侯爵令嬢は淡白な専属執事を押し倒したい!!
「アリアお嬢様、お目覚めくださいませ」
天から美声が聞こえる。
「お嬢様」
「きゃっ」
わたしは奇声を上げて飛び起きた。
起こされる前に起きようと思っているのに、またやってしまった。
「どうして毎朝毎朝レナフォードが起こしに来るのよ」
思わず、跳ねているのではないかと自分のメイズ色の髪を両手で押さえる。
「執事である私の仕事です」
「別にレナフォードじゃなくても、リリーとかシャロンとかニコとかいるでしょう。その……女の子が……」
「今更、何を気にしておられるのですか?」
レナフォードは首を傾げた。
瞬間、彼の前髪がサラリと左へ流れる。
その美しいシアン色の髪は今日もきっちり後ろで一つに束ねられている。
銀縁の眼鏡から覗く瞳の色はサファイアブルー。
無表情の顔は恐ろしいほど整っていて、非の打ち所がない。
彼、レナフォード・イリスはわたしの執事である。と同時にわたしの五歳年上の幼馴染でもある。
イリス家は代々侯爵家である我がミゼット家に仕えてきた。
現在、レナフォードの父であるシイナが執事長として、侯爵家当主であるわたしのお父様を支えている。
そうしてシイナが引退した後は、いずれレナフォードが我が家の執事長になるのだ。
そういう経緯で、レナフォードはわたしが幼いころからわたしの面倒を見てきた。
わたしの全てを知っていると言っても過言ではない。
ただ一つのことを除いては。
「レナフォード、わたし、もう十八なのよ」
「もちろん存じ上げております」
「子供じゃないわ」
「お一人で起きることすら叶わないのに?」
「本気を出せば起きられます」
「では本気を出してくださいませ。そんなに私に起こされるのがお嫌なのでしたら」
レナフォードはため息をつくと、ベッドサイドに座るわたしを凝視した。
そんなに見つめられると緊張してしまう。
彼は再び口を開いた。
「お嬢様、いよいよ正式にお嬢様の婚姻相手が決まりそうです」
「え?」
「絞り込んだ候補ですが、三人おられます。 一人目はトレザー伯爵の三男、エレスト様。二人目はジキナス侯爵の四男、カイル様。三人目はトリビューノ男爵の次男、アベル様でございます」
レナフォードは淡々と告げる。
わたしは病弱なお母様がやっと産んだ侯爵家の一人娘で、この家のために親が決めた婿養子となる相手と結婚しなければならない。
そのことは当然、幼いころから理解している。
理解はしているけれど……。
「レナフォード、とりあえず着替えるから一旦部屋を出てくれる?」
わたしは立ち上がると、彼を見上げてそう言った。
「手伝いましょうか?」
「……リリーを呼んで」
「承知いたしました」
レナフォードは一礼して部屋を出て行く。
手伝うって、何?
やはり彼は未だにわたしのことを子供だと思っているらしい。
わたしはレナフォードに恋愛対象どころか、女性という認識すらしてもらえていない。
身支度を整え、朝食を摂った後、レナフォードが再びわたしの部屋を訪れた。
何やら書類を抱えている。
「先ほどお伝えしました最終候補者の写真、調査報告書、お嬢様への自己アピールの手紙などをお持ちいたしました」
「結婚なんてしたくないわ」
わざと膨れて見せる。
レナフォードがわたしを子供だと思っているのなら、こういう子供染みたことを言っても許されるだろう。
「お嬢様、先程から今日は少しおかしいですよ。一体どうされたのですか?」
「おかしくなんてないわ。どうして結婚しなければならないの?」
「侯爵家を守っていくためです」
「結婚したら守れるの?」
「やはり血筋を絶やさないことが大事なのではないでしょうか」
レナフォードは言いながら、自分の頬に軽く拳を当てる。
「つまり結婚したら、知らない人とそういうことをするってことよね」
「そういう?」
「子供を作る行為よ」
「それは、そうでしょう」
考えるポーズのまま、またいつものように淡々と返す。
「わたし何も知らないわ。レナフォードが教えてくれる?」
「は?」
レナフォードは目を見開いた。
彼のこういった表情は珍しい。
「レナフォードに練習相手になってもらいたいの」
わたしはそう続けた。
「お嬢様、知識はきちんとお持ちでしょう。そのような練習は必要ございません」
