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調査 ― 貧困の構造を解剖する

前話から5日後、マルクは村長バルトスの許可を得て村の帳簿を分析。年貢搾取率70%、年間収支+1マルクス(パン100個分)という絶望的な数字を目の当たりにする。翌日からルーナと共に村人へのヒアリングを開始し、連作障害、栄養失調の子供、医療費が払えない現実を直視。数字が「人間の顔」を持つ瞬間を経験する。さらに隣村ポーレ村と領主の城下町ガルデンを視察し、魔道具の市場価格(着火石3マルクス、湧水の瓶5マルクス)と流通経路を把握。光り石が「マナ蓄積量が少なすぎて使えない」と評価されていることを確認し、逆にチャンスと捉える。調査を終えた夜、マナという未知のエネルギーに前世の科学知識が通用せず一度は挫折しかけるが、ルーナの協力で「マナの本質を理解する必要はない、蓄積と放出のメカニズムを工学的に最適化すればいい」という突破口を発見。翌朝ゴルドに協力を要請し、炉の改造(吸気口増設、煙突設置、二重鞴)で燃焼効率30%向上を実現。約束通りゴルドがマナバッテリーの製作に協力し、10日間の試行錯誤の末、第一号プロトタイプが完成。3分充電で15分発光する世界初の「マナバッテリー」が誕生。価格を2マルクスに設定すれば魔道具市場で十分競争力があると確信し、村の経済改革への第一歩を踏み出す。

 あの夜から、五日が経った。


 丘の上でルーナに「この世界を変えてみせる」と宣言した翌日から、俺は動き始めた。前世のムーロン・マスクが常にそうしてきたように——まず、現状を把握する。市場調査。データ収集。競合分析。そして財務諸表の精査。


 テヌラ・モーターズを立ち上げた時も、スペースYで資金繰りに窮した時も、俺が最初にやったのは「数字を見る」ことだった。バランスシート、損益計算書、キャッシュフロー。三つの財務諸表を徹底的に分析し、どこに問題があり、どこに機会があるかを炙り出す。数字は嘘をつかない。感情も入らない。ただ、そこにある真実を——時に残酷なほど正確に——映し出すだけだ。


 ビンボーレ村にも、帳簿がある。


 それは、村長バルトスが管理していた。


 ◇


「帳簿を見せてほしい?」


 バルトスは、村長の家——といっても他の家より少しだけましな木造の建物だが——の粗末な机の前で、怪訝そうに俺を見た。


 五十代半ばだろうか。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、髪にはかなりの白髪が混じっている。村長の重責が、この男の顔に刻み込まれているのがよくわかる。だが——その目には、まだ諦めきれない何かが残っていた。


「ああ。村の収支記録、年貢の額、農地の面積、人口構成——可能な限り詳しく知りたい」


 俺は机の向こうに座ったまま、できる限り落ち着いた声で言った。十六歳の少年が村の財政を見たいなどと言い出すのは、この世界の常識では明らかに異常だ。だが——俺には理由がある。前世の五十二年分の経験が、この若い体の中で燃えている。


 バルトスが腕を組んだ。村長としての警戒心と、父親としてのルーナへの配慮が、その表情に混在していた。


「なぜだ? マルク、お前——熱で倒れてから、何か変わったな」


 鋭い。村のトップに立つ人間は、やはり人を見る目がある。


「村を良くしたい」


 俺は真っ直ぐにバルトスの目を見て言った。嘘ではない。ただし、全てを語ってもいない。世界を変えるなどと言ったら、間違いなく頭がおかしいと思われる。まずは小さく、現実的な目標を示す。起業家の基本だ。


「お父さん」


 隣に立っていたルーナが口を開いた。


「あたしもマルクに協力したいの。あいつ、本気なんだよ。よくわかんないけど——でも、本気」


 ルーナの声には、確信があった。あの夜の丘で見た、俺の目の中の炎を——彼女は信じてくれている。


 バルトスは長い沈黙の後、溜息をついた。


「……わかった。ただし、持ち出しは禁止だ。ここで見るだけにしてくれ。それと——」


 バルトスの目が、僅かに和らいだ。


「——何か気づいたことがあったら、教えてくれ。正直、わしも打つ手がないんだ。二十年、村長をやってきたが——村は良くなるどころか、年々厳しくなる一方だ」


 その声には、諦めと、それでも諦めきれない希望が混じっていた。


 村長の重責。百二十人の命を預かる立場。だが前世の俺から見れば、従業員十二万人の会社を経営していたのに比べれば——規模は千分の一だ。だが、責任の重さは、きっと変わらない。


「ありがとうございます」


 俺は頭を下げた。この体の年齢らしく、礼儀正しく。前世のムーロン・マスクは頭を下げることを知らなかったが——マルクは、まだ学べる。


 ◇


 バルトスが奥の棚から取り出してきたのは、三冊の分厚い革綴じの帳簿だった。


 表紙には、それぞれ「収入」「支出」「人口記録」と書かれている。インクは褪せ、ページの隅は擦り切れている。十年以上、いや二十年以上使われ続けた帳簿だろう。


 俺は最初の一冊——「収入」の帳簿を開いた。


 ページをめくる。羽ペンで書かれた、癖のある文字。数字と、簡単な説明文。年ごとに区切られている。


 五年前。四年前。三年前——


 前世のスプレッドシートとは比べものにならない原始的な記録方法だが——数字は、数字だ。


 俺の脳が、自動的に分析モードに入る。


 まず、年間総収入。


 直近の記録——昨年の数字を見る。


 農作物の販売:28マルクス

 山羊の乳・肉の販売:6マルクス

 薪の販売:3マルクス

 その他(手工芸品など):2マルクス


 **合計:39マルクス**


 三十九マルクス。銅貨に換算して三千九百コッパ。人口百二十人の村の、一年間の総収入。一人あたり約三十二コッパ。パン三十二個分。


 前世の経営者の目で見れば——これは事業ではない。これは生存ギリギリのサバイバルだ。


 次に、支出の帳簿を開く。


 年貢:27マルクス(王国への納税)

 種籾・農具の購入:5マルクス

 塩・その他生活必需品:4マルクス

 村の共有費(祭祀、道路補修など):2マルクス


 **合計:38マルクス**


 ……。


 年間収支:**+1マルクス**。


 黒字だ——というべきか。一マルクスの黒字。百コッパ。パン百個分。それを百二十人で分ければ、一人あたり約〇・八三コッパ。


 一年間働いて、一人あたりパン一個分も残らない。


 これが、この村の現実だった。


 俺はページをめくり続けた。五年前、十年前、十五年前——どの年を見ても、状況は同じだ。いや、悪化している。十年前の総収入は四十五マルクスだった。年々、減少している。


「……農地が痩せてきてるんだ」


 隣でルーナが小さく呟いた。


「連作障害、っていうのかな。同じ場所に同じ作物を植え続けると、だんだん育ちが悪くなるの。でも——他に土地がないから、休ませることもできない」


 連作障害。前世の農学の知識が、脳内で自動的に展開される。土壌中の特定の栄養素が枯渇し、病原菌が蓄積する。輪作か、休耕か、あるいは肥料の投入が必要だ。だが——この村には、その余裕がない。


