表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

転生 ― 破産からの再スタート

地球最高の大富豪ムーロン・マスクは、自社ロケット「スターシッパー号」の爆発で死亡。異世界エクイティア大陸のビンボーレ村で貧農の少年マルクとして転生する。幼馴染ルーナと母リーナの看病で回復した後、前世の経営者の目で村を調査。壊れた水車、栄養失調の子供たち、搾取構造——絶望的な貧困の中に、マイスター級の技術を持つ謎の鍛冶屋ゴルドを見出す。裏山で発見した光り石でマナ完全ゼロ「マナ破産体質」が判明するも、光り石のマナ蓄積特性に着目し「マナバッテリー」を着想。夜の丘で星空を見上げ、前世の2000億ドルの空虚と今世の温かな貧困を対比し、「今度こそ人のために世界を変える」と決意。ルーナを最初の「共犯者」として、大貧民の成り上がりが始まる。

 俺の人生は常にカウントダウンだった。


 テヌラ・モーターズのIPO——上場まで残り三十日。資金がショートするギリギリのラインで、投資家どもを口八丁で丸め込んだ。スペースYのファルコン10——三度目の打ち上げ失敗で会社が潰れるはずだった四度目、残り十秒のカウントダウンを聞きながら、俺は笑っていた。いつだってゼロに近づくほど、俺の血は沸騰する。


 そして今日——二〇二六年三月十五日。テキサス州ボカチカ。

 スペースY社の射場「スターベース」。


 人類初の有人火星飛行ミッション。

 その最初の搭乗者は、CEOである俺自身。


 コックピットのシートに背中を預けながら、俺はバイザー越しに射場の夜明けを見ていた。メキシコ湾から昇り始めた朝日が、全長百三十メートルのスターシッパー号をオレンジ色に染め上げている。人類が作った最も巨大な乗り物。その先端に、俺はたった一人で座っている。


 総資産二千億ドル。

 テヌラ・モーターズ、スペースY、SNS「Y」——世界を動かす三つの帝国を手中に収めた男。

 フォーブスの長者番付で八年連続世界一位。

 地球上で最も有名な人間の一人。


 なのに——


 このシートに座った今、俺の胸を満たしているのは、達成感でも恐怖でもなく、奇妙な空虚さだった。


 まるで巨大なスプレッドシートの全セルに数字を打ち込み終えて、合計欄を見たら「#VALUE!」って表示されてる感じだ。計算式が間違ってるのか、それとも——そもそも入力すべき数字が違ったのか。


 家族とは疎遠。

 七人の子供がいるが、最後に電話したのはいつだったか思い出せない。三番目の子の名前すら——いや、あれは「Y Ash A-Xii」だったか。自分でつけた名前なのに、正しい読み方がわからない。我ながら最悪のネーミングセンスだ。

 友人と呼べる者はゼロ。部下は俺を恐れるか、媚びるか、その二択しかない。前に「ムーロンさんは厳しいけど公正です」と言った社員がいたが、あいつは翌週クビにした。俺に公正さなんて求めるな。求めるなら株価を求めろ。


 ——静かだ。

 百三十メートルの塔の天辺、気密されたコックピットの中は、世界から切り離されたように静かだった。


『T-minus sixty seconds. All systems nominal.(打ち上げ六十秒前。全システム正常)』


 管制室からの声が、ヘッドセット越しに響いた。


 六十秒。


 俺はグローブをはめた手をコンソールに置き、薄く笑った。ここまで来るのに二十年かかった。テヌラ・モーターズで自動車の未来を変え、スペースYで宇宙への扉を開き、「Y」で——いや、あれは買収額の半分以上を溶かしただけだったな。あれは数少ない失敗だ。いや、失敗じゃない。戦略的再配置だ。


「ジャービー」


 俺は船内AIに声をかけた。


『はい、マスク船長。何かご用でしょうか。なお、打ち上げ四十五秒前です。雑談のタイミングとしては最悪ですが』


「火星のホテルは予約したか?」


『あいにく、火星にはまだホテルがございません。そもそも大気もほぼありません。お客様のご期待に沿えず申し訳ございませんが、まずは生存をお勧めいたします』


「じゃあ五つ星の大気を作ってやるよ。テラフォーミングの事業計画書、火星到着までに仕上げとけ」


『了解しました。では、まず到着していただく必要がございますね』


 この毒舌AIは俺が自分でプログラムした。皮肉のパラメータを最大に振ったら、こうなった。後悔はしていない。イエスマンのAIなんて、検索エンジン以下の価値だ。


『T-minus thirty seconds.(三十秒前)』


 管制室のカウントダウンが、俺の鼓動と重なる。


 三十秒。


 スターシッパー号のメインエンジンは三十三基。一基あたりの推力は二百三十トンf——合計七千五百九十トンfの推力が、このロケットを重力の鎖から引き剥がす。俺が設計を指揮した。俺が部品の一つ一つを承認した。このロケットは俺そのものだ。


 これが、俺がやるべきことだ。

 人類を火星に送る。多惑星種族への第一歩を刻む。

 歴史の教科書に、永遠に残る。


 ——ニール・アームストロングが月面に最初の足跡を残したように。

 ムーロン・マスクが火星への扉を開いた、と。


 その時、俺は確かに笑っていた。高揚。傲慢。支配欲。この惑星で足りないなら、次の惑星を手に入れればいい。究極のM&A——惑星買収だ。


『T-minus ten... nine... eight...』


 カウントダウンが一桁に入った。コックピットの振動が微かに大きくなる。燃料のメタンと液体酸素が、地下の配管を駆け抜けている。


『...seven... six... five...』


 俺は目を閉じた。一瞬だけ。


 ——最後に見たかったのは、管制画面でもコンソールでもなく、バイザー越しの空だった。テキサスの空。夜明けのグラデーション。紺青から茜色へ滲む境界線。この空の向こうに、俺の約束の地がある。


『...four... three... two... one...』


『Ignition.(点火)』


 世界が、揺れた。


 三十三基のラプター・エンジンが一斉に咆哮を上げた。コックピット全体が獣の腹の中に放り込まれたかのように震え、凄まじい轟音が骨の髄まで響き渡る。


 Gが来た。


 まるで神の掌で地面に押し付けられるような加重が、全身を襲う。内臓が下に引っ張られ、視界の端が暗くなりかける。だが俺は歯を食いしばって笑った。


 ——これだ。この感覚だ。

 二千億ドルでも買えないものが、たった一つだけある。

 重力を振り切る瞬間の、この興奮。


「ジャービー、速度は?」


『マッハ一を突破。高度一万二千メートル——順調です。エンジン三十三基、全基正常燃焼。……珍しいですね、全部動いているなんて』


「おい、縁起でもないこと言うな」


『失礼。統計的事実を申し上げたまでです。過去のテストでは平均二・三基が打ち上げ直後に停止しておりましたので』


「だから有人飛行まで待ったんだろうが。今日は完璧だ。俺が乗ってるんだぞ? 宇宙が空気を読め」


『宇宙に空気はありませんが』


 ジャービーの皮肉に鼻を鳴らしながら、俺はモニターに目をやった。高度は二万メートルを超え、速度はマッハ二に迫っている。コックピットの小さな窓の外で、空の色が青から藍へと変わっていく。


 あと数分で大気圏を抜ける。

 あと数時間で地球周回軌道に乗る。

 あと数ヶ月で——


 その時だった。


『——WARNING. WARNING.(警告、警告)』


 コックピットの照明が赤に切り替わった。


 打ち上げから四十七秒。


『エンジン異常を検出。ナンバー七——停止。ナンバー十二——停止。ナンバー三——停止——』


 ジャービーの声が、急に早口になった。だが俺の耳に届いたのは、もっと信じられない言葉だった。


『——ナンバー一から三十三まで、三十二基のエンジンが同時停止。稼働中のエンジンは——一基。ナンバー十七のみ』


「……は?」


 三十三基中、三十二基が同時に死んだ?

 そんなことがあるか。冗長設計を何重にもかけた。配線も配管も独立系統にした。三十二基が同時に止まるなんて、確率的にはほぼゼロだ。


 ——ほぼ、ゼロ。

 ゼロじゃない。


『残存エンジン、ナンバー十七——出力低下。推力三十パーセント……二十パーセント……』


「ジャービー、補助系統を——」


『補助系統応答なし。メイン制御系統応答なし。バックアップ制御系統——応答なし。マスク船長、申し上げにくいのですが』


「…………」


『現在の状況を自動車に例えますと、時速三千キロで走行中にブレーキ、アクセル、ハンドルが全て同時に壊れた状態です。……リコール案件ですね』


 ジャービーの最後のジョークが耳に届いた、その直後——


 〇・八秒後。


 まず音が消えた。

 いや、正確には——音が多すぎて、脳が処理を放棄したのだろう。


 コックピットが白い光に包まれた。


 衝撃すら感じなかった。感じる暇がなかった。全長百三十メートル、重量五千トンの巨大ロケットが、成層圏の入口で巨大な火球に変わる。地上のカメラがその映像を捉え、数時間後にはSNS「Y」のタイムラインを埋め尽くすことになる——世界一高価な花火、と。


 だが、そんなことを俺が知る由もない。


 白い光の中で、俺の唇が動いた。


「あ、これリコールだわ」


 ——声に出せたかどうかも、わからない。

 ムーロン・マスクらしい最後の軽口。

 実際のところ、テヌラの車も「完全自動運転」とか言いながらたまに電柱にぶつかってたし、今さらリコールの一つや二つ——


 いや。


 ——違う。


 白い光が意識を溶かしていく中で、軽口の仮面が剥がれた。


 怖い。


 死ぬのが、じゃない。

 消えるのが怖い。


 二千億ドル稼いだ。

 世界一の有名人になった。

 電気自動車で輸送の歴史を変えた。

 再利用ロケットで宇宙開発のコストを百分の一にした。

 SNSを買って、世界中の言論空間を手に入れた。


 ——なのに。


 なのに、俺はまだ何も成し遂げていない。


 その確信が、炎よりも熱く胸を焼いた。


 二千億ドル。数字だ。ただの数字。誰かの人生を変えたか? 俺のロケットで火星に降り立つ人間は、俺の名前を覚えているか? 百年後、千年後——ムーロン・マスクという名前は、教科書の何行目に載る? それとも、載らないのか?


