・1 奇跡
「ねぇ、早く行こっ!」
僕を引っ張る彼女の声。頭の中に残っている声。
猫のように気まぐれで、犬のように元気な彼女。
青信号になったばかりの横断歩道を彼女が走る。
車が来る。その車が、彼女を殺していった。
昨日の出来事だった。
彼女が交通事故で亡くなった。まだ僕と同じ年齢だった。
青信号の横断歩道を先に渡った彼女が信号を無視した車にひき逃げされた時のこと、僕の目の前で息絶えたのは今でも覚えている。
訳が分からなかった。全部が唐突過ぎて。
「奈々……」
思い出すだけでも気持ちが落ち着かない。
もう一度彼女に会いたい。
僕はもう一度彼女と向き合いたい。
「学校に行かないと」
頭の中が回らない。気持ちも落ち着かないままだ。
それでも行くところには行かないと。学生の僕には学業がある。
そんな漠然とした使命感のまま、僕は支度をして家を出た。
「雨?」
小雨が降っていた。傘を持って行くほどのものじゃない。
傘なんか持たずに通学路を歩いていくと、小雨から本格的な雨になってきた。
水たまりが出来ている。
その水たまりを僕と同じ学校の生徒が踏みしめていく。
「……?」
人の足でバチャリと音を立てて、波紋する水たまり。
よく見たら水たまりに誰かがいる。揺れる水たまりの中に女の子の顔がある。
「!?」
今、水たまりを踏んでいった生徒のものじゃない。
ずっと水たまりの中に顔が留まっている。
「幽霊?」
水辺には霊が集まりやすい。
そんな話を聞いたことがある。
僕はその話が事実か、水たまりを覗いた。
「っ!」
死んだはずの彼女がそこにいた。水たまりに彼女の顔が映っている。
僕はもっと顔を近付ける。
「奈々!」
彼女の名前を呼ぶ。
もしかしたら反応してくれるかもしれない。
「奈々?」
だけど彼女は反応しなかった。表情を変えずに僕と目を合わせている。
これは幻覚か?
そうだとしても、この水たまりに彼女がいると信じたい。
「奈々、僕だよ。分かる?」
そう言うと彼女の腕が伸びてきて、水たまりから実物の彼女の腕が出てきた。
「手」
彼女の手を握る。ちゃんと形がある。触れる。
彼女は握り返してこない。
そのまま彼女の腕は僕の手をすり抜けるようにして水たまりの中に戻っていった。
「もう行くの?」
彼女は頷き、僕が覗く水たまりから立ち去っていった。
「……良かった。もう一度会えて」
僕の彼女──あの奈々が幻覚だろうと、幽霊だろうと、僕はただ嬉しかった。
また会いたい。
僕はあちこちにある水たまりに目をやりながら通学路を進む。
それから結局会えずに学校に着いてしまった。
それでもいい。また会えるはず。この一回きりじゃないはず。
放課後が楽しみだった。もう一度会えるかもしれないから。