「どうして? 実践してみなければ分からないじゃない。それに、知らない人とそんなことをするのは嫌なのよ」
本音を言えば、レナフォード以外の人となんて絶対に考えられない。
「先程から知らない人知らない人とおっしゃっておりますが、意味が分かりません」
「意味は分かるでしょう」
わたしはレナフォードを睨んだ。
「アリアお嬢様、何か誤解されておりませんか? 私はお嬢様に愛のない結婚をしていただきたいとは思っておりません。お相手を見て、惹かれた方とお付き合いをし、結ばれてほしいと願っております。候補者はあくまでも候補者ですから、お気に召さないのなら今回の三名の中から選ばなくても構いません。将来の伴侶を決める時間なら、まだ十分にございます」
「でも、わたしはどうしてもレナフォードに教えてもらいたいの」
「いくら私がお嬢様の教育係を兼ねているといっても、そういったことは伴侶となられる方に教わってください。もしくはお二人で学んでゆけばよいことかと」
「そうじゃなくて、せめて……せめて初めてはレナフォードに」
気持ちばかりが先行して、とんでもないことを言っていることは分かっていたけれど、勝手に溢れ出る言葉を止められない。
「お嬢様?」
レナフォードは怪訝な表情でわたしを見つめる。
「もういい。レナの馬鹿!!」
わたしはそう言って、自分の部屋を飛び出した。
分かっている。
レナフォードに真剣に好きだと想いを伝えたところで、絶対に受け入れてはもらえない。
恋愛対象に見られていないこともあるけれど、それより何より一番の問題はこの主従の関係だった。
代々続くこの関係性を彼が壊すはずもない。
だからわたしは、せめて一度だけでいいから愛されたいと願ってしまった。
練習と偽り、体だけでもいいから愛されたいと……。
それから暫くの間、レナフォードの顔を見ることができなかった。
命令で彼をわたしの部屋に近づけさせないようにし、わたしの世話は全てメイドに任せた。
大体、レナフォードは永遠にわたし専属の執事というわけではない。
いずれはわたしではなく、外交を任せる予定のわたしの伴侶に仕えるようになるのだ。
だから本当は今のうちからシイナとともに、現侯爵であるお父様のお世話をしたほうが彼のためになる。
辛いことだけれど、これを機に距離を置いたほうがいいのかもしれない。
でも、今後わたしが家のために愛のない結婚をするとして、それ以上に耐えられないものがある。
レナフォードが、わたし以外の女性と結ばれるのを傍で見ることだ。
自分勝手だと思うけれど、どうしてもそれだけは耐えられない。
やはり一度でいいから愛されたい。
偽りの愛情でも構わない。これからの過酷な現実に耐えられる綺麗な思い出が欲しい。
気まずくなることは必至だけれど。
それでも……。
わたしは執事室を訪れ、事務仕事をしているレナフォードに声をかけた。
手が空いたらわたしの部屋に来て欲しいと。
彼は承諾し、神妙な面持ちで頭を下げた。
それからレナフォードは一時間と間を置かず、わたしの部屋にやってきた。
「あれからずっと反省しておりました。またお嬢様のお顔が見られて嬉しいです」
そう言ったレナフォードは、先程よりも顔色がよくない。
「反省?」
「お嬢様が、その……将来の営みに対して不安がっていらっしゃったのに、私は当たり障りのないことを言い、不安な気持ちを少しも拭うことができず……。本当に申し訳ございませんでした」
彼は普段淀みなく物事をはっきり言うタイプだけれど、わたしを気遣い言葉を選んでいるのが分かった。
「違うの。そういうことじゃないの」
「お嬢様?」
わたしは一度目を瞑り、呼吸を整える。
「わたし、レナフォードが好き。ずっと、ずっと前から好きだったの」
「お嬢様が……私を?」
レナフォードは驚いた表情をしている。
わたしは僅かに頷いて続けた。
「レナフォード、お願いよ。わたしのことを好きじゃなくてもいい。誰かのものになる前に、わたしの初めてをもらって」
「……そんな顔でそんなことを言われては、さすがに耐えられません」
レナフォードは俯き、右手で自分の顔を覆った。
「レナ?」
彼は顔を上げ、再びわたしに視線を移す。
「お嬢様、告白いたします。私はお嬢様に初めてお会いした時から、一人の女性としてお嬢様をお慕いしております」
