞬かせた。


「それって——ゴルドさん一人じゃなくて、村人みんなで作るってこと?」


「そうだ。ゴルドさんには最も精密な加工だけに集中してもらう。それ以外の工程は、訓練した村人が担当する」


 ゴルドが、初めて表情を動かした。


「……工程を分けるのか。面白い」


「前世で——いや、昔聞いた話ですが。針を一人で作ると一日に一本しか作れないが、十工程に分けて十人で作ると、一日に千本作れるそうです」


 アダム・スミスの「ピン工場の例え」。分業と専門化による生産性革命。産業革命の核心理論を——この世界で実践する。


「百個作れれば——販売ノルマの五十個は楽に達成できる。残りの五十個は、ギルドを通さないルートで販売する」


「ギルドを通さないルート?」


「ガルデンの魔道具商への直接卸売だ。これまで通りの取引を続ける。フェルディナントとの契約は、リヴァータウンでの販売に限定する。他地域での販売は——俺たちの自由だ」


 ルーナが、ぱっと顔を輝かせた。


「つまり——リヴァータウンではギルドの看板を借りて信用を築き、他の場所では独自に売って利益を確保する?」


「その通りだ。二つの販路を同時に育てる。フェルディナントが刈り取ろうとした時には——すでに俺たちには、ギルドに依存しない独自の販売網ができている」


「……賢いね、あんた」


 ルーナが感心したように言った。


「前世——いや、昔の経験が役に立ってる」


 ゴルドが腕を解いた。


「小僧。一つ、聞いていいか」


「何ですか?」


「お前は——時々、まるで百年生きた商人のように話す。農民の三男坊が——なぜ、そんな知識を持っている?」


 俺は——ゴルドの目を見た。


 灰色の瞳。深い人間観察眼。この老職人は——最初から、俺の「異常さ」に気づいていた。


「……いつか——話す時が来ると思います。でも、今は——」


「わかっておる」


 ゴルドが短く答えた。


「お前の秘密が何であれ——お前がこの村のために動いていることは、確かだ。それで十分だ」


 その言葉に——胸が温かくなった。


「ありがとうございます」


「礼はいい。——さっさと、その契約の対策を練るぞ」


 ◇


 夕暮れ。


 三人はギルドの指定宿「銀の天秤亭」にチェックインした。


 三人部屋で一泊二マルクス。決して安くはないが、明日の契約書の署名のために一泊は必要だった。


 部屋は簡素だが清潔だった。木製のベッドが三つ、小さなテーブル、窓からはリヴァータウンの裏通りが見える。


 テーブルを囲んで、三人は食事を取った。宿の提供する夕食——黒パンとシチューと、小さなチーズ。ビンボーレ村での食事と比べれば、遥かに贅沢だ。


「おいしい……」


 ルーナがシチューを口に運びながら、目を輝かせた。


「お肉が入ってる……! しかも、野菜もいっぱい……!」


「お前、食事の時だけは年相応だな」


「うるさいなぁ。……でも、マルク。これ一食でいくらかかってるの?」


「宿代込みだ。気にするな」


「気にするよ。村のみんなが出してくれた路銀で——」


「だからこそ、今は食べて力をつけろ。明日が本番だ」


 ルーナが頷いて、シチューの残りを掬い上げた。


 食事を終えた後、俺は窓辺に立った。


 リヴァータウンの夜景が広がっている。


 大通りには魔道具の街灯が灯り、橙色の光が石畳を照らしている。酒場からは笑い声が漏れ、路上では夜市の準備が始まっている。


 活気のある町だ。金が動き、人が動き、欲望が渦巻いている。


 前世のマンハッタンを思い出す。あの眠らない街で、俺は何十億ドルもの取引を成立させた。


 だが——今、俺が戦っているのは、たった三十個のマナバッテリーだ。


 金額にして百五マルクス。前世なら、ランチ代にもならない。


 だが——その百五マルクスに、百二十人の村人の命がかかっている。


「マルク」


 ルーナが隣に来た。


「今日一日——お疲れ様」


「……ああ」


「あんた、すごかったよ。あのフェルディナントって人と、対等に交渉して——」


「対等じゃなかった」


 俺は正直に言った。


「パワーバランスは、完全に向こうに傾いていた。俺たちが三割で手を打てたのは——ゴルドさんのおかげだ」


「うん。ゴルドさん——かっこよかった。『わしの名前を使え』って」


 ベッドに腰掛けたゴルドが、背を向けたまま低い声で言った。


「寝言を言ってないで、早く寝ろ」


「起きてますよぉ」


 ルーナが笑った。だが——すぐに表情が真剣になった。


「ねえ、マルク。一つだけ」


「何だ」


「フェルディナントさん——あの人、最後に言ったよね。『この町ではわたしが法だ』って」