 次に、年貢の項目を精査する。


 **年貢:27マルクス**


 総収入39マルクスの——約**69.2%**。


 七割。


 収入の七割を、税として持っていかれる。


 前世の感覚で言えば、これは異常だ。いや——搾取だ。法人税でも個人の所得税でも、七割なんて税率はありえない。北欧の高福祉国家でも五割が限度だった。それ以上は、経済活動を殺す。


 だが——この世界では、それが当たり前なのだろう。


 三身分制度。貴族が平民を支配し、平民が隷属階級を搾取する構造。俺たち——ビンボーレ村の住人は、最底辺のコッパークラス。搾り取られる側。


「これは……酷いな」


 声に出ていた。


 バルトスが苦い顔で頷いた。


「領主様の決めた年貢だ。毎年、少しずつ増えている。十年前は二十マルクスだった。それが今では二十七だ」


 増税。しかも段階的に。経済が縮小しているのに、税だけが増える。これでは村が疲弊するのは当然だ。


 俺は三冊目の帳簿——「人口記録」を開いた。


 名前、年齢、家族構成、職業。村人一人ひとりの記録が、几帳面に書き込まれている。


 現在の人口:**121名**


 内訳を見る。


 - 0~10歳:23名

 - 11~20歳:18名

 - 21~40歳:42名

 - 41~60歳:28名

 - 61歳以上:10名


 労働可能人口——21歳から60歳までを見ると、**70名**。


 だが——これには落とし穴がある。若い男性の多くは徴兵されている。記録を見ると、「兵役中」の印がついた名前が**15名**。実質的な労働人口は**55名**。


 人口百二十一名。労働者五十五名。年間総収入三十九マルクス。


 一人あたりの生産性を計算する。


 39マルクス ÷ 55名 = **約0.71マルクス**


 労働者一人が、一年間働いて、約〇・七一マルクス——七十一コッパを稼ぐ。パン七十一個分。一日あたり約〇・二コッパ。


 前世の基準で換算すれば——年収約二百ドル。一日あたり約〇・五五ドル。


 これは——世界銀行が定義する「極度の貧困」のラインを、遥かに下回っている。


 俺は帳簿を閉じた。


 数字が、全てを語っていた。


 ビンボーレ村は——経済学的に言えば、**破綻寸前**だ。


 いや、既に破綻している。ただ、村人たちが必死に生き延びているだけだ。


 ◇


「どうだった?」


 ルーナが俺の顔を覗き込んだ。


 俺は——何と答えるべきか迷った。


 前世のムーロン・マスクなら、こう言っただろう。「破綻している。再建不可能。撤退推奨」。冷徹に。数字だけを見て。


 だが——今の俺は、マルクだ。


 この村で生まれ、この村で育ち、この村の人々に看病され、この村の温かさを知った少年だ。前世の記憶を持っているが——それでも、マルクでもある。


「……悪い。想像以上に悪い」


 俺は正直に言った。嘘をついても意味がない。


「でも——」


 バルトスとルーナが、同時に俺を見た。


「——悪いってことは、改善の余地がある、ってことだ」


 バルトスの目が、僅かに見開かれた。


「改善……?」


「ええ。収入を増やすか、支出を減らすか。あるいは——年貢の負担を下げる方法を見つけるか」


 最後の選択肢は、現実的ではない。領主に年貢の減額を直談判する? 門前払いが関の山だ。だが——他の二つには、可能性がある。


「前世でもやったな」


 呟きが、また口から漏れた。


「前世?」


 ルーナが首を傾げる。しまった。また言ってしまった。


「い、いや——何でもない。ただ——」


 俺は帳簿に手を置いた。


「村の経済を立て直す方法は、ある。時間はかかるが——必ずある」


 その言葉に、嘘はなかった。


 前世で、俺は三回連続でロケットを爆発させた後、四回目で成功させた。テヌラ・モーターズは倒産寸前まで追い込まれたが、最後の資金調達で息を吹き返した。


 絶望的な数字の中にこそ、ブレイクスルーのヒントがある。


 それが——ムーロン・マスク流の経営哲学だった。


 そして今——マルクとして、それをこの村に適用する。


 バルトスが、深く息を吐いた。


「……マルク。お前、本当に変わったな」


「よく言われます」


 俺は苦笑した。


 変わった——というより、中身が入れ替わったのだが、それは言えない。


 ルーナが俺の袖を引いた。


「じゃあ、次は何するの?」


「ヒアリングだ」


「ヒア……何?」


「村人に話を聞く。一人ひとりに。数字じゃわからないことがある」


 前世でも、俺は工場の現場を視察した。作業員に直接話を聞いた。経営者がオフィスに閉じこもっていては、現場の本当の問題は見えない。


 数字は真実を映す。だが——数字の裏には、人間がいる。


 その人間を知らなければ、本当の解決策は見えてこない。


 前世の俺は、それを理解するのに二十年かかった。


 今世の俺は——最初から、そこから始める。


「ルーナ、手伝ってくれるか?」


「当たり前でしょ」


 ルーナが笑った。あの夜、丘の上で「共犯」を宣言した時と同じ——困ったような、でもどこか嬉しそうな笑顔。


「あんたの頭がおかしくなった結果、何かが変わるなら——あたしは最後まで付き合ってあげる」


 その言葉が、妙に心強かった。


 前世では、誰も俺の横に立ってくれなかった。部下は恐れ、同僚は距離を置き、家族は遠く離れていた。


 だが今——十六歳の少女が、俺の隣に立っている。


 数字を閉じ、人間に向き合う。


 それが——今日から始まる、本当の調査だった。


 翌日から、俺とルーナは村を歩き回った。


 一軒一軒、家を訪ね、村人に話を聞く。最初はぎこちなかった。十六歳の少年が突然やってきて「村の経済について話を聞きたい」などと言い出すのだから、警戒されて当然だ。


 だが——ルーナがいてくれたおかげで、扉は開いた。


「マルクね、村のことを本気で考えてるの。変なこと聞くかもしれないけど、協力してあげて」


 ルーナの一言で、村人たちの表情が和らぐ。村長の娘。幼い頃から村を駆け回り、誰とでも分け隔てなく接してきた少女。その信頼が、俺への信頼に繋がった。


 前世では、こういう「人間関係の資本」を俺は持っていなかった。金はあった。名声もあった。だが——誰も俺を信頼していなかった。恐れていた。利用しようとしていた。だが、信頼はしていなかった。


