2 Lotus ― 蓮 ―
風が激しく吹いている。
明日は高校の始業式だ。
入学式には行っていない。
伊吹蓮はベッドの中で長い間眠れずにいた。
その日は四月の初めにしては気温が上がり日中は初夏のように暖かい陽気であった。
日が沈むと生ぬるい風が少しずつ強さを増し、真夜中の日付が変わる頃には嵐のような風が空気を切り裂くように唸り声をあげていた。
蓮はつい先月の末まで高校に行くつもりはなかった。
成績も人に自慢できるものではないが志願倍率一倍を切っているような、入試の願書さえ出せば合格できる高校であれば進学できたはずであったし、定時制や通信制の学校という道もあったが、どうにも行く気になれず中卒でもできる仕事を真剣に探していたのだ。
具体的に高校に行かなくてもいいと思い始めたのは、中学三年の二学期に行われた担任との面談の後ぐらいからであった。
蓮の学校では、進路相談のために七月、十月、十一月の三回に分けて、保護者を交えた面談が予定されていた。蓮は七月に行われる予定であった面談を見事にすっぽかした。
担任の詰橋から面談の予定を尋ねられても、毎回はぐらかしていた。それにしびれを切らした詰橋が、しつこく蓮の祖母に連絡し、やむなく十月の面談が行われることになった。
十月の面談では、詰橋からタンガンやらヘーガンやらチョーサショテンやら、なんだがわからない言葉が出てきて、蓮にも祖母にもちんぷんかんぷんだった。そんな二人に対して詰橋はあからさまに馬鹿にした態度をとる。
面談が終わった後しょんぼりして帰る祖母に何だか悪いことをしてしまったようで、蓮は悔しくて涙が溢れるのを必死に我慢した。
しばらくして奇妙な出来事が起こった。
学校の職員室での会話が録音されたデータが外部に出回ったのだ。その音声の出どころは、とある生徒のガジェットであった。その生徒は、学校で禁止されているガジェットを休み時間に使っているところを教員に見つかりその場で没収されていた。
その後の指導はお決まりである。担任は保護者に連絡をすると事の次第を伝え、都合をつけて学校に来てもらう約束をした。そして翌日の放課後、その生徒は保護者同席のもと指導された後にブツが返却されるというよくある流れだ。
事の発端は、教員が回収した際のガジェットの状態であった。
その生徒がスマホを取り上げられた際、その録音機能がオンになっており、それがそのまま職員室で保管されていたらしい。スマホを返してもらった生徒は、家に帰ってから録音機能が入ったままになっていることに気づく。そして音声を確認すると、そこには放課後の職員室の会話が録音されていたのだ。
その内容は、耳を疑う内容のものであった。
まずはガジェットを無断で持ってきたその生徒の悪口から始まり、その親の勤め先を馬鹿にしたり、生活環境を卑下したりする会話がとめどなく流れていた。
悪口や批判はその生徒だけではなく、特定の生徒を名指し、あいつは自分で思っているほど頭が良くないだとか、バカな生徒の面倒をみる高校の先生は大変だとか、批判を通り越して誹謗中傷の部類に入ることを、複数の教員が笑いながら大声で話していた。
その話の中に、詰橋が蓮をバカにする音声も入っていた。
あそこは親がいないから、あんなろくでもない奴になったんだとか、ババアを面談に連れてきても何もわからねえだろとか、挙句の果てに、あいつは援助交際でもして食いつないでいくしかないから、俺が買ってやろうか、などということを他の教員と談笑し、底意地の悪い不快な笑い声がこだましていた。
その音声は、学校のSNSグループを通じて、瞬く間にネット上に拡散され、まわりまわって蓮の手元に届いた。蓮は職員室で生徒のことを楽しそうにバカにしたり笑いのネタにしている教員という人種にこれ以上の無い嫌悪感を抱いた。
その一連の出来事は、すぐにネットニュースなどで話題になり、学校は事態の収拾におおわらわとなる。
ガジェットを預かった教員は逃げるように辞職、蓮の担任の詰橋は休職、管理職は教育委員会から何らかの指導があり、緊急保護者会を開き謝罪の場を設けた。
しかし学校が謝罪しようが教員がどう処分されようが、蓮にとってそんなことはどうでもいいことであった。
音声流出問題のほとぼりも冷め止まぬ中、蓮の気持ちをさらに逆撫でる出来事が起こる。
学活か何かの時間。蓮がおとなしく眠っていると、急遽代理で担任になった岡吉というおばさん教員と一人の生徒が激しく口論を始めたのだ。
どうやら、私立高校の出願の際に提出する、調査書とかいう書類が原因である。それには学校の成績だけではなく、委員会や行事の取り組み、生活態度などを書く欄があり、それについて言い争っていたのだ。
調査書には教員が必要事項を記入するが、相手側の高校には生徒自身の手で提出する場合がある。記入された書類は一旦生徒の手に渡るため、その中身を見ることが出来ないように封がされるのが通例であった。しかしその生徒はその封筒を光で透かして中の文字を読み取ったのだ。
その内容は決してその生徒を褒めるようなものではなく、生徒の問題行動を並び立て、高校側がその生徒を入学させるのを躊躇させるような、ひどい文章が書かれていた。
自分の悪口ともとれる内容を書かれていることにその生徒は腹を立て、それを書き直すように求めたが、岡吉は逆ギレしたあげく職員室に逃げ込むと、二度とその姿を教室に現さなかった。
そんなくだらないことが続き、蓮は高校へ行きたいという気持ちが完全に薄れてしまった。それにアホな教員のご機嫌をとって、恩着せがましく調査書を書いてもらうのは、ひたすら気持ちが悪い。高校に行っても特にやりたいことも考えられない。全てが自分にとっては時間の無駄にしか感じられなかった。
高校に行かなくていいと決めた原因は、進学に意味がないと思っただけではなく、蓮には両親がいないという現実も一つの大きな原因ではある。
母親は、蓮が小学校に上がって間もない頃病気で死んでしまった。父親は、母が亡くなった頃から海外出張で家を空けることが多くなり、数年前に外国で仕事の最中に事件に巻き込まれてしまい帰らぬ人となってしまった。
残されたのは、蓮と祖母のとり江の二人だけであり、自分としてはできるだけ祖母の金銭的な負担を減らしたいという思いもあったのだ。
そんな状況が一変したのは、卒業式も終わり三月も下旬に差し掛かろうとしていた頃だ。
その日蓮が家に帰ると、とり江から高校の入学手続きが済まされた書類を見せられた。
高校進学を早々に諦めていた孫娘の状況を見てさすがにこれはまずいと思ったのか、普段は怖いくらい放任主義である祖母が裏で動いていたのだ。何やら昔のつてを頼って私立高校の入学枠を確保し、蓮の知らない間に手続きを済ませていたらしい。
「高校ぐらいは卒業してね。そうでなきゃ、息子に顔向けできないよ」と祖母は寂しそうに話した。
そんなとり江の顔を見るのは蓮は初めてであった。
その時ようやく祖母も自分と同じかそれ以上に父がいなくなって悲しんでいるのだ、と蓮は気づくことができた。