 子供たちの顔が浮かんだ。ぼやけていた。七人もいるのに、一人として鮮明に思い出せない。

 元妻たちの声が聞こえた気がした。「あなたは火星より遠い場所にいるのよ」——誰かにそう言われたことがある。


 ああ、そうだ。

 俺は火星に行きたかったんじゃない。


 俺は——


 意識が溶ける。白が白を塗り潰していく。感覚が一つずつ消えていく。音、温度、重力、痛み——全てが遠ざかる。


 最後に見えたのは、モニターでもコンソールでもなかった。


 ひび割れた窓の向こうに、一瞬だけ——

 地球が見えた。


 青かった。


 どこまでも、残酷なほど、青かった。


 ——ああ。

 あの青を守りたかったのか、それとも、あの青から逃げたかったのか。

 自分でもわからないまま——


 ムーロン・マスク、享年五十二歳。

 人類史上最も裕福な男は、人類史上最も高価な棺桶の中で、全ての数字をゼロにした。


 カウントダウン——終了。


 ——見知らぬ天井だった。


 というか、これは天井と呼んでいいのだろうか。

 粗く削られた木の梁が三本、ぼやけた視界を横切っている。その上に敷き詰められているのは——藁だ。束ねた藁を重ねただけの、原始的な屋根。隙間から細い光が何本も差し込んで、埃の粒子がゆっくりと舞っている。


 ……どこだ、ここ。


 頭が重い。思考がまるで起動直後のOSみたいに遅い。体中が鉛を流し込まれたように怠く、指先一つ動かすのに膨大なエネルギーが要る。高熱の余韻だろうか——皮膚の表面がじっとりと汗ばんでいる。


 俺は——


 ムーロン・マスク。テヌラ・モーターズCEO。スペースY CEO兼チーフエンジニア。

 スターシッパー号に乗って——

 爆発して——


 死んだ。


 はずだ。


 なのに、なぜ意識がある? 天国か? 地獄か? ——いや、天国がこんなに蒸し暑いはずがないし、地獄にしては藁の匂いがのどかすぎる。


 手を持ち上げようとした。右腕がぎしりと軋む。だが、動いた。

 視界に入ったのは——痩せた少年の手だった。


 指が細い。骨が浮いている。爪の間に泥が詰まっている。日焼けした肌は薄汚れて、至るところに小さな傷痕がある。

 これは——五十二歳の、ムーロン・マスクの手じゃない。


 思考が一瞬フリーズした。ブルースクリーンだ。いや、待て。落ち着け。データを集めろ。前世の——いや、さっきまでの俺は、テキサスの射場で爆発した。それは確かだ。その後、白い光。意識の断絶。そして——この天井。この体。


 仮説A:臨死体験による幻覚。

 仮説B:脳が損傷し、別人の記憶を参照している。

 仮説C:転生。


 ……Cだけは勘弁してほしい。俺はSFの経営者であって、ファンタジーの住人じゃない。


「——マルク!」


 突然、鮮烈な声が鼓膜を叩いた。


「マルク! 目が覚めた! お母さん、マルクが起きたよ!」


 視界の端から、一つの顔がぬっと覗き込んでくる。

 少女だった。


 亜麻色の髪がふわりと垂れて、俺の顔をくすぐった。日に焼けた頬にはそばかすが散らばっていて、大きな緑色の瞳が心配と安堵を半分ずつ湛えて、まっすぐに俺を見ている。年齢は——俺のこの体と同じくらいか。十五、六歳。


 その顔を見た瞬間——脳の奥で何かが弾けた。


 記憶だ。

 俺のものじゃない記憶。断片的で、靄がかかったような曖昧な映像が、走馬灯のように流れ込んでくる。


 ——小さな手を引かれて、畑の畦道を走る。

 ——井戸の縁に並んで座って、足をぶらぶらさせる。

 ——「マルクのくせに泣くな!」と叱られる。


 ルーナ。


 名前が、自然と浮かんだ。この体の——元の持ち主の記憶。幼馴染の少女。村長バルトスの娘。活発で、お節介で、やたらと面倒見がよくて——


「マルク? ねえ、聞こえてる? あたしがわかる?」


 ルーナが俺の肩を揺する。その手のひらは小さいくせに力が強い。農村の女の子は逞しいものだ。


 俺は——マルクは——いや、俺は。

 乾いた唇を動かした。


「……ルー、ナ?」


 声が出た。しゃがれて、か細くて、五十二歳のCEOの威厳もへったくれもない、少年の声。だが——確かに声が出た。しかもこの言語、英語でも日本語でもない。聞いたことのない言葉のはずなのに、自然に口から出てきた。マルクの記憶から引き継いだのか。脳の言語野ごと借りている、ということか。


 ルーナの目に涙が滲んだ。


「よかった……! 三日も目を覚まさないから、もう駄目かと……っ」


 三日。


 三日間、意識がなかった。この体の元の持ち主に何があったのかは、まだ断片的な記憶からは読み取れない。高熱で倒れた——というのが、この体の感覚から推測できる限界だ。


 ルーナがぐしぐしと目元を拭いて、弾かれたように立ち上がった。


「待ってて! お母さん呼んでくる! 動いちゃ駄目だよ! 絶対!」


 藁のベッドの上に取り残される。

 ばたばたと駆けていく足音。薄い木の壁の向こうで「お母さん! マルクが!」と叫ぶ声。


 俺はもう一度、天井を見上げた。

 藁。木の梁。埃。


 ……仮説Cで確定だ。


 ムーロン・マスク、総資産二千億ドル。

 現在のステータス——藁のベッドに寝かされた、名も知らぬ世界の痩せた少年。


 前世では、マンハッタンのペントハウス。シルクのシーツ。二十四時間対応のコンシェルジュ。朝食はオーガニックのアボカドトーストに、エチオピア産シングルオリジンのコーヒー。


 今世では——藁。


 ……人類史上最大の資産縮小だ。リーマン・ショックが可愛く見える。


 ◇


 ルーナが呼びに行って数分後、別の足音が聞こえてきた。ルーナのものより重く、けれどルーナと同じように急いでいる。


 木の扉が軋んで開き、一人の女性が入ってきた。

 四十代だろうか。色褪せたエプロンを身につけ、髪を一つに束ねている。顔には疲労の跡が深く刻まれていたが——その目には、温かい光があった。


 マルクの記憶が、また弾ける。


 母さん。リーナ。


 ——夕焼けの台所で、鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている背中。

 ——寝る前に頭を撫でてくれる、ごつごつした手。

 ——父が死んだ日、一晩中泣いた後、翌朝には笑顔で朝食を作っていた横顔。


 記憶の断片が胸の奥に流れ込むたびに、不思議な感覚が広がった。これは俺の記憶じゃない。けれど——嘘じゃない。この体に刻まれた、確かな記憶だ。


「マルク——ああ、マルク!」


 リーナが駆け寄り、俺の額に手を当てた。硬くて、荒れていて、でも——不思議と安心する手だった。ムーロン・マスクの五十二年の人生で、こんなふうに額に手を当ててもらったことが、あっただろうか。


「熱は……下がったみたいだね。ああ、よかった。よかったよぅ……」


 リーナの声が震えた。目尻に涙の筋が光る。

 その背後で、ルーナが安心したように笑っている。


「三日も寝てたんだよ、マルク。薬草の煎じ薬も効かなくて、お母さん毎晩アカウンタス様にお祈りしてたんだから」


 アカウンタス。

 その名前に聞き覚えはないが、文脈からして——この世界の神のようなものか。マルクの記憶をもう少し探りたいが、今はまだ靄が深くて、必要なファイルがどこに格納されているか見当がつかない。


「……ごめん、心配かけた」


 俺は——マルクの口で、そう言った。不思議だった。ムーロン・マスクは生前、「ごめん」という単語を辞書から削除していた男だ。取締役会でも、株主総会でも、元妻との離婚調停でも、一度も謝ったことがない。


 なのに——この母親の涙を前にしたら、自然と口をついて出てきた。マルクの記憶のせいか。それとも——この体に宿った瞬間から、何かが変わり始めているのか。


 考える余裕はなかった。リーナが「ちょっと待ってなさい」と足早に部屋を出て、すぐに木の椀を持って戻ってきたからだ。


「食べられるかい? お粥を作っておいたんだけど——」


 椀を覗き込む。

 薄い。


 驚くほど薄い。水に僅かな穀物の粒が沈んでいるだけの、限りなく水に近い粥だ。前世の俺なら「これは食事ですか、それとも実験用の蒸留水ですか」と言いかねない代物だった。


 だが——匂いは、温かかった。

 湯気の中に、微かだがほっとするような穀物の香りがある。心のこもった匂いだ。成分分析では測れない、何かがある。


 リーナが木のスプーンで粥をすくい、俺の口元に運んでくれた。


「ゆっくりでいいからね。無理しなくていいんだよ」


 一口、含む。

 味は——ほぼ無い。塩気すら殆どない。前世のミシュラン三つ星レストランで鍛えた舌が「これは白湯では?」と抗議している。


 でも——温かい。

 喉を通って、胃に染み込んで、体の芯がじわりと温まる。三日間何も食べていなかった体が、この僅かな栄養を全力で吸収しようとしているのがわかる。


「……うまい」


 俺は言った。嘘じゃなかった。


 リーナが、ふっと笑った。疲れ切った顔が、その一瞬だけ柔らかくなった。


「まだまだあるからね。おかわりもあるよ」


 この粥を作るために、どれだけの食料を使ったのだろう。この家の台所事情を想像すれば——断片的な記憶からでもわかる——おかわりの余裕など、本当はないはずだ。


 前世の俺は、百ドルのオーガニックジュースを一口飲んで「薄い」と捨てた男だ。

 今世の母親は、家にある全てを注ぎ込んで、この薄い粥を作ってくれている。


 ……どっちが、豊かだ?


 粥を三口ほど飲んだところで、体力の限界が来た。スプーンを握る指が震え、視界がぐらりと傾く。


「無理しないで」とリーナが椀を受け取り、「もう寝な」とルーナが毛布——これも藁と麻を縫い合わせたものだ——を掛け直してくれた。


 意識が遠のく前に、一つだけ確かめたいことがあった。


「……何か、映るもの……ないか」


「映るもの?」


 ルーナが首を傾げる。リーナが少し考えて、棚から小さな金属の盆を取り出した。磨かれた銅だろうか。歪んだ表面に、おぼろげに像が映る。前世の高精細ディスプレイに慣れた目には、解像度が壊滅的だ。


 だが——十分だった。


 盆の中に映った顔。

 黒い髪。痩せた頬。薄汚れた肌。だが——目だけが、やけに強い光を宿している。十六歳の少年の顔なのに、どこか年齢にそぐわない意志の強さが、その瞳の奥に灯っている。


 ムーロン・マスクの面影は、一片もない。当たり前だ。これは別人の体だ。


 だが——あの目だけは。

 あの、「まだ何も成し遂げていない」と叫んだ瞬間の、あの目の光だけは。


 ——俺だ。


 銅の盆を返し、俺は藁のベッドに沈み込んだ。天井の梁が三本、変わらずそこにある。


 マルクス家の三男、マルク。十六歳。兄二人は徴兵で不在。父は数年前に病死。母リーナと二人暮らし——記憶の断片から、それだけは読み取れた。


 貧農。辺境の村。財産ゼロ。コネクションゼロ。この世界の常識もゼロ。


 持っているのは——五十二年分の記憶と、十六歳の体だけ。


 まるで、創業初日だ。


 いや——創業以前だ。まだオフィスの住所すら決まっていない。名刺もない。事業計画書もない。そもそもこの世界に「会社」という概念があるかどうかすら、わからない。


 ……上等だ。


 テヌラ・モーターズだって、最初はガレージからスタートした。スペースYだって、三回連続で打ち上げに失敗して、四回目で全てをひっくり返した。


 藁のベッドからのスタートなら——まあ、ガレージよりは多少グレードが落ちるが。


 意識が暗転する直前、俺は薄く笑った。


 ……まずは、情報収集だ。


 ◇


 ——回復一日目。


 ほぼ寝たきりだった。

 目が覚めては眠り、眠っては目が覚める。体が新しい魂に馴染もうとしているのか、あるいは単に三日間の高熱で衰弱しきっているだけか。おそらく両方だ。


 断続的な覚醒の合間に、前世の記憶を整理した。


 ムーロン・マスク。南アフリカ出身。テヌラ・モーターズ、スペースY、SNS「Y」——三つの帝国を築き上げた男。七人の子供がいたが、最後に電話したのはいつだか思い出せない。総資産二千億ドル。享年五十二歳。死因——自社ロケットの爆発。