「ああ」


「あれ——脅しじゃないと思う」


 ルーナの目が、窓の外のリヴァータウンの夜景を見つめていた。


「あの人は——本当にこの町の法なんだと思う。ギルドが法律みたいなもので、ギルドのトップがあの人で——つまり、この町のルールは全部あの人が決めてる」


「……そうだな」


「だから——あの人が『面白い』って笑った時、あたし、ぞっとした。面白がってるってことは——あたしたちは、あの人の掌の上にいるってことでしょ?」


 鋭い。


 この村娘は——十六歳にして、政治の本質を直感的に理解している。


「ゴルドさんも言ってたよね。『泳がせて、育てて、刈り取る』って。あの人は——全部わかった上で、あたしたちを泳がせてる」


「……たぶん、そうだ」


「怖くないの?」


「怖い」


 俺は正直に認めた。


「でも——前世でも、こういう局面は何度もあった」


「前世——」


「……昔の話だ。大きな力を持つ相手と、小さな力で戦わなきゃいけない時がある。そういう時に大事なのは——相手より速く成長することだ」


 俺は窓辺から離れ、テーブルに座った。


「フェルディナントは、三ヶ月で俺たちを刈り取ろうと計算している。だから——三ヶ月以内に、刈り取れないくらい大きくなればいい」


 ルーナが、ぽかんとした顔をした。


「……簡単に言うね」


「簡単じゃない。死ぬほど大変だ。でも——」


 俺は三十個のマナバッテリーが詰まった背嚢を見た。


「——俺たちには、武器がある。ゴルドさんの技術。ルーナのマナ。村人たちの協力。そして——」


 俺は胸を叩いた。


「——俺の、前世の知識だ」


「また前世って言った」


「言ってない」


「言った」


「……とにかく。明日、契約書にサインする。それから——村に帰って、増産体制を整える。三ヶ月後には——フェルディナントを驚かせてやる」


 ルーナが笑った。


「あんたの『驚かせてやる』は——大体、本当にやるから怖いよ」


 ゴルドが、ベッドから低い声を出した。


「小僧。ルーナ。明日は早い。さっさと寝ろ」


「はーい」


 ルーナが自分のベッドに滑り込んだ。


 俺もベッドに横になった。天井の木目を見つめる。


 頭の中では——次の一手が回転している。


 増産体制の構築。品質管理の維持。新製品の開発。販売チャネルの多角化。


 前世の知識がある。だが——この世界のルールは、前世とは違う。


 マナという資本。身分という壁。ギルドという既得権益。


 それでも——


「前世でもやったな」


 俺は小さく呟いた。


 テヌラ・モーターズも、スペースYも、最初は小さな挑戦者だった。


 既存の巨大企業に——小さなスタートアップが挑んだ。


 そして——勝った。


 今回も——勝つ。


 目を閉じる。リヴァータウンの夜の喧騒が、壁越しに聞こえる。


 遠くで、酒場の歌声。近くで、馬車の車輪の音。


 ビンボーレ村とは——まったく違う世界だ。


 だが——ここが、俺たちの新しい戦場だ。


 ◇


 夜中——俺はふと目を覚ました。


 窓の外に、二つの月が浮かんでいる。


 ルーナは静かに寝息を立てている。ゴルドも、規則正しい呼吸をしている。


 俺だけが——起きている。


 ベッドの上に起き上がり、背嚢からマナバッテリーを一つ取り出した。


 真鍮のケースが、月明かりで淡く光る。


 この小さな装置に——村の未来がかかっている。


 俺は、そっとケースを開けた。中の光り石が、微かに青白く瞬いている。充電済みのマナが、使われるのを待っている。


「……よし」


 呟いて、ケースを閉じた。


 明日——契約書にサインする。


 そして——本当の戦いが、始まる。


 フェルディナントは手強い相手だ。狡猾で、計算高く、この町を支配している。


 だが——俺には、仲間がいる。


 ゴルドの技術。ルーナの勘。村人たちの力。


 そして——前世で積み上げた、全ての知識と経験。


 最初の壁は、いつだって一番高く見える。


 でも——超えてみせる。


 前世では——一人で壁を壊した。


 今世では——仲間と一緒に、壁を越える。


 俺はマナバッテリーを背嚢に戻し、再びベッドに横になった。


 目を閉じる。


 明日からが——商人立志編の、本番だ。


 ビンボーレ村の貧農の少年が——商人の町で、成り上がりの第一歩を踏み出す。


 大貧民の物語は——まだ、始まったばかりだ。

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