 ルーナという「共犯者」がいることの価値を、俺は今、実感していた。


 ◇


 最初に訪ねたのは、ミルンという老農民の家だった。


 七十を超えているだろうか。腰は曲がり、手は節くれ立っている。だが——目だけは、まだ鋭かった。


「マルクの坊主か。熱で倒れたと聞いたが、もう大丈夫なのか?」


「ええ。おかげさまで」


 俺は粗末な木の椅子に腰を下ろした。ミルンの家は、他の家と同じように狭く、暗く、壁は隙間だらけだった。囲炉裏の火が唯一の光源で、煙が天井の隙間から細く漏れている。


「村の農業について、教えていただけますか? どんな作物を育てていて、どんな問題があるのか」


 ミルンは少し驚いた顔をしたが、やがて話し始めた。


「わしらが育ててるのは、主に小麦と大麦だ。あとは芋と豆。でもな——」


 老人の声が、重くなった。


「土が死んでる。十年前に比べて、収穫は半分以下だ。同じ土地に同じ作物を植え続けたせいだろう。わかっちゃいるが——他にどうしようもない」


「輪作は——」


「やりたくてもできん。土地が足りない。休耕地を作る余裕もない。一年でも休ませたら、その年の収入がゼロになる。それじゃ年貢が払えん」


 年貢。またその言葉だ。


「肥料は?」


「家畜の糞を使ってる。だが——山羊の数も減った。病気で死んだり、食料にしたり。肥料も足りん」


 負のスパイラルだ。農地が痩せる→収穫が減る→家畜を売る→肥料が減る→さらに農地が痩せる。


 俺はノートを取り出した——といっても、木の板に炭で字を書いただけの原始的なものだが——ミルンの話を記録していく。


「もし——もし、肥料が手に入ったら? あるいは、土を休ませる方法があったら?」


 ミルンの目が、一瞬だけ輝いた。


「……そりゃあ、助かる。だが、どこにそんなものがある?」


「わかりません。でも——探してみます」


 その言葉に、ミルンは苦笑した。


「若いのう。まあ、若いうちは夢を見るのもいいさ」


 夢、か。


 前世の俺も、よくそう言われた。「電気自動車で世界を変える」と言った時も、「火星に人を送る」と言った時も。夢を見ている、現実を知らない、と。


 だが——夢を現実にするのが、起業家だ。


 ◇


 次に訪ねたのは、若い夫婦——アダムとエマの家だった。


 二十代半ば。三人の子供がいる。一番上が七歳、真ん中が五歳、一番下が二歳。


 三人とも——痩せていた。


 エマが粗末なスープを子供たちに配っている。中身は——水に芋の欠片が浮いているだけ。塩すら入っていないように見えた。


「すみません、こんな時に」


 俺は申し訳なさを感じながら、話を切り出した。


「いえ、マルク様。ルーナ様もご一緒で」


 エマが恐縮したように頭を下げる。「様」付けで呼ばれるのは居心地が悪い。俺もルーナも、同じコッパークラスの村人なのに。


「子供たちの様子は——」


 言葉が途切れた。


 一番下の子が、母親の膝にしがみついて、じっと俺を見ていた。大きな目。痩せた頬。その目に生気がない。


 栄養失調だ。


 前世で、アフリカの貧困地域の写真を見たことがある。飢えた子供たちの目。あの写真と——この子の目が、重なった。


「……大丈夫ですか?」


 ルーナが心配そうに声をかける。


「ええ、ええ。ちょっと風邪気味で。でも、薬草を煎じて飲ませてますから」


 エマが笑おうとする。だがその笑顔は、引きつっていた。


 アダムが、低い声で言った。


「……正直なところ、医者に診せたい。でも——ガルデンの町まで行く旅費もないし、診察代も払えない」


「診察代は——」


「五マルクスだ。村の年収の一割以上だ。そんな金、どこにもない」


 五マルクス。銅貨五百枚。前世の感覚で言えば——千五百ドルくらいか。アメリカでも保険なしの診察は高いが、それでも百ドルから二百ドル程度だった。五マルクスは——この村の人々にとっては、天文学的な数字だ。