 ……改めて振り返ると、かなり荒唐無稽な人生だ。転生先がファンタジー世界でも、大して違和感がない。


 そして、マルクの記憶も少しずつ輪郭を帯びてきた。

 覚醒するたびに、靄の奥から新しい断片が浮かび上がる。ビンボーレ村。ヴァルストリート王国の辺境。人口は百二十人ほど。主な産業は——痩せた土地での農業と、山羊の放牧。


 ……百二十人。前世で俺が経営していたテヌラ・モーターズの従業員数は十二万人だった。この村の千倍だ。


 ルーナが一日に何度も様子を見に来た。水を運んできたり、額の汗を拭いてくれたり、リーナが作ったスープ——相変わらず限りなく水に近い——を飲ませてくれたりする。


「熱はまだちょっとあるけど、昨日よりマシだよ。このまま良くなるって、きっと」


 ルーナは俺の枕元に座って、まるで独り言のように話しかけてくる。高熱で意識が朦朧としていた三日間も、こうして看病し続けてくれていたのだろう。


「あのね、今朝、裏の畑のかぼちゃがやっと一つ実をつけたんだよ。ちっちゃいやつだけど。あとね、ミルン爺さんとこの山羊が柵を壊してまた逃げたの。もう三回目。あの山羊、絶対に頭いいと思う」


 脈絡のない村の日常報告。だが不思議と、耳に心地よかった。

 前世では——俺のベッドサイドで、こんなふうに雑談をしてくれる人間は、いなかった。


 ◇


 ——回復二日目。


 少し起き上がれるようになった。

 背中を壁に預けて、窓の外を見る。


 ——息を、呑んだ。


 窓は小さく、歪んだ木枠にはめ込まれたガラスも無い、ただの四角い穴だ。だがそこから見える景色は——。


 木造の小屋が点在する、小さな農村。畑。畦道。遠くに山羊の鳴き声。朽ちかけた木の柵。井戸。一面に広がる、色の褪せた緑。


 そしてその向こうに——山脈。

 地球のどの山脈とも違う、鋭く天を突く青灰色の峰々が、地平線を縁取っている。


 空を見上げた。

 青い。だが——何かが違う。よく見ると、青の中にごく薄い紫が滲んでいる。地球の空にはない色彩だ。大気の組成が違うのか、太陽——この世界に太陽と呼べるものがあるとして——のスペクトルが異なるのか。


 ……これは、地球じゃない。


 頭ではもうわかっていた。だが——目で見ると、実感が違う。圧倒的な異質さが、五感を通じて流れ込んでくる。


 ここは異世界だ。俺は転生した。テキサスの射場でロケットと一緒に爆散した五十二歳の大富豪が、中世レベルの異世界の、貧しい農村の少年として生まれ変わった。


 SF映画なら、ここで壮大なBGMが流れるところだ。

 だが現実は——窓の外から山羊の鳴き声が聞こえるだけだった。


「メエェェ」


 ……BGMがこれか。


 ◇


 ——回復三日目。


「ほら、しっかり掴まって。ゆっくりでいいから」


 ルーナの肩を借りて、初めて家の外に出た。


 少年の体は思った以上に軽い。五十二歳の時は、スペースYの射場を歩くだけで膝が悲鳴を上げていた。この体は——弱っているとはいえ——若い。関節が軋まない。腰が痛くない。視界がクリアだ。近視もない。


 前世のムーロン・マスクは、金で最新の医療を買い、最高の栄養士を雇い、それでも加齢には勝てなかった。

 この体は、ただの十六歳の貧農の少年だが——若さだけで言えば、二千億ドルの大富豪より恵まれている。


 ……若さだけは、金で買えない。それは前世で嫌というほど思い知った。


 戸口の前に立ち、深呼吸をした。


 ——空気が、違った。


 肺を満たした空気の中に、言葉にできない何かが混じっている。エネルギー、とでも呼ぶべきもの。微かに、だが確かに、空気そのものが震えている。細胞の一つ一つが、その震えに反応して微かにざわめいているような感覚。


 前世のどんな場所でも——テキサスの射場でも、マンハッタンのビル街でも、南アフリカの草原でも——感じたことのない感覚だ。


 この世界の空気には、何かがある。


 まだ名前も知らない、何かが。


「大丈夫? 顔色はだいぶ良くなったけど」


 ルーナが心配そうに覗き込む。俺は——マルクは、彼女の肩に手を置いたまま、村の風景を見渡した。


 粗末な木造の家々。痩せた畑。泥の畦道。水が枯れかけた井戸。どこを見ても豊かさの欠片もない。前世の基準で言えば、発展途上国の僻地にも劣る。


 だが——この空気。この光。この世界には、地球にはなかった何かがある。


 ムーロン・マスクの脳が、自動的に分析を始めた。この感覚をエネルギーとして定量化できるなら——あるいは、技術的に利用可能な形に変換できるなら——


 いや、まだ早い。データが足りない。


「……ルーナ」


「ん?」


「この村の外には、何がある?」


 ルーナが目を丸くした。


「変なこと聞くね。森と、その向こうに領主様の城下町。あとは東に隣村が二つ。——なんで?」


「いや……」


 俺は村の向こうに広がる森を見つめた。木々の梢の向こう、紫がかった空の下に、何かの塔のような影がかすかに見える。城下町か。


「……ちょっと、色々見て回りたいんだ」


「はあ? まだ自分で歩けもしないくせに」


 ルーナが呆れた顔をする。正論だった。今の俺は、彼女の肩がなければ立ってもいられない。


「焦んなくていいから。ちゃんと治ってからにしなよ。村は逃げないって」


「……ああ」


 ルーナの言う通りだ。今はまだ、歩くことすらままならない。だが——頭は動く。この体は弱っていても、五十二年分の知識と経験は、フルスペックで稼働している。


 俺は戸口の木枠に手をつき、もう一度、深呼吸をした。


 紫がかった空。見知らぬ山脈。朽ちかけた農村。空気の中の不思議なエネルギー。


 前世では、火星を目指した。

 今世では——まず、この村の外を見ることから始めよう。


 ムーロン・マスクは死んだ。

 だが——マルクは、まだ始まってすらいない。


 藁のベッドの億万長者。

 総資産ゼロ。借金ゼロ。前世の記憶だけが唯一の資本。


 ……悪くない。少なくとも、バランスシートは綺麗だ。


 前世では二千億ドルを持っていたが、最後にはゼロになった。

 今世はゼロから始まるが——ゼロより下はない。つまり、ここからは上がるしかないということだ。


 口元が、自然と緩んだ。


 ルーナが怪訝そうに俺を見上げる。


「なに笑ってんの? まだ熱あるんじゃないの?」


「いや——」


 俺は——マルクは、紫がかった空を見上げて言った。


「——いい天気だな、と思って」


 ルーナは数秒、じっと俺の顔を見つめてから——ぷっと噴き出した。


「三日間死にかけてた人のセリフじゃないでしょ」


 彼女の笑い声が、穏やかな風に乗って、ビンボーレ村の空に溶けていく。


 ——さて。

 前世では市場調査から始めたものだ。

 今世も、そこからでいい。


 まずは——この世界を、知ることから。


 翌朝——正確には、回復四日目の朝。


 俺はルーナの肩を借りずに自力で立ち上がった。


 少年の体は回復が早い。前世なら三日寝込めば腰痛と肩こりがセットで悪化し、主治医に「ストレッチしてください」と五年間言われ続けた挙句、結局ストレッチの代わりに六千万ドルのメディカルスタートアップに投資したものだが——十六歳の体は、寝て食えば治る。最高のヘルスケアだ。コストはゼロ。


「外を歩きたい」


 朝食の薄い粥——昨日より僅かに穀物の粒が増えていた。リーナなりの祝福だろう——を平らげて、俺はルーナにそう告げた。


「え、もう? まだふらつくでしょ」


「大丈夫だ。昨日より全然いい」


 嘘じゃない。体は軽い。少なくとも、歩ける程度には。


「……しょうがないなあ。じゃああたしが案内してあげる。一人で転んで溝にハマっても知らないからね」


 ルーナは呆れた顔をしつつも、すぐに準備を始めた。こういう切り替えの速さは、前世の優秀な秘書を思い出させる。あの秘書は年俸二十五万ドルだったが、ルーナは無償だ。投資対効果が異常に高い。


 ——もっとも。ルーナにそんなことを言ったら、たぶん殴られる。


 ◇


 村の中央広場に出た。


 広場、と呼ぶには些か寂しい空間だった。踏み固められた泥の地面に、朽ちかけた木のベンチが二脚。隅にはアカウンタス神の祠——高さ一メートルほどの石の台座に、天秤を模した粗末な木彫りが載っている。供え物は干からびた麦の穂が数本。


 前世で見た、ウォール街のブロンズ・ブルの銅像を思い出した。あれは資本主義の象徴で、観光客が群がって写真を撮っていた。ここの祠は——誰も振り向かない。信仰はあるが、余裕がないのだろう。神に祈る暇があったら、畑を耕すべきだ。その判断は正しい。


 広場を起点に、俺はルーナの隣を歩きながら村を見て回った。


 だが——俺の目は、「観光客」のそれではなかった。


 ムーロン・マスクは生前、新しい事業に参入する前に必ず現地調査をした。テヌラ・モーターズの工場をネバダに建てる時も、スペースYの射場をテキサスに決める時も、まず自分の足で歩き、自分の目で見た。データはスプレッドシートの中にだけあるんじゃない。現場の空気にこそ、数字に表れない情報がある——それが俺の持論だった。


 そして今、俺の脳は完全に「市場調査モード」に入っていた。


 人口——約百二十。マルクの記憶と、今見える家屋の数から推定。労働可能人口は……五十から六十か。うち成人男性が二十五前後、成人女性も同程度。残りは老人と子供。


 農地——村の南側に広がる畑を、俺は目を細めて観察した。面積はざっと見て十五から二十ヘクタール程度。作付けされているのは小麦らしき穀物と、いくつかの根菜。だが——一目見て分かる。土の色が悪い。灰色がかった茶色。有機物が圧倒的に足りていない。


 灌漑設備——無い。畝の間に水路の痕跡すらない。雨水頼みの天水農業だ。


 輪作——されていない。同じ区画に同じ作物が植えられている跡が、土壌の疲弊具合から読み取れる。連作障害が起きているのは間違いない。


 生産効率を計算する。前世の知識で言えば、中世ヨーロッパの農業生産性は、播いた種の三倍から五倍が収穫の目安だった。この村の土壌状態を見る限り、二倍から三倍がいいところだ。現代農業なら同じ面積で二十倍は取れる。


「——人口約百二十。労働人口は五十から六十。農地面積から推定すると生産効率が絶望的に低い。灌漑設備なし。輪作の概念すらないのか……」


「ねえ、なんかブツブツ言ってない?」


 ルーナが怪訝そうに俺の顔を覗き込む。


「いや——村って、意外と広いなと思って」


「そう? 小さいよ、この村。隣のポーレ村の半分もないし」


 ルーナは何気なく言うが、俺の頭の中では、その「隣村との比較」がさっそくデータポイントとして格納された。ポーレ村。規模はビンボーレの二倍。つまり人口二百四十前後。比較対象として有用だ。


 村の北側を歩く。ここには小川が流れていて、その脇に——水車小屋があった。


 あった、と言うべきか。あった痕跡、と言うべきか。


 水車の羽根板が三枚欠けている。軸がずれて、回転がぎこぎこと不均一だ。小屋の壁板は腐食が進み、屋根の半分が崩れ落ちている。中に据えられた石臼は割れてはいないが、目が摩耗して粉挽きの効率は壊滅的だろう。