「え?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「一度で理解していただきたいのですが、もう一度復唱いたしますか?」
レナフォードは困った顔で尋ねる。
勿論、聞こえていなかったわけではない。
「あの、レナフォード、本当に?」
「こんなこと、偽りで申せるはずもないでしょう。死んでも口にしないつもりでしたから」
「じゃあ!!」
わたしは思いきりレナフォードに抱きついた。
「お嬢様、お待ちくださいませ」
レナフォードは優しくわたしの肩を押して、わたしから距離をとった。
紳士的に対応されても困る。
このまま勢いに任せて、彼を押し倒してしまおうと思っていた。
「レナフォード、わたし分かってるわ。レナもわたしを好きだと言ってくれて本当に嬉しいけれど、これ以上幸せなことってないけれど、レナとは結婚できない。だからこそ、せめて一度でいいから結ばれたいの」
レナフォードはわたしの言葉に、左右に首を振った。
「どうして?」
「お嬢様、私は覚悟を決めました。これまで私は自分の想いを隠し、ただお嬢様のお傍でお嬢様を支えられればいいと思っておりました。それは勿論、お嬢様が私以外の愛する男性と結ばれた後も変わらずに。けれどお嬢様の想いを知った今、そんな未来はなくなりました」
レナフォードはそこで一旦言葉を止め、改めてわたしを見つめた。
そして再び口を開く。
「私は旦那様にお嬢様と一緒になりたいと願い出てみようと思います。許されないことと百も承知しておりますが、誠心誠意お願いしてみます。そして、許されなければ執事を辞め、邸から去ります。お嬢様にはもう二度と会いません」
「そんなのは嫌!! レナフォードと離れるくらいなら今まで通りでいい。もう、一度でも結ばれたいなんて我儘言わないから、これからも傍にいて」
「できません。今は無理でも、私がいなくなればいずれ他の男性を愛する未来もあるでしょう」
「嫌……」
それこそ子供のようにただそれだけの感情しかなかった。
わたしがレナフォード以外の人を愛することなんて絶対にない。
「お嬢様、そんな顔をされないでください。私はまだ諦めてはおりません」
レナフォードは言いながら微かに笑った。
そういえば長い間、彼の笑顔を見ていなかった。
レナフォードがわたしを想ってくれていると分かって嬉しい。でも遠くへ行ってしまうかもしれない。
様々な感情が混じり合って、急に視界がぼやけてきた。
レナを押し倒そうなんて、もう激しい感情はない。
彼がそっと抱きしめてくれたから、わたしは少しだけ泣いた。
翌日、レナフォードとわたしは揃ってお父様の部屋を訪れた。
お父様は当主の椅子に腰掛け、横にはシイナが立っていた。
「婿候補のことか?」
お父様はわたしの顔を見るなり、そう尋ねた。
「いいえ。いえ、関係はあります。実はわたしにはずっと前から想いを寄せている方がいるのです」
「そうか」
お父様は短く返答する。
「わたしは」
「お嬢様」
レナフォードがわたしの言葉を遮り、そのまま続けた。
「私からお伝えいたします。単刀直入にお願い申し上げます。どうか私とお嬢様の結婚をお許しください。分不相応だとは承知しておりますが、私は誰よりもアリアお嬢様を愛しております」
「ああ、成程。アリアの想い人はレナフォードか。別に構わぬ。私に依存はない」
お父様はそう言い、軽く頷いた。
「は?」
レナフォードは拍子抜けしたような驚きの声を上げる。
わたしも全く同じ感情だった。
「別に驚くことはないだろう。真面目なレナフォードが自分の役目を放り出してアリアを選んでくれたなら、信用に足りる。そもそも代々我が家に仕えてくれているといっても、イリス家は平民ではない。子爵の爵位もあるし、問題なんて何もないではないか」
「そうだったの?」
わたしは驚いて思わずレナフォードに視線を向ける。
動じないところをみると、レナも爵位のことは知っていたらしい。
お父様はシイナに視線を移す。
「いや、一つ問題はあるな。レナはそなたの一人息子であったな。これからも我が家のことはイリス家に任せたい。問題はそなたの跡目をどうするかということだ」
「そのことについては何も心配はございません。優秀な甥がおりますので、邸に連れて参りこれから私が責任を持って教育いたします」
