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2.婚約後の日常

普通の婚約ならば、婚約後は互いの交流を深める期間に入る為、登下校やランチタイムなど、できる限り行動を共にする。


しかし、フィルにとっては婚約したという事実が必要なだけだったから、ふたりが一緒にいることはほとんどなかった。


だから最初は誰もがこの婚約を疑いの目で眺めていたが、フィル自身が婚約を口にしたし、ウィーナもそれを否定しなかったから、やがてそれは事実として受け入れられていった。


巷の婚約者同士のようにベタベタしないふたりではあったがそれでも周囲へのアピールも兼ねて時々は出かけた。


不思議なものであれほど観劇を嫌っていたフィルも、ウィーナという気を使わないでいい相手と一緒だとそれなりに楽しめた。


それはウィーナの知識が素晴らしかったからだ。


彼女の成績が優秀なことはフィルも知っていたが、彼女は原作や場面の意図までも理解しており、そこらの文学者より余程詳しい。


「このお話は古代の伝承に基づいていますのよ、キーアイテムとして赤い薔薇が使われているのがその証拠です。

伝承では赤薔薇は血染めの花として登場します。無事を祈り、自らの血で染め上げた花を旅立ちのはなむけとするという習慣があったそうです」


「血染めとは随分物騒だな」

「乙女の大事な物を捧げるという意味ですわ」


乙女の大事な物、つまり純潔を捧げるということだ。

実際に旅立ちの前に行為をしていた時代もあったが、それで万一、男性が帰ってこなかったら世の中は父無し子で溢れてしまう。

そこで破瓜の血を意味する血染めの花で代用されることになったのだという。


「なるほど。愛しい女性からそのようなことをされたら、男は是が非でも生きて帰ろうとするだろうな」

「静かに、アリアが始まりますわ」


フィルの下世話な感想を一蹴したウィーナはアリアの美しいメロディーに耳を傾けたのであった。






前回の観劇からひと月ほど経った頃、とある貴族が美術品を集めた展覧会を開き、フィルとウィーナはそれに参加することになった。


子爵家にウィーナを迎えに行ったフィルは彼女のドレスがつい先日の観劇と同じであることに気づいた。


一見するとわからないようにつけ襟をつけて、袖にもフリルをあしらってある。

しかしよく見ると両者は同じドレスで、侯爵の婚約者がこれではいただけないと思ったフィルはその足で母が行きつけにしている仕立て屋に向かった。


「コートレル卿、本日は展覧会ではなかったのですか?」


仕立て屋に到着したことに驚いたウィーナにフィルは小声で言った。


「君が着ているのは前回と同じドレスだろう?」


そう指摘をするとウィーナはさっと顔を赤らめ、謝罪を口にした。


「申し訳ございません、新しいものを仕立てねばと思っていたのですが、支払いを優先してしまいました」


「いや、わたしが悪いんだ。婚約者に贈り物をするのは男性の務めだ。今日のところは既製品で我慢してくれ、後日、仕立物を届けさせる」


「いえ、卿からのご支援のおかげで学費を貯蓄する必要がなくなりましたから資金はございます。今後はコートレル卿の婚約者として恥じぬような身なりを心がけます」


「君にも言い分はあるだろうが、ひとまず今日のところは引いてくれ。先方を待たせるのはよくないからね」


納得のいっていないウィーナではあったが確かに彼の言うとおりだ、大幅な遅刻はマナー違反になる。

彼が侯爵だとしても、相手に礼節を欠いた態度を取るのはいただけない。



フィルの言葉に従ってウィーナはその場で別のドレスに着替え会場へと向かった。

幸い展覧会というのは一日中開催している為、昼近くに到着したところで遅刻を問われることはなかった。


ここでもウィーナの博識は披露され、彼女は主催者の老伯爵に打てば響くような返答をし彼を感心させた。


「コートレル侯爵は良い伴侶を得られましたな、いつか夫人として対面する日を心待ちにしております」


ウィーナが化粧室に行っている間に帰りの挨拶をしたフィルに老伯爵はそう言って目を細めた。


この婚約がいずれ破棄されるものだと知ったら彼はどう思うだろう。

フィルはなんとも言えない居心地の悪さを感じて、化粧室から出てきたウィーナを急かすと早々に帰路についた。




それから数日して、カペル子爵の家にはフィルからの贈り物が届けられた。

ドレスが三着に帽子や手袋といった小物、それにネックレスと揃いのイヤリングが数十点もあった。


届けに来たのはフィルの従者で、彼が言うには仕立てが間に合わなかったドレスは後日、商会が届けるという。


「もうじゅうぶんすぎますわ。残りはけっこうです」

「ですが、既にお嬢様のサイズに合わせて生地の裁断は済んでおります、お断りになられますと無駄になりますよ?」