 前世のエンジニアの目で見れば、修理箇所は十五ヶ所以上。だが必要な材料と工具があれば、一週間で直せる程度の損傷だ。それが放置されているということは——修理する人員か、材料か、あるいはその両方が足りないということ。


 道端を、子供たちが駆け抜けていった。


 三人。年齢は五歳から八歳くらいか。笑い声を上げて追いかけっこをしている。一見すると元気そうだが——俺の目は、彼らの体格を見逃さなかった。


 痩せている。年齢に対して明らかに小さい。腕は枝のように細く、頬はこけている。走り方にも覇気がない。服は何度も繕った継ぎ接ぎだらけで、三人とも靴を履いていなかった。裸足の足の裏が、泥の道を叩く音が響く。


「あ、マルクだ! マルク兄ちゃん、もう元気なの!?」


 一人の子供が駆け寄ってきた。目をきらきらさせている。栄養失調の顔に、それでも子供らしい笑顔が浮かんでいる。


「ああ、もう大丈夫だ」


 俺は笑い返した。この体の前の持ち主は、子供たちに慕われていたらしい。記憶の断片に、この子たちと遊ぶ場面がちらつく。


 子供たちが走り去った後、俺は無意識に拳を握っていた。


 靴がない。まともな服もない。栄養も足りていない。これが——この村の子供たちの「普通」だ。


 前世の俺なら、チャリティに一千万ドル寄付して「社会貢献しました」とSNSに投稿して終わりだっただろう。金を出すだけなら簡単だ。だが今の俺には、寄付する金すらない。


 金がないなら、頭を使うしかない。


 前世の知識がある。工学、物理学、化学、経営学——五十二年分の知識と経験がこの脳に詰まっている。問題は、それをどうやってこの世界で実装するかだ。


 ◇


 畑の脇道を歩きながら、俺はルーナにさりげなく質問を重ねた。


 情報収集は対話から。インタビューの基本だ。相手に「取材されている」と感じさせない自然な会話の中で、必要なデータを引き出す。前世ではM&Aのデューデリジェンスで散々やった手法だ。


「なあ、ルーナ。昨日家の外に出た時、空気が変な感じがしたんだけど——あれ、何だろうな」


 昨日感じた、空気の中の不思議なエネルギー。あれの正体が知りたかった。


「変な感じ?」ルーナが首を傾げる。「……ああ、もしかしてマナのこと?」


「マナ?」


「うん。空気中にある、目に見えない力。マナ——魔力資本って呼ぶ人もいるけど。あたしたちは普段あんまり意識しないけどね」


 マナ。魔力資本。名前を聞いた瞬間、脳が勝手に分類を始めた。——この世界のエネルギー源か。


「誰でも使えるのか?」


「まさか」ルーナが笑った。苦笑に近い笑いだった。「マナを操れるのは千人に一人もいないよ。魔法使い——って呼ばれる人たち。あの山の向こうの町には、何人かいるんだって」


 東の山並みを指差すルーナ。その方角には、マルクの記憶によればガルデン——領主の城下町がある。


「この村には?」


「いるわけないじゃん。ビンボーレ村だよ? 魔法使いなんて、一人もいない。生まれたこともないんじゃないかな」


 千人に一人以下。人口百二十の村に魔法使いがいない確率は——まあ、当然か。統計的に言えば、十人に一人が魔法の素質を持ち、そのうち実用レベルに達するのがさらに十分の一。つまり百人に一人が潜在的な魔法使い、千人に一人が実践可能な魔法使い。


 この情報は重要だ。マナが希少資源であるなら、それを代替する技術に価値がある。前世で電気自動車が石油に取って代わったように——魔法に頼らないソリューションには、巨大な市場がある。


「じゃあ、この世界では魔法が使える人間が上に立ってるのか?」


「上に立つっていうか……」ルーナが少し考え込む。「マルク、熱で頭がおかしくなったの? そんなの当たり前のことじゃん」


 やってしまった。マルクなら知っているはずの常識を聞いてしまった。


「い、いや——熱のせいでちょっと頭がぼんやりしてて。思い出すために言葉にしたいっていうか」


「ふーん……? まあいいけど」


 ルーナは怪しみながらも、説明を始めてくれた。素直にありがたい。


「この国——ヴァルストリート王国は、三身分制度トリプル・クラスって仕組みでしょ。一番上が貴族のゴールドクラス。次が平民のシルバークラス。で、あたしたちが一番下の——」


「コッパークラス。隷属階級」


 その言葉は、マルクの記憶から自然と出てきた。銅の階級。最下層。


「そう。農民とか日雇い労働者とか。要は、貴族に搾り取られる側」


 ルーナの声に、ほんの少し棘があった。日常的に感じている不満が、言葉の端に滲んでいる。


「身分は変えられないのか?」


「建前上は、莫大な資産を築くか国に貢献すれば『昇格の儀』を受けられるって言われてるけどね。そんなの、見たことも聞いたこともない。コッパークラスがゴールドクラスに上がるなんて、おとぎ話だよ」


 搾取構造の固定化。身分制度による階層間移動の制限。前世の歴史で何度も見たパターンだ。フランス革命前のアンシャン・レジーム。産業革命前のイギリスの階級制度。そして——二十一世紀のアメリカの格差社会。


 形は違えど、本質は同じだ。既得権益者が制度を使って自分の地位を守り、下の者を這い上がれないようにしている。


「じゃあ、この村の収入ってどのくらいなんだ? 年間で」


「なに急に。商人みたいなこと聞くね」ルーナが苦笑する。「うちの村は一家あたり年間だいたい二マルクス——銅貨にして二百コッパくらい。でも年貢を領主様に納めたら、手元にはほとんど残らないよ」


 二マルクス。銅貨二百枚。マルクの記憶を辿ると、銅貨一コッパでパンが一個買える。つまり一家の年収はパン二百個分。そこから年貢を引いたら——


 一日あたりの可処分所得が、パン半個以下。


 前世の基準で換算する。パン一個を約三ドルとすると、年収六百ドル。年貢で六割持っていかれるとして、手元に残るのは二百四十ドル。日本円にして約三万六千円。一家の年間可処分所得が三万六千円。


 ……これは貧困じゃない。構造的飢餓だ。


 だが——俺の思考は、怒りより先に分析に向かった。これはムーロン・マスクの悪い癖でもあり、強みでもある。


 搾取構造の底辺。非効率な農業。欠如したインフラ。希少な魔法資源へのアクセスゼロ。


 普通なら絶望する。だが——俺の脳は、別の回路で動いていた。


 非効率があるところに、ビジネスチャンスがある。


 テヌラ・モーターズを立ち上げた時もそうだった。「電気自動車なんて売れない」と全員が言った。ガソリン車の市場は巨大で、既存メーカーが支配していて、新規参入の余地などないと。だが俺は、その「非効率」に目をつけた。内燃機関のエネルギー変換効率はたったの三十パーセント。電気モーターなら九十パーセント以上。三倍の効率差——それだけで、革命を起こす理由には十分だった。


 この村も同じだ。いや——この村の非効率は、前世の自動車産業の比じゃない。改善の余地が、ありすぎる。


「……ルーナ」


「ん?」


「この村、伸びしろしかないな」


「……は?」


 ルーナが足を止めて、心底不思議そうな顔で俺を見た。


「本当に頭大丈夫? どこに伸びしろがあるの? 伸ばす余裕すらないんだけど」


「いや、だからこそだ。底辺にいるってことは、下がる余地がない。つまり——ここからは上がるしかない」


「…………」


 ルーナが数秒間、黙って俺を見つめた。その緑色の目には、戸惑いと、微かな——本当に微かな、希望のような光が一瞬だけ揺れた。


「……マルク、あんた変わったね。熱出す前は、そんなこと言わなかったのに」


「人は寝込むと考えが変わるもんだ」


「三日でそこまで変わる?」


 三日じゃない。五十二年だ。——とは言えないので、俺は曖昧に笑った。


 ◇


 村の散策は続く。南側の農地を抜け、西の外れへと向かった。


 そこに着く前に、匂いで気づいた。


 焦げた金属と炭の匂い。それから、規則的な打撃音——カン、カン、カン、と一定のリズムで金属を叩く音が、風に乗って聞こえてくる。


「ゴルド爺さんの鍛冶場だよ。あんまり人付き合い良くないから、村の人もあんまり近づかないけど」


 ルーナがそう言った時には、俺の足はもう鍛冶場に向かっていた。


 鍛冶場——と呼ぶには質素な建物だった。石と泥で固めた壁に、木材で組んだ屋根。だが他の家屋に比べると造りが頑丈で、壁には不燃処理が施された形跡がある。少なくとも、この建物を建てた人間は防火の知識があった。


 入口に屋根はなく、正面が大きく開け放たれていた。中は暗い——が、奥で赤い光が脈打っている。炉の火だ。


 その赤い光に照らされて、一人の老人が鉄を叩いていた。


 白髪を後ろに束ね、煤で黒ずんだ革のエプロンを身につけている。六十代だろう。だが——その体格は年齢に似合わず逞しかった。太い腕が、重い槌を正確なリズムで振り下ろしている。筋肉の隆起が、汗に濡れた肌の上を滑るように動く。


 農民の体じゃない。鍛冶を続けてきた者の体だ。


 俺は入口の手前で足を止め、しばらく作業を観察した。ルーナが横で「ちょっと、入らないの?」と小声で言うが、俺は手で制した。


 見るべきものがあった。


 炉——ふいごで風を送り、炭を燃やして鉄を熱する構造。前世で言えば、もっとも原始的な鍛冶炉だ。反射炉でもなければ溶鉱炉でもない。直接還元炉にすら達していない。


 だが、問題はそれだけじゃなかった。


 吸気口が一つしかない。それも位置が低すぎる。床面近くから空気を取り入れているせいで、燃焼に必要な酸素供給が慢性的に不足している。炎の色が暗い——温度が上がりきっていない証拠だ。排気は天井の隙間から自然排出。つまり煙突がない。煤が鍛冶場全体に溜まり、作業環境も最悪。


 ふいごも旧式だ。一つの革袋を手で押して風を送るタイプ。これでは一方向にしか送風できず、効率が悪い。二重鞴ダブルベローズなら連続的に風を送れるのに。


 さらに——排気流路の設計が根本的に間違っている。熱い空気は上に行く。上に行った熱気を循環させずにそのまま逃がしている。これでは投入した炭のエネルギーの半分以上が無駄に逃げている。


 ……見ていられなかった。


 ムーロン・マスクはエンジニアだ。テヌラ・モーターズでは生産ラインの非効率を見つけるたびに現場の責任者を呼びつけた。スペースYではロケットエンジンの燃焼効率を〇・一パーセント改善するために徹夜したこともある。


 非効率な設計を前にして黙っていられるのは——俺の辞書にはない。


「この炉の設計、効率が悪すぎる……」


 口に出ていた。


 自分でも驚いた。思考がそのまま声になってしまった。脳と口の間のファイアウォールが、この十六歳の体ではまだ脆いらしい。


 ——カン、という打撃音が止まった。


 鍛冶場の奥から、鋭い目がこちらを射抜いた。


「はぁ?」


 ゴルドの声は低く、ざらついていた。砂利を踏むような声。だがその一言に込められた圧は、前世の取締役会議で怒号が飛び交った時に匹敵する。


「小僧。お前に何がわかる」


 槌を持ったまま、ゴルドがゆっくりとこちらを向いた。汗と煤にまみれた顔の中で、目だけが異様に鋭い。灰色の瞳が、射貫くように俺を見ている。


 ルーナが俺の袖を引っ張った。「ちょ、マルク! 失礼でしょ!」


 だが——後には引けなかった。というより、引く気がなかった。


 前世でも同じだった。テヌラの工場で非効率を見つけた時、部下が「あの、CEOがそこまで現場に口を出すのは……」と止めても、俺は設計図を書き直した。スペースYで三回連続ロケットが爆発した時も、「もう諦めましょう」という幹部の言葉を無視して四回目の打ち上げを実行した。


