27-2 Irreplaceable ― latter half ハイジ ― ②
次の日の朝、蓮が起きると凜は朝風呂に入っていた。凜がお風呂から上がる蓮漣も軽くシャワーを浴び、お茶を飲んで少し休憩すると、部屋を片付けてチェックアウトの準備をした。
荷物をまとめると受付に行き、宿泊料の支払いを済ませる。凜が、「ありがとうございましたー」とお礼をすると、樫見はやけにうれしそうにデレデレになって、また来てねー、とわざわざ建物の外まで見送りに来て手を振って挨拶してくれた。
その日の目的地は、〈ハイジの園〉というテーマガーデンである。その場所は、二人が泊まった少年少女自然の家から、清里ラインという道路を南下し、バイクで三十分ほど走った場所にあった。
ハイジの園の駐車場それほど混んでいなかった。それなりの広さの駐車場にマイクロバス数台に何台かの乗用車が見えた。二人はバイク用と思われる場所に駐車し、受付に向かった。
受付のゲートの先には、インターネットの写真で見た通りヨーロッパ風の建物が立ち並んでいた。そのエリアを抜けると、なだらかな広い斜面全体に公園が広がっていた。季節も冬に近づいているせいか、花はほとんど見られなかったが、手入れされた公園は歩いていて気持ちがよかった。
建物のある場所から伸びる坂道を進んでいくと、下った先に池がでてきた。小さな桟橋のような場所から池をのぞくと、なぜかたくさんの鯉が近寄ってくる。どうやら人影を見れば、エサがもらえるというパブロフの犬状態のようだ。
凜は、近くにあった餌の自動販売機でアイスのコーンのようなものを買うと、無駄に群がってくる鯉にばらまいた。
妙に丸々とした鯉たちは、我先にと水面から飛び跳ねんばかりに顔を出し、餌にありつこうと必死である。かわいいというより、怖いぐらいの食いつき方だ。蓮は若干引いたが、凜は面白がって三回分も餌をあげていた。
そこから小道をなだらかな斜面に沿って、再度丘の上に進んでいった。少し開けたところに子供用の遊具がいくつか見え、その中の一つにジップラインが見えた。
ジップラインは、スタート地点とゴール地点に張られたワイヤーを滑車に繋がれたロープを掴んで滑って移動する遊具である。これも凜は楽しそうに何回も遊んでいた。蓮はガジェットで動画を撮る係を任された。
凜がはしゃいでいると、小学校低学年だろうか、小さい女の子が羨ましそうに見ていたので、蓮と凜で危なくないように女の子を支えながら滑るのを手伝ってあげた。女の子はきゃっきゃと喜んでいた。近くにいた母親と父親がそれに気づいて、二人はお礼を言われ、なんだか照れくさくなった。
ふと時計を見ると、もうお昼近くになっていた。
入園口付近の建物に戻り、売店でソフトクリームを買うと近くのテーブルに座り無言で食べた。どうやら凜も特に思い残すことは無さそうである。
お昼はどこかのサービスエリアで食べてみたいと凜が言うので、二人はハイジの園を後にし、ひとまず高速道路に向かった。
高速に乗ると、談合坂というサービスエリアまで一気に走った。そこでも凜は、ほうとうを頼んでもぐもぐ食べていた。どうやらちょっと気に入ったようである。蓮は無難にごはんものを頼んだ。
ふと、こういった場所でこうやって特別な食事をするのも立派な思い出であり、何か趣があるような気がした。
その後は、比較的早い時間のせいか、渋滞につかまることもなく談合坂から都内までスムーズに進むことができた。二人は高井戸インターを下り、そのまま甲州街道で新宿方面へ向かった。
蓮は環状八号線を右に曲がり、第三京浜方面へ向かうことになっている。環八で右折するところで、二人はお互いにサッと手を上げ挨拶をすると、それぞれの帰路についた。
それから一時間ほどで、蓮は家に到着した。
荷物を一通り整理しガジェットを確認すると、凜から〈おうちについたよ〉、とメッセージが入っていた。蓮も、無事着いたとメッセージを送る。その後、凜からはメッセージの返信はなかった。なんだかんだ疲れたとは思うので、今頃ぐっすり眠っているのかもしれない、と蓮は思った。
ゆっくりシャワーを浴びて部屋着に着替え、アイスティーを飲みながらインターネットでどうでもいい動画をチェックしていると、不意に昨日の真夜中に感じた涙の匂いを思い出した。
自分が泣き虫なのはわかっているが、それでも自分が泣いているかどうかぐらいは判断できる。
そして涙の匂いは感情によって変わることも知っていた。
もしかしたらそれがわかるのは蓮だけかもしれないが、うれしい時に流す涙の匂いと悔しい時に流す涙の匂いは全然違うのだ。
そして蓮が一番よく知っているのは悲しい時の涙の匂いであった。
昨日感じた涙の匂いは、蓮が今まで知っている中でも悲しみの濃いものであった。
それは蓮のものではないという確信はあるが、凜の涙であると言える証拠もない。ただ、あの部屋にいたのは間違いなく蓮と凜の二人だけだ。
〈何か聞いたほうがよかったのかな〉
そう思いながらも、何も聞かない事が正解だったような気がした。自分の勘違いかもしれないし、もし何かあれば、凜のことだから自分から話すだろう、と思うことにした。
明日はバイトのシフトが昼からラストまでだ。
早めに寝て、体を休めようと、蓮は歯を磨きベッドに潜り込み、目を閉じて眠ろうとした。
しかし体は疲れているはずなのに、どうしてもうまく眠ることができなかった。眠ろうとすればするほど、変にまじめな顔でアイスクリームを食べたり、ジップラインで遊んで笑ったりしている凜の姿が瞼に浮かんだ。
この時蓮は、凜の暗い闇の淵をとらえていた。
しかし、あえてそこへ潜り込もうとはしない。
そうすることが、どうしても最適解だとは思えなかったからだ。たとえそこに踏み込んだところで、自分と凜との関係がおかしくなるはずはないだろうという思いはある。
しかし人生で初めてこれほど自分の近くにいてくれる存在との関係を、独りよがりの好奇心で崩したくはないという恐怖にも近い感情が蓮の心に芽生えていた。
希峯凜という存在がいつの間にか自分の思っている以上の存在になっている事実を、それを失うことを恐れている自分を、蓮は思い知らされたような気がした。
不意に目頭が熱くなる。
流れる雫がほほを伝い耳に伝っていく。
蓮はその冷たさを振り払うかのようにブランケットに潜り込んだ。
そして何かから逃げるようにひたすら眠ろうとした。