悲しいかな貧乏が染みついているウィーナにとって『無駄』という言葉はなにより恐ろしく抗うことができない。


ウィーナが反論の言葉を探しているうちに従者はさっさと荷物を運び入れ、帰って行ってしまった。


「お嬢様、いかがしたしましょう?」


婚約者からの大量の贈り物にハンナはニコニコしているが、これはただの契約だ。

婚約が白紙になるタイミングで頂いたものもすべて返却できるようにしておかなければならない。


とはいえ、全く着ないというわけにもいかないだろう、フィルの婚約者役を仰せつかっているウィーナはこれらを身につけなければならない。


「鍵のかかる部屋に運んで弟と妹が触らないように気を付けて頂戴」

「それはもちろんでございます」

「ドレスは汚さないように、アクセサリーの破損にもじゅうぶんに気を付けて身に着けることにしましょう」

「それは、そうでしょうが」


必要以上に取扱いに気を付けろと注意するウィーナの言葉にハンナは首をかしげたものの、物を大事にすることは悪いことではないので反論はしなかった。


彼女は他の使用人たちと手分けして鍵のかかる部屋へと運び込み、幼い子供達にはウィーナの大事な物だから決して触れないように、と言い聞かせたのであった。








その後もひと月に一回ほどのペースでウィルとの外出に勤しんでいたウィーナのもとに王家の紋章のついた招待状が届けられた。

それは王妃主催の茶会への誘いでフィルにも同じものが届けられている。


「王妃様からのご招待だなんて、どうしますか?」


放課後、ウィーナは珍しくフィルの教室を訪れ、人気のない空き教室で茶会の相談をした。


ガヴァネスになるためにとマナーはきちんと身に着けてはいるが、さすがに王族に恥じぬそれかと聞かれたら自信はない。


ウィーナはなんとか断る方法はないかとフィルに相談をしたのだが、彼は早々に諦めていた。


「王族からの招集を断るなんてできないよ」

「でもコートレル卿は侯爵位ですよね?」

「侯爵家なら付き合いという意味でなおさら断れない。それに言いたくはないが子爵家が辞退するなど不敬罪を問われてもおかしくないぞ」


明確な罪名がフィルの口から飛び出たことで冷静沈着なウィーナもさすがに顔を青くした。


「でも自信がありません」

「君なら大丈夫だよ、とても所作が美しいと母上も褒めていた」


婚約が調ってすぐの頃、顔合わせと称してフィルの両親と食事をしたことがあるのだが、そのときのことを言っているのだろう。


それはお世辞だとウィーナは言いたかったが、今はそんなことはどうでもいい。

この茶会が避けられないのなら、マナーをおさらいするくらいしかウィーナにできることはない。


「コートレル卿、ご両親は今、どちらに?」

「シーズンに入ったから屋敷に滞在しているよ。母上にお願いしておこうか?」


フィルにもウィーナの考えていることがわかったのだ、ウィーナは前侯爵夫人にマナーを確認してもらおうと思っている。


「急で申し訳ありませんけれど、よろしくお願いします」


そして早速、翌日の放課後から、ウィーナはフィルの屋敷に行って、前侯爵夫人からマナーを教えてもらうことになった。




「いらっしゃい、ウィーナさん」


フィルと一緒に彼の屋敷に入るとすぐにサロンに案内され、そこには前侯爵夫人であるフィルの母が待っていた。


「お忙しいところ急な申し出にも拘わらずお引き受けいただき、感謝の言葉もございません」


最上位の礼をすることで心からの謝意を示したウィーナに夫人は困ったような笑みを浮かべて、

「そんな堅苦しい挨拶はやめて頂戴、わたしたちはいずれ義母娘になるのだから」

と言った。


残念ながらそうなりませんと言いたいウィーナであったが口に出せるはずもない。


ふと見ればフィルは既にソファに座り、涼しい顔をして給仕された紅茶を飲んでいる。

ウィーナばかりが前侯爵夫妻を騙しているという居心地の悪さを感じているようで、内心、腹が立った。



「ウィーナさんのマナーは申し分ないと思うのだけれど、心配なのね?」


ジロリとフィルを睨みつけていると夫人に声を掛けられ、ウィーナは慌てて取り繕った表情で応じた。


「カペルは子爵位でございますので高位の皆様とのご縁が薄く、まして王宮での集まりにご招待をいただくなどまずありませんので」

「確かに下位と高位とでは所作が違うと一般的に評されていますが、ウィーナさんのそれは決して見劣りはしないわ」


夫人の太鼓判にウィーナはどう返事をすべきが考えていたがそれより早く夫人が言った。


「まぁこういうのは慣れと言いますからね、今日からできる限り毎日、わたくしとお茶をしましょう。それに週末は友人との茶会がありますから、ウィーナさんも参加すればいいわ」