 正しいことを言っている自信がある時、俺は止まらない。


「吸気口の位置が低い」


 俺は鍛冶場の入口に立ったまま、指で炉の各部を示しながら言った。


「床面から空気を取り入れてるから、酸素濃度の高い上層の空気を活用できてない。吸気口をもう一つ、炉の中段——火床ほどの高さに増設すれば、燃焼温度は二割は上がる」


 ゴルドの眉が動いた。怒り——というより、意外そうな表情だった。


「それから排気だ。天井の隙間から逃がしてるだけだろ。煙突を立てて、排気流路を整流すれば、上昇気流で自然に吸気が促進される。ふいごの負担が半分になる」


 俺は鍛冶場の入口の地面に目をやった。しゃがみ込み、足元の棒——折れた鉄の端材が転がっていた——を拾い上げた。


 泥の地面に、図を描き始めた。


 まず炉の断面図。現在の吸気口の位置にバツ印。次に、提案する新しい吸気口の位置を丸で。排気流路を矢印で示し、煙突の配置を加える。


「こうだ。吸気口を二段にして、ここに仕切り板を入れる。下段の空気が炭の下から入り、上段の空気が火床を直撃する。燃焼効率が上がって、同じ量の炭でより高温が出せる」


 さらに、もう一つ描き加えた。


「ふいごも変えるべきだ。今の一枚革のふいごじゃなくて——こう、二つの革袋を逆位相で動かす。押した時も引いた時も空気が送られる。二重鞴ダブルベローズだ。これで連続送風が可能になる」


 描き終わった図は、泥の上にしては精密だった。前世で何百枚と描いた設計図の癖が、この手にも染みついている。


 沈黙が落ちた。


 ルーナが口をぽかんと開けて、俺と地面の図を交互に見ている。


 そしてゴルド——


 老鍛冶屋の表情が、変わっていた。


 怒りは消えていた。代わりに浮かんでいたのは——驚愕。それから、疑念。そして、その奥に——鍛冶屋としての純粋な好奇心が、灰色の瞳の中でちらりと光った。


 ゴルドは槌を作業台に置き、ゆっくりと炉の前から歩み出てきた。俺の前にしゃがみ込み、泥の上の図を無言で見つめる。


 十秒。二十秒。


 太い指が、図の一部をなぞった。二重鞴の部分だ。


「……この二重の鞴。逆位相で動かすと言ったな」


「ああ。片方を押せばもう片方が引かれる。リンク機構で連動させればいい。原理は単純だ」


「単純、か」


 ゴルドが低い声で呟いた。その声には、もう敵意はなかった。代わりに、何かを吟味するような響きがあった。


「……お前、それを誰に教わった」


 来た。当然の質問だ。十六歳の農村の少年が、鍛冶炉の設計改善を具体的に提案できるはずがない。この世界の常識では、ありえない。


 だが——俺には、もう用意してあるフレーズがあった。転生者の万能エクスキューズ。


「夢で見た」


「…………」


 ゴルドが俺を見つめた。長い沈黙。灰色の瞳が、俺の目を——いや、目の奥を見透かそうとしているかのようだった。


 嘘を見破ろうとしている。当然だ。「夢で見た」なんて、普通なら一笑に付されて終わりだ。


 だが——ゴルドは笑わなかった。


 代わりに、口元がわずかに——ほんのわずかに、歪んだ。笑みとも苦笑ともつかない、複雑な表情。


「……面白い小僧だ」


 その一言を残して、ゴルドは踵を返した。炉の前に戻り、ふいごに手をかけ、再び槌を握る。背中で言った。


「帰れ。今日は仕事がある」


 追い出された——が、拒絶ではなかった。少なくとも、門前払いとは違う。「面白い」と言った。あの目は——興味を持った目だ。


 だが、鍛冶場を出る前に、俺は一つだけ気づいてしまったことがあった。


 ゴルドが槌を振り下ろす動作。追い出される直前、炉に戻った老人の仕事を、俺は最後にもう一度だけ観察した。


 ——おかしい。


 ゴルドが今しがた叩いていたのは、鉈だった。農作業用の、何の変哲もない鉈。だが——その刃の成形が、異常に精密だった。


 刃先のライン。わずかな反り。厚みから薄さへの遷移。それが恐ろしく滑らかで、均一で、一打一打に無駄がない。鍛造の世界では、叩けば叩くほど金属の組織が締まり、強度が増す。だが叩きすぎれば割れる。その境界線ギリギリのところで——完璧に止めている。


 さらに目を引いたのは、焼き入れの工程だった。


 ゴルドが赤熱した鉈を水に浸す瞬間——その角度、浸す速度、引き上げるタイミング。全てが計算されたように正確だった。焼き入れは鍛冶の中で最も難しい工程の一つだ。温度が高すぎれば鋼が脆くなり、低すぎれば硬度が出ない。冷却速度のコントロールが全てを決める。


 あの精度。あの一貫性。


 前世で見た、ドイツのゾーリンゲンの名工を思い出した。何百年も家業を受け継いだ刃物職人のマイスター。あるいは日本の刀鍛冶。人間国宝レベルの技術を持つ職人。


 ……この爺さんは、ただの村鍛冶じゃない。


 前世で言えばマイスターレベルだ。なんでこんな辺境の、貧しい村に——


 鍛冶場から十歩ほど離れたところで、俺は足を止めた。ルーナが横で「もう、いきなり失礼なこと言って! ゴルド爺さん怖いんだから!」と文句を言っているが、俺の頭は別のことを考えていた。


「……ルーナ」


「なに? 反省してるの?」


「ゴルドさん——あの人、本当にずっとこの村にいたのか?」


 ルーナの表情が変わった。文句を言っていた口が閉じ、少し考えるような顔になる。


「……ゴルド爺さんは、よそから来た人だよ。あたしがまだ小さい頃——五つか六つの時に、ふらっと村にやって来たの。背中に道具箱一つ背負っただけで」


「それだけ? どこから来たとか、何があったとか」


「言わない。誰にも」ルーナが首を振る。「お父さん——村長が聞いても、『昔の話はいい』って。それ以上は絶対に話さないの」


 ルーナの声が少し低くなった。


「でもね、マルク。ゴルド爺さんが来てから、村の農具がずっと長持ちするようになったの。前は二年で駄目になってた鍬が、ゴルド爺さんが作ると五年使える。みんな助かってるんだよ」


 五年。二年の寿命を五年に延ばす。二・五倍の耐久性向上。それだけでも、この村にとっては莫大な経済効果だ。農具の購入頻度が半分以下になるということは、可処分所得がその分だけ増える。


 だが——それはあくまで「結果」だ。


 問題は「原因」——なぜ、あれだけの技術を持った鍛冶屋が、王国の最辺境のこんな貧しい村に流れ着いたのか。


 逃げてきた? 追われていた? 何かを——あるいは誰かを——失った?


 わからない。データが足りない。


 だが一つだけ確かなことがある。


 あの鍛冶場は——あのゴルドという男は——この村で最も価値のある「資産」だ。


 前世のベンチャーキャピタリストの格言を思い出す。——技術は買える。設備も買える。だが「人」だけは、金では手に入らない。


 ゴルドという人材。あの技術力。あの経験値。


 もし——もし、あの男を味方につけられたら。


 俺は鍛冶場の方を振り返った。石と泥の壁の向こうから、再びカン、カン、カンと金属を叩く音が響いてくる。規則正しく、力強く、孤独に。


 ……また来よう。


 今度は、もう少しまともな「事業計画」を持って。


「ルーナ、帰ろう。疲れた」


「だから言ったでしょ、まだ無理だって」


 ルーナに肩を貸されながら——本当は自分で歩けたが、少しだけ甘えることにした——俺は帰路についた。


 脳内では、今日得た情報が猛烈な速度で整理されていく。


 人口百二十。労働人口五十から六十。非効率な農業。壊れた水車。存在しない灌漑設備。マナという未知のエネルギー。三身分制度による搾取構造。年収二マルクスの極貧経済。


 そして——村の隅に隠れたマイスター級の鍛冶屋。


 これが俺の手札だ。ゼロから始めるビジネスの、最初のデューデリジェンス。


 前世では市場調査に数千万ドルかけた。今日は——一銅貨もかけずに、足で稼いだ。


 紫がかった空の下、ビンボーレ村の泥道を歩きながら、俺は——マルクは——静かに笑った。


 さて。


 市場調査は済んだ。次は——事業計画だ。


 午後——鍛冶場から戻ったのが正午過ぎ。リーナの作った昼食(やはり限りなく水に近いスープ)を胃に流し込み、小一時間ほど横になった後、俺は再び立ち上がった。


「また出かけるの?」


 ルーナが呆れた声を上げた。戸口に寄りかかり、腕を組んでいる。今日だけで三度目の同じ台詞だ。


「裏山に行きたい」


「裏山? 薪拾いの?」


「ああ。——体は大丈夫だ。むしろ体を動かしたい」


 嘘ではない。十六歳の体は一日休めばかなり回復する。四日目の今日はもう、一人で歩くのに支障はなかった。だが本当の理由は別にある。


 午前中の村歩きで、俺は村の「経済」を把握した。農地の状態、人口構成、搾取構造、技術レベル——つまり、バランスシートの左側。負債の山と、僅かばかりの人的資産。


 次に確認すべきは「資源」だ。


 この土地に何があるか。使えるものは何か。地下資源、水源、植生——前世の地質学と化学の知識があれば、この世界の人間が見落としているものが見えるかもしれない。


「しょうがないなあ。あたしも行くよ。一人で行って崖から落ちたらシャレにならないし」


 ルーナは文句を言いながらも、素早く薪拾い用の背負い籠を手に取った。実用的だ。どうせ裏山に行くなら薪も集めてくるつもりなのだろう。この合理性は嫌いじゃない。


 ◇


 ビンボーレ村の裏山は、村の北東に位置する低い丘陵だった。


 雑木林が斜面を覆い、木立の隙間からは紫がかった午後の空が覗いている。足元は落ち葉と苔に覆われ、踏むたびにしっとりとした感触が靴底——といっても布を巻いただけの粗末な履物だが——に伝わってくる。


 鳥の声がする。地球の鳥とは違う、少し金属質な響きの鳴き声。木々の間を抜ける風に、独特の甘い匂いが混じっていた。前世では嗅いだことのない植物の香りだ。


「ここ、よく来てたよね」


 ルーナが先を歩きながら言った。


「子供の頃、あたしとマルクでよく薪拾いの手伝いしてたでしょ。あんたいっつも変なもの拾ってきて、お母さんに怒られてたじゃん」


 マルクの記憶を探る。——あった。ぼんやりとした映像。この雑木林の中を走り回っている幼い記憶。虫を捕まえたり、変わった石を集めたり、ルーナと競争して木に登ったり。


 前の持ち主のマルクも、好奇心は強かったらしい。体の前の持ち主と、今の持ち主。その一点だけは——共通しているようだ。


「ああ……そうだったな」


 曖昧に頷きながら、俺は周囲を観察し続けた。


 樹種。雑木林を構成する木は——前世で言えばブナやナラに似た広葉樹が中心で、一部に針葉樹が混じっている。木材資源としてはそこそこ。ただし建材に使うには製材の設備が要る。