 俺は——何も言えなかった。


 数字で見た時は、冷静に分析できた。年間収入三十九マルクス。年貢二十七マルクス。残り十二マルクス。その数字の裏に——こういう現実があることは、わかっていた。


 だが——実際に目の前で、痩せた子供を見ると——数字が、人間になる。


 抽象が、具体になる。


 統計が、命になる。


「……すみません。お邪魔しました」


 俺は立ち上がった。それ以上、何を聞けばいいのかわからなかった。


 家を出る時、二歳の子がぐずり始めた。エマが「大丈夫よ、大丈夫」と何度も繰り返す声が、背中に刺さった。


 ◇


「……マルク」


 アダムの家を出た後、ルーナが小さな声で言った。


「大丈夫? 顔色悪いよ」


「ああ。大丈夫だ」


 嘘だった。大丈夫じゃない。


 前世では、チャリティに一千万ドル寄付して「社会貢献」をした気になっていた。だが——実際に貧困を目の当たりにしたことは、一度もなかった。


 数字の上で知っていた。世界には飢えている人がいる。病気でも医者にかかれない人がいる。一日一ドル以下で生活している人がいる。


 知識としては知っていた。だが——見たことはなかった。


 今、初めて——見た。


 二千億ドルを持っていた男が、五マルクスすら持たない人々の中に放り込まれた。


「……次、行こう」


 俺は歩き出した。立ち止まっていたら、何かが崩れそうだった。


 ルーナが、無言で後についてくる。その背中が——どこか心配そうに見えた。


 ◇


 その日、俺たちは十軒以上の家を訪ねた。


 どの家でも、話は同じだった。


 土地が痩せている。収穫が減っている。子供が病気だが医者に診せられない。家畜が死んだ。農具が壊れたが買い替えられない。


 そして——年貢が重い。


 誰もが、その言葉を口にした。だが——誰も、それを変えられるとは思っていなかった。


「仕方ないんだ」


 ある老婆が言った。


「貴族様の決めたことだ。わしらコッパークラスが口を出せることじゃない。大いなる帳簿に、わしらは『負債』として記されてるんだから」


 大いなる帳簿。アカウンタス神の教義だ。


 前世の罪が負債として記録され、今世で返済している——そう信じている。だから貧困は、神の定めた運命だと受け入れている。


 これは——宗教による思考停止だ。


 いや、違う。思考停止ではない。生き延びるための、防衛機制だ。どうしようもない現実を前にした時、「これは神の定めた運命だ」と思うことで、心を守っている。


 前世で見た、世界中の貧困地域と同じパターンだ。


 だが——その「諦め」を打破しなければ、何も変わらない。


 ◇


 夕方近く、俺たちはゴルドの鍛冶場を訪れた。


 前回は炉の設計について偉そうに語って追い出されたが——今日は、違う目的がある。


 カン、カン、カンという金属を叩く音が、相変わらず規則正しく響いている。


「ゴルドさん、いますか?」


 ルーナが声をかけると、打撃音が止まった。


「……また来たか」


 ゴルドが炉の前から姿を現した。煤まみれの顔。汗で濡れた額。灰色の瞳が、俺を値踏みするように見る。


「今日は炉の設計について文句を言いに来たんじゃない」


 俺は真っ直ぐに言った。


「あんたの技術について、教えてほしい」


 ゴルドの眉が動いた。


「技術?」


「ええ。村の農具を作ってますよね。鍬、鎌、鉈——どれも、他の村の製品より長持ちすると聞きました」


 これはルーナから聞いた情報だ。ゴルドが来る前、村の農具は二年で壊れた。だが今は、五年持つ。


「それがどうした」


「その技術を——もっと活かせないかと思って」


 ゴルドが腕を組んだ。


「活かす? 何に?」


「例えば——もっと効率的な農具。もっと丈夫な工具。あるいは——」


 俺は炉を見た。前回見た時と同じ、非効率な設計。だが——あの炉で、ゴルドはマイスター級の製品を作っている。


「——新しい製品を作る」


「新しい製品、ねえ」


 ゴルドが鼻を鳴らした。


「金になるのか?」


「わかりません。でも——可能性はあります」


「可能性、か」


 ゴルドの目が、少しだけ和らいだ——ような気がした。


「小僧。お前、前に来た時、炉の設計図を描いたな」


「ええ」


「あれ——本当に効率が上がるのか?」


 その質問に、俺は即答した。


「上がります。二割は確実に」


「……ふん」


 ゴルドが再び炉の方を向いた。


「帰れ。今日は忙しい」


 また追い出された。だが——今回は、前回と違う感触があった。


 ゴルドは——俺の言葉を、完全には否定しなかった。


 これは——チャンスだ。


 ◇


 日が暮れる頃、俺とルーナは村の中央広場に戻ってきた。


 一日中歩き回って、足が棒のようになっていた。ルーナも疲れた顔をしている。


「……疲れたね」


「ああ」


 俺たちは広場のベンチに座り込んだ。アカウンタス神の祠が、夕日を受けて長い影を落としている。


「でも——いろいろわかったよね」


 ルーナが膝を抱えて言った。


「村の人たち、みんな苦しんでる。でも——誰も、諦めてない。諦めたふりをしてるだけ」


 鋭い観察だ。ルーナは、俺よりもずっと、この村の人々の心を理解している。


「……数字で見た時は、冷静でいられたんだ」


 俺は呟いた。


「年収三十九マルクス。年貢二十七マルクス。一人あたりの生産性〇・七一マルクス——ただの数字だった。分析対象だった」


「でも?」


「実際に見たら——数字じゃなくなった。人になった」


 あの痩せた子供の顔が、脳裏に焼きついて離れない。


「前世では——」


 また口が滑った。だが、今は止められなかった。


「——俺は、数字しか見てなかった。スプレッドシートの中の世界で生きてた。そこには人間がいなかった。ただの数字だけだった」


 ルーナが、じっと俺を見ていた。


「前世って、マルク——あんた、本当に何者なの?」


 その質問に、俺は答えられなかった。


 答えたら——全てが崩れる気がした。


「……いつか話す。今じゃない」


「ふーん」


 ルーナは意外とあっさり引き下がった。


「まあいいけど。でも——あんたが本気で村のことを考えてるのは、わかった」


 そう言って、ルーナが立ち上がった。


「さ、帰ろ。お母さんが夕飯作って待ってるよ。マルクの家にも、おすそ分け持っていくから」


「……ありがとう」


 俺も立ち上がった。体は疲れていたが——心は、不思議と軽かった。


 前世では、数字の世界に逃げていた。人間と向き合うのが怖かった。だから、スプレッドシートの向こう側に隠れていた。


 だが今日——俺は、人間と向き合った。


 痩せた子供。諦めかけた老人。それでも生き延びようとする人々。


 数字が、人間になった瞬間だった。


 そして——その人間たちのために、何かをしなければならない。


 それが——マルクとしての、俺の使命だと感じた。


 さらに翌日。俺とルーナは、村の外へ向かった。


「本当に行くの? 片道二時間はかかるよ」


 ルーナが不安そうに言う。俺たちが目指しているのは、領主の城下町——ガルデンだ。


「ああ。市場を見なきゃいけない」


 前世でも、俺は市場調査を徹底的にやった。競合製品の価格、流通経路、顧客のニーズ——それを知らずに製品を作るのは、目隠しして車を運転するようなものだ。


 ビンボーレ村の現状はわかった。次は——この村の外の世界を知る必要がある。


 ◇


 村を出て東へ向かう道は、泥と石ころだらけの獣道だった。


 前世で見た高速道路とは比べものにならない。舗装もない。標識もない。ただ、踏み固められた土の上を、人と荷車が通った痕跡があるだけだ。


「この道、雨が降ったらぬかるんで通れなくなるの」


 ルーナが歩きながら言う。


「冬は?」


「雪が積もって、三ヶ月は完全に封鎖。だから、秋のうちに食料を確保しとかないと、冬を越せない」


 インフラがゼロだ。いや、マイナスだ。これでは物流が成立しない。


 だが——逆に言えば、ここにも改善の余地がある。道路を整備すれば、流通コストが下がる。流通コストが下がれば、村の製品をより遠くに売れる。


 頭の中で、自動的に事業計画が組み上がっていく。前世の癖だ。問題を見つけたら、即座に解決策を考える。


 ◇


 一時間ほど歩いたところで、分岐点に出た。


 左に行けばガルデン。右に行けば——


「隣村のポーレ村だよ」


 ルーナが指差した。


「ちょっと寄ってみないか?」


「ポーレ村に? なんで?」


「比較対象が欲しい。ビンボーレ村だけ見ていても、何が普通で何が異常かわからない」


 ルーナは少し考えてから、頷いた。


「まあ、ガルデンに行く途中だし。ちょっとだけなら」


 ◇


 ポーレ村は、ビンボーレ村の二倍ほどの規模だった。


 人口は二百人を超えているだろう。家屋も多く、中央広場には小さな市場らしきものがあった。


「あれ見て」


 ルーナが指差す先に、水車小屋があった。ビンボーレ村の壊れかけの水車とは違い、きちんと整備されている。水車がスムーズに回り、石臼が穀物を挽いている音が聞こえる。


「やっぱり、ちゃんと動いてる……」


 ルーナが呟いた。


 俺は市場に近づいた。露天が五つほど並んでいて、野菜、穀物、簡単な手工芸品が売られている。


 価格を確認する。


 小麦一袋(約五キロ):八コッパ

 芋十個:三コッパ

 山羊のチーズ一塊:十五コッパ