「随分手回しがよいな。さてはシイナ、そなた以前から二人の気持ちに気づいておったな」
お父様は笑った。
「おっしゃる通りです。しかしそれは一縷の望みでしかありませんでした。本来、レナフォードがお嬢様の伴侶になるなんて恐れ多いことですから。トリス様、二人の結婚を許してくださり深く感謝いたします」
シイナはそう言って深々と頭を下げた。
お父様を残し、わたしたち三人は応接室へと移動した。
シイナが特別な茶葉でお茶を淹れると言ってくれたからだ。
薫り高い紅茶の湯気が、ゆらゆらと天井へと昇ってゆく。
先程のやり取りが夢のように感じる。
まだお父様が認めてくれたという実感がない。
わたしは動悸が収まらない胸を押さえてカップに口をつけた。
美味しい。
特別じゃなくても、シイナが淹れてくれる紅茶はいつだって心を落ち着かせてくれる。
「参りました。表情にも態度にも出ないよう気をつけていたのですが」
唐突に、レナフォードはシイナに向かってそう言った。
「私は貴方の父親ですからね。それに執事たるもの、人の気持ちを機敏に察知できる能力も必要です。その点、貴方は執事失格です。長年一緒にいて、お嬢様の気持ちにも気づかなかったのですから」
「……それは気づけなくて当然ではないですか」
「敢えて考えないようにしていたのですか?」
シイナの問いにレナフォードは返事をしなかった。
本人目の前にそんな話をされたら、なんだか居心地が悪い。
「まあ、どちらにしてもお嬢様に邪な感情を抱くような者に執事長は任せられません。これから貴方はお嬢様のことだけを考え、お嬢様を誰よりも幸せにして差し上げなさい」
「はい。分かっております」
「お嬢様、愚息に不満があればこのシイナにお伝えください。厳しく指導いたします」
シイナはわたしに微笑みかける。
「シイナ、大丈夫よ。わたしはレナフォードの全てが好きだから」
「これはまた。余計な憂慮でしたか」
シイナは更に笑った。
レナフォードは紅茶に口をつけず、黙って俯いている。
「レナ?」
「ポーカーフェイスを保つのに必死なようですね。では、後はお二人で」
シイナはそう言うと、一礼して部屋を出て行った。
「レナフォード?」
わたしは黙ったままの彼を覗き込む。
「お嬢様、そんなに可愛いことばかり言わないでくださいませ」
「え?」
「いえ、部屋までお送りいたします」
レナフォードは、いつもの冷淡な表情で席を立った。
わたしの部屋の前に着き、レナフォードが尋ねる。
「お嬢様、部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、勿論」
わたしはレナフォードを見上げて頷く。
今更改まって、どうしたというのだろう。
「ご主人様にも認められ、もう障害はございません。それを踏まえまして、先程はどういうおつもりでしょうか?」
部屋に入るなり、レナフォードはそう質問する。
「え?」
よく分からないけれど、なにか怒っているようだ。
「大体、長年押し倒したかったのは私のほうなのですよ。今までどれだけの忍耐力で耐えてきたことか。当然、これからも死ぬまで耐えてゆくつもりでしたが」
レナフォードは言いながら眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。
「レナ?」
「無理ですね。お嬢様の言葉が嬉しくて、おかしくなりそうです」
レナフォードはじっとわたしを見つめると、今度は徐に自分のネクタイを緩める。
「さて、お嬢様。私の箍を外してしまわれたのですから覚悟してくださいませ。……よろしいですね?」
答えを待たずに唇を塞がれる。
脅しのような口調と裏腹に、彼の口づけはとても優しかった。
それからふわりと持ち上げられ、ベッドに押し倒される。
「ちょっと、レナフォード、待って」
「待てる場合と待てない場合があり、今はもう待てない場合です」
レナフォードは、何も返せずあたふたするわたしの頬に触れた。
けれど、押し倒そうと思っていた相手に押し倒されるのなら、これ以上幸せなことはない。
レナフォードの手に、わたしも上からそっと触れてみる。
「レナ、大好き」
わたしは呟く。
「お嬢様、心より愛しております」
彼はやわらかく笑って、再びわたしに甘い口づけを落とした。
お読みいただきありがとうございました。