 土壌。斜面を歩くたびに、足元の土を見る。下層に粘土質の土が混じっている。焼き物——陶器の材料になるかもしれない。


 そして——水。


 雑木林を十五分ほど登ったところで、かすかな水音が聞こえてきた。


「沢だ」


「うん。夏でも涸れない沢が一本あるの。村の飲み水はだいたいこっちから引いてる」


 木立を抜けると、岩盤が露出した小さな谷が現れた。幅は三メートルほど。灰色の岩の間を、澄んだ水がさらさらと流れている。水量は多くないが、年間を通じて安定しているなら、農業用水としても使えるかもしれない。


 俺は沢の縁にしゃがみ込み、岩盤を観察した。


 地質の知識を引っ張り出す。この岩は——堆積岩の一種か。層状構造が見える。その間に、別の鉱物が脈を作って走っている。色は薄い灰白色。石英に似ているが——何か違う。


 と、その時だった。


「あ。見て、マルク」


 ルーナが沢の少し上流を指差した。


 岩盤の一部に——淡い光が、ちらちらと瞬いていた。


 ルーナが身軽に岩を跳び越えて、その光る箇所に近づく。岩の表面に、親指の爪ほどの大きさの鉱石が点在していた。五つ、六つ——数えると十個以上はある。どれも微かに青白い光を帯びている。蛍光塗料を塗ったような、あるいは内部に小さなLEDを仕込んだような——そんな、不自然な光り方だった。


「光り石でしょ?」


 ルーナが何でもないことのように言った。その手が、岩盤から一つの鉱石をぺりっと剥がし取る。指先でつまんだそれは、不揃いな結晶の塊だった。長さ二センチほど。半透明で、内部に僅かな虹色の光が揺らめいている。


「子供の頃よく集めて遊んだよね。触ると光るの」


 ルーナがそっと握ると——光が強くなった。


 掌の中で、青白い光が柔らかく脈打つ。まるで鉱石そのものが呼吸しているかのように、リズミカルに明滅している。ルーナの顔が下から照らされ、緑の瞳に青白い光が映り込んだ。


「綺麗でしょ?」


 確かに——美しかった。自然の鉱物がここまで鮮明に自己発光するのは、前世の常識では説明がつかない。蛍石が紫外線で蛍光する現象とも違う。この石は、外部のエネルギー源なしに——いや。


 外部のエネルギー源がある。


 ルーナだ。


 正確には、ルーナの体内のマナ。午前中に聞いた話を思い出す。——マナとは空気中に存在する目に見えないエネルギーで、生物の体内にも微量が蓄積されている。この石が光るのは、ルーナの体内のマナに「反応」しているということか。


 バイオルミネッセンスならぬ、マナルミネッセンス。面白い。


「でも売れないの」


 ルーナが少し残念そうに言った。


「すぐ光が消えちゃうし、誰も欲しがらない。町の商人に見せたこともあるけど、『ただの蛍光石だろ、ガキの玩具だ』って」


 売れない。商品価値がない。——前世のベンチャー投資家なら、ここで興味を失うだろう。だが俺は、その逆だ。「まだ誰も価値に気づいていないもの」にこそ、最大の投資機会がある。


「貸してくれ」


「え? うん、はい」


 ルーナが光り石を差し出す。


 俺は右手で受け取った。


 ——瞬間。


 光が消えた。


 完全に。


 青白い輝きが、まるでスイッチを切ったかのように——ゼロになった。俺の掌の上に残ったのは、ただの半透明の石ころだった。虹色の揺らめきも、脈動する明滅も、何もない。灰色がかった、ただの鉱物の塊。


「……あれ?」


 ルーナが目を瞬いた。


「消えた。——なんで?」


 俺は石を指先で摘み上げ、目の前に掲げた。角度を変えて光に透かしてみる。内部構造に異常はない。結晶の配列も崩れていない。石自体が壊れたわけじゃない。


 ただ——光らない。


「返してみて」


 ルーナに石を渡した。


 ルーナの指が触れた瞬間——光が戻った。


 青白い輝きが、何事もなかったかのように灯る。柔らかく、温かく、生きているように脈打つ光。


「……光った」


「うん、光ってる。普通に」


 ルーナが怪訝そうに俺を見る。


「もう一回貸してくれ」


 再び受け取る。——光が消える。


 ルーナに返す。——光が灯る。


 三度目。俺が持つ。——消灯。


 四度目。ルーナが持つ。——点灯。


 五度目——


「……ねえ、何回やっても同じだよ」


 ルーナの声に、微かな不安が混じり始めていた。


 俺もわかっていた。パターンは明確だ。ルーナが持てば光り、俺が持てば消える。再現性は百パーセント。科学的に言えば、これはもう「偶然」ではない。


 原因は俺の側にある。


 沢の向こうから、子供たちの声が聞こえてきた。薪拾いに来ていた村の子供が三人、俺たちの様子を遠巻きに見ていたらしい。好奇心に負けて近づいてくる。


「マルク兄ちゃん! なにやってんの?」


「光り石で遊んでるの? あたしもやりたい!」


 俺は光り石を一番小さい子——五歳くらいの女の子に渡してみた。


 光った。


 淡い、だが確かな青白い光。ルーナほど強くはないが、小さな掌の中で、光り石は柔らかく輝いている。


 次の子。七歳くらいの男の子。——光った。少しちらつくが、明確に発光している。


 三人目。八歳の男の子。——光った。安定した青白い光。


 全員。例外なく光る。


 俺の手に戻した。


 ——消えた。


 完全に。何の余韻もなく。まるで、虚無そのものに触れたかのように。


 子供たちが目を丸くしている。五歳の女の子が、不思議そうに俺の手と光り石を交互に見た。


「マルク兄ちゃんのだけ、消えちゃうね」


 純粋な観察。悪意のない事実の報告。それがかえって、鋭く刺さった。


 ルーナの表情が変わっていた。好奇心から不安へ。不安から——理解へ。何かに気づいた目だった。


「……マルク」


「ああ」


「光り石は、魔素に反応して光るの。人の体の中にあるマナ——魔力資本に。どんなに少なくても、生き物の中にはマナがあるから、誰が触っても光るはずなんだけど——」


 ルーナが言葉を切った。その先を言うのを、躊躇っている。


 俺が代わりに言った。


「俺にはマナがない。——ってことか」


 声に出すと、その言葉の重さが、改めて腹の底に落ちてきた。


 ルーナが唇を噛んだ。


「ゼロなんて、普通はない」


 その声は小さかった。


「赤ん坊だって少しは持ってるのに。生まれたての子犬だって。——マナがゼロの人間なんて、聞いたことない」


 聞いたことがない。前例がない。


 前世でも、俺はよくそう言われた。「電気自動車で大手に勝てるわけがない」「民間企業がロケットを飛ばせるわけがない」——前例がない、と。


 だが、あの時と今では意味が違う。


 前世の「前例がない」は、「誰もまだやっていない」という意味だった。だから、やればよかった。最初にやった者が勝つ。それがイノベーションだ。


 だが今の「前例がない」は——「そもそも、そんな存在はありえない」という意味だ。


 マナがゼロ。


 この世界では、マナは全ての魔法の源だ。午前中にルーナから聞いた。元素魔法エレメンタル・アセットと呼ばれる六属性の魔法体系。火、水、風、土、光、闇——どれを発動するにもマナが要る。マナが通貨なら、魔法は商品だ。通貨がゼロなら、商品は一つも買えない。


 魔法の道は、完全に閉ざされた。


 子供たちが気まずそうに散っていった。五歳の女の子だけが最後まで残って、俺の手をぎゅっと握った。「大丈夫だよ、マルク兄ちゃん」——その小さな手は温かかったが、その温かさすら、今の俺には皮肉に感じた。マナを持つ者の温もり。俺にはない温もり。


 女の子が走り去った後、沢のほとりに俺とルーナだけが残された。


 水の音が、やけに大きく聞こえた。


「……マルク」


 ルーナが何か言おうとしている。慰めの言葉だろう。だが今の俺には、慰めより先に処理すべきことがあった。


 前世の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


 ムーロン・マスク。総資産二千億ドル。地球上で最も裕福な人間。金で買えないものはない——と、本気で信じていた男。


 その男が死んで、異世界に転生した。


 財産はゼロ。身分は最下層。辺境の貧村。


 それだけなら——まだ笑えた。ゼロから始める起業物語。前世の知識があれば、いつかは這い上がれる。そう思っていた。


 だが——マナもゼロ。


 この世界の通貨は二つあることを、俺は今日ようやく理解した。一つは銅貨や銀貨や金貨——「金」だ。もう一つはマナ——「魔力」だ。そしてこの世界では、後者の方が圧倒的に価値が高い。


 金がなくても生きていける。だがマナがなければ、この世界の本当の力にアクセスすることすらできない。


 前世で金は腐るほどあった。


 この世界では魔力がゼロ。


 まさに——


「……大貧民だ」


 声が漏れた。自嘲の笑いが、喉の奥でつっかえた。


「え?」ルーナが聞き返す。


「大貧民。ビリ。最下位。底の底。——金もない。身分もない。マナもない。持ってるものが、何一つない」


 手の中の光り石を見つめた。俺が握っている限り、それはただの石ころだ。何の光も宿さない、灰色の塊。空っぽの器。


 ——俺自身の比喩みたいだ。


 前世では、器ばかりが巨大だった。二千億ドルという数字。世界一の大富豪という看板。だが中身は——最後の瞬間に気づいた。何も入っていなかった。スプレッドシートの合計欄に表示された「#VALUE!」。計算式が間違っていたんじゃない。入力すべきものが、そもそも入っていなかった。


 そして今世。器は小さな石ころ一つ。中身もゼロ。


 完璧な——空っぽ。


 ……。


 …………。


 ——五秒。


 五秒間だけ、俺は黙った。


 沢の水音だけが耳を満たす五秒間。前世のムーロン・マスクが味わったことのない、純粋な絶望の五秒間。


 そして——六秒目に。


 脳の中で、何かが弾けた。


 テヌラ・モーターズの最初のプロトタイプが燃えた夜と同じ感覚だ。三回連続でロケットが爆発した後、管制室で一人ホワイトボードを見つめていた時と同じ感覚だ。


 絶望の底で——回路が切り替わる。


 悲嘆の回路から、分析の回路へ。感情の波が引いた後に残る、冷たく透明な思考。ムーロン・マスクを世界一の起業家にした、あの思考回路が——十六歳の脳の中で、轟音を立てて起動した。


 光り石を、もう一度見た。


 灰色の石。俺が持っている限り、光らない石。


 だが——ルーナが持てば光る。子供が持てば光る。マナに反応して光る。つまり——


「ルーナ」


「……なに?」


 ルーナの声には、まだ気遣いの色があった。俺が落ち込んでいると思っているのだろう。


 だが——俺の目は、もう別のものを見ていた。


「この石は、マナに反応して光るんだよな」


「う、うん。そうだけど」


「反応する、ということは——マナを感知している。感知できるということは、マナと相互作用する性質がある。つまり——」


 光り石を、陽の光に透かした。内部の結晶構造が、うっすらと見える。規則的な格子状の配列。前世の鉱物学の知識が、自動的に照合を始めた。


「——この石は、マナを『貯められる』んじゃないか?」


 ルーナが目を瞬いた。


「貯める?」


「ルーナが触った時、光は即座には消えなかっただろう。手を離しても、ほんの一瞬——コンマ数秒だけ、光が残っていた。あれは残光じゃない。お前の体から移ったマナが、石の中に微量だが蓄積されていたんだ」