「夫人の集まりにわたくしが混ぜていただくなど恐れ多いことです」

「友人を招いてお茶をするだけの気軽なものよ、素敵なお嫁さんを自慢させて頂戴な」


屈託のない笑顔を浮かべる夫人にウィーナはなにもいうことができず、ただあいまいな微笑みを浮かべることしかできなかった。


夫人との茶会を終えたウィーナはフィルと同乗して帰路に着く。


馬車が出発してすぐにウィーナは苦情を言った。


「コートレル卿、やはりご両親に本当のことを打ち明けるべきです。婚約解消となることが決まっているわたくしをご友人方に紹介などしたら、後で恥をかくのは夫人ですわ」

「そういう君は両親に話をしたのか?」

「それは」


言えるわけがない、弟妹の学費と引き換えにウィーナは婚約を破棄された瑕疵のある令嬢になるのだ。


娘の幸せを望む父親なら許すはずもない。


「君が言えないのだからわたしだって言えない。わたしたちにできることは、円満な解消に尽力することだけだよ」


その言葉にウィーナは視線を落とし、それからあとは黙って馬車の外を眺めるしかできなかった。






前侯爵夫人の友人を招いての茶会、その日はあいにくの天候で会場を庭園から温室に移しての開催となった。

開催といっても集まったのは夫人とその友人、それにウィーナとフィルの四人だけ。


夫人が言ってたように気軽な茶会に間違いはなかった。


「フィルは侯爵を継いだのだったわね、お仕事は順調?」

「まだまだです、父上はご苦労されていたのだと身に染みて感じています」

「そう。でも少なくとも家政は安泰ね、ウィーナ嬢のお噂はわたしたちにも聞こえてくるわ。とても優秀で学業もマナーも申し分ない素敵なお嬢さんだ、って」

「そう言って頂けるなんて本当に嬉しいです、ありがとうございます」


ご婦人の賛辞にウィーナは素直に喜んだ。


聞けば彼女は伯爵夫人だという、伯爵位ならば子供たちに家庭教師を雇うだろう。

彼女は前夫人と同じくもう子育てが終わっているだろうが、その子供たちがわが子の為にと家庭教師を探すかもしれない。


そういうところに推薦してもらいたいがために必死で頑張ってきた。

今日、しっかりと好印象を残しておけば、フィルとの婚約がなくなった後に雇い入れてもらえるかもしれない。


「ウィーナさんとお呼びしてもいいかしら?」

「えぇ、もちろんです」

「侯爵家のお仕事はもう教わったの?」


本物の婚約者ではないウィーナが家政を学ぶ必要はないとフィルも言っていたから、そのあたりの教育は全く受けていない。

この答えにくい問いかけに応じたのはフィルだった。


「彼女はとても優秀ですから、わざわざ母の手を煩わせてまで学ぶ必要などありません。

今、任せている家政婦長からの引継ぎで充分、事足りると判断しました」


フィルの言葉に前夫人も大きくうなずき同意を示している。


彼が教育が必要ないと言ったのがそういう理由だったとは気づかなかった、しかし優秀でなかったら本物でない婚約者に花嫁修業をさせるつもりだったのだろうか。


そこまで考えてそれはないと内心で否定した。


家の内情を他人に明かすことは、極秘ではないにしても憚られる類の内容だ。

それにフィルのことだ、いかにももっともらしい理由をつけて教育不要とするのだろう。


それからあとも会話は弾み、茶会は滞りなく終了した。


別れ際、前侯爵夫人からウィーナの心配事を伝えられていた伯爵夫人は、

「ウィーナさんならきっと大丈夫よ、それに王妃様は気さくな方だから。楽しんでいらっしゃい」

とお墨付きをくれた。






そうして迎えた王宮での茶会。会場についてみると想像していたよりも規模は小さく、王妃のプライベートなものだとわかった。


子爵令嬢であるウィーナが王妃と対面するのは初めてだったが、前侯爵夫人との特訓の甲斐もあって、彼女は物怖じすることもなく、終始、落ち着いた態度でその集まりを終えることができた。


フィルは、彼に付きまとっていた幾人かの令嬢が参加することを聞きつけ、面倒なことになりはしないかと内心で戦々恐々としていたが、さすがに王妃主催の茶会で揉め事を起こそうなどという勇気ある令嬢はおらず、何事もなく帰路についた。


「やっと帰れる」


馬車に乗り込んですぐにフィルが漏らした本音にウィーナは笑った。


「王宮なんて子爵家のわたくしには縁遠い場所ですから二度と来ることはないでしょう。素敵な思い出をありがとうございます、コートレル卿と婚約してよかったです」

「そんなことはないさ、わたしと」


そこまで言いかけてフィルは慌てて口を閉じた。


『わたしと結婚したらしょっちゅう来ることになる』


ウィーナとの婚約はただの契約だ、フィルの仕事が落ち着いたら関係は解消することが決まっている。

それなのに結婚した後のことを話題にするなどおかしい。


先ほどのセリフは聞こえていなかったのかウィーナは黙って窓の外を見ている。

フィルはそれに残念なような安心したようななんとも言い難い気持ちを抱えて、同じように窓の外を眺めた。


辺りはすっかり夜になっている。街灯以外はなにも見えない景色では楽しめるような眺めも見えなかった。

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