 ビンボーレ村よりも、僅かに安い。農地の生産性が高いからだろう。水車があれば粉挽きの効率も上がる。その分、コストが下がる。


「ねえ、あれ」


 ルーナが俺の袖を引いた。


 市場の隅に、一人の老人が座っていた。その前に——淡く光る石が、五つほど並べられていた。


 光り石だ。


 俺は老人に近づいた。


「これ、いくらですか?」


 老人が顔を上げた。皺だらけの顔。疲れた目。


「一つ二コッパだ。安いだろう?」


 二コッパ。パン二個分。


 前世の感覚で言えば——六ドルくらいか。この世界の物価から見ても、かなり安い。


「……売れてますか?」


「全然だ」老人が溜息をついた。「子供が喜ぶくらいで、大人は誰も買わない。光るだけで何の役にも立たないからな」


 光るだけで何の役にも立たない——


 その言葉が、胸に刺さった。


 前世では、誰もがそう言った。「電気自動車なんて売れない」「ロケットの再利用なんて無理だ」——誰もがそう言った。だが俺は、それを覆した。


 光り石も、同じだ。


 今は「何の役にも立たない」と思われている。だが——この石には、可能性がある。マナを蓄積する性質がある。それを活用すれば——


「一つ、買います」


 俺は腰の袋から銅貨二枚を取り出した。リーナが「何かあった時のために」と持たせてくれた、貴重な銅貨だ。


 老人が驚いた顔で光り石を渡してくれた。


「ありがとうよ。久しぶりに売れた」


 俺は光り石を手に取った。ルーナが持っていた時は青白く光っていたが、俺の手に触れた瞬間——光が消えた。


 予想通りだ。俺のマナはゼロ。この石は、俺の手では光らない。


 だが——それでいい。


 この石の価値は、光ることじゃない。マナを蓄えられることだ。


 ◇


 ポーレ村を後にして、さらに東へ進む。


 森を抜け、小さな川を渡り、丘を越えると——視界が開けた。


 ガルデンの町が、眼下に広がっていた。


「わあ……」


 ルーナが感嘆の声を上げた。


 石造りの建物が並ぶ町。人口は——千人を超えているだろう。ビンボーレ村の十倍だ。中央には領主の城がそびえ、周囲を石の城壁が囲んでいる。


 前世で見た中世ヨーロッパの町並みに似ている。だが——もっと小規模で、もっと貧しい。


 町の入口には門があり、衛兵が二人立っていた。


「止まれ」


 衛兵の一人が槍を構えた。


「どこから来た?」


「ビンボーレ村です」


 ルーナが答えた。俺よりも、こういう場面では彼女の方が適任だ。


「用件は?」


「市場を見に来ました」


 衛兵が俺たちをじろじろと見た。粗末な服。泥だらけの足。明らかに貧しい村人だとわかる。


「……通れ。騒ぎを起こすなよ」


 衛兵が槍を下ろした。


 俺たちは門をくぐった。


 ◇


 ガルデンの市場は、ポーレ村の比ではなかった。


 中央広場全体が市場になっていて、数十の露天が並んでいる。野菜、肉、魚、布、陶器、農具——ありとあらゆるものが売られていた。


 だが——俺の目的は、それじゃない。


「魔道具を売ってる店はないか?」


 ルーナが周囲を見回した。


「あ、あそこ」


 広場の隅に、石造りの小さな店があった。看板には「魔道具商 アルケミア」と書かれている。


 俺たちは店に入った。


 店内は薄暗く、棚には様々な道具が並んでいた。光る石、不思議な形の瓶、金属製の装置——どれも、前世では見たことのないものだった。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から、中年の男が顔を出した。太った体。油じみた髪。小さな目が、値踏みするように俺たちを見る。


「……ああ、村人か。冷やかしなら出ていってくれ」


「冷やかしじゃありません」


 俺は真っ直ぐに言った。


「魔道具について知りたいんです。どんな種類があって、どのくらいの価格で、どう作られているのか」


 男が鼻を鳴らした。


「お前らみたいな貧乏人に、魔道具が買えるとでも?」


 その言葉に、ルーナの顔が強張った。だが俺は冷静だった。前世でも、こういう傲慢な商人には何度も会った。


「買えるかどうかじゃなく、知りたいんです。教えてくれたら——」


 俺は腰の袋を探った。残りの銅貨は——三枚。


「——これを払います」


 男が銅貨を見て、苦笑した。


「三コッパか。まあ、情報料としては悪くないな」


 男が棚から一つの道具を取り出した。拳大の石に、金属の枠がついている。


「これは『着火石』。マナを込めると火が出る。料理や暖房に使える。価格は三マルクスだ」


 三マルクス。銅貨三百枚。


 次に、透明な瓶を取り出した。


「『湧水の瓶』。マナを込めると水が湧く。一日に五リットルまで。価格は五マルクスだ」


 五マルクス。


 さらに、鏡のような道具を取り出した。


「『伝声の鏡』。遠く離れた相手と話ができる。ただし、ペアで買う必要がある。価格は——二十マルクスだ」


 二十マルクス。


 どれも、ビンボーレ村の年収に匹敵するか、それを超える価格だ。


「どうやって作るんですか?」


 男が肩をすかした。


「知らん。わしは商人であって職人じゃない。仕入れて売るだけだ」


「仕入れ先は?」


「王都だ。そこに魔道具師のギルドがある。そいつらが作ったものを、わしらが仕入れて売る」


 王都。流通経路が見えてきた。


「魔道具には——」


 俺は光り石を取り出した。


「——こういう石は使われますか?」


 男が光り石を見て、鼻で笑った。


「光り石か。ガキの玩具だな。魔道具には使わん。マナの蓄積量が少なすぎる」


 マナの蓄積量が少ない——


 つまり、逆に言えば、蓄積量を増やせば使える、ということだ。


「ありがとうございました」


 俺は銅貨三枚をカウンターに置いた。


 男が銅貨を掴み、手を振った。


「もう用はないだろ。帰れ帰れ」


 ◇


 店を出た後、ルーナが不満そうに言った。


「感じ悪いね、あの店主」


「ああ。でも、情報は手に入った」


 魔道具の価格帯。流通経路。そして——光り石が「使えない」とされている理由。


 全て、貴重なデータだ。


 俺たちは市場をさらに歩き回った。食料品の価格、手工芸品の品質、人々の服装——全てを観察し、記憶に刻む。


 ガルデンの町の人々は、ビンボーレ村よりは豊かだった。だが——それでも、前世の基準で言えば貧しい。子供たちの多くは裸足で、服は継ぎ接ぎだらけだ。


 この世界全体が——貧しい。


 だからこそ——チャンスがある。


 ◇


 日が傾き始めた頃、俺たちは帰路についた。


「疲れたね……」


 ルーナがぐったりと呟く。往復四時間以上の道のりだ。十六歳の体でも、流石に疲れる。


「でも、いろいろわかったよね」


「ああ」


 俺は歩きながら、頭の中で情報を整理していた。


 ビンボーレ村の現状。ポーレ村との比較。ガルデンの市場価格。魔道具の流通経路。光り石の評価。


 全てが、少しずつ繋がり始めていた。


「ねえ、マルク」


 ルーナが唐突に言った。


「あんた、本当に何か思いついてるの? 村を良くする方法」


 俺は立ち止まった。


 森の中の小道。夕日が木々の間から差し込んで、ルーナの亜麻色の髪を照らしている。


「……まだ確信はない。でも——」


 俺は光り石を取り出した。ルーナの手に乗せると、青白い光が灯った。


「——この石に、可能性がある」


「光り石が?」


「ああ。これは今、『使えない』とされてる。でも——使えるようにする方法があるかもしれない」


 ルーナが光り石を見つめた。その光が、彼女の緑色の瞳に映り込んでいる。


「……あんた、やっぱり変だよ。でも——」


 ルーナが笑った。


「——その変なところが、なんか信じられる」


 その言葉が、妙に嬉しかった。


 前世では、誰も俺を信じてくれなかった。恐れていた。利用しようとしていた。だが、信じてはくれなかった。


 ルーナは——信じてくれている。


 理解はしていないかもしれない。だが、信じてくれている。


 それが——今の俺には、何よりも心強かった。


「帰ろう。日が暮れる前に村に戻らないと」


「うん」


 俺たちは再び歩き始めた。


 背後で、夕日が森を赤く染めている。


 前を見れば、ビンボーレ村の方角。貧しくて、小さくて、誰にも見向きもされない村。


 だが——その村から、世界を変える。


 光り石を握りしめながら、俺は心の中でそう誓った。


 その夜、俺は一人、家の裏庭に座り込んでいた。


 木の板に、炭で何度も何度も図を描いては消し、また描いては消す。月明かりだけが頼りの、原始的な作業だ。


 前世なら、高性能のパソコンとCADソフトがあった。3Dモデリングも、シミュレーションも、ワンクリックでできた。


 だが今は——炭と木の板だけだ。


 それでも——頭の中では、前世と同じ思考回路が回っている。


 光り石の結晶構造。マナの蓄積メカニズム。魔道具との互換性。市場ニーズ。価格設定。流通経路——


 全てのデータが、頭の中で高速に処理されていく。


 だが——一つだけ、どうしても解けない問題があった。


 **マナとは、何なのか?**


 前世の物理学では説明できない。電磁気でもない。重力でもない。核力でもない。量子論でも説明がつかない。


 この世界では「空気中に存在するエネルギー」とされている。生物が呼吸や食事を通じて体内に蓄積し、魔法という形で放出する。


 だが——その本質は? 物理的な実体は? 化学的な構造は?