 そう。受け渡しの実験を繰り返している時に気づいた。ルーナの手から俺の手に渡る瞬間、石は光ったまま空中にあった。だが俺の掌に触れた途端に消えた。消えるまでの時間——〇・一秒から〇・三秒。


 その〇・一秒から〇・三秒。


 あの間、石の内部にはルーナのマナが——ほんの僅かだが——蓄えられていた。


 蓄積。


 その言葉が、脳の中で別の言葉と接続した。


 ——バッテリー。


「もしこの石のマナ蓄積量を増やせたら?」


 俺は立ち上がった。沢のほとりに膝をついていたのが、いつの間にか立っていた。体が思考に追いついていない。頭の中が回転しすぎて、じっとしていられなかった。


「もし——貯めたマナを、必要な時に取り出せたら?」


 ルーナが困惑した顔で俺を見上げている。だが俺の視線は、もうルーナを通り越していた。目の前に見えているのは、光り石ではない。


 前世の記憶だ。


 リチウムイオン電池。テヌラ・モーターズの心臓部。電気を化学エネルギーに変換して蓄え、必要な時に電気として取り出す。蓄積→変換→出力。エネルギーの三段階制御。


 この光り石は——マナ版のリチウムイオン電池になりうる。


 マナを蓄積する媒体。蓄積したマナを安定的に保存する方法。保存したマナを、必要な時に、必要な形で——魔法として——出力する機構。


 蓄積。保存。出力。


 バッテリーだ。マナバッテリーだ。


「マルク、あんた——急に何——」


「ルーナ、聞いてくれ」


 俺はルーナの肩を両手で掴んだ。ルーナが「ひゃっ」と小さく声を上げたが、構わなかった。前世で新規事業のアイデアを掴んだ時の俺は、周囲の人間のパーソナルスペースを一切顧みない。何人の秘書と副社長がこの突然の距離感に辞表を叩きつけたか、もう数えてもいない。


「この世界では、魔法はマナがないと使えない。マナを持つ人間は一割もいない。残りの九割は——魔法の恩恵を受けられない」


「そ、そうだけど——」


「魔道具マジック・デバイスというものがある。マナを持たない人間でも使える道具。だが高価で、貴族しか持てない」


「うん、知ってる。だから何——」


「なぜ高価なんだ? 供給が少ないからだ。なぜ供給が少ない? 作れる職人が限られていて、材料も希少だからだ。——だが」


 光り石を、ルーナの目の前に掲げた。


「この石がマナを蓄積できるなら——話は変わる」


 俺の脳が、一気に加速した。思考がスプレッドシートのように整然と展開されていく。


 ステップ一。光り石のマナ蓄積メカニズムを解明する。結晶構造のどの部分がマナを保持するのか。蓄積量の上限はどこか。


 ステップ二。蓄積効率を上げる方法を見つける。結晶構造を最適化する。不純物を除去する。あるいは——結晶を人工的に成長させる。


 ステップ三。蓄積したマナを制御して出力する装置を設計する。入力と出力のインターフェース。変換効率。安全機構。


 ステップ四。量産する。


 テヌラ・モーターズのバッテリー事業と、全く同じ構造だ。リチウムイオン電池のセル設計。パック化。BMSバッテリー・マネジメント・システム。そしてギガファクトリーでの大量生産。


 素材が変わっただけだ。リチウムが光り石に。電気がマナに。


「魔法が使えないなら——」


 俺は、笑った。


 ムーロン・マスクの笑みだった。テヌラの株価が暴落した日にも浮かべた、あの笑み。スペースYのロケットが三機連続で爆発した翌日にも浮かべた、あの笑み。全てが失われた後に、全てを作り直すと決めた人間の——笑み。


「——魔法を『作ればいい』」


 沢の水音が止まったかのような、一瞬の静寂。


 ルーナが、ぽかんと口を開けていた。


「……何言ってるの?」


 当然の反応だ。この世界の常識では、マナは生まれ持った才能であり、後天的にどうこうできるものではない。魔法は天賦の才。持たざる者は、持てる者に跪くしかない。何百年もそうだった。何千年もそうだったのかもしれない。


 ——だが。


 前世でも同じだった。


 ガソリン車の全盛期に「電気自動車で世界を変える」と言った時、全員が笑った。「バッテリー技術が追いついていない」「充電インフラがない」「コストが高すぎる」——できない理由を並べ立てて、誰もやろうとしなかった。


 だが俺はやった。バッテリーのエネルギー密度を上げ、充電ネットワークを自前で構築し、製造コストをスケールメリットで叩き潰した。技術的な壁は、工学的に解決した。


 この世界も同じだ。


 マナという「エネルギー」がある。光り石という「蓄電媒体」がある。魔道具という「出力デバイス」の概念が既に存在している。


 足りないのは——それを体系化し、効率化し、量産する「エンジニアリング」だ。


 そして——この世界で誰よりも、エンジニアリングを知っている人間が、一人だけいる。


 マナゼロの、大貧民が。


「ルーナ」


 俺はルーナの目を見た。日が傾き始めた裏山の沢のほとりで、緑色の瞳が不安と困惑を湛えて、俺を見つめ返している。


「俺にはマナがない。魔法は一生使えない。この世界の基準で言えば——俺は、最底辺のさらに下だ」


 光り石を握った。光らない石。空っぽの器。


「だが——」


 器を、空に掲げた。


「空っぽだからこそ、何でも入れられる」


 ルーナが息を呑んだ。何かが俺の目に——この十六歳の少年の目に——宿っていたのだろう。前世の五十二年分の執念と、今世の零からの覚悟が。


「この石は誰も見向きもしない。ガキの玩具だって笑われてる。——前世の俺が作った電気自動車も、最初はそうだった」


「前世……?」


 しまった。口が滑った。だが——今は、そんな些末なことはどうでもいい。


「いや、何でもない。とにかく——この石には可能性がある。俺が持っても光らないのは、俺にマナがないからだ。だがそれは、この石に価値がないということじゃない。俺が持って光らないなら——」


 光り石を、ルーナの手に置いた。青白い光が灯る。


「——光る仕組みを、別に作ればいい」


 ルーナは掌の上の光を見つめていた。沢の水音と、木々を抜ける風の音だけが、しばらくの間、二人の間を流れた。


 やがて——ルーナが顔を上げた。


 困惑は、まだ消えていなかった。でも——その奥に、別の色が見えた。理解ではない。もっと手前の、もっと原始的な何か。


 ——信頼、だった。


 意味はわからない。でも、この目は——このマルクの目は、嘘を言っていない。ルーナの緑の瞳が、それだけを確信しているように見えた。


「……あんたって、ほんとに変わったよね」


 ルーナが、小さく笑った。呆れと、諦めと、そしてほんの少しの期待が混じった笑顔だった。


「熱が出る前のマルクは、こんなこと絶対言わなかった」


「人は変わるものだ。——特に、一度死にかけると」


 二度死んでるんだけどな、とは言えなかった。


 沢のほとりに立つ二人の影が、西日で長く伸びている。紫がかった空が茜色に染まり始めていた。


 俺は光り石をポケットに——正確には、腰紐に結んだ布の袋に——仕舞い込んだ。光らない石。俺の手の中では、ただの石ころ。


 だがこの石ころが——いつか、この世界を変える。


 前世では二千億ドルの帝国を築いた。


 今世では——この石ころから、始める。


 大貧民からの、再スタート。


 夕食は、芋の煮物だった。


 芋二つ。それをリーナが四等分にして、木の皿に並べた。味付けは塩ひとつまみ。以上。前世のフレンチレストランのシェフが見たら卒倒する献立だが、湯気の向こうでリーナが「今日は奮発したよ」と笑った。


 四等分。——つまり、二つしかない芋を、自分の分も含めて四人分にしている。俺とリーナで二人のはずだが、残りの二皿はルーナとゴルドの分だった。ゴルドには「あの子が迷惑をかけたお詫び」、ルーナには「いつも水を汲んでくれるお礼」。


 リーナの取り分は、四等分の中で一番小さかった。


 気づかないとでも思ったのだろうか。それとも——気づいてほしくなかったのか。


 俺は何も言わず、芋を食べた。前世で百ドルのオマール海老を「火の通りが甘い」と突き返した男が、塩味だけの芋を噛み締めている。


 ——うまかった。これも、嘘じゃなかった。


 ◇


 食後、リーナが囲炉裏の火を落とし始めた頃、俺は静かに家を出た。


「ちょっと外の空気を吸ってくる」


 リーナは「あんまり遅くならないようにね」とだけ言った。心配はしている。だが四日目にもなれば、この息子が少し変わったことには気づいていても、無理に引き止めはしない。——リーナは、そういう母親だった。


 村外れの小道を北に向かう。昼間にルーナと歩いた道を逆にたどり、村の奥の丘陵——見晴らし台と村人が呼んでいる小高い丘を目指した。マルクの記憶に、そんな場所がうっすらと刻まれていた。子供の頃、ルーナと登って遠くの山脈を眺めた場所。


 十分ほどで丘の頂上に着いた。


 息が少し上がっている。まだ完全には回復していない体に、坂道は堪えた。だが——膝に手をついて呼吸を整え、顔を上げた瞬間。


 言葉が、消えた。


 ——星空。


 丘の上には遮るものが何もなかった。三百六十度、地平線まで広がる暗い大地の上に——天蓋が、あった。


 星だ。


 前世で見たどの星空とも違う。テキサスの砂漠で見上げた天の川とも、南アフリカの故郷プレトリアの夜空とも、スターシッパー号のコックピットから見えた宇宙の星々とも。


 まず、数が違う。光害という概念がないのだろう。大気中の塵も少ないのか、星の一つ一つが針で突いたように鋭く、密度が異常に高い。夜空が白く見えるほどだ。天頂付近には、淡い紫色の星雲が帯状に横たわっている。地球の天の川に似ているが、色が違う。銀色ではなく、薄い藤色。


 そして——月。


 二つあった。


 大きな白い月が、西の空の中天に浮かんでいる。地球の月よりもやや大きく見える。表面には地球の月と同じように陰影のパターンがあるが、模様が全く違う。ウサギも蟹も見えない。代わりに——天秤のような形に見えた。この世界の住人は、きっと月の模様にアカウンタス神の天秤を見出しているのだろう。


 もう一つ。小さな赤い月が、東の地平線近くに低く懸かっている。血の色、というほど禍々しくはない。錆びた銅のような、くすんだ赤。白い月の三分の一ほどの大きさで、ゆっくりと昇り始めている。


 二つの月に照らされた丘の上で、俺は草の上に腰を下ろした。


 見上げる。


 オリオン座がない。


 当たり前だ。ここは地球じゃない。だが——夜空を見上げた瞬間に、反射的に探してしまった。オリオンのベルトの三つ星。子供の頃、プレトリアの裏庭で父に教わった、最初に覚えた星座。


 北極星もない。カシオペアも、北斗七星も、さそり座も。前世の夜空を構成していた全ての目印が——一つ残らず、消えていた。


 知らない星が、知らない模様を描いている。


 この空のどこかに、地球があるのだろうか。あの青い惑星が、この星々のどれかの隣で、今も回っているのだろうか。


 ——いや。


 そもそも、この世界と地球が同じ宇宙に存在している保証すらない。


「……もう帰る場所は、ないんだな」


 声に出した。


 風が吹いた。夜の丘を渡る、冷たくて清涼な風。草が波打ち、虫の声が一瞬途切れて、また鳴り始めた。


 ——不思議だった。


 帰る場所がない。その言葉は、客観的に見れば絶望的なはずだ。故郷を失い、前世の全てを失い、知らない世界に一人取り残されている。泣き叫ぶのが普通だろう。膝を抱えて震えるのが、人間として自然な反応だろう。


 なのに——悲しくなかった。


 むしろ——胸の奥に広がっているのは、奇妙な清々しさだった。


 前世を振り返る。


 ムーロン・マスク。総資産二千億ドル。フォーブス長者番付八年連続一位。SNS「Y」のフォロワー二億人。テヌラ・モーターズの株主。スペースYの創業者。世界で最も有名な男の一人。


 ——そして、世界で最も孤独な男の一人。


 葬式に来てくれる友人が、何人いただろう。


 考えるまでもない。ゼロだ。


 二億人がフォロワーだった。だが「フォロワー」は「友人」じゃない。俺の投稿に「いいね」を押す人間は二億人いたが、俺の葬式に花を持ってくる人間は——一人もいなかっただろう。


 七人の子供がいた。最後に電話したのがいつか思い出せない。三番目の子の名前の正しい読み方すらわからない。元妻たちは——俺の訃報を聞いて、何を思っただろう。悲しんでくれただろうか。それとも——「やっぱりね」と溜息をついただろうか。


 二千億ドル。


 その数字で、何が買えた?