 わからない。


 前世の知識が——ここで、壁にぶつかった。


「……くそ」


 呟きが漏れた。


 炭を握りしめたまま、俺は空を見上げた。二つの月が、相変わらず夜空に浮かんでいる。白い月と赤い月。地球にはなかった、この世界の月。


 この世界の物理法則は——地球と違う。


 マナという未知のエネルギーが存在する。魔法という超常現象が実在する。


 前世の知識は——ここでは、通用しないのか?


 テヌラ・モーターズを立ち上げた時も、壁にぶつかった。バッテリーの エネルギー密度が足りない。コストが高すぎる。充電インフラがない。


 だが——それは全て、工学的に解決できる問題だった。技術を改良すればいい。スケールメリットを出せばいい。インフラを自分で作ればいい。


 解決策が、見えていた。


 だが今——マナという未知の存在を前にして、俺は——


 「マルク?」


 背後から声がした。


 振り返ると、ルーナが立っていた。寝間着姿。亜麻色の髪が、月光を受けて銀色に光っている。


「なんでこんな時間に起きてるの?」


「……眠れなくて」


 ルーナが隣に座り込んだ。俺の描いた図を覗き込む。


「何これ? よくわかんない線ばっかり」


「光り石の——構造を考えてた。でも——」


 俺は炭を置いた。


「——わからない。前世の知識じゃ、説明がつかない」


 また「前世」と言ってしまった。だが——もう隠す気力もなかった。


 ルーナが、じっと俺を見ていた。


「……ねえ、マルク。あんた、本当は何者なの? 前世がどうとか、村を変えるとか——普通の十六歳が言うことじゃないよ」


 その質問に——俺は答えるべきか迷った。


 答えたら、全てが崩れるかもしれない。信じてもらえないかもしれない。頭がおかしいと思われるかもしれない。


 だが——


 ルーナは、今まで俺を信じてくれた。意味がわからなくても、変だと思っても、それでも信じてくれた。


「……俺は——」


 俺は月を見上げた。地球にはない、二つの月。


「——この世界の人間じゃない。別の世界から来た」


 沈黙。


 虫の声だけが、夜の庭を満たしている。


 ルーナが——笑うかと思った。あるいは怖がって逃げるか。


 だが——


「……そっか」


 ルーナは、意外なほど冷静だった。


「だから、変なんだ。村のこと、数字で見たり。前世がどうとか言ったり。魔法も使えないのに、自信満々だったり」


 ルーナが膝を抱えた。


「でもね、マルク。あたしには関係ないよ」


「え?」


「あんたが別の世界から来たとか、前世が誰だったとか——そんなの、どうでもいい」


 ルーナが俺を見た。緑色の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。


「今のあんたが、マルクなんでしょ? 村の人を心配して、何とかしようとしてるマルクでしょ? だったら——それでいいじゃん」


 その言葉が——胸に染みた。


 前世では、誰もそんなことを言ってくれなかった。


 ムーロン・マスクという名前。総資産二千億ドルという数字。テヌラ・モーターズのCEOという肩書き。


 それが——俺の全てだった。


 だが——今のルーナは、そんなもの何も知らない。


 ただ「マルク」として、俺を見ている。


 それが——どれほど救いになるか。


「……ありがとう」


 俺は小さく言った。


 ルーナが笑った。


「礼なんていいって。で——何に詰まってるの?」


「マナだ」


 俺は板の上の図を指差した。


「前世の——俺がいた世界には、マナなんてものはなかった。だから、どう扱えばいいのかわからない」


「マナを——科学? みたいなので説明しようとしてるの?」


「ああ。でも——できない。未知すぎる」


 ルーナが少し考え込んだ。


「……マナって、そんなに難しく考えるものなのかな」


「え?」


「だって、あたしたち——普通に使ってるよ。意識してないけど」


 ルーナが手のひらを上に向けた。集中するように目を閉じる。


 数秒後——掌の上に、小さな水滴が浮かんだ。


 直径一センチほどの、透明な水の球。ふわりと宙に浮いている。


「これ、水属性の魔法。あたしは才能ないから、これくらいしかできないけど」


 水滴が、ゆらゆらと揺れている。


 俺は——息を呑んで、その光景を見つめた。


 物理法則を無視している。重力に逆らって、水が浮いている。魔法——超常現象が、目の前で起きている。


「どうやってるんだ?」


「どうやってって——」


 ルーナが困ったように笑った。


「わかんない。ただ、イメージするの。『水よ、出なさい』って。そしたら——出る」


 イメージ。


 量子論的に言えば——観測者効果に似ているか? いや、違う。これは——


「体の中のマナを、意識的に放出してるってことか?」


「たぶん? 難しいこと言われてもわかんないけど」


 ルーナが水滴を消した。ぽとり、と地面に落ちて、土に染み込む。


「マナって——そんなに複雑じゃないと思うよ。『ある』ものを『使う』だけ。料理で火を使うのと、あんまり変わらないんじゃない?」


 その言葉に——何かが引っかかった。


 料理で火を使う。


 前世で言えば——エネルギーを使う、ということだ。


 電気を使う。ガスを使う。石油を使う。


 エネルギーの源が何であるか——それは、使う側にとっては関係ない。


 重要なのは——**どう蓄えて、どう取り出すか**。


 マナも、同じじゃないのか?


 マナの本質がわからなくても——蓄積と放出のメカニズムさえ理解できれば——


「……そうか」


 俺は再び板を手に取った。


 今まで、俺はマナの「本質」を理解しようとしていた。物理的な実体を解明しようとしていた。


 だが——それは必要ない。


 前世でも、俺はバッテリーの化学反応の全てを理解していたわけじゃない。だが——バッテリーを作れた。使えた。量産できた。


 重要なのは——実用化だ。


 光り石は、マナを蓄積する。蓄積したマナを、何らかの形で取り出せれば——それは「魔道具」になる。


 マナの本質を理解する必要はない。蓄積と放出——その仕組みさえ作れれば——


「ルーナ」


 俺は板に新しい図を描き始めた。


「光り石に——お前のマナを込められるか?」


「え? まあ、できるけど」


「じゃあ、試してみてくれ」


 俺はポケットから光り石を取り出した。ポーレ村で買った、二コッパの石。


 ルーナが石を手に取った。青白い光が灯る。


「で?」


「それを——できるだけ長時間、持ち続けてくれ。マナを込めるイメージで」


「……よくわかんないけど」


 ルーナが目を閉じた。集中するように、呼吸を整える。


 光り石の光が——少しずつ、強くなっていく。


 最初は淡い青白い光だったのが、次第に鮮やかな青に変わっていく。まるで内部でエネルギーが蓄積されているかのように。


 一分。二分。三分——


「……もう、無理」


 ルーナが息を吐いて、石を置いた。


 光り石は——地面に置かれた後も、光り続けていた。


 俺の予想通りだ。


「今までは、お前が手を離したらすぐ消えてた。でも——今は消えてない」


「……本当だ」


 ルーナが驚いた顔で光り石を見つめる。


 石の光は、ゆっくりと——だが確実に、弱まっていく。五秒。十秒。十五秒——


 二十秒後、光は完全に消えた。


「二十秒——」


 俺は呟いた。


「意識的にマナを込めれば、蓄積時間が延びる。蓄積量が増えれば、放出時間も延びる」


 板に、新しい数式を書き込む。


 蓄積量 ∝ 接触時間 × 意識の集中度

 放出時間 ∝ 蓄積量 ÷ 放出レート


 前世のバッテリー工学と、同じ構造だ。


「もし——光り石の結晶構造を最適化して、蓄積効率を十倍にできたら?」


 俺は計算を続ける。


「蓄積時間三分で、放出時間二百秒——約三分。まだ足りない。でも——百倍にできたら?」


 ルーナが目を丸くした。


「三分充電して、三十分使える。それなら——」


「魔道具として、実用レベルになる」


 俺は立ち上がった。


 壁は——まだある。蓄積効率を百倍にする方法。放出を制御する機構。安全性の確保。


 だが——道は見えた。


 マナの本質を理解する必要はない。ただ——蓄積と放出のメカニズムを、工学的に最適化すればいい。


 それは——前世の俺が、散々やってきたことだ。


「ルーナ、ありがとう」


「え? 何が?」


「お前のおかげで、突破口が見えた」


 ルーナが困ったように笑った。


「よくわかんないけど——あんた、また変なスイッチ入ったでしょ」


「ああ。入った」


 俺は笑った。


 前世でも、こういう瞬間があった。三回連続でロケットが爆発した後、四回目の設計図を描いている時。バッテリーのエネルギー密度が壁にぶつかった時、新しい電極材料を見つけた時。


 絶望の向こうに——突破口が見える瞬間。


 それが——起業家としての、最高の快感だった。


 そして今——異世界で、再びその感覚を味わっている。


「……マルク」


 ルーナが立ち上がった。


「もう遅いから、寝よ? 明日また考えればいいじゃん」


「ああ。そうだな」


 俺は板を片付けた。


 月が、西に傾き始めている。もうすぐ夜明けだ。


 ルーナと並んで、家の中に戻る。


 前世では——こんなふうに、誰かと並んで夜を過ごしたことがあっただろうか。


 部下とは、常に上下関係だった。家族とは、疎遠だった。友人は——いなかった。


 だが今——ルーナがいる。


 意味がわからなくても、変だと思っても、それでも信じてくれる少女がいる。


 それが——どれほど心強いか。


 家の戸口で、ルーナが振り返った。


「おやすみ、マルク。変な夢見ないでね」


「ああ。お前もな」


 ルーナが自分の家に戻っていく。その背中が、月光を受けて小さくなっていく。


 俺は——自分の家に入る前に、もう一度空を見上げた。


 二つの月。知らない星座。


 この世界は、地球じゃない。


 だが——ここが、今の俺の居場所だ。


 マナという未知のエネルギー。光り石という未知の鉱物。


 前世の知識と、この世界の現実を組み合わせて——


 新しい何かを、作り出す。


 それが——マルクとしての、俺の使命だ。


 戸口をくぐり、藁のベッドに横になる。


 体は疲れていたが——心は、燃えていた。


 明日から——本当の挑戦が始まる。


 光り石を握りしめたまま、俺は目を閉じた。


 翌朝、俺は誰よりも早く目を覚ました。


 藁のベッドから起き上がり、昨夜の板を手に取る。炭で描かれた図——光り石の構造、マナの蓄積メカニズム、そして試作品の設計図。


 まだ粗い。まだ不完全だ。だが——方向性は見えている。


 前世でも、最初のプロトタイプはいつもこうだった。粗削りで、不格好で、誰が見ても「こんなもの動くわけがない」と思うような代物。


 だが——動かすのが、エンジニアの仕事だ。


 俺は家を出た。朝日が東の空を染め始めている。紫がかった空が、徐々にオレンジ色に変わっていく。


 村はまだ静かだった。農民たちはまだ眠っている。だが——一軒だけ、煙突から煙が上がっている家があった。


 ゴルドの鍛冶場だ。


 ◇


 鍛冶場に近づくと、もう金属を叩く音が聞こえていた。


 カン、カン、カン——規則正しく、力強く。


 俺は入口に立った。


「ゴルドさん」


 打撃音が止まった。


 炉の前から、煤まみれの老人が振り返った。灰色の瞳が、朝日を受けて鋭く光る。


「……小僧か。朝っぱらから何の用だ」


「手伝ってほしい」


 俺は板を掲げた。


「これを——作りたい」


 ゴルドが板を受け取り、図を眺めた。眉をひそめ、首を傾げ、やがて——


「……何だこれは」


「光り石を使った装置だ。マナを蓄積して、必要な時に取り出す。バッテリー——蓄電池のようなものだ」


「バッテリー?」


「ああ。この世界の言葉で言えば——魔力貯蔵器、とでも呼ぶべきか」


 ゴルドがもう一度図を見た。今度は、もっと真剣に。


「……面白い発想だな。だが——これは、わしには作れん」


「なぜ?」


「金属加工ならできる。だが——魔道具は専門外だ。魔道具師のギルドに行け」


「ギルドは、王都にしかない。それに——」


 俺はゴルドを真っ直ぐに見た。


「——あんたの技術が必要なんだ」


 ゴルドが鼻を鳴らした。


「媚びたところで、できんもんはできん」


「媚びてない。事実を言ってる」


 俺は図の一部を指差した。


「この外枠——光り石を保護する金属ケース。これは精密な加工が必要だ。隙間があったら、マナが漏れる。密閉性と、同時に放熱性も必要だ。そんな精度で金属を加工できるのは——あんたしかいない」