 マンハッタンのペントハウス。プライベートジェット。世界中のどんな料理でも、どんなワインでも、どんな車でも。欲しいものは全て手に入った。


 ——欲しいもの以外の、全ても。


 孤独。猜疑心。不眠。深夜三時に目が覚めて、真っ暗な天井を見つめながら「俺は何のためにこれをやっているのか」と自問する夜。答えが出ないまま朝が来て、またスプレッドシートを開いて、数字を積み上げる。積み上げても積み上げても——足りない。何が足りないのかもわからないまま、次の数字を追いかける。


 ……ラットレースだ。


 前世の俺は、世界一豪華なラットレースの中で——一番速く走っていた回し車の上で——死んだ。


 ふっ、と笑いが漏れた。


 自嘲だった。だが——不思議と、毒がなかった。


 あの人生を否定する気はない。テヌラは世界の自動車産業を変えた。スペースYは宇宙開発のコストを百分の一にした。それは事実だ。意味がなかったとは言わない。


 だが——「俺のために」やったことの中で、本当に価値があったものが一つでもあったかと問われたら。


 答えは——ない。


 今日一日を振り返る。


 壊れかけの水車。痩せた農地。継ぎ接ぎの服を着た子供たち。靴のない裸足。塩味だけの芋。


 貧しい。圧倒的に貧しい。前世の基準で言えば、ビンボーレ村の全資産を合わせても、ムーロン・マスクのポケットマネーの誤差にすら届かない。


 だが——


 リーナは三日間、一睡もせずに俺を看病してくれた。薬草の煎じ薬を作り、額の汗を拭い、アカウンタス神に祈り続けた。自分の食事を削って、この体に粥を食べさせてくれた。


 ルーナは毎日、沢から水を汲んで運んでくれた。片道十五分の山道を、重い桶を担いで。そして枕元に座って、山羊が逃げた話や、かぼちゃが実った話を、ずっと聞かせてくれた。意識がなかった俺に。聞こえているかわからない俺に。


 ゴルドは——あの無骨な老鍛冶屋は、今日の午後、ルーナを通じて伝言を寄越した。「あの小僧、体は大事にしろよ」。


 それだけ。


 それだけだった。


 前世には二千億ドルがあった。今世には銅貨一枚もない。


 だが——「金で買えないもの」は、こっちの方が遥かに多い。


 二つの月が、丘の上の少年を照らしている。白い月光と、赤い月光が混じり合って、草の上に不思議な色の影を落としている。


「……俺は、前世で間違えてたんだ」


 星空に向かって、呟いた。


 間違えていた。何を?——全てを、ではない。手段は正しかった。テクノロジーで世界を変えるという方法論は、今でも正しいと思っている。


 間違えていたのは、目的だ。


 「誰のために」を、一度も考えなかった。


 火星に行きたかったのは、人類のためか? ——違う。自分の名前を歴史に刻みたかっただけだ。電気自動車を作ったのは、環境のためか? ——それもある。だが本音は、「俺ならできる」という全能感に酔いたかっただけだ。SNSを買収したのは、言論の自由のためか? ——嘘だ。世界の言論空間を「所有」したかっただけだ。


 二千億ドルの全てが、俺の自尊心を養うための飼料だった。


 その飼料を全て失って——今、俺の手元に残っているのは。


 ポケットの中の、光らない石ころ一つ。


 ——それと。


 看病してくれた母。水を運んでくれた少女。「体、大事にしろよ」と言ってくれた鍛冶屋。


 ……不思議だな。


 二千億ドルより、こっちの方が——ずっと、重い。


 ◇


 どのくらいそうしていただろう。


 背後から、草を踏む足音が聞こえた。


 軽い足音。迷いのない歩幅。一歩ごとに微かに草が鳴る、よく知った——いや、この体がよく知っているリズム。


「やっぱりここにいた」


 ルーナが、丘の上に登ってきた。


 亜麻色の髪が夜風にふわりと揺れている。二つの月の光を受けて、そばかすの散った頬が白く、赤く、不思議な色に染まっていた。


「こんな夜に一人で何してるの。お母さん心配してたよ」


「……星を見てた」


「星?」


 ルーナが隣に腰を下ろした。膝を抱えて、俺と同じように空を見上げる。


「きれいだね、今夜」


「ああ」


 しばらく、二人で黙って星を見ていた。虫の声と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが、夜の丘を満たしている。


 やがて——ルーナが、小さな声で言った。


「……光り石のこと、気にしてる?」


 俺は顔を向けた。ルーナは空を見上げたまま、膝を抱えた腕にぎゅっと力を込めている。


「マナがなくたって——マルクはマルクだよ。あたしたちは誰もマナなんか使えないし。気にすることない」


 慰めだった。不器用で、真っ直ぐで、ルーナらしい慰め。


 俺は——少し笑った。


「気にしてない」


「嘘。だって一人でこんなとこ来て——」


「本当だ。気にしてない。……むしろ感謝してる」


「感謝?」


 ルーナが目を丸くした。マナがゼロだと判明して感謝する人間は、この世界には俺くらいだろう。


「おかげで方向性が見えた」


「方向性って……何の?」


 俺は立ち上がった。


 草の上に座っていた体を起こし、丘の頂上に両足で立つ。正面には、二つの月と満天の星空。背後には——小さく灯る村の明かり。誰かの家の囲炉裏の火が、闇の中に橙色の点を穿っている。


 風が吹いた。少年の黒い髪を巻き上げ、夜空に散らす風。


「ルーナ」


「な、なに。急に立ち上がって——」


「俺はこの村を変える」


 ルーナの目が、見開かれた。


「いや——この世界を変えてみせる」


 静寂。


 虫の声すら、一瞬止まったように感じた。


 ルーナが、ぽかんとした顔で俺を見上げている。丘の上に立つ少年のシルエットを、二つの月が背後から照らしている。白い月光が右半身を、赤い月光が左半身を染め分けて、まるで二つの世界の境界に立っているように見えたかもしれない。


 三秒。五秒。


 ルーナの表情が動いた。最初は呆れ。「また変なこと言ってる」という、この四日間で何度も見た顔。


 だが——俺の目を見て、表情が変わった。


 呆れが消えた。代わりに浮かんだのは——戸惑い。そして、戸惑いの奥にある何か。


 俺の目に何が映っていたのか、俺自身にはわからない。だが——ルーナには、見えたのだろう。十六歳の少年の瞳の奥に灯る、五十二年分の炎が。


 前世と同じ炎だった。テヌラ・モーターズを立ち上げた時も、スペースYのロケットを打ち上げた時も、この目の中で燃えていた炎。世界を変えてやるという、傲慢で、無謀で、だが止められない炎。


 ——でも、一つだけ違う。


 前世の炎は、俺自身を燃料にしていた。自尊心。全能感。「俺ならできる」という驕り。それを燃やして、世界を照らそうとした。結果——燃え尽きた。文字通り。ロケットごと。


 今度の炎は——違う燃料で燃えている。


 薄い粥の温かさ。毎日汲んでくれた水。「体、大事にしろよ」という無骨な言葉。裸足で走り回る子供たちの笑顔。


 ——人のために。


 その三文字が、炎の色を変えた。


 ルーナが、唇を開いた。


「……あんたが言うと、なんか本気に聞こえるから怖いわ」


 怖い、と言いながら——ルーナは笑っていた。


 呆れでも、嘲りでもない。困ったような、でもどこか嬉しそうな、複雑で——温かい笑顔だった。


「マルク。あんた本当に、熱で頭おかしくなったんじゃないの」


「かもな」


「でも——」


 ルーナが立ち上がった。草についた土を払い、俺の隣に並ぶ。二人の少年と少女が、丘の上に並んで立っている。


「——あんたの頭がおかしくなった結果、何かが変わるなら。あたしは見届けてあげる」


 それは約束ではなかった。応援でもなかった。


 ——共犯の宣言だった。


 俺は笑った。声を出して。前世のムーロン・マスクが最後に心から笑ったのがいつだったか思い出せないが、マルクとしてのこの体は——自然に、軽やかに、笑えた。


 見上げた空に、流れ星が一つ走った。


 知らない星座の隙間を、白い光の線が横切っていく。前世なら願い事をする間もなく消えるスピードだが——この世界の流れ星は少しだけ長く、尾を引いた。


 願い事は、しなかった。


 願うんじゃない。やるんだ。


 ◇


 丘を下りながら、俺は夜空を背にして歩いた。


 前を歩くルーナの亜麻色の髪が、月光を受けて銀色に光っている。その先に、ビンボーレ村の小さな明かりが点々と灯っている。百二十人が暮らす、貧しくて、小さくて、世界の誰にも知られていない村。


 前世では——打ち上げのカウントダウンで人生が終わった。


 10、9、8、7——期待と傲慢を積み上げて。

 6、5、4、3——ゼロに向かって加速して。

 2、1——ゼロ。

 そして——爆発。


 全てが、終わった。


 だが——今度は違う。


 今度はカウントダウンから始めよう。


 ゼロから。


 いや——マイナスから。


 マナもゼロ。金もゼロ。身分は最底辺。辺境の貧村の、痩せた少年。持っているのは、前世の記憶と、光らない石ころ一つ。


 大貧民。


 だが——大貧民には、大貧民の戦い方がある。


 カードゲームの大貧民では、最弱の手札から始まる。だが革命ルールがある。最弱の手で最強を覆す、逆転の一手が。


 俺は——マルクは——この世界に、革命を起こす。


 前世の知識を武器に。この手の石ころを弾丸に。


 テクノロジーで。エンジニアリングで。そして——この村でもらった温かさを、忘れずに。


 大貧民の少年の。


 成り上がりの物語を。


 丘の下で、ルーナが振り返った。


「マルク、何ぼーっとしてんの。早くしないと、お母さんに怒られるよ」


「ああ、今行く」


 俺は一歩、踏み出した。


 背後で、二つの月が——少年と少女の影を、長く地面に描いている。白い月と赤い月。二つの光が混じり合った、この世界にしかない色の影。


 カウントダウン——開始。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