 ゴルドの目が、僅かに動いた。


「……それだけか?」


「いや。もう一つ」


 俺は図の別の部分を指差した。


「この放出制御機構——マナを必要な時に必要な量だけ取り出す仕組み。これには、バネとバルブが必要だ。精密機械の技術が要る。それも——あんたにしかできない」


 ゴルドが腕を組んだ。しばらく黙って図を見つめていたが——やがて、溜息をついた。


「……金はあるのか?」


「ない」


 即答した。


「だが——これが完成したら、村の収入が増える。あんたにも分け前を払える」


「売れる保証は?」


「ない。でも——市場調査は済んでる。魔道具の需要は高い。供給が追いついてない。光り石を使えば、コストを十分の一に抑えられる」


 ゴルドが再び図を見た。その目に——微かだが、興味の色が浮かんでいた。


「……小僧。お前、本当に変わったな」


「よく言われる」


「前に来た時、炉の設計について語ったな。あれ——本気でやってみるか?」


 その言葉に、俺は目を見開いた。


「いいのか?」


「ああ。お前の言う通りにやって、効率が上がらなかったら——二度と鍛冶場に来るな。だが——」


 ゴルドが槌を手に取った。


「——効率が上がったら、お前の装置を作ってやる」


 これは——賭けだ。


 だが——俺には勝算がある。


 前世で、俺は何度も工場の生産ラインを改善してきた。燃焼効率を上げる方法なら——熟知している。


「やろう」


 俺は手を差し出した。


 ゴルドがその手を——一瞬躊躇してから、握った。


 老人の手は、硬く、熱く、職人の手だった。


 ◇


 その日から、俺とゴルドは炉の改造を始めた。


 まず、吸気口を増設する。炉の中段に新しい穴を開け、空気の流入経路を二系統にする。


 次に、煙突を立てる。天井の隙間から逃げていた熱気を、煙突に誘導する。上昇気流が自然吸気を促進し、ふいごの負担を減らす。


 さらに、ふいごを改良する。一枚革のふいごを、二重構造に変える。押した時も引いた時も空気が送られる、連続送風機構。


 ゴルドは最初、懐疑的だった。だが——俺が図を描き、理屈を説明し、実際に手を動かして見せると——少しずつ、協力してくれるようになった。


 三日かかった。


 三日間、朝から晩まで、鍛冶場にこもった。ルーナが時々様子を見に来て、「あんたたち、本当に変な組み合わせだね」と笑った。


 そして——四日目の朝。


「火を入れるぞ」


 ゴルドが炉に炭を入れた。着火し、新しいふいごを動かす。


 風が——二倍の勢いで炉に吹き込まれる。


 炎が立ち上がった。従来よりも高く、力強く、青白い炎。


 ゴルドが鉄を炉に入れた。数分後、取り出す。その色——前よりも明らかに明るいオレンジ色。温度が上がっている証拠だ。


 ゴルドが鉄を叩いた。一打。二打。三打——


 普段よりも少ない打撃回数で、鉄が成形されていく。


 作業が終わった後、ゴルドは無言で炉を見つめていた。


「……どうだ?」


 俺が聞くと、ゴルドは——小さく、笑った。


 初めて見る、ゴルドの笑顔だった。


「……確かに、効率が上がった。二割どころか、三割は上がってる」


 ゴルドが俺を見た。


「小僧。お前——一体、何者だ?」


「ただの村人だ」


「嘘をつけ。こんな知識を持った村人がいてたまるか」


 俺は——何と答えるべきか迷った。


 だが——ゴルドは、それ以上追求しなかった。


「……まあいい。約束は約束だ」


 ゴルドが板——俺の設計図を手に取った。


「お前の装置を作ってやる。ただし——」


 ゴルドの目が、鋭く光った。


「——わしの技術を、舐めるなよ」


 その言葉に、俺は笑った。


「期待してる」


 ◇


 それから一週間。


 俺とゴルドは、プロトタイプの制作に没頭した。


 光り石を選別する。裏山で採取した石の中から、最も大きく、最も透明度が高いものを選ぶ。


 ゴルドが金属のケースを作る。精密な寸法で、隙間なく光り石を包む。だが——完全に密閉すると熱がこもるため、微細な通気孔を開ける。その孔の位置と大きさを、何度も調整する。


 俺は放出制御機構を設計する。バネとバルブ——この世界にはまだ存在しない機構を、既存の材料で再現する。試行錯誤の連続だ。


 ルーナが手伝ってくれた。彼女のマナで、何度も光り石を充電し、放出時間を計測する。データを集め、改良を重ねる。


 村人たちが噂し始めた。「マルクとゴルド爺さんが、何か変なものを作ってる」。


 だが——誰も邪魔はしなかった。むしろ——期待の目で見ていた。


 そして——


 十日目の夕方。


「……できた」


 俺は完成品を手に取った。


 拳大の装置。金属のケースに包まれた光り石。側面には小さなレバー——放出制御用のスイッチ。


 見た目は——前世の懐中電灯に似ていた。だが、その中身は——この世界で初めての、マナバッテリーだった。


「試してみよう」


 ルーナが装置を手に取った。目を閉じ、マナを込める。


 数分後——


「もう、限界」


 ルーナが装置を置いた。


 光り石が——内部で青白く光っている。金属ケースの通気孔から、微かな光が漏れている。


「レバーを引いてみてくれ」


 ルーナがレバーを引いた。


 瞬間——装置全体が明るく光った。


 ケースの前面に取り付けた透明な水晶(この世界のガラスに相当する)を通して、光が放出される。部屋全体が、青白い光に包まれた。


「わあ……」


 ルーナが感嘆の声を上げた。


 光は——一分。二分。三分——


 五分後も、まだ光り続けていた。


 ゴルドが、無言で光を見つめていた。その目に——何かが映っていた。驚き。そして——職人としての誇り。


 十分後、ようやく光が弱まり始めた。十五分で、完全に消えた。


「十五分——」


 俺は呟いた。


「まだ足りない。目標は三十分以上だ。でも——」


 俺は装置を見つめた。


「——これは、始まりだ」


 ゴルドが低い声で言った。


「……小僧。これは——売れるぞ」


「ああ」


「魔道具の『着火石』が三マルクスだったな。これは——照明として使える。しかも、マナさえ込めれば何度でも使える。価格を二マルクスにすれば——」


「売れる」


 俺とゴルドの目が、合った。


 起業家と職人。異なる世界から来た二人が——同じ未来を見ていた。


 ルーナが笑った。


「あんたたち、同じ顔してる。怖いくらい」


 その言葉に、俺たちは——笑った。


 ◇


 夜、俺は再び丘の上に登った。


 星空を見上げる。二つの月が、今夜も静かに輝いている。


 手の中に、プロトタイプのマナバッテリー。


 これは——まだ始まりに過ぎない。


 改良すべき点は、山ほどある。蓄積効率を上げる。放出時間を延ばす。コストを下げる。量産体制を作る。流通経路を確保する。


 やるべきことは、無限にある。


 だが——道は見えた。


 前世で、俺は二千億ドルを持っていた。だが——孤独だった。


 今世では、銅貨すら持っていない。だが——


 ルーナがいる。ゴルドがいる。リーナがいる。バルトスがいる。そして——百二十人の村人がいる。


 前世よりも——遥かに豊かだ。


「……よし」


 俺は立ち上がった。


 マナバッテリーを空にかざす。レバーを引く。


 青白い光が、夜の丘を照らした。


 光の中で、俺は笑った。


 前世のムーロン・マスクは、火星を目指して死んだ。


 だが——マルクは、この村から始める。


 光り石一つから。


 マナバッテリーという、小さな革命から。


 そして——いつか、この世界全体を変える。


 丘の下から、ルーナの声が聞こえた。


「マルク! また一人でなに してるの!」


「今行く!」


 俺は光を消し、丘を下り始めた。


 背後で、星が瞬いている。


 知らない星座。知らない世界。


 だが——ここが、俺の戦場だ。


 大貧民の少年の、成り上がりの物語。


 第一章——終わり。


 そして、第二章——始